第肆幕 玲瓏

「ねぇ……これって本当に峠を下ってるの……?」

 凍てつく雪と霧と風の中、瑠偉の声が前から飛ばされて来た。「そのはずだけどな……」そう口にしたが、風の勢いが強過ぎて瑠偉には届かず、前を歩く桜が反応した。

「京堂さん……さっきから同じ場所を歩いている……なんてことはありませんか……?」

 横に来た桜からそう指摘された。その可能性は俺も考えたが、目印である岸壁に沿って歩いているからまずありえない。それに、いくら猛吹雪でも七人のクレバスを短時間で埋められるはずはない。そう思いたくて、俺は白霧の中で揺れる微かなライトを見て言った。

「車! 前には進めているんだよな!?」

「……そのつもりなんですけどねぇ!」

 苛立ちの混じった車の返事を横耳にしつつ、俺は腕時計を見た。時間的にはあの事故現場から約一時間経った。八甲田山の雪中行軍より遥かに遅いはずだが、それでも一時間歩いて下りの兆しが先頭組から発せられないのは異常なんだろう。

 骨まで凍る極寒と肌を切り付ける純白の凶器をフードで防ぎつつ、綾香の華奢な身体を背負い直した。少しでも立ち止まれば足下が凍るし、俺よりも無防備な綾香は裸体を差し出しているようなものだ。俺が弱気になれば綾香も終わりなんだから……しっかりしろよ。

 もう一度綾香を背負い直した時、肩越しに後ろを見てみた。そしたら殿のはずの拓真が予備眼鏡を真っ白にしたまま愛里を背負っていた。愛里の少ない体力じゃ無理もないだろう。無事に帰れたら体力作りのレッスンを増やしてやるべきだな。

「京堂さん……止まらないでください……」

 俺が止まったことに気付いたのか、桜は振り返り警告をくれた。

「ああ……すまん。拓真、愛里の分も……大丈夫か?」

 呼びかけてみると、拓真は気丈に頷いてみせた。だが、足取りが重いのは目に見えている。愛里の方も限界が近いなら、まだ動けるうちに横穴か真下を掘るべきだろうか……。

 眉毛と目を切り付ける雪を払い、俺は足下の雪の具合を確認しようと立ち止まり――。

「悪いニュースっすよ、堂さん……」

 車と瑠偉が先頭から戻って来た。

「遭難以外のニュースがいいな。どうした……?」

 文字通り困惑を浮かべる二人の表情を見れば予測はつく。

「遭難……っすよ」

「そんなバカな……あの斜面とガードレールに沿ったはずだろう?」

「そうなんすけど……途中から変なことに気付いて……」

 そこで車は言葉を切り、横にいる瑠偉と目を合わせた。瑠偉は顎を動かし、続きを促す。

「その……景色が同じなんすよ。いくら歩いても……」

「同じ? 寸分違わずってことで良いんだな?」

「あちらをどうぞ」

 車が指差す先を見ると、雪だらけの岸壁とどこかで見たような壊れたガードレール――嫌な予感を連れてさらに周囲を見渡し――大破した綾香のセダンを見つけた。

「そんな……一周して来たってことか?」

「そんなはずないんすよ……現に俺は目印の枝を立てながら行軍してたんすから……」

 その言葉に瑠偉は無言で頷く。

「まずいことになったな……」

 山の中で一周した? 視界が悪くても目印を使って斜面にも沿ったのに?

「どうっすか? 車に逃げ込んで、壊れた箇所は荷物で塞げば一晩ぐらいは耐えられそうじゃないっすかね? その後は帰って来ない我々を心配してくれるはずの満君とまーやが捜索願いでも出してくれるでしょう」

「それで吹雪が防げんの? そもそも事故現場に戻って来るなんておかしいって……」

「京堂さん……もうみんな限界ですよ……愛里さんもこのままじゃ凍傷に……」

 肩越しに拓真を見ると、その声と一緒に身体を震わせている。愛里に至っては疲労の顔に縋るような目を浮かべている。

「……進退窮まったな」

「桜はどう? 大丈夫?」

 瑠偉の問いかけに桜は頷いた。見たところ、愛里と違って倒れる一歩手前ではなさそうだ。いつの間にこんな体力を身に付けたんだろう。

「どうします……? アタシもそろそろ限界なんですけど……」

 瑠偉はその場にで膝に手を置き、肩で息をしたまま動かなくなった。それを好機とばかりに雪が彼女のコートを覆い尽くす。

「何でこんなことに……」

「瑠偉……低体温症になったら危険だから……」

 瑠偉がヒステリーを起こして喚き散らしたくなる気持ちは充分にわかる。

 俺は一人頷いて、全員に聞こえるように大声を出した。

「全員! 車に戻って一晩だ!」

 全員をあの時のまま何一つ変わっていない綾香のセダンへ向かわせた。荷物で吹雪を防ぎ、濡れていない服で厚着をし、キャンプ道具でどうにか一晩を切り抜けるしかない。

「車、まだ動けるだろう? お前はさっきのレジャーシートで車を出来るだけ覆ってくれ」

「りょ〜かい。サバゲで使う道具を持っていて良かったっすねぇ」

 車と俺の荷物はみんなより多い。俺の車のトランクには、数日前のサバゲでも使ったキャンプ道具を詰め込んだバッグが入れられていたからだ。

「堂さん、テントはどうします?」

「この吹雪じゃ無理だ。レジャーシートをペグで固定出来るか?」

 綾香と愛里を先に車内へ入れ、暴れるレジャーシートに苦戦している車に加勢する。それに続いて拓真も加わり、どうにか吹雪の直撃を多少は防げるようになった。次は、

「車、レーションはまだあったよな?」

「米軍のがありますけど……慣れてない人に食べさせるのは危険じゃないっすか?」

「明日も下山出来なかったら食べるしかない。レジャーシートが保ってくれればお湯ぐらい沸かせるかもしれん。カップ麺も二つあるしな」

「良かったっス……これで少しは休めますか……?」

「ああ、濡れた服を着替えて雪を払ってからな」

 レジャーシートで車を覆い、女性陣が着替えを始めたその時――車が不意に固まったと思うとセダンに向かった。

「ちょっ……! 何してんの!!」

 すかさず瑠偉から批難が飛び、車は思い出したかのように俺たちの元へ転がった。

「中学生でもあるまいし、何をしてる」

「大淀さん……幻滅ですよ」

「違うって! 目的は出歯亀じゃなくて――ああ、いや……やっぱり何でもないっす」

「お前が口籠る時は良くない時だな。その所為で面倒事が増えたことをおぼえてるか?」

「あの時とは状況が……いや、どうせ誰か気付くもんなぁ……。〝あれ〟って……誰か動かしました?」

 親指でセダンの方を指差した車は、今度は少しだけ声を落とした。

「左腕……堂さんがボンネットに置いたっしょ? あれ……拓ちゃん動かした?」

「動かすわけないじゃないですか……!」

「この吹雪だ。風で落ちたんだろう? 桜たちが着替え終わったら確認してみろ」

 そう話している間も吹雪は勢いを増している。歩かなくて正解だったかもしれない。

「京さん、こっちは着替え終わりました! 綾さんもです!」

「よし、俺たちも着替えるぞ」

 昨日の服と濡れていないタオルとかで全身を固めている桜たちを尻目に、俺と拓真は早急に着替えた。野郎の着替えはラクだから、桜たちにはそのまま車内にいさせている。対して車の方は着替えよりも左腕探しに夢中だ。

「車、そんなことよりもさっさと着替えろ――」

「堂さん! こっちに家がありまっせ?!」

「家? またお前の冗談か?」

「こんな状況で冗談は阿呆でしょう?! ほら!」

「……見て来るから拓真はみんなと一緒にいてくれ。愛里、そのバッグから迷彩ポンチョを取ってくれ」

 自衛隊の放出品である大きなポンチョをかぶり、車が築いたクレバスに従う。すると、

「桜? お前も車内にいろよ」

 わざわざ車内から出て来た桜が後ろを付いて来た。せっかく着替えたのに、と言おうとしたが、さっきまで着ていた服を盾のようにしていた。

「こっちっすよ。ほら、あそこに家が」

 車が示す先に明かりを向けた。すると、その先には雪に埋もれた掘建て小屋――ではなく、古そうな日本家屋があった。

「マヨイガ……」

 横にいた桜が呟いた。その評価は当たっているかもしれない。何しろ俺の足下には朽ちた市松人形が顔を覗かせているんだから。

「こんな家……さっきまであったか?」

「こっちの方は調べてないんすよ。人形の左腕が導いてくれたってところっすかね」

 ほら、と車はマヨイガの玄関扉の手前に落ちている件の左腕を照らした。その玄関戸は壊れていて、横たわっている別の市松人形が顔だけ出してこっちを見ている。

「あんな家に入るわけないだろう……」

「でも車内よりマシな避難所っすけどね。住み着いてた人形師の家では?」

「泉屋人兵衛か。そうだったとしても……戦前の木造家屋が残っているものか」

「不気味っすけど、とにかく調べてみましょうや。雪山に住み着いている喰人鬼なんてイエティかヒバゴンくらいじゃないっすか?」

「ヒバゴン……?」

 案の定、桜が首を傾げた。少し勉強不足だな。

「車、調べたければお前が一番槍だ。BB弾でヒバゴンが倒せるならな」

「へいへい、この車様が一番槍の栄誉をいただきますよって」

 そう言って車はライフルを構えつつ玄関に近付いた。割れたガラス戸の足下でこっちを覗き見ていた市松人形を足先で突いてから中に入って行った。

 木造日本家屋の外見に怪しい所はなさそうだが、俺たちの方角から見える縁側は雨戸で閉ざされているが、壊されたのか一カ所だけ雨戸が倒されている。明かりを当てると、その縁側にも市松人形が転がっているのが見えた。

「堂さーん! 中は意外と綺麗っすよー?」

 チラチラと揺れる明かりが縁側から漏れ、車がそこから顔を出した。

「件の人形師の住処で間違いなさそうっすね。人形が山ほど転がってて気持ち悪いっすけど、囲炉裏がまだ生きてるし、そこまで吹雪が入り込んで来ることはなさそうですな」

「崩落してないのか?」

 縁側から覗き込む車を退かし、すぐ手前の座敷を照らした。畳は劣化しているが、意外なことに天井も床も抜け落ちていないし、雪の量も少ない。欠点としては、泉屋が置いていった人形の残骸が散らばっていることくらいだろうか。愛里とか瑠偉が嫌がりそうだな。

「ボロだけどトイレもあって、全員が雑魚寝出来る広さもある。ここなら一泊も二泊も大丈夫そうじゃないっすか?」

 車の横を抜けて囲炉裏の部屋を覗いた。後ろには桜も続き、俺たちは囲炉裏の部屋を互いに照らし合った。足下には製作途中の人形の躰に頭、名称不明の道具が散らばっている。

「大淀さん……こっちの部屋には何が?」

「ああ、そっちはまだ何も見てないのよ」

「とりあえず……足下の残骸をそっちの部屋に放り込むか」

「あっ……」

 それは障子で区切られた未確認の部屋を露にした桜の声だ。叩かれたかのように俺たちは振り返り――露にされたその部屋を見た。

「おやおや? その部屋は……?」

 桜に続き、俺も車も室内を照らした。浮かび上がったのは窓が一つもない漆黒の座敷だ。俺たちの光でさえも呑み込まれてしまいそうな闇の中で、泉屋が作り上げたと思われる人形たちが佇んでいる。

「うへぇ……人形の製作所ですかぁ?」

 躊躇うことなく闇の中へ溶ける桜の背中を追いかけて俺も車も座敷に入った。チラチラと揺れる光と影によって幽霊のように浮かび上がる人形の種類は二つあるようだ。

 一つは骸のように積み重なる市松人形だ。さっきから床に散らばっていた残骸と同様で、この座敷にいる市松人形は立ち並んでいる奴も含めて躰の一部が欠損している。どれも無理矢理ねじ切ったような感じだ。

「気持ち悪い光景ばっかだなぁ……」

 車が腫れ物のように照らすのは、製作途中の顔が積み重なった竹籠や格子の棚に差し込まれた腕や足だ。作りかけだから針金のような骨格が露にされているし、俺たちの頭上には蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸と獲物のようにぶら下がる欠損の市松人形がある。

「市松人形には悪いが……美しさならこっちの人形だな」

 俺は壁に立ち並ぶ五体の等身大人形にライトを当てた。その人形は陳腐な市松人形とは違い、作り物としての美しさを纏っている。眼孔に埋められた眼球はどこから見ても見つめ返してくるし、濡鴉の髪には艶もあり、唇は色っぽさすら感じる。

「美しいって……堂さんの趣味はイカしてますねぇ?」

 その嫌味を無視して人形を凝視する。関節部分は今の球体関節人形に近いものが導入されているようだが、泉屋の時代的に言えば自由人形というやつだろう。手の動きは経年劣化で鈍いが、手と指の関節が一つ一つ精巧に作られている。

「綾香さんが撥ねた人形と……同じですか……?」

「いや、精度はあの左腕の方が上さ。こっちは……ただ綺麗なだけだからな」

 球体関節人形たちも腕や片目が欠落していて、躰に至っては人体模型のように中身が露にされており、血管とか神経を模しているのかケーブル的なものがデロリと吐き出されている。体内まで作る精巧さは見事だが、あの左腕に比べると断面も肌の感じも劣る。

「それにしても……泉屋人兵衛はこれほどの人形を置いて出て行ったみたいだな」

 中途半端のまま取り残された人形たちはどう思っているだろう。そう思うと、浮かび上がる人形たちの翳りは哀しげに見えてくる。

「この人形たちは……終われないんですね」

「そうだな。綺麗じゃないのに永遠は辛いよな」

「堂さん、この部屋はともかく……どうっすか? こっちで吹雪を乗り越えません?」

「屋根も生きてるし、雑魚寝でも腕とか足を広げられるならストレスも減るだろう」

 この人形制作部屋は見せないようにすれば愛里も大人しくしてるだろう。見られたとしても、あいつがやらかすのはゲロを吐くことぐらいだ。

「よし、全員を呼ぶか。車、お前が呼んで来い」

「へいへい、かしこまりましたよ〜っと」

 飄々のままライフルを担いだ車は外に出て行った。

 その背中を見送った俺は桜と一緒に製作部屋を出、足下に散らばる残骸をその部屋に放り込んでいく。これで全員が雑魚寝しても余裕がうまれるだろう。そんなことをしている間に、愛里たちの声と足音が聞こえて来た。

「桜もここで……雑魚寝は平気か?」

 そう訊くと、桜は嫌がる感じもなく頷いた。雑魚寝そのものは稽古場でも合宿した先でもあったから抵抗はないと思うが、こんな酷い状況ではなかったから心配でもあった。

「みんなと一緒に寝るの……修学旅行みたいで好きです」

「そうか。案外……こういう状況にも強いんだな。安心したよ」

 最後の腕を部屋に放り投げた俺は、全員を迎えるために玄関から出た。

「おおい、こっちだ、こっち」

 綾香を背負って先頭を歩いて来た拓真に向けて懐中電灯を振った。彼の後ろには瑠偉たちも続き、車は殿にいる。

「ありがとう、拓真」

 優しく下ろされた綾香を背負い、俺は後ろの廃屋を顎で示した。

「泉屋人兵衛の家なんですか?」

 好奇心が刺激されたのか、拓真はいそいそとカメラを取り出した。 

「そうみたいだ。資料としての写真をよろしくな」

「はい、任せてください」

 拓真が演劇以外で情熱を捧げているのはアウトドアと釣りとカメラだ。その実力は大手の写真コンテストで入賞したこともあるほどで、入団後は劇団広報の写真を任せている。

 いそいそと玄関に入って行った拓真の背中を見送り、瑠偉を迎えようとした時、

「京堂さん……聞こえますか?」

 後ろから桜に声をかけられた。瑠偉たちの声のことを言っているのかと思ったが、肩越しに見ると桜は泉屋邸ではなく、吹雪が吐き出されている方角を見つめている。

「聞こえ……ますか?」

 桜は雪を払いもせず、視線は吹雪の彼方から動かず、人形のように動かない。

「ちょっと、どしたの?」

 横から顔を出す瑠偉の呼びかけにも応えないまま、桜はゆっくりと俺たちへ振り返った。

「唄声……聞こえませんか?」

「えっ……唄声?」

 訝しがる瑠偉の横で、俺は全員に待機、と合図した。雪塗れになるが、民家があるのならこんな廃屋よりもよっぽど良い。桜が言った唄声に全員で耳を傾けてみた。

「堂さん? 何で――」

 訝しがる車に、日本全国共通の静かにという合図を突き付ける。

「風向きが……変わらない?」

 瑠偉が呟く。誰となく言ったことなのだろうが、俺はしっかりそれを聞いていた。確かに、桜が凝視している方角から吹く風向きが微塵も変わらない。

「あっちから……唄声が聞こえます」

 桜がそう口にした瞬間、暴風が弱まり、俺たちは顔を見合せた。それに関しては驚いたが、桜が言う唄声は聞こえない。

「俺には何も……」

「どこかで……この唄声を……歌を聴いたことがあります」

 何の確証があるのか、桜は歩き出してしまった。その光景が虚ろな気配を漂わせたため、俺は彼女の腕を掴もうと慌てて踏み出し――その瞬間、桜の背中を押すかのように向かい風が緩い追い風となった。加えてその追い風はとにかく不快で、自分の全身を好き勝手に撫で回されているような感じが――。

「京さん!」

 瑠偉に叫ばれ、俺はびくりと身体を震わせた。振り返り、瑠偉が指差す方向へ弾かれるように向くと、吸い込まれるようにして霧の中へ消えた桜の背中が見えた。

「……まずい! 追いかけるぞ!」

 俺は大声をあげ、瑠偉がいの一番で走り出した。

「不思議ちゃんだとは思っていたが……あそこまでいくと、それは緩い表現なのかもなぁ」

 誰かが車を睨みつけたのだろう、すぐに奴の弁明が飛ぶ。

「おいおい、軽蔑して発言したんじゃないって……」

「車の皮肉はいつもだろ。愛里と拓真はここで待ってろ! 俺たちは追うぞ!」

「いえ、俺も行きますよ!」

 拓真がそう言うと、廃屋に一人は嫌だと言って愛里も背中に続いた。

 俺は振り返らず、先を行く瑠偉の背中を追いかける。雪の行軍は楽ではないが、桜は操り人形みたいに前へ前へと突き進む。その早さは厄介だが、幸いにも走ってはいない。

「桜! 唄声なんてアタシたちには聞こえないよ!」

 追い付いた瑠偉は桜の腕を掴んで引き止めたが、何故か瑠偉まで立ち止まってしまった。

「瑠偉? 何してるんだ、そのまま連れ戻せ――」

 二人に追い付き――桜の先に浮かぶ光景を見て、思わずその場に立ち尽くしてしまった。

 白い闇の中、俺の目が捉えたのは何かの冗談みたいに浮かび上がる光――建築物の、人が作り出した人工的な光が見えた。

「あれは――」

 駆け寄って来た拓真たちもその光に気付いたようで、俺の後ろで立ち止まる。

 台本シナリオのように見つけた営みの証。誰かが住んでいるという何よりの証拠だ。

「あんな廃屋で野宿はしたくないな?」

 そうだよな? と、俺は振り返って拓真たちを見た。拓真も愛里も激しく頷いたが、

「マジっすか? あっちは道路と離れた場所っすよ? それに……足下を見てくださいよ」

「綾香と愛里のこともあるんだ……行くぞ!」

 車は雪を指差したが、俺はそれを無視して綾香を背負い直すと雪の中へ踏み込んだ。足下はボスッ、と気持ちの良い音を発して俺を迎え入れた。それに拓真と愛里も続く。

「車、とっとと歩け!」

 ああもう、と露骨に苛立つ車が付いて来るのを確認し、俺は先を行く瑠偉の背中を追う。

「あっ……唄声……」

 やがて瑠偉がボソリと呟いた。その呟きと同時に、俺たちの耳にもそれが聞こえてきた。

「この唄声か……」

 その唄声が聞こえてくるのは、俺たちが目指す光の方角からだ。歌詞はわからないが、誘うような、物哀しい感じがすることはわかる。

「まるで……山のセイレーンって?」

 真横へ来た車がそう言った。

「やめろ……不吉だ」

「堂さんだって思ってることでしょうが。何でこんな場所に民家がありますかねぇ?」

「今はこの唄声に頼るしかない」

 それに対して車は肩をすくめながら、ライフルのスコープを覗き込んだ。

「どうやら……人が住んでいるのは確実みたいでっせ?」

 そう言って、車は俺の片目にスコープを掲げた。

 見えるのは、窓に揺らめく影法師。せかせかと動き回っているように見えた。

「そうみたいだな……。あと少し……二人とも行けるな?!」

 拓真と愛里を激励し、また一歩を踏み出した。車も観念したのか殿についた。先導のクレバスを頼りにしながら、俺たちは雪の進軍を続け――先頭の桜が不意に立ち止まった。その光景が終点だと気付いた俺たちは一気に足の速度を上げ――やがて、吹雪の勢いも弱まった白い闇の中にそれは幽霊のようにボウッ、と現れた。

 それは――時間と時代の流れに取り残されたような巨大な漆黒の洋館だ。白霧の所為で全貌は見えないが、人工の光がちらほらと白霧の中で巨大な魔物の目のように浮かんでいる。唄声は確実にこの洋館から聞こえて来る。

「桜、ちょっと待て……!」

 俺は歩く速度をさらに上げ、洋館を見上げている桜を追い抜かして洋館に辿り着いた。その時になって、俺は足下の雪が一気に減っていることに気付いた。久しぶりに見た膝から下は凍りついていて、ガクガクと笑うどころか無になっている。

「京堂さん、綾香さんを……」

 何をしたいのか察してくれたようで、俺は綾香を桜に任せて背中から下ろした。

「屋敷……峠に住んでいる人がいるなんて知らなんだ……」

 全体像は白霧の所為で確認出来ないが、漆喰の外壁からして金持ちだ。ここから見える範囲にあるのは、小さなアーチ窓から明かりを漏らす木造のドア、その右手には等間隔に並ぶ四つの格子窓があり、手前から二つの窓が灯されている。覗き込むには高過ぎで、ドアの小窓も中が覗き込めないようスモークにされている。

「誰かが住んでいることは確実だな」

 確認した時刻は二十一時二十八分。

 いくら良い子でも、まだ起きてるだろ?

「ごめんください! どなたかいらっしゃいませんか?」

 無礼だとは自覚しつつもドアを乱打した。それと同時に唄声が止んだから、誰かが出て来てくれると思ったが、いくら待っても返事どころか物音すら聞こえてこない。

「あの、誰かいませんか……!」

 中からしっかりと施錠されているようで、ドアノブはビクともしない。

「おいおい……居留守でも使ってるのかよ……」

 それとも、男の声を警戒しているんだろうか。そう思った矢先に、桜がドアを叩いた。

「……ごめんください、どなたか――」

 カチッ、という音がし、俺たちは咄嗟に身構えてドアが動くのを待った。すると、

「こんな夜更けに……何のご用でしょうか」

 ガチャリ、と重厚な音を連れてドアの隙間に現れたのは、左目に黒い眼帯を付けた男だ。どことなく満に似た顔付きだが、こっちの方はより大人として洗練された感じがする。

「あの……私たちは遭難して……」

 桜が事情を説明しようとしたが、やや血走った片目で睨むように俺たちの顔を見ていき――男は桜を見て一瞬視線を止めた。俺はその一瞬を見逃さなかったが、それは向こうも同じだったようで、即座に俺へ視線を突き刺した。

「人形峠で転落事故を起こしてしまい……峠を下れないままここを見つけまして……」

 落ち着かない息のまま、ここへ来た事情を手短に説明した。遭難者を装う犯罪者じゃないこと、劇団の主宰であること、他の連中は全員が劇団員であること、名刺も身分証も渡した。それで多少は表情が変わると信じたが、それでも眼帯男は眉一つ動かさないまま、

「ここは裏口です……お話しは玄関で」

 眼帯男はそう言うと、このドアと壁に沿って進めば玄関がある、と指図し、ドアを閉めてしまった。内側でカチッ、という音を立てて。

「……冷たいっすね」

「車、聞こえたらどうする」

 再び綾香を背負い、顎で皆を促す。あの眼帯男が桜に対して見せた反応も気になるが、今は身の安全が優先だ。何よりも両足が限界に近い。

 車を先頭に外壁を沿う。そこは雪掻きされた普通の道で、感謝しつつ二つの角を曲がる。すると、武家屋敷のような大きな玄関が見え、鴨居の上には蒼い照明が浮かんでいる。

「すごいな……所々に現代の建築が混じってるけど……こんな家屋が残っているとは……」

 思わず呟いた言葉だったが、それは俺が思っている以上に大きい声だったようで、瑠偉から鋭い一瞥が飛んで来た。これは失礼……だけど、美しいものを見た時は褒めないと。

 そんな一瞥から前へ向き直った瑠偉は、桜の横に並んで何かを話し出した。聞こえはしなかったが、おそらく桜がこの場所を知っていたのか、とかを訊いているんだろう。二人のやり取りを見つつ、俺は白霧と吹雪が凪いだ隙間に聳える建物の正面を見上げた。

 こんな山奥に聳えるには不自然なその威容は豪農屋敷、あるいは武家屋敷と称するに相応しい堂々たる日本家屋だ。白い漆喰の壁、瓦の屋根、書院造りの流れを組む玄関、格子の隙間にガラスが嵌め込まれた大きな両引き戸、その両脇には丸い格子窓があり、玄関の上には月見台まであり、この日本家屋の巨大さ、持ち主の財力を大々的に証明している。洋館だと思っていたが、どうやら所々で趣を変えているんだろう。

「助かったな。休憩させてもらって、電話を借りれば万事解決だ」

 良かったぁ、と皆がぞろぞろと玄関へ向かう。その途中、俺は玄関の格式に唸った。

「拓真、見てみろよ。玄関に式台があるぞ」

 俺は水切りのための石畳を踏み締めた。ここまで立派な日本家屋はなかなか拝めない。

「しきだい?」

 横にいた愛里が俺を見上げてきた。

「勉強不足だな、愛里。武家屋敷なんかには家格を表す表玄関があって……畢竟、式台というのは身分が高い来客を迎えるための玄関なんだ。草履なんて履かずに駕籠に乗るための部分でもある。それはつまり、この家には止ん事無い御方が来るということさ」

「へぇ……」

 ここの玄関に上がるには、踏石へ駕篭を横付けにし、来客は式台を踏み締め、舞良戸まいらどという引き違い戸を抜ける。だけど、ここの舞良戸は普通の両引き戸のようだ。

「要するにエラい人のための玄関だ」

 俺がそう言ったタイミングで、式台を照らしていた蒼の照明が温もりを帯びた乳白色に変わり、ガラガラと両引き戸が開かれると入れ代わるように眼帯男が姿を見せた。

 その眼帯男は黒で統一された燕尾服を見事に着こなし、ピン、と伸ばされた背筋を持ち、眼帯であってもにやける顔立ちは揺るぎない。満よりも背は高いようだが、男としてはそこまで長身ではない。作り物めいた肌はマネキンみたいで、年齢は二十から二十五のどれかだろう。俺たちが近付くのを黙って待っている。

「機巧人形の方々が、こんな夜更けに……何のご用でしょうか」

「あの……遭難してしまって、電話か一宿……お願い出来ませんか?」

 状況は切迫しているにも関わらず、眼帯男は片手を口元に当てて黙ってしまった。その時に、俺は彼の右耳にイヤホンマイクみたいなものが付けられていることに気付いた。

「七人の遭難者……ですか」

 ふむ、と悠長な眼帯男とは裏腹に、俺たちは目の前にぶら下げられた暖で緊張と我慢が解けた。その所為で悲鳴をあげる手足を必死に動かしながら、その場で足踏みを繰り返す。次第に余裕をなくし、中に入れてくれと叫びだすのも時間の問題だった。その時――。

「いいじゃない、千鶴ちづる。中に入れてあげなさいな」

 千鶴某の後ろから声が響き、それと同時に彼は勢いよく振り返った。驚いた、というよりもゾッとした感じに近く、俺は千鶴某の背中を見つつ声の主を探して前屈みになった。

かなで様……けい様に伺いを立てる前に余所者を入れるわけには……」

「遭難者を見捨てる理由にはならないでしょう? ここを死体置き場にでもしたいの?」

 千鶴某の相手は声からして女だ。それが唄声の主だと思ったが、穏やかそうな口調に混じる刺々しい声音に違うことがわかった。

「その時はその時だと思っていますが……」

「入れてあげなさい。こういった時のシナリオは把握しているでしょう?」

 千鶴某を威圧するように俺たちの前にも姿を見せたのは、床に届くほどの白髪と純白の着物を纏う女だ。その雰囲気は白鳥のようだが、死人のように白い肌と――口から上を覆う人形の仮面から覗く瞳の所為で、俺たちは思わず後退りした。

 無機質な仮面に彫られた右の眼孔から覗く瞳が、別の生き物のようにギョロギョロと動き――俺の隣にいた桜が「ひっ……!」と、小さな悲鳴をあげて背中に隠れた。

「桜……何してる」

 桜はかぶりをふる。腕を掴む力は強く、華奢な身体は小刻みに震えている。

 少し前に舞台の背景が桜たちへ倒れ込むという事故があったのだが、彼女は事態に気付いても逃げるどころか微塵も動かなかった。本番と同じ背景だから男が四人以上で動かすほど重いというのに、助けに行った時ですら淡々としていた。そんな桜が怯える相手……。

「千鶴、お父様には私から話します」

 奏某はやや強い口調で告げた。その声音は、それが命令であることをハッキリと告げている。力関係は明らかに奏某が上のようで、彼は不承不承な感じで一礼した。

「千鶴だって遭難の辛さと恐ろしさは充分に理解しているでしょう? 雪はまた強くなるようだし、玄関前に七人の骸が散らばっているなんて迷惑以外に何でもないんだから」

 シナリオ、という言葉に続いて俺はまた眉を顰めた。遭難者がよく来るのかもしれないが、死体だ骸だとずいぶんな言葉が飛んだ。ずいぶん言葉に棘がある女だ。

「さぁ、彷徨う機巧人形の方々、どうぞ……おあがりくださいませ」

 見上げる俺たちに向かってニコリ、と口の端を浮かべた奏某は奥へ戻って行った。

「……服と荷物の雪をお払いください」

「中に入れていただけるんですね?」

「奏様の御厚意です。荷物や濡れたコートはその場に置いたままで構いません」

「そうですか、ありがとうございます」

 努めて愛想を振りまいた俺は、ピクリとも動かない綾香を式台へ静かに下ろした。それと同時に、瑠偉へ桜に付き添うようにと合図をし、綾香の背中に付いた雪を払う。

「高そうな式台が濡れちゃいますけどぉ、外じゃなくていいんですかぁ?」 

 また車が余計なことを口にした。

「七人ミサキにでもなられたら迷惑ですからね」

「……そっすね」

 結果、車は切り返しに対してつまらなさそうに肩をすくめた。そんな馬鹿を尻目に、俺たちはそれぞれの雪を落とし、濡れたままのコートと荷物を式台の一カ所にまとめた。

「それでは……そこのスリッパに履き替え、私に付いてきてください」

 そう言うと千鶴某はイヤホンマイクに触れ、玄関の奥に向かって歩き出した。

 俺たちは式台を上がり、両引き戸を抜けた。その先にある玄関兼廊下は広く、大人が三人横に並んでも余裕があり、木の床は滑りそうなほど綺麗だ。そんな廊下の左右には白の漆喰が並び、俺たちから見て左手には木製の引き戸が二つ、右手には両開きの木製ドアがある。廊下の奥には曲がり角があるようで、角の行灯がその先を歩く誰かの影を揺らした。

 そんな長い廊下を進み、千鶴某は左手にある最初の引き戸の横で立ち止まると、俺たちへ向き直りこう言った。

「こちらは控えの間です。しばし……こちらでお待ちください。診察出来る者に支度させますので。その間……室内を物色するようなことはしないようお願いします」

 それに頷いた俺は、促されるまま引き戸を動かした。その瞬間、明るい照明と暖房が歓迎してくれた。何よりも感じたかった光と温もりに俺たちは雪崩みたいに控えの間へ押し入った。しかし、桜だけは中に入らず、千鶴某を見ていた。

「あの……唄声が聞こえました。この家の方ですか……?」

「唄声……? いえ、誰も唄ってなどいません」

 千鶴某は桜のことを見ていない。

「桜、まずは休もうよ」

 雪崩の中から出た瑠偉は桜の手を握り、室内に引き入れた。それと入れ代わるように千鶴某は引き戸を閉めて姿を消した。

「助かりましたね……暖房の有り難さですよ……」

「そうだな。ただ……あの人形のセンスは悪いと思うけどな」

 この控えの間は広く、木製の本棚や大きな箪笥、二メートルはある動かないホールクロック、蒼と翠の線が入ったクロスに覆われた腰の低いテーブル、それを挟む茶色の重厚なソファーと――等身大の人形が部屋の隅に置かれていた。寒いのか、全身に毛布を巻き付けているから綺麗な顔しか見えない蓑虫状態だ。その蓑虫の横には別の引き戸がある。

「そんな人形なら玄関にもあったでしょうよ」

 そう言いながら雪崩から出た車はソファーにどさりと腰を落とした。

「そうでしたか? 俺は全然気付きませんでしたよ……」

「あの引き戸を抜けた先の左右にちょっとした空間があって、そこに立ってたんだなぁ。暗闇から俺たちを監視するみたいにねぇ」

 車はソファーに座り込み、実家のような態度で脚を組んだ。

「車、行儀が悪いぞ。俺たちは招かれざる客だ。ちゃんと弁えろ」

「もちのろんっすよ。だから堂さんが交渉している間は口を閉じていたんすよ」

 肩をすくめた俺は、綾香をソファーに下ろす。意識はなくても息はある、体温の急激な低下も免れたようだ。この部屋にエアコンの姿は見えないが、おそらくセントラルヒーティングのようなものが設置されているんだろう。今の綾香には何よりもありがたい。

「桜さんもどうぞ、疲れているでしょう? 愛里さんもどうぞ」

 拓真は二人にソファーを勧め、自分は立ったまま室内をしげしげと見渡している。

「もう歩けないっス……疲れたっスよ」

「そういえば堂さん、さっきの奏なんたらさんの顔……見ました?」

「外見は綺麗だったが……何より目立つ箇所があったな」

 ソファーに下ろした綾香の衣服の乱れを直し、自分が巻いていたマフラーを彼女のマフラーに抱き合わせた。

「あれって……桜ちゃんみたいに火傷でもしたんすかね? それともファッション?」

「ふん。だとしたら美的センスを疑うことになるな」

 目を閉じたままの綾香を一瞥してから、ホールクロックの横に並ぶ箪笥に近付いた。

「綾香さんは……大丈夫そうですか?」

 不意にかけられた声に驚くと、いつの間にか桜が横に立っていた。

「……ああ、診れる人に頼れば大丈夫だろうさ」

「よかった……」

 そう言って桜は時々浮かべる優しげな笑みを連れて俺を見たが、目を合わせてみるとすぐに逸らされてしまった。その先にいるのは俺が見ていた箪笥だ。

「これ……近江の水屋箪笥ですよね? 控えの間にはもったいないものじゃないですか?」

「そうかもしれないが……埃だらけだ。気にしてないんだろう」

 埃だらけにするにはあんまりなアンティークに手を伸ばした――その時、

「皆様」

 背後から届いた声に俺たちは一斉に振り返った。俺と桜に至っては言いつけに背きかけた状態だったため、他者から見れば酷く滑稽な狼狽だっただろう。それと、俺たち全員が共通して思うことは、声の主はいつこの部屋に入って来たんだろう、ということだ。

「皆様、珈琲をお持ちいたしました」

 千鶴某とはまるで違う穏やかな声を連れて現れたのは、足下までの黒いワンピースとフリルの付いた純白のエプロンを身に付けた女性だ。綺麗に整えられた黒い短髪を彩るカチューシャ、右耳にはイヤホンマイク、すらりとした腕の先で交わる両手は白い手袋で覆われ、エプロン越しでもわかる胸元を持った彼女は、浮かべる表情までも千鶴某とは違う。

「珈琲が苦手な方はいらっしゃいますか?」

 大丈夫だと伝えると、彼女は声に違わない穏やかな笑みを浮かべてくれた。綺麗な短髪に太めの眉毛、大きな瞳、やや童顔だが一目見ただけで優しげな印象を抱かせる顔立ちだ。

「どうぞ。淹れたてですのでお気をつけ下さい」

 彼女はワゴンに乗せた白いカップを手渡していく。その度に贈られる笑みのおかげで皆の不安も少しずつ和らいできたと思う。そんな中、拓真が珈琲を受け取った直後に首を傾げたため、俺はそっと横に並んだ。車と何か話している彼女を一瞥してから小声で訊いた。

「拓真、何か気になることでもあったか?」

「あのメイドさん……どこかで見た気がするんですよ」

「口説き文句としては零点かもな」

「どこで見たんだろう……」

 和ませる意味での冗談は無視され、拓真はうんうんと首を捻る。そんな捻りを尻目に、女性は珈琲を配り終えると、俺たちへ一礼してワゴンの横へ戻った。その時、彼女はワゴンの車輪に片足を引っ掛けてしまい、勢いよく倒れ――。

「危ないっ!」

 拓真は咄嗟に彼女を抱きとめた――が、即座に純情を連れて女性の身体を解放した。

「あの……大丈夫です……か?」

「えっ……ええ、大丈夫……です」

 女性の方も顔を赤くしたまま俯いてしまった。気まずい空気が純情二人を包んだことは誰にでもわかる。このまま見ていても良かったが、それは酷というものだろう。

「今のはさすがに不可抗力でしたが、ウチの劇団員があなたに触れてしまったのも事実です。許してやっていただけますか? 意図して触れたわけではないので……」

 そう告げると、女性は動転していますと慌てて頭を下げた。

「いえっ……! 私の方こそ……申し訳ありません!」

 床に付くんじゃないかと思うほど深く下げられた謝罪からして、真面目一筋なんだとわかった。こうなると急に親近感を抱くもので、俺は拓真へ気遣うように促した――が、女性はバネのように顔をあげると、動転していた顔を人形みたいに凍らせた。

「……まもなく執事が参ります。それまでの間、おくつろぎください」

 女性は人懐っこさを微塵も残さずに踵を返すと、ワゴンを残して人形の横にある引き戸の向こうへ消えた。その突然の変化に驚かされたし、呼び止めるにはあまりにも気味が悪かった。さっきまで笑っていた人が急に能面を付けたような感じだ。

「なんすかね? 急に……」

 手渡された珈琲に一切手を付けていなかった車がボソリと呟いた。

「……さてな。大事なことでも思い出したのかもな。アイロンを置いたままとか」

「それにしても……拓ちゃんよ、具合はどうだった?」

「具合って……何を言ってるんですか……」

「拓さんに同じ、最低」

「瑠偉の言う通りだな、車」

 珈琲を啜りながら、俺もあからさまな呆れを示した。とはいえ、先ほどの拓真と女性の純情っぷりを内心で楽しんでいた俺もある意味で同罪だから、罪滅ぼしに拓真を救う。

「拓真、あれは気にするな。お前は一人の女性を怪我から助けたんだからな」

「ふふ、〝典型的な〟可愛いドジっ娘メイドさんに対して良い思いが出来たねぇ? あの胸ならグラビアでもやっていけるぞ、あの娘」

「カー先輩、最低っス」

 にひひ、と下品な声を発し、皆からの集中砲火を受ける車。だが、そのおかげで多少とも和やかな雰囲気が戻り、皆の顔にも笑みが生まれた。奴自身も道化を演じることを楽しんでいるのだから、何を言われても気にしないだろう。

 瑠偉と愛里から色々と刺されている車と動かない綾香を一瞥し、俺はこの控え室を彩る調度品たちに目をやることにした。どう足掻いても俺に綾香の診察なんて出来ないし、こうして吹雪からも寒さからも逃れられた以上は急変なんてないはずだ。

 微かに震える脚と不安を訴える胸を叩き、俺はホールクロックの側へ向かった。

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