煙霧 2

「サクラ先輩は瑠璃島出身っスよね?」

 愛里のその質問に対して、私は一瞬とはいえ凍りついた。幸いにも内容はたわいのないことだったけど、桜のトラウマに触れるような内容だったら止めようとさえ思った。

 桜の実家というか本家があるのは瑠璃島ということはみんな知っているけど、父親が高神家出身かつ件の高神家全焼事件に巻き込まれた身であることを知っているのは私と明夫と真耶と車君だけだろう。だからこそ、愛里の質問にはひやりとした。いや、それだけじゃない。明夫が瑠璃島へ行こうと言い出した時から私はヒヤヒヤした。だけど、桜は黙って祭りを眺めていた。それも、普段と変わらない――虚ろのまま。今も虚ろな感じで自分の頰に触れている桜を一瞥し、私は小さく肩をすくめた。

 私は桜の虚ろな表情と瞳が気掛かりだった。初めて出会った文化祭の時からずっと。

 あの頃はスカウトのため明夫と全国を回っていて、桜と瑠偉を見つけたのもその一環だった。高校生にどこまで期待しているのかはわからなかったけど、明夫は『才能ある人形は作られた時から芝居を演じている。それを見つけるのが俺たちの仕事だ』と言っていた。

 その中で桜と瑠偉と出会った。瑠偉もさることながら、高校生とは思えない演技力と歌唱力を持つ桜に一目惚れした明夫はすぐにスカウトへ動き、苦労の末に口説き落とした。私も演技力と歌唱力に圧倒されたけど、桜の瞳を見て別の意味でも驚かされた。劇団女優の傍らに師事している占いの先生に教えられたこと、その第一は〝相手を知りたければ相手の瞳を見ろ〟だった。その言葉通りにするのは苦労したけど、ようやく先生のように判断出来るようになった矢先、桜の瞳から感じたのは――虚ろ。ただ、それだけだった。

 その瞳を私は以前も見たことがあった。それは先生に従事して影負山かげおいやまという自殺の名所に赴いた時、引き止めた女性の瞳と同じだった。苦労してきたような女性の瞳には灰色の虚無が渦巻いていて、死者よりも幽霊に近い瞳だった。それと同等の瞳を高校生が持っていること事態が異常なこと。その原因が火事の所為かわからないけど、そのままにしてしまえば桜の末路は……。

 そこまで考えて私はかぶりをふった。桜から煙たがられても構わないし、悲惨な結末よりもマシなはずだ。そして目下の問題は桜にどうやって話を切り出すかだ。タロットカードでも使ってみるか、それとも明夫をうまいこと動かして脚本に混ぜ込んでみるか……。

「あっ……機巧人形っスね」

 また沈黙を破る愛里の声。それに応えるようにして、ヘッドライトが等身大の機巧人形を浮かび上がらせた。それは崖と道路を隔てるガードレールの僅かな隙間に立っていて、今にも道路に飛び出して来そうだ。

 そんな機巧人形は、この峠の由来になった存在であり、〝泉屋人兵衛いずみやじんべい〟という人形師が住み着いて作り上げた機巧人形でもある。泉屋の生家も峠のどこかにあって、今では朽ちた人形も手伝って心霊スポットになっていたはず。

「泉屋がここに住んでいたのは確か……戦争が始まる前までだったかな。その時の人形がまだあるなんてずいぶん頑丈な人形みたいね」

「今ので三体目っスね。峠全体には何体転がってるんスかね?」

 それに対して明夫が答える。

「さて……な。中には不法投棄されたマネキンもあるみたいだし、市の方でも調べようとはしていないそうだ。それはそうと……親近感が湧かないか? 俺たちも機巧人形だぞ?」

「それは上演時だけっスよ」

「綾香、また人形が立っていたら車を止めてくれないか? 近くで眺めてみたいんだ」

 私は露骨に眉を顰めてやったけど、明夫にその拒絶は届かない。三年前に別れてからも思想と傾倒を変えてくれていないんだと実感する……。

「あっ……いた」

 スポットライトを浴びるように、四体目の機巧人形は姿を見せた。今度は女性型で、私たちを見下ろす斜面と道路を隔てる隙間に立っている。

 私は少しだけ勢いを付けてセダンを停車させた。その横に立つ機巧人形は紅の和服を纏っていたんだろうけど、今じゃ無残な切れ端になり、ひび割れ壊れた躰が露になっている。

「悪いな、少し鑑賞させてくれ」

 明夫は傘もささずに機巧人形の側に駆け寄った。車君と愛里も人形に続く。

「これが件の人形師泉屋さんの人形か〜。創造主はもういないのに健気な人形だねぇ〜」

「カー先輩、その泉屋さんってどんな人なんスか?」

「そうだねぇ〜道楽でこんな精巧人形を作っちゃう暇なお人だよ〜」

「ふん、道楽……か」

 車君の評価に対して鼻を鳴らした明夫は、そっと人形の頰に触れた。その行為に少しだけ苛立ちを感じて私は思わずセダンから出ようとしたけど――。

「触れても……彼女は何も言いませんよ」

 いつの間にか外へ出ていた桜が、明夫の背後でそう呟いた。突然のことに驚く私と明夫とは裏腹に、桜は黙って機巧人形を凝視している、

「ふむ。桜、この人形を鑑賞してみて……どうだ? 感想は」

「ここに飾られている人形より……山車に乗せられた人形たちの方が良いと思いました」

「そうか。美しさならこの人形たちの方が良いと思うけどな」

「いえ、山車に乗せられた人形たちは眠れますけど……ここはいつまでも眠れませんから」

「ああ、そういう意味か……」

 明夫はそれに対して無精髭だらけの顎を撫でながら、佇む人形の頬に触れた。

「なぁ、桜……美しい存在というのは、未来永劫、生まれたままの美しいままに存在していてほしいと願われるものだ。眠るなんてことは本人の意思に関係なく赦されないものさ」

 悪い癖が始まった……。

 不老不死なんて馬鹿な権力者や科学者たちが情熱を捧げて議論に明け暮れてきた。だけど、人間が出来ることなんて限られているし、そもそも永遠に生きていたいと願う人たちはよほどこの世界が好きみたいだ。私は冗談じゃないから、窓を開けて明夫に声をかけた。

「明夫、永遠なんてありえないじゃない。綺麗な美術品も庭園も手入れをしないと朽ちるのは当然だし、手入れされている時点で生まれたままの美を保っているとは……」

「その通り、黴の生えた議論になるだけさ」

 芝居じみた動きで両腕を広げた明夫は、機巧人形を一瞥してから車内に戻って来た。

「いやはや、〝桐生楓きりゅうかえで〟氏のご先祖様の実力……とくと見せていただきましたなぁ、堂さん。ご満悦で?」

 愛里も桜も車君も戻り、私は運転を再開した。その矢先に車君は明夫に話しかけた。

「桐生氏が生きていてくれたら……製作してもらった人形を使って芝居がしたかったよ」

 桐生楓というのは、車君が言った通り泉屋人兵衛の子孫だ。彼女は機巧人形ではなく、球体関節人形の製作を生業としていて、その技術力は〝人形に魂を宿す〟とまで称されるほどだ。こうして先祖の人形を見ると、その実力も頷ける。そんな人形師様だけど、最期は家族と一緒に変死している、一人娘に至っては今も行方不明だ。

「京堂さんは……その人形たちにもエンドレスワルツを?」

「永遠なんて罰ですよ……長生きと同じです……」

 それは桜の囁き。自分自身に言い聞かせるような口ぶりだったから、

「永遠はそうかもしれないけど……幸せな長生きなら罰じゃないとは思うけど……」

「…………」

 堪らず告げたけど、桜はもう何も言わずに景色を眺め出してしまった。

「幸せな長生きをぜひとも享受したいっスね〜。今の日本に蔓延っているのは不幸な長生きだけっスからね〜……明るい未来なんて想像することも出来ないっスよ」

「……そうね。それに関しては同意するわ。私も……どこまで生きているかどうか……」

「おいおい、お前たち……この車内と劇団にいる間はネガティブ禁止だ」

「それにしたってサクラ先輩は生に対してアンニュイ過ぎっスよ。普段から舞台上での情熱を出していればより魅力的なのに……。いくらあんな過去があってもアンニュイな――」

「愛里……!」

 私は殴られたみたいに振り返った。だけど、運転中だってことを思い出してすぐに前を向いた。みなまで言わなかったけど、愛里は自分が何を口にしたのか察したようだ。

「愛里……あなた桜のこと……」

「綾さん、ここにいる全員、桜ちゃんの実家が高神って知ってますよ。行き先が瑠璃島って言われて、満君とまーやを除いてみんなで調べましたし、本人にも訊きましたから」

「桜、話したの?」

 桜は小さく頷いた。

「愛ちゃん、それは桜ちゃんの問題さ。俺たちがとやかく言うことじゃないでしょうが」

 いつもと変わらぬ口調のまま、車君は愛里の軽口を諌めてくれた。

「まっ……俺が諌めるのも何だかなって感じだけどねぇ」

「そう卑下するな。なかなか様になっていた。愛里、言葉遣いには注意しろよ? 誰もがお前のように生きられるわけじゃないんだからな」

「はい……。サクラ先輩、すいませんでした……」

 素直な謝罪が出来るのが愛里の長所だけど失言は悪い癖だ。いつもであれば満君が止めに入ってくれるのだけど、それに頼りっきりだった弊害が出たみたい。

 それにしても、桜が過去を話したことは意外――いや、訊かれたから答えただけかな。

「満君も来れば良かったのにねぇ? せっかくの慰安旅行なのにさ」

 車君はやれやれと言いたげに細い目を閉じた。それには明夫が応える。

「アルバイトが重なったんだ、仕方ないだろう?」

 それに対して車君は、意味ありげな笑みを桜に向けた。その意味は私にもわかった。

 満君の片思いは全員が知っているし、私はその一方通行の恋路に一つの光明を抱いている。現世への接点を肉体的、精神的にでも持ってくれれば人はそこに留まるものだから。

「というわけで、愛ちゃんには人形峠の噂が事実かどうかを確かめてもらおうかな?」

「えぇ……!?」

「おい車……外は雪と霧だぞ」

 明夫の言う通り、車の外を舞う雪の勢いは強くなり、霧も次第に濃くなりだした。前方を照らすヘッドライトだけじゃ心許ないほどだ。

「え〜? 前の堂さんなら……俺、気になります! ってなっていたはずでっせ? 機巧山の神隠し。ほら、外もいい感じに霧が出て来たみたいだし」

「そうね、前の明夫なら飛びついていた話題ね」

「中高時代だろう? ……人は変わる――」

「神隠しって……本当ですか?」

 桜の質問に車君は目を丸くした。その気持ちは分かる。私も同じ反応をしたから。

「あら? 意外だねぇ……桜ちゃんが反応するなんて。神隠しの人形峠って知らないかい? そんじゃ……ちょいと聞いてもらいましょうか。人形峠の一席を」 

 車君はごほんと咳払いをして、車内を見渡し――。

「長い噺と創作は勘弁で」

 瑠偉が横から釘を刺した。すると、車君はガクリと出端を挫かれたみたい。

「まあ……簡単に言っちゃうと、昔は山道がしっかりと整備されていたわけじゃないし、人攫いや山賊なんかも潜んでいたから、峠を越える前に流される人が多かったってとこだろうさ。神隠しの正体なんてそんなもんだろうねぇ」

「あっ、本当に短めにしたんですね」

「瑠偉が釘差したんでしょう? 優しい車くんはちゃんと従ったのさ。それともう一席……機巧山を語るうえで忘れてはいけないのが、機巧人形でしょ。ねぇ、瑠偉?」

「さっきの人形?」

「その通り。泉屋氏が峠に住み着いたのは大正って話だけど、あれほどの人形なんて変だと思わないかい? あの時代の人形なんて市松人形とかそれくらいなもんだろう?」

「まぁ……確かに」

「オーパーツな人形制作技術、人形の大量生産、泉屋氏はともかく、いたのだとしたらお師匠様は……ここで何をしていたのかなぁ?」

「おい、車」

 明夫が抗議の声をあげるけど、車君は無視して続ける。

「それで……俺が調べたところ、その人形が夜な夜な峠を徘徊し……『鈴谷愛里……代わりに人形になれ……。鈴谷愛里……』って怨めしそうに繰り返しているらしいぞ……」

「……真面目に聞いていたこっちが阿呆だったわけっスね」

 愛里は車君をねめつけた。それは拓真君も瑠偉も同じで、無言の圧力が車君を包んだ。

「はは、少しは怨みを買うと良いさ」

 追い詰められる車君を一瞥した明夫の一言。

 陽気に笑っているけど、明夫は車君の一席がただの噂じゃないことを知っている。現に峠の周辺では今でも奇怪な噂が絶えない。

「まっ……気分転換にはなったし……」

「そうでしょう、そうでしょう? 俺は空気を読んだのさ」

「どうだかね」

 それに対し、プイ、と顔をそらした瑠偉は、曇ってしまった窓を袖で拭い始めた。

「綾さん、視界は平気ですか?」

「ワイパーのおかげで。……だけど白霧は厄介ね」

 前方の闇に漂う白霧を払うのは、愛車が吐き出すヘッドライトだけ。瑠偉が外を見て不安に思うのは無理もない。

「愛ちゃん、怖ければ俺の膝に乗ってもいいんだぜ?」

「背中になら乗るっスよ」

「愛ちゃんに女王様気質が?!」

「瑠偉先輩、サバゲの時もカー先輩はこうっスか?」

「そうだよ。地球が終わる日までそのまんま」

「悪いな愛里、車は生まれた時からこうなんだよ。中学時代はもっと酷かったんだぞ?」

「ふふ、そうね。演劇部にエグイ一年坊が入って来たって笑い話になったわね」

「あらら、酷い言われようだ」

 特に気にすることなく、車君は中学時代の話でおしゃべりを続けた。

 その懐かしさに自然と口元が緩む。私と明夫は家がお隣さんだったから、それこそ物心が付く前から一緒にいたし、車君とは中学時代からの付き合いだ。どんな中坊だったんですか? と愛里がすかさず話に喰い付き、それを明夫があれやこれやと盛った話を披露した。そんな話には乗らず、拓真君は携帯電話を取り出すと首を傾げながら言った。

「まだ圏外か……。綾香さん、あとどれくらいで峠を抜けられますか?」

「そうね……あと三十分もあれば――」

 目の前に何かが飛び出して来た。

 私が声をあげるよりも先に、その何かはフロントガラスに叩き付けられて宙を舞った。それと同時に、悲鳴にも似たタイヤの破裂音が響き――。

「掴まって!!」

 激しい衝撃で揺れるセダンのコントロールを取り戻そうとブレーキを踏んだけど、その指示を無視して止まる素振りすら見せずにガードレールを破壊し――。

 セダンは悲鳴をあげながら崖の下に飛び込んだ。私にわかったのは、何かを叫んだ明夫の声、皆の悲鳴と衝撃、前方に立ち塞がる壁のような大木と――唄声――。

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