煙霧 3

 相澤さん……相澤猛あいざわたけるさん……! 娘が……私の娘が……!


 猛る吹雪を振り払いながら、俺をこの雪の海へ突き動かした悲痛な叫びを思い出した。その悲痛な言葉が届けられたのは、今から数時間前のことだ。

 二年前、俺は警察官として人形峠の駐在所に勤務することになった。全てが未開の地に不安はあったが、葛城かつらぎという家族と交流を持つことになった。

 葛城家は本家の集まりで毎年瑠璃島を訪れているようで、出会いは彼らの車が人形峠で故障し、携帯電話が圏外になるという不運が重なった時だ。昼食を買いに出ていた俺は駐在所に戻る途中で彼らと出会した。それ以降、彼らは駐在所へ顔を出してくれるようになり、気付けば祝い事を待つ子供みたいな気持ちで彼らを待っている自分がいた。双子の娘である葛城茉奈かつらぎまなちゃんと葛城佳奈かつらぎかなちゃんも懐いてくれて、まさしく自分が頼れるお巡りさんになれたことを実感させてくれた。

 もちろん今年も来訪を待っていたが、その日の夜は違った。

「あれ、霧が出て来ましたね……この山だけでしたっけ?」

 駐在所の入り口に立ち、濃くなる白霧を見上げながら言った。それは机で書き物中の上司である竹脇小井戸たけわきこいどさんに向けて言ったのだが、聞こえなかったのかわざと無視しているのか反応はなかった。だから、もう一度言った。すると、

「ああ……あまり気にするな。機巧山は昔から霧が多い。笹川もそう言わなかったか?」

 笹川とは、俺が初めて派遣された時の上司で、笹川甲陽ささかわこうようという。五十過ぎのベテランで、居合で鍛えられた屈強な体躯の持ち主だった。勤務態度も真面目だったのに、一年前に突如行方不明になった。その日も白霧が山を支配していた時で、俺が見回りから帰って来た時にはもう笹川さんの姿は無かった。居合刀と共に。

「いえ……甲陽さんは特に何も……」

「そうか、あいつは他所からか。それなら俺が警告してやる。霧が出たら森に近付くなよ」

「はい?」

「いいから、霧が出た時は森に入るな」

「ああ、そういうことですか、霧が出た山は危険ってことですよね?」

「……まあ、それでもいいか」

 何かを口に含んだまま、竹脇さんはそれ以上何も言わずに書き物に集中してしまった。

「ほら、お前の視線は外へ向けておけ」

 言いつけ通りに視線を戻した時、峠を上がって来る車の音とヘッドライトが目に付き、俺は懐中電灯と誘導棒を持って外に出た。

「ご協力をお願いします」

 誘導棒で止まるよう指示した俺は、小走りで運転席に寄った。

「すいません、これからどちらへ向かわれますか?」

 運転席の窓を開けたのは女性で、流れる長髪と端正な顔立ちが目を引くクールな美女だ。

「……これから彼と天体観測に向かうつもりです」

 そう言うと、彼女は免許証を提示した。検問だと思ったのだろう、ただの注意喚起だけだと言うのも悪い気がした俺は免許を確認した。

 松任谷由実まつとうやゆみ。二十八歳。

「ご協力に感謝します」

 丁寧に免許を返す。その時に助手席に座る恋人らしき男性と目が合った。すると彼は静かに一礼したため、こちらも笑顔を返した。

「霧の所為で視界が悪くなっていますので、頂への道もお気を付けください」

「どうも……」

 松任谷という女性は一礼し、静かな運転で峠を上がって行った。

「天体観測か……それもいいなぁ」

 降り出した雪と天を見上げる。もう星の観測は出来そうにないが、雪の中のデートも一興だろう。そんなことを思いながら、再び駐在所の前に戻った。

 それ以降に仕事はなく、中に戻ろうとした時、猛スピードで走る車が姿を見せた。

「おいおいおいおいおい……この状況下でスピードなんて出すなよ!」

 誘導棒を振って合図するが、その車はスピードを落とす気配を見せずに道路を突っ走る。

「竹脇さん! 車が猛スピードで突っ込んで来ます……!」

 そう叫んだが、竹脇さんは暢気に書き物とにらめっこしていて気にもしていない。

 その間も車は突き進み、俺は轢かれないように道路の脇で誘導棒を振る。駐在所までは既に百メートルもなく、飲酒とか麻薬とかを隠すために突破するつもりなら……。俺は止まるよう最後の合図を出した。すると、車の速度が不意に落ちたため、駐在所の手前に停車させた。どんな奴が運転しているのか、俺は苛立ちを連れて運転席を睨み――。

「相澤さん……相澤猛さん……! 娘が……私の娘が……!」

 殴られたように開かれたドアから転がり出て来たのは、茉奈ちゃんと佳奈ちゃんのお母さん、葛城夕子かつらぎゆうこさんだ。

「猛さん……! 娘が……!」

「夕子さん……?! どうされたんですか?!」

 夕子さんは俺に縋り付くと、一心不乱に車を指差す。

「大変なんです……! 佳奈が……佳奈が山の中に……!」

「佳奈ちゃんが……? 何がどうして……」

 何が起きたのかわからず困惑する俺とは裏腹に、竹脇さんはにらめっこを止めて電話を始めた。山に子供が迷い込んだことを電話で説明している。

「夕子さん、行人さんは?」

 お父さんの名前は葛城行人かつらぎゆきとだ。子供想いかつ穏やかで優しい人だから、雪山に飛び込んでいてもおかしくない。

「夫は仕事があるので先に帰しました……家に帰るだけだから運転は大丈夫だからと……」

 夕子さんを落ち着かせ、後部座席で怯えていた茉奈ちゃんも連れて駐在所に入った。そうしてようやく聞き出せたのはこうだ。

 とある事情(さすがに夕子さんは口にしなかったし、俺も訊こうとは思わなかった)で瑠璃島の病院に入院していた佳奈ちゃんの容態が安定し、怪我も回復に向かったため退院の許可が出た。明日の仕事に響くからと行人さんを先に帰らせた夕子さんは、夕方になって茉奈ちゃんと佳奈ちゃんを連れて瑠璃島市を出た。しかし、原因不明の故障で車が立ち往生してしまった。その理由を探していた時、茉奈ちゃんが佳奈ちゃんを呼び始めた。その時点で佳奈ちゃんは白霧の中へ消えてしまったらしい。

「佳奈ちゃん……」

「おい、相澤」

 苦虫を噛んだ時、電話を終えて立ち上がった竹脇さんが手振りで俺を奥に誘った。

「関係各所に連絡したが……今すぐの捜索は期待出来そうにない。あの奥さんと顔見知りなんだろ? 二次被害の恐れがあって捜索は――」

「それは言えませんよ! 佳奈ちゃんはまだ十歳……今すぐにでも捜索しないと……」

 寒さで凍える佳奈ちゃん――それを想像した時にはもう防寒具を着込み、緊急バッグを持っていた。救急車も捜索隊も動けないのなら、動ける自分が行くしかない。

「馬鹿なことを考えるな。お前が行って何が出来る? 見つけることすら困難――」

「それでも……俺は行きます。竹脇さん、あとは頼みます!

 夕子さんを説得した俺は一人で機巧山へ飛び込んだ。しかし、それが如何に思慮を欠いていたかということをすぐに思い知らされた。その結果が、自分が置かれている状況だ。

 雪の勢いは強まり、周囲は白霧によって完全に支配されてしまった。あと一時間もしないうちに、進むことも戻ることも出来なくなるだろう。この状況に追いやられたことで、冷静に考えられるようになったようだが、時既に遅しだ。

 だから竹脇さんの言う通りにすれば良かったんだ。お前も遭難者の仲間入りだぞ?

 自分を責める心の声に対して、かぶりをふって言い訳した。自分はまだ二十代――それは短絡的な行動に出てしまう言い訳にはなるが、冷静さを欠いた行動は警察官として失格だし、その所為で救助するはずが救助される側になってしまうのは大問題だ。

 しっかりしろよ猛、お前は警察官で、しかも大人なんだぞ。

「やるべきことは佳奈ちゃんの発見と救出だ。見つけるまで彷徨ってやる……」

 寒さは我慢出来るし、足下もスノーブーツだ。あとは気力を――。

 その時、どこからか音が聞こえた。

 衝撃音でも叫び声でも、泣き声でもなく――俺はその場で立ち止まった。佳奈ちゃんかもしれないという希望で、落ち着かない心臓を宥めながら耳を澄ませ――。


 どこからか唄声が聞こえてきた。

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