俯瞰 3

『次は真域駅しんいき〜真域駅〜』 

 いつの間にか馴染みになった駅名を聞いて、僕はチラチラと送られる視線を払うように和装用コートである二重回しを靡かせて電車を下りた。そこは東京の有栖川区ありすがわくの住宅街。

 お気に入りの番傘で濃霧と雨を振り払い向かうのは、アムネジアというマンションだ。そこはいつも人がいないエントランスを持ち、今日もその例外はなかった。

 番傘の滴を払いながらエントランスとエレベーターを抜け、歩きながら懐中時計を取り出した。これは祖父が大事にしていたもので、大学入学祝いとして譲ってくれたものだ。

 古典が示す時刻は十九時十八分。

 指定時間は十八時だったけど、そのメールを受け取ったのは十七時五十五分だ。無茶が過ぎるから急がなかったけど、そのことで愚痴るような人でもないだろう。そんな希望を抱きつつ、濡れたブーツの音を響かせながら806号室に辿り着いた。

 このアムネジアは立地条件も良ければ家賃も優しいのに人影が少ない。それだけ聞けば最高だけど、カツカツの仕送りとアルバイトの自分には縁のないことに変わりはない。

 西条さいじょうという表札を掲げる806号室のドアは施錠されておらず、いつもの不用心さに怒りつつ玄関の明かりを点けた。チカッ、チカン、と音を立てた照明に照らされたのは、ミイラになりかけている観葉植物とぞんざいにされた靴の数々だ。

真耶まやさーん、来ましたよー」

 荒れ果てているであろう二つの個室と洗面所と墓場みたいなトイレを左右にし、壁に掛けられた唯一の装飾品である絵画の前で足を止めた。

 その絵画には互いの尾を噛み合う二匹の蛇を遠巻きに見ている真っ黒な人影がたくさん描かれている。遠巻き連中のことはわからないけど、蛇が不老不死や死と再生を象徴しているのは知っている。そんな蛇が自らの尾を噛むということは、始まりも終わりもない永遠を意味するらしい。不老不死なんてバカげた願いだから――。

「〝ウロボロスの蛇〟はアキが逆上せてるよ」

 いつの間にか開いていたリビングのドア。そこに立っているのが、僕をここまで呼び出した主である西条真耶さいじょうまやさんだ。

 真耶さんはいつもジャージを着て、身体の一部みたいにしているヘッドフォンを付けている。その下にはあまり手入れされていない長髪と黒縁眼鏡が覗いている。真耶さんも機巧人形劇団の一人であり、時々は女優として舞台に立つけど、普段は広報や脚本に携わっている。入団理由は知らないけど、二00五年の旗揚げの時からいることは知っている。

「真耶さん、またそんな身なりをして……」

 だらしない姿を母親みたいに注意したけど、真耶さんは他者の言葉で動くことはないだろう。その証拠に、真耶さんは何も言わずにペタペタと僕の横へ立った。

「明夫さんがウロボロスにお熱なんですか?」

「永遠の命にでも憧れてるのかね」

 幻想とかに傾倒しているのはわかるけど、憧れているというのは初耳だ。そう思う理由を訊いたけど、真耶さんは何も教えてくれずリビングに戻ってしまった。

 それを追った僕は、ほぼ動かされないカーテンが招いた暗闇に沈むリビングに足を踏み入れ、その惨状に今回も溜め息をついた。

 汚れたままの食器、放置の洗濯物、埃だらけのカーテン、テーブルに乗ったままカップ麺や箸にグラス、前回来た時よりもマシだけど……、

「汚部屋にいたら心も身体も壊すと何度言ったか……」

 呼び出し理由を訊くよりも、まずは会話が出来る程度の綺麗さを求めて動き出した。二重回しを脱ぎ、たすき掛けをして気合いを入れる。

「もう……掃除機そのものが汚いなんて聞いたことないですよ……!」

 リビング横の和室には扇状に並べたパソコンといくつものモニターに囲まれた真耶さんの作業テーブルがあって、その横を抜けた僕は押し入れから汚い掃除機を取り出した。バタバタとリビングを掃除している間、真耶さんはずっとパソコンとお見合いしていた。

 三十分ほど経ち、掃除は終わった。カーテンはともかく、汚れた食器は姿を消し、暗澹たるリビングに光明が差した。ただ、これがいつまで続くのかを知るのは真耶さんだけだ。

「いやはや、我ながら惚れ惚れする綺麗さ――」

「チル〜珈琲飲みたい」

「珈琲そのものが無いでしょう?」

 やれやれと露骨な溜め息を連れてキッチン棚を漁る。そうして見つけたのは期限間近の紅茶だけだ。匂いに問題はなく、湯呑みを綺麗にしてから紅茶を淹れた。元汚部屋に漂う優しい香りは、ここにまた人の文明が戻って来たんだと実感出来る。

「それで……僕を呼び出した理由は何なんですか?」

 事の始まりはアルバイト終わりだ。疲れて帰ろうとした時、真耶さんから件のメールが来た。取材旅行に行けなかった寂しさの所為で隙があったんだろう。考えもなしに電話してしまった。その結果、理由も伝えられずに招集がかかったのだ。

「……取材旅行という名の慰安旅行に行けなかった哀れなチルに吉報だ。誰かのバッグに潜ませたマイクが会話を拾ってくれているぞ」

「はい?」

「だ、か、ら……誰かのバッグに潜ませたマイクが会話を拾ってるって言ってるんだよ」

「潜ませたって……誰のバッグにですか」

「さぁ? 出発前の見送りに行った時に……ちゃちゃっと潜ませたからわかんないや」

 真耶さんはケラケラと笑いながら、パソコンとモニターの間を縦横無尽に移動してはキーボードとかよくわからない機械を弄っている。

「盗聴は犯罪ですけど?」

「……今回のは単純に旅の記録だ。あの連中の中でカメラに心得があるのはテンだけだし、ブログもやってない。裏方として少し協力してやってるだけさ……」

「協力って……そもそも盗聴器って長距離の音声を拾えるんですか?」

「技術は日進月歩だ。デジタルだ何だを駆使すればいくらでも盗聴出来るさ」

 真耶さんが言うには、慰安旅行中に拾った音声は全てパソコンに送られているらしい。

「サクラの声を聞けなくて寂しがっているとも思ったけどな……」

「それは……」

 思わず口籠ってしまった。脳裏によぎるのは一方通行中の面映い姿……。

 桜さんは本当に綺麗な人で、単純な綺麗さなら綾香さんにも負けないと思う。色っぽさでいえば綾香さんだけど、桜さんには儚さとか愁いの影が見え隠れしていて、特に肩まで流れるみどりの黒髪が右頬を隠していることも相まって壊れてしまいそうな美しさが光る。でも、そのことに関して僕はありきたりな賛辞しか贈れていない。

 ちなみに、桜さんは明夫さんの秘蔵っ子であり、劇団の男性客が増えたのは彼女のおかげ(もちろん綾香さんや瑠偉さんたちのファンはたくさんいる)と言っても過言ではない。

「まぁ……チルの忍ぶ恋は劇団全体が知っているわけだし、がんばりたまえよ、青少年」

「とにかく、旅の記録だろうが何だろうが、盗聴は変態だし犯罪ですよ」

「違いないね。それにしても、アルバイトなんてシフト代わってもらえばよかったのに」

「そういうわけにもいかないでしょう? 生活費や授業費のこともありますから……」

「……旧家きゅうかのおぼっちゃまなのに殊勝なお考えだね」

 綺麗になったお盆に乗せた湯呑みを真耶さんに手渡す。受け取るその手は意外にもすらりとしていて綺麗なんだけど、如何せんその先と釣り合っていない。

「そこまでおぼっちゃまな生活なんてしてませんよ」

 旧家はおぼっちゃまのイメージが強いのか、必ず弄られる。財に関しては十九年の中で苦労しているところを見たことはないが、甘やかすどころか早々に自立を求められたし、祖父母に武道を叩き込まれた。おまけに仕送りは少なく、学生とアルバイトと劇団活動という三足の草鞋状態になっている。そのままじゃ劇団活動すら出来ないのが現実だけど、それを理解してくれた明夫さんが所有するマンションを借りている。

 掃除の疲れと紅茶の湯呑みを連れて、僕はリビングの椅子に腰を下ろした。

「そういえば……サクラも旧家出身だったかな。どこだっけ?」

「本家は確か……瑠璃島だったと思います」

 瑠璃島の雛曵祭、人形供養、そのフレーズに取り憑かれた明夫さんが取材旅行に向かったのが、今から三日前のことだ。予定通りなら今頃は全員帰りの車の中だろう。

「サクラんとこの本家は確か……焼けたんだっけか……」

「焼けた……? それって本当ですか?」

「確証はないけどね。ほれ、電波障害で途切れ途切れだけど聞いてみな」

 真耶さんはキーボードを弄り、モニターの一つを顎で示した。

「……デジタル音痴には難しい画面なんですけど」

「見てりゃわかるよ。ほら、ヘッドフォン」

 罪悪感を抱きつつも聞こえてきたのは大勢の声だ。どうやら綾香さんが運転する車に全員乗り込んでいるようだ。何かトラブルでもあったのかもしれない。

「それにしても……相も変わらずにアキはとっつぁん坊やか……」

「明夫さんがとっつぁん坊や? どういう意味ですか?」

「…………」

 意味ありげなことを言っておいて無視とはちと酷い……。

 その後の車内は特にハプニングが起こることもなく、そのことに飽きたのか、真耶さんは席を立つと僕の頭をわしゃわしゃに弄ってから廊下に消えた。

「やれやれ……人の髪の毛を……」

 無残にもわしゃわしゃにされた髪を綺麗にしようとヘッドフォンを外そうとして――思わずその手を止めた。耳を傾けつつパソコンの画面を凝視する。ワードのように打ち込まれる文字はみんなの途切れ途切れな会話ばかりなのに、ヘッドフォンから鮮明に聞こえてくるのは桜さんでも綾香さんでも瑠偉さんでも愛里でもない声――。

「唄……声?」

 慌ててパソコンの画面を追うけれど、皆の声を文字にしていくだけで件の唄声は文字として入力されていない。それだのにヘッドフォンから聞こえる鮮明な唄声を見極めようと集中し――その直後、動揺の悲鳴と甲高い音が唄声を掻き消し、鼓膜が吹き飛ばされそうな轟音にヘッドフォンを外した。

「何だよ、これ……!!」

 グワングワンと暴れる頭を庇いつつ、ヘッドフォンに片耳を預けた。今聞こえるのは耳障りなノイズだけで、唄声も誰の声も聞こえない。盗聴器とその電源が健在なら何があっても送信は続けるはずだ。それが途絶えたということは、盗聴器そのものが壊れる何かがあったということだ。その原因はおそらく――。

「真耶さん! 真耶さん!!」

 いても立ってもいられず呼びつけた。だけど、トイレが長いのか寝てるのか戻って来なければ返事もない。だからリビングを飛び出して、トイレのドアをがむしゃらに叩いた。

「何? サクラが胃の中身をぶちまけた?」

 厄介そうに出て来た真耶さんの腕を掴み、無我夢中でパソコンの前に座らせた。

「うん? これは……」

 真耶さんは怪訝なままヘッドフォンを付け……動かなくなった。どうですか、と問い質したくなるのを抑えて、結論が出て来るのをひたすら待った。その間、桜さんたちに送ったメールは一通も返信されなかった。さっきのメールは返信されたのに……どうして……。

「……何があった?」

 自分が聞いたことを全て説明した。

「唄声……機巧山のローレライか……」

「……ローレライ? セイレーンではなく?」

 セイレーン。ギリシア神話に登場し、航行中の船乗りを惑わし、海へ誘う怪物。

 ローレライ。ドイツのライン川にそびえる岩山のこと。

「半人半鳥はいざ知らず……山に人魚はいないでしょ」

「どうかな」

 ヘッドフォンを床に捨てた真耶さんは、唄声を拾わなかったパソコンの画面を見た。

「音声は拾えてないのか……少しは手懸かりを得られると思ったのに……」

「誰も電話に出ないし……機巧山が圏外の可能性はありますか?」

「深い山だけど、今時圏外になるような場所ではないと思うけど、人は消えるよ。〝神隠しの人形峠〟がある山なんだからさ」

「神隠し……? そんな怪しい場所があるのを知ったうえで明夫さんは瑠璃島に?」

「誰か信じる? 神隠しなんて」

「でも……さっきの言い方からして行方不明者が出てるのは事実なんでしょう?」

「まぁ……事実かな」

 綾香さんはともかく、明夫さんは全員の命を預かっている立場だ。危険な行為や遊び仲間は選べ、と口酸っぱく言っている人が、行方不明者が出ている場所に……。

「とにかく……よくないことが起きているのか確かですよね。救急車を……!」

「何が起きたのか判明してないのに? 事故の説明はどうすんの」

「でも……あの唄声のことも悲鳴のこともあるし、みんなが無事とは思えませんよ!」

 僕がそう言うと、真耶さんは溜め息の後にリビングへ向かった。

「ほら……」

 その言葉と同時に、僕の胸元に二重回しが飛び込んで来た。

「行かないとは言ってないよ。車出してやるから……三十秒で支度しな」

 その思いがけない言葉に面食らったが、僕はすぐに満面の感謝を浮かべ、

「……はい!」

 最高の返事を吐き出して二重回しを羽織った。和装で雪山へ臨むことは危険だとは思うけど、今から家に帰って着替える心理的な余裕はない。

「先に外で待ってますね!」

 どこかにいる真耶さんへそう叫んでから、日常使いのトランクを連れて玄関へ向かった。

「支度は?」

 ブーツを履き終えたと同時に真耶さんが廊下のドアの一つから出て来た。ジャージの上にトレンチコートを纏い、およそ女性が持ちそうにない無機質な黒い鞄を持っている。

「終わってます」

 そう言うと、真耶さんは外へ出た。行き先はエレベーターで行ける地下の駐車場だ。そこを早足で進んだ真耶さんが立ち止まった相手は、放置車に見える汚れた白い車だ。

「滅多に動かさないからね……辿り着けるかな」

 後部座席に荷物を置いている真耶さんを背中に、助手席へ乗り込もうとしたら、

「あれ? これは――」

 助手席に先客がいた。それは運転席を熱心に見つめる写真立てだったんだけど、無言で運転席に入った真耶さんがダッシュボードへ押し込んだ。好い人の写真ですか、と尋ねても真耶さんは怒らないだろうけど、親しき仲にも礼儀ありだ。

「車、動きますよね?」

「動くよ。今は二十七だから……三年前のプレゼントだし」

「二00八年の車ですか――というよりも、誰からのプレゼント――」

 解答を拒否するアクセルが僕を助手席に押し付けた。

「うわっ……足下にまで紙切れが……」

 真耶さんはハンドルを握ると豹変するタイプなんだろうか。乱暴な動きで道路に飛び出した車は足下の紙切れを振り乱し、後部座席のクッションも振り落とした。

「こんな紙切ればかり……捨てたらどうですか?」

「捨てられないよ……剥落の記憶にするのは嫌だから」

「剥落……?」

 再びアクセルが踏み込まれ、僕はまたもや助手席に押し付けられた。

 雨に呑まれた町並みは死んだように静まり返り、真耶さんが駆る車の閃光だけが静寂の水面を波紋で乱していた。

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