第参幕 白色
熱い……。
ここは熱い……。
さっきまでの重苦しい沈黙はとうに消え去り、今あるのは阿鼻叫喚と炎がその牙を用いて命と物質を貪る補食音だけだ。血だらけの壁や襖は頽れ、柱は折られ、足下には炎に補食される無力な人間だった黒い影が横たわり、床は無残な大穴を開けて役目を放棄し、誰にも消されない炎は次々と座敷を呑み込んで肥大化している。
私はその地獄の中にいる。家族がどこにいるのか、どう逃げればいいのかもわからないまま迷宮廊下を走っていた。だけど足は縺れるし、脳みそまで満足に働いてくれない。何故なら、時々聞こえてくる苦しげな悲鳴と懺悔するような声、懇願するような哀れな声に加えて、壊れたような狂ったような女の嗤い声がこだまみたいに響いていたからだ。
早く逃げないと……。
十歳の子供でもわかる危険な状況に卒倒しなかったのは、ある意味で件の嗤い声のおかげだったんだと思う。それでも身体はふらつき、至る所から吐き出される炎と黒煙は順調に私の精神を蝕んでいて倒れそうになった時――燃え盛る座敷から黒焦げの人が襖を破って廊下に頽れて来た。魚のように悶える身体と皮膚の隙間から覗くマグマのようなひび割れに後退りした――直後、座敷の中から長い女羽織を纏った人影が柳のような黒髪を連れてゆらりと出て来た。怪我でもしているのか、足の動きも身体の動きも酷く歪で、本家か分家の誰かだと思った私は駆け寄ろうとして――全身の悲鳴と一緒に尻餅をついた。
血だらけの女羽織から覗く四肢は血と膿で汚れた包帯を纏い、ギョロリと私を睨んだ目の下には包帯とその隙間からは焼けたような黒い肌が覗き――焼け落ちた右頬の奥には血と膿が塗りたくられた歯が剥き出しになっている。
あっ……あぁ……。
悲鳴をあげる心臓が喉を塞ぎ、私の口は空気を吐き出すことしか出来ない。だけど、それは包帯の人も同じなのか、ヒュー、ヒューと風のような音を吐き出しながら足下の黒い人を見下ろし――右手に握り締めていた軍刀の切っ先を頭に突き下ろした。
湿った音が響き、私はその場から逃げ出した。確信はなくても、あの狂笑の主が包帯女であると頭が告げているし、彼女が人を殺すところを見てしまった以上、私も殺される。
堪らずお母さんとお父さんのことを叫びながら、私はその場から転がるようにして逃げ出した。今にもあの包帯女が軍刀を振り回して追いかけて来る。そう思ったけど、肩越しに振り返った時に見た包帯女は、ただ私のことを見ているだけで動こうとはしなかった。
ただ、大きく見開いた右目だけが、私をずっと見つめていた。
それが高神家の全焼時に見た光景。
もうあれから十年経ったのに、私は未だにあの光景を夢で見る。
私は私という意識を取り戻し、静かに目を開けた――と同時に胸が痛み、頭もそれに同調してふらふらと動き始めた。停滞していた血の流れが濁流のように脳と全身を荒らしているのか、心臓は悲鳴をあげているし、視界はグルグルと回って、耳に至っては甲高い音が鳴り響いている。おまけに、眠気と紛うような心地良い誘いが全身を撫でていて、身体の方はその誘いに乗ってしまったのか、異様に重く感じる。
自分の身に何があったのか確かめたくて、私は眠気の訴えを無理矢理取り下げて目を閉じた。重たい片手で頭を押さえながら、片方の掌に意識を集中させる。どうして掌なのかというと、そこぐらいしかまともに動く箇所が無いからだ。
そうすることで自分の身体は次第に落ち着きを取り戻し、濁流の血液も落ち着きを取り戻してくれた。視界の回転も止まり、聴力も正常になった。残るのは頭痛と身体の痛みだけで、どうにか動けるようにはなった私は改めて目を開けた。
そうして真っ先に飛び込んで来た光景は、荒れた車内、伏せているみんなの身体、漂う煙とその臭い――を感じて、私はようやく自分たちの身に何が起きたのかを思い出した。
雛曵祭、帰路、挟霧、人形峠、飛び出して来た人影、暴走、激突――。
事故だ……確か……道路に飛び出して来た何かを跳ねた衝撃で……。
ひしゃげたボンネットと粉々になったフロントガラスを一瞥した私は、運転席で突っ伏している綾香さんを見――思わず小さな悲鳴をあげた。
「綾香さん……綾香さん……!」
何故かエアバックが作動しなかったようで、綾香さんはハンドルに突っ伏している。揺すってみたけど、死んだように反応がない。
私は自分の胸を締め付けるシートベルトを外そうとして――自分の左手に痛みを感じた。その原因を求めて左手をあげると、手の甲に大きな花が咲いていた。痛みはあるし、見た目も痛々しいけど、特に気にせず自分のシートベルトを外した。
突っ伏している綾香さんのシートベルトを外し、その身体を静かに起こした。幸いにも怪我は切傷と額の大痣だけみたいだけど、声をかけても反応がない。脈に異常はなく、息もある。ハンドルに頭をぶつけたなら脳震盪か脳挫傷――意識不明とくれば危険な状態だろうけど、眠っていると言ったほうが正しいほど静かな息遣いと身体の動きがある。
後部座席を見ると、五人とも気を失っているようで動きは見られない。瑠偉に声をかけてみたけど、綾香さんと一緒で反応はない。
横のドアに触れたけど、歪んでいる所為か開かない。苛立ちと痛む頭を押さえながらドアを蹴り付けると、大人しく開き、私は滑るようにその隙間を抜けた。
「霧が濃いし……車はもう駄目かな……」
周囲の霧は濃くて、会話域程度しか視界の確保が出来ない。そんな中で見た車は正面から大木と激突したことで、太い幹がボンネットに食い込んでいる。ガソリンが出ている様子はなく、爆発する可能性もないだろう。
携帯電話を取り出し、セダンが落ちた場所を探して周囲を照らすけど、見えるのは雪と木々と深い白闇ばかりで、私たちが落ちて来た崖は辛うじて見える程度だ。しかも、ガードレールの一部が私たちの方へ飛び出しているのが見えた。戻るのは無理そうだ。
私は車に戻り、愛里側のドアを開けようとしたけど、こっちはビクともしなかった。仕方なく反対側へ行き、瑠偉を起こそうとドアに触れた。だけど、そこの窓には蜘蛛の巣みたいな罅があって、嫌な想像が私の心臓を締め付ける。
その心臓を締め付けながらも、どうにかドアをこじ開けることは出来た。そうして転がり出て来たのは瑠偉ではなく、京堂さんだった。雪の上に上半身を倒した京堂さんは息をしているけど意識はない。蜘蛛の巣を作ったのは京堂さんみたいで、頭には血が付いている。重たいを身体を車内から引きずり出し、起こした上半身をドアで支える。
「……もし? 京堂さん……もし……?」
呼びかけで起きてくれれば苦労はしないけど、脳震盪の場合は頭を安易に揺らすと危険だから、揺さぶることは出来ない。だけど、息も脈も正常なら大丈夫だよね。頭の血が止まっていることを確認してから、今度は瑠偉を解放した。ぐったりしているから心配したけど、怪我は見当たらないし、脈も息も正常だ。京堂さんが庇ってくれたのかもしれない。
そんな瑠偉を座らせたまま、隣にいる大淀さんを確認した。彼もまた外傷は見当たらない。大淀さんには後でシートベルトにキスしておいてもらおう。そんなことを考えた時、
「桜……さん」
その声と同時に、後部座席の足下を埋めていた荷物の下から天龍さんが顔を出した。シートベルトを譲っていたみたいで、繊細な眼鏡は無く、額には浅い切傷と赤い晴れがある。
そういえば……。
私は自分の左手甲を改めて確認した。動かしたからか、さっきよりも傷口が開いて血の勢いが増している気がした。このままだとみんなの荷物に血が付きそうだ。
「桜さんは……怪我していませんか?」
私は頷き、誰かのバッグの上に乗っていた眼鏡を天龍さんに手渡した。フレームが曲がっているから、きちんと使えるかどうかはわからない。
「これは……駄目そうだな。予備の眼鏡を使うか……」
「動けますか? 動けるなら……みんなの荷物を外にお願いします」
「……わかりました」
天龍さんはかぶりをふると、無残な眼鏡を連れて散乱した荷物を外に運び始めた。
私はその横を抜け、愛里の身体を優しく揺すった。すると、
「あれ……? 何か起きたんスか……?」
愛里は顔をあげたけど、歪んだ車内を見ても寝起きのように頭を掻いている。
「……愛里さんは平気そうですね。引き受けます」
天龍さんに頼んで、愛里を外に出してもらい――天龍さんに勢いよく腕を掴まれた。
「桜さん……! 怪我してるじゃないですか!」
「いいんです、私は。天龍さんは……荷物と綾香さんをお願いします」
私の怪我なんてどうでもいい。傷物の傷が一つ二つ増えても同じことだし、瑠偉と大淀さんを運び出すことの方が大事だ。不服そうな天龍さんを無視し、車内の奥に潜り込む。
「そうだ、愛里さん、確かレジャーシートを持って来ていましたよね?」
「ん……そのバッグに入ってるっス」
そのバッグを車外に出した天龍さんはレジャーシートを広げた。それを見ながら車外に出た愛里は、微かに始まった風で捲れないように荷物を四方に置いた。
私はその光景を背中に、大淀さんのシートベルトを外した。苦労はしたけど、大淀さんは途中で目を開けてくれた。おかげで身体を引きずる必要はなくなり、一緒に車外へ出た。その際に、大淀さんは首の痛みを訴えたから、むちうちかもしれないと伝えておいた。
「首……あまり動かさないでください。それと……首を水タオルなどで冷やして……」
「ここ雪山よぉ? お湯のほうが良いなぁ」
大淀さんの軽口を流し、奥に転がっていたバッグを連れて車外に出ると、
「いたた……」
横にされていた瑠偉が起き上がった。
「ああ、瑠偉さん、良かった」
天龍さんの手短な状況説明の間、私は瑠偉の頭を無言で撫でていた。
「あんな上から落ちたの……?」
聳える岸壁と大破したセダンを交互に見て戦慄を吐き出す瑠偉。それは愛里も同じで、彼女もレジャーシートに座ったまま動こうとしない。
「天龍さん……綾香さんは?」
「京堂さんと同じです。意識はありませんが……息はしています」
天龍さんは愛里と協力して綾香さんを車外に出し、京堂さんの隣に寝かせていてくれた。
「とにかく、救急車を呼びたいんですが……携帯が圏外なままで……」
私も携帯を取り出して確認してみたけど、天龍さんと同じく圏外だ。
どうするべきか、その答えを求めて私は周囲を見渡した。すると、首を撫でながらセダンを調べていた大淀さんが頭を掻きながら私と天龍さんの横に来た。
「いやはや……まさか綾さんが事故るとはね」
「……あれは綾さんの運転技術とは関係ないじゃん。何かが飛び出して来たんだよ」
「飛び出して来たって……まさか……誰かを轢いたんじゃないっスよね……?」
セダンに血痕は付着していないんだから、と瑠偉は愛里を宥めるけど、大淀さんがまた余計なことを言い出した。
「その通りさ、愛ちゃん、俺たちは犯罪者だぜ?」
「はぁ……?! 車さんさぁ……この状況でよくそんなこと――」
「そう! 人形を轢いた罪で犯罪者さ」
待ってました、と言わんばかりに大淀さんは神妙な顔付きを緩めてニヤリとした。
「人形……?」
その声は愛里だけのものだけど、私たちの声でもある。
見てみな、と大淀さんは木が食い込んだボンネットを携帯電話のライトで照らし――それを見た瑠偉は「うわっ……!」と、悲鳴をあげた。
照らされたボンネットの上、ひん曲がったワイパーを――肘から千切れた左腕が掴んでいる。それは今にも動き出しそうなほど精密で、千切れた部分からは血のような液体が滴り落ち、ボンネットに花を咲かせている。さっき見た時は気付かなかった。
「大淀さん……これは人形なんかじゃ……」
天龍さんは恐る恐る腕に近付いたけど、大淀さんの言葉が事実だとわかった瞬間の安堵は、私たちからでもハッキリとわかった。
「確かに……人形の手ですね」
「だろ? 機巧仕掛けが中から露出してるしなぁ」
大淀さんはヒョイとその左腕を掴んだ。
「あっ……下手に触ったりしたら」
「大丈夫だって、人を撥ねたわけじゃないし……目撃者が六人もいるし」
左腕を熱心に眺めている大淀さんの横に立った私は、見せてほしいとねだってみた。
「ほら、桜ちゃんも見てみ。この断面を……」
携帯電話のライトで浮かび上がる腕の断面は生々しいの一言だ。人間でいう骨はプラスチックのような何かが担い、その周囲の肌はシリコンなのか紙粘土なのかもわからない。その中には大小様々な歯車とか奇怪な部品が埋め込まれ、細いケーブルが血管とか神経並みの精密さで張り巡らされている。千切れたケーブルからは無臭の赤黒い液体が滴り落ちている。人によっては卒倒してもおかしくない精巧さだ。
「ほれ、みんなも見てみ?」
大淀さんは楽しそうに愛里たちへ腕を見せた。その反応は二択で、愛里や瑠偉は気持ち悪いと辟易し、天龍さんは感嘆を口にしてその断面を何枚もカメラに取り込んでいた。
「こんな精密人形を大正時代の人が作ったわけ?」
「そうは言ってもねぇ……」
「いや……それよりも誰かの持ち物だったら弁償代が大変じゃないでしょうか……」
「拓ちゃん、その心配はないでしょうよ。放置されてるんだし、持ち主は不明なんだから。問題はどうしてこれが道路にあったのか――」
「動いていました」
「はっ?」
私の言葉に全員の視線が集まった。
「……助手席にいたから見てました。この人形……道路に飛び出して来たんです」
大淀さんからの視線が刺さるけど、ありのままを告げた。逃げ出すように道路へ飛び出して来た光景は、綾香さんも見ていたはずだ。目を覚ませば同じことを言うと思う。
「まさか……人形だぜ?」
「大淀さん……案外本当かもしれませんよ……? これほど精密な人形なら動かすことが出来るかもしれません。……茶運び人形みたいに」
「はは、まさかねぇ……」
「とっ……とにかく、おキョウさんたちを安全な場所へ運びましょうよ。道路に戻ることが出来れば車を拾うことも出来るかもしれないじゃないっスか」
愛里に促され、天龍さんと大淀さんは互いに頷いた。
「愛ちゃんに賛成といきますか」
左腕をボンネットに戻し、大淀さんは瑠偉を見た。
「瑠偉よ、確か……医療品が入ったバッグを持ってなかったか?」
「ああ……」
瑠偉は頭を押さえながらふらふらとセダンの後ろへ向かい、トランクを開けた。
「エアガンも出すか」
「何で」
「おいおい、携帯電話の頼りない光だけでこの森を進めって? それに携帯電話は連絡手段なんだから、余計なことで消耗させたくないだろう」
「ああ、そういうこと……」
瑠偉はファーストエイドキットを愛里に手渡すと、ガンケースのチャックを開けた。
それが気になり、私もガンケースを覗き込んだ。私にはサバイバルゲームの心得がないから、必然的にエアガンの知識もないけど、その精巧さには驚かされた。
ライトが装着されたハンドガンを構え、瑠偉は周囲の霧を照らす。それに続いて大淀さんも瑠偉と同じようにライトを装着したライフルを取り出した。
ライフルを弄る二人を尻目に、私は京堂さんの手当てをしている愛里の横に屈み込んだ。
「愛里、京堂さんと綾香さんの手当ては私がやるから、天龍さんの手当てをしてあげて」
「わかりました。タク先輩、診察しますよ」
天龍さんを診察する愛里を背中に、まずは京堂さんの頭を診た。傷口から流れていた血はもう止まり、乱暴にしなければ流血の心配はなさそうだ。未開封だったペットボトルの水で濡らしたハンカチで傷口の周囲を拭き、愛里から受け取ったガーゼを包帯で巻き付ける。それは綾香さんも同じで、ぶつけた部分に濡らしたガーゼを押し当てて包帯を巻いた。
「相変わらず手当てには心得があるね」
その声に振り返ると、瑠偉は何故か口籠ってしまった。
「瑠偉……?」
「ああ……ほら、あんたの手当てしてあげるから手を出して」
「私のは……」
「いいから出すの」
瑠偉はグイと私の腕を引っぱり、水で患部を洗うと、腕と手の甲に包帯を巻いてくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。もう少し自分の身体を大切にしなさいよね……」
そうだ、初めて手当てを見せた時もそう言われた。私は生を実感していない――生に未練や執着を持っていない、死への達観のような雰囲気を纏っている気がすると言っていた。
「瑠偉の身体も大切にね」
血で穢れた瑠偉の手を拭う。小さい頃からケアを欠かさない成果で瑠偉の肌は綺麗だし、モチモチしていて好きだ。私の血なんかで穢したら可哀相だもん。
「あっ……京堂さん? 俺がわかりますか? 天龍です」
瑠偉の手を拭いていると、天龍さんが声をあげた。見ると、京堂さんに動きがあった。
「動かないで。状況は俺が説明しますから」
「何が……あった……?」
「交通事故です。脳震盪の可能性があるようなので、あまり動かないで」
「事故……脳震盪……?」
すぐには実感出来ないようで、京堂さんは瞬きを繰り返し――突然目を見開いた。
「綾香は? 綾香は無事か……!」
「ちょっと――」
止めようとした天龍さんを静かに退かし、京堂さんはひしゃげたセダンに駆け寄った。
「綾香……綾香……!」
「堂さん、綾さんはそっちっすよ」
自分のライフルと京堂さんの分だと思われるガンケースを背中に下げたまま、大淀さんは横になっている綾香さんを指差した。
「京堂さんと同じで、脳震盪かもしれないってサクラ先輩が……」
水で濡らしたタオルをしぼりながら、愛里は「あまり動くと後に響くっスよ」と、急な動きに釘を刺した。だけど、京堂さんはその釘を無視して綾香さんの側に屈み込んだ。それはまるで眠れるお姫様へ口づけするような動作だったけど、手が頰に触れる前に天龍さんが「京堂さん」と、それを制止した。
「ああ……そうか、脳震盪か……脳震盪……」
「堂さん、大丈夫っすよ。桜ちゃんが色々と確認してくれましたから。桜ちゃん、拓ちゃんよりも君の方が詳しい説明出来るっしょ? 堂さんによろしく」
肩をすくめた大淀さんに説明を押し付けられ、私は京堂さんへここまでの経緯を説明した。もちろん、動いていた人形のことも。
「そうか、事故でこんなことに。それで、本当に人形が道路に……?」
私は人形の左腕を渡した。京堂さんは無言のまま断面を眺め、少しだけ笑った――ような気がした。だけど、それを指摘する前にかぶりをふると綾香さんを見た。
「弁償代もかかりそうだな……綾香」
そう言いながら京堂さんは左腕をボンネットに置いた。
「あの、とにかく、ここから移動しませんか? さっきよりも雪が強くなってきたようですし……霧も濃くなってきました。このままじゃ何も見えなくされてしまいそうです」
携帯電話を岸壁に向けた天龍さんの明かりに続いて、瑠偉もエアガンのライトを向けた。
「じゃあ……とりあえずは斜面に沿って移動してみますか?」
さっきまで見えていたはずのガードレールはもう根元しか見えなくなっている。これ以上濃くなると本当に動けなくなるかもしれない。
「そうだな。とりあえず……綾香は俺と桜で運ぶ。拓真は俺の荷物を頼む」
京堂さんがそう言うと、いつの間にか姿を消していた大淀さんが横へ駆け寄って来た。
「堂さん、そうしたいところっすけど、霧と雪の勢いが増してきた……野宿するか峠を下るかを早く決めないと危険かもしれない――」
「野宿なんていやっス!」
いの一番に声をあげたのは愛里だ。
「しかしな……道が不明なままじゃ……」
「さっき瑠偉さんが言ったじゃないっスか。この斜面に沿って行けばって……」
「おいおい……道路ならいざ知らず、この整備されていない山じゃ霧はすぐに濃くなるし……雪の妨害を受けながら進むなんて無茶だぜ? 神隠しの本場でそれは危険過ぎるって」
「車はお釈迦、怪我人多数、夕食はまだ、遭難……判断が難しいですね……」
それぞれが案を出しては潰れ、それを繰り返している間にも霧と雪は勢いを増していく。
「前門の虎、後門の狼……下るしかないだろ」
「マジっすか? 堂さん」
「どのみち……壊れた車に居座るのは危険だ。お前と瑠偉が先導してくれ」
「責任重大ですね」
そう言った瑠偉は、私と綾香さんのバッグを担いだ。
「瑠偉……自分の荷物は」
「大丈夫、体力はあるよ。桜は綾さんをよろしくね。愛里は京さんのバッグをお願い」
「了解っス」
愛里は敷いていたシートを畳むと、京堂さんのバッグを担いだ。
「防寒着は全員大丈夫だな? 壊れた眼鏡じゃ心許ないかもしれないが、拓真は殿を頼む」
京堂さんは私と一緒に綾香さんの身体を起こし、天龍さんは予備の眼鏡を身に付け、愛里は綾香さんのバッグからマフラーや手袋を取り出して身につけさせた。
「両手が使えないから……桜は俺のサポートを頼むぞ」
かくして、私たち七人は雪と霧が支配する人形峠の踏破を試みることになった。
それは二十時二十分のことだ。
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