第2話

 呪われている――

 三日以内に――

 そんなことが書かれているが、読み終わった時点で四日経ってしまっていた。もうどうしようもないではないか。土本は笑みをつくりながら『臆病者の首』を本棚にしまった。しかし、どうも気になって視線を外すことができない。『臆病者の首』だけが本棚の中で蠢いているようにも思える。

 正の字は十八画だった。十八人が読んだということだろうか。それとも十八人が死んだということだろうか。

 途端、部屋の空気が重く冷たい冷気を纏ったように感じられた。土本は押しつぶされるような感覚を抱いた。六月でエアコンをつけているとはいえ、異常に低い温度に設定した記憶はない。土本は周りを見渡した。何も見えない。でも何かがいる気がする。何かが湧き出てくる気がする。土本は恐怖心に駆られ家を飛び出した。エレベーターは一階にある。非常階段を使って一段飛ばしで降りていく。途中、つま先が引っかかって落ちそうになるのをとっさに手すりを掴んで身体を支えた。背後から何かが折ってくる気配を受け、残りの段差を飛び降りた。

 外の気温はいつも通り暑かった。サンダルを履いた足の裏には、汗がびっしりと浮き出てサンダルが粘着質に張り付くような不快感が充満した。でも部屋に戻りたくはない。

 土本は下宿先のマンションの真横にあるコンビニに入った。いつも通りのやる気のない店員がほぼ唇を動かさずに「いらっしゃいませ」とつぶやくのを見かけた。その店員の放つ日常臭さに、握手したい衝動に駆られた。幸いズボンのポケットにスマートフォンを入れていたので、適当に選んだジュースをレジに持っていき、決済アプリで支払いを済ませる。

 ドアを出ると、ジュースの蓋を開け、缶の飲み口に唇を合わせた。喉ぼとけが激しく上下に動く。五百ミリリットルのジュースはたちまち体の奥に溶けていく。

 あの気配は何だったのだろうか。まだ部屋には戻りたくない。いつのまにか陽は傾いて、山間に吸い込まれかけていた。怪しい橙色のフレアが揺れているようだった。

 あの妙な文章のせいで過剰に反応してしまっただけだ。ホラー小説に誰かがいたずらしただけだ。そう落としこむとジュースを買ったことが無性に悔まれた。あの百五十円が一分も経たないうちに胃の中に流れ込み、一時間あとには尿として排出される。あの百五十円が一瞬のうちに黄色い尿として流れていくのだ。

 やる気のない店員の顔もちらついた。先ほどまで不断の日常を感じさせてくれたやる気のなさも今となっては態度の悪い不出来な人間でしかない。一旦そう思うと、土本は巨大な恐怖心がいつの間に収縮していて、あるのは焦燥感のみだった。

 エレベーターに乗り、七階を押した。扉が閉まると、異様に湿気じみた空気に包まれた。立っているだけなのに、額や背中から汗が止まらない。見上げると階層ごとに徐々に光が灯っているが、いつもより灯る間隔が遅い気がした。鼓動が速くなっていく。四階を超え、エレベーターの扉に壁しか映らず暗くなったとき、土本が反射して映った。土本は目を見開いた。後ろに男が立っている。眼球だけを動かすが真後ろは見えない。慎重に顔を向けると、扉に映った男が土本を見下ろしていた。

 鼓動がドンドン早くなる。胸に手を当てると固いものに触れた。Tシャツの中には『臆病者の首』が入っていた。腕が勝手に動く。開いたページは“正”の字が三画目まで括られているところだった。

 いつのまにかペンを持った手は先端に付いている消しゴムで括った者を消したあと、勝手に腕が再び正の字を括り直していく。今度は四画目まで括ったとき、ぞっとした。勝手に腕が伸びると、『臆病者の首』が男に渡った。途端、息苦しくなる。自分の魂が男に吸い取られていた。強烈な眠気が襲う。眠れば死ぬ。そう直感するものの、抗うことができず、エレベーターの床に倒れ込む。痛みはなく、視界が暗くなっていった。

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呪本 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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