滅紫に染まる

しろすけ

滅紫に染まる

 花が咲くように笑う、という表現があるが、更に深く思考したとき、その『花』に何が当てはまるかでまた捉え方も変わるだろう。

 例えば、向日葵。夏の日差しを味方につけ、明るく、大胆で、真っ直ぐとした笑顔を連想させる。

 例えば、紫陽花。凛としていて、どこか控えめで、ふっと薫るような笑顔が浮かぶ。


「手伝ってほしいの」


 そう言って微笑む彼女は、今まで通り例を挙げるとしたら、鈴蘭だろうか。

 清廉で、可愛らしくて、思わず触れて守ってやりたくなるほどか弱そうで、しかし、芯を感じる笑み。

 俺は静かに気圧された。一回り小さい彼女は数歩先で俺を見上げていた。制服は夕方の日差しによって淡く照らされていた。肩で揃えられた、艶のある黒髪が風に靡いて僅かに揺れた。長いまつ毛の奥の漆黒の瞳に吸い込まれる。


「手伝うって、何を?」


 出来るだけ平静を装って声を絞り出した。彼女はスクールバッグを担ぎ直し、くるりと小さな背中を見せた。


「今日、ひま?」


 そのまま住宅街を歩き始める。影ひとつ分の距離を空け、俺も続いた。


「ひまだけど……いや、何するか分からないのは怖いって。闇を感じる。教えてよ」


 彼女はふふ、と溢れるように笑った。ローファーがアスファルトを小気味よく鳴らしている。


「お部屋が散らかっててね、今日の夜までに片付けないとお母さんに怒られちゃうの。お願い、手伝って」


 お願い。そう言われると、はいと頷いてしまう魅力が彼女にはあった。


「……俺じゃなくても良くない?」

「もう、それ、意地悪言ってる?」


 ごめん。真面目に謝らないでよ、逆に傷つく。

 むっとした表情で振り返った彼女はどこか楽しそうだ。

 学校の彼女を思い出す。教室の端で、誰とも喋らず窓の外を見続けている様子が容易に浮かんだ。彼女と同じクラスになって二年目、未だに友達という存在がいるのかすら怪しい。


「君しかいないの」


 ぐっと心臓を掴まれたようだった。

 俺に頼むぐらいだ。きっと、いないのだろう。

 そう考えるとますます断りづらくなる。いや、断る理由もないのだが。


「分かった、分かった。お母さん、まだ大丈夫なんだよな?」


 彼女は一瞬周りを見回した。


「うん。夜までお仕事でいないから、それまでに終わらせれば問題なし」


 頑張ろう、とガッツポーズをする彼女に「おう」と返す。





 腕時計を確認すると、短針がちょうど四を差したところだった。九月も終わりに差し掛かり、肌寒い風が首筋を撫でた。空は、夕焼けに染まり始めていた。

 『満井』と書かれた表札の横を通り、雑草でいっぱいになった庭を遠目に、二人で玄関の前に立つ。

 彼女は神妙な面持ちで大きなドアをゆっくりと開けた。小柄な彼女には重そうで、俺は片手を伸ばしてドアを支えた。奥に伸びる廊下は薄暗く、人の気配はない。


「ただいま」


 細い声で呟き、ローファーを脱ぎながら、彼女は未だ外で突っ立っている俺を手招きした。


「お邪魔します」


 靴箱の横には広告や新聞、その他を含む紙の束が縛られて放置されていた。備え付けられた小さな棚の上に物が散乱し、その中で写真立てが伏せて置かれていた。意図的に伏せられたというよりも、何かの拍子で倒れてしまったように見える。


「ごめんね、汚くて」

「毎回言ってるな、それ」

「あ。ついに否定しなくなった」


 苦笑し、靴を揃え、家に上がる。彼女に促されて歩く途中、ちらりと目に入ったキッチンの流しには皿が積み重なっていた。

 突き当たりの階段を登る。


「今日は、お兄さんは?」


 俺の小声に彼女も声を潜めた。


「部屋にいるよ」


 手前から二つ目の扉に入るよう言われた。彼女は扉の前で「お茶持ってくるね」とだけ告げると、スクールバッグをその場に置き、俺が何かを言う前にぱたぱたと階段を降りて行ってしまった。

 その姿を見送り、視線を移動させる。ビールの空き缶や、何かをまとめたビニール袋がまとめて廊下の隅に寄せられていた。

 続いて、先ほど横を素通りした一つ目の扉に目が行く。

 開かずの扉。

 誰かがそう呼んでいたわけではない。俺が勝手に心の中で呼称しているだけだ。彼女の話によると一つ上の兄の部屋らしいが、その扉が開いている光景を見たことは一度もない。それどころか、物音すら聞いたことがない。

 昼間はずっと寝てるの。ご丁寧に鍵もかけてね。お母さんは鍵を持ってるけど、私は入れないの。

 彼女はそう言っていた。

 女子の家に呼ばれて心が踊らない理由もこれにあった。もちろん、荒れた家内もそうだが、未だ未知数な兄の存在は俺にとってひどく不気味に感じられた。

 目の前の扉を開け、部屋に入る。床には大量のプリント類が無造作に放置され、踏む場所を見つけるのに苦労した。

 正面の半開きの窓から微風が入り込み、その脇でベージュのカーテンが膨らんだ。プリント群がばらばらと音を立てて配置を変える。幸運にも新しい足場ができあがり、俺はつま先立ちで歩を進めた。

 夕焼けによって照らされた、くすんだ白の壁は何故か不安を煽った。右手側にはコルクボードが設置されていて、恐らく彼女が小学生と中学生の頃であろうクラス写真がピン留めされていた。他にも学校の重要なプリントや、風景画などが留められていた。その中央に鈴蘭の写真があった。

 亡き父が撮った物だと、過去に彼女は語っていた。

 俺が彼女の笑顔を見て鈴蘭を思い浮かべるのは、この写真から来ているのかもしれない。

 左手側には勉強机がある。床とは打って変わり、机上には塵ひとつ落ちていなかった。

 乱雑に参考書などが入った本棚には、半透明のタッパーのような箱が置いてあった。その中には色とりどりのクリップがぎっしり詰まっている。なんでも、クリップを収集するのが趣味なのだとか。

 この部屋に来るのは四度目だ。スマホの小さな画面で映画鑑賞をしたり、ゲームで遊んだり、それなりの関係を積んできたが、仲良くなった、とは言い切れなかった。

 彼女は親密に接してくれるが、俺たちの関係はどこか上滑りしているように感じられた。

 俺が勝手に思っているだけかもしれないが。


「おまたせ」


 トレーにコップを二つ乗せ、彼女はプリントを踏みつけながら登場した。


「……いいのかよ」

「え? あぁ、いいよ。どうせ捨てるんだもん」


 勉強机にトレーを置き、彼女は俺を見て笑った。


「変な立ち方」

「あのなぁ」


 くく、と笑い合う。

 やはり、気のせいか。


「どうしてこんなになったんだ?」


 つま先立ちを止め、プリント類を見回し、尋ねる。


「今日提出のプリントあったでしょ? 朝急いで探してたら、めちゃくちゃになっちゃって」

「なるほどな」

「あ、お茶いる?」


 差し出されたコップを、礼を言って受け取る。冷えた麦茶だった。飲み干して、気合いを入れる。


「よーし、頑張るか」

「うん! とりあえず集めて、まとめよう」


 テキパキと作業が進む。見える床の面積がみるみるうちに増えていく。あと十分もすれば片付きそうだ。


「あ」


 思い出したかのような彼女の声に「どうした?」と返す。


「食器も洗わないといけないんだった。頼まれてた」


 困った顔をする彼女に、


「俺洗ってこようか?」


 と言うと、大きな目をさらに大きくさせ、ぱっと表情を輝かせた。


「いいの?」

「そのくらいなら全然」

「じゃあ、頼んでもいい?」


 頷くと、彼女は眩しいほどの笑顔を見せた。


「ありがとう! 戻ってくるまでにこっちも終わらせちゃうね!」


 廊下に出て、開かずの扉を横切り、階段を降りる。キッチンの流しに辿り着き、早速皿を洗い始める。

 油汚れがこびりついており、長い間ここに放置されていただろうことが簡単に想像ついた。皿一枚綺麗にするのに思ったよりも時間がかかる。山積みになった食器に若干げんなりするが、引き受けたものは仕方がない。

 洗い終わる頃には体感でもかなりの時間が経っていた。足早にキッチンから出ると、紐でくくったプリントの束を抱えた彼女とばったり出会した。


「終わった? こっちも終わったよ、これで最後」


 気が付かなかったが、俺が食器を洗っている間に何度か玄関まで往復していたらしい。


「本当にありがとう」


 ずっしりとしたプリントを靴箱の横に置き、彼女は俺に向かって微笑んだ。


「そうだ、見せたい物があるの」


 背中を押され、されるがまま彼女の部屋へと戻る。コップが乗ったトレーの側から何かをつまみ上げ、こちらに差し出してくる。


「見て、エメラルドグリーンのクリップ」

「無くしたって言ってたやつ? 良かったな、見つかったのか」

「うん!」


 彼女は大事そうにクリップを胸の前で抱え、嬉しさを体現するかのように体を揺らした。


「……あのさ」


 声色が違うことに気がついたのか、彼女の動きが止まった。視線だけをこちらに向け、漆黒の瞳がその先を促している。


「俺にやらせたかったのって、本当に部屋の掃除?」


 少女は薄ピンクの唇を弧に描いたまま、時が止まったかのように微動だにしない。

 一度は溶けた疑心が再び形を取り始める。


「その……さ、見る限り、お母さんは部屋の掃除をしろとか言うタイプじゃなさそうだなって、思って」


 空は真っ赤に燃え上がっていた。逆光を受けて、彼女の顔は影を宿した。

 沈黙が二人の間を穿った。腕時計の秒針が時を刻む音以外、全てが凍りついていた。体の芯が冷えていくような錯覚に陥る。

 漠然とした後悔がさざなみとなって音を立てる。

 先に動いたのは彼女だった。


「うん。そうだよ、本当は掃除を頼みたいわけじゃなかったの。騙してて、ごめん」


 頭を下げる彼女に慌てて声をかける。


「いや、いいんだ。ただ、変だなって思っただけで」


 静かに顔を上げた彼女の瞳は、影も相まって、やはりどこまでも黒い。


「結局、頼みたいことって?」


 彼女は笑顔を張り付けたまま、手元のクリップを玩んだ。ぐにっ、と形が歪んでいく。彼女の親指の腹に細い跡がつく。


「お兄ちゃんにね、私、もう三ヶ月も会ってなかったの」


 話の展開についていけず、首を捻ったが、彼女は気に留めず先を続ける。


「流石におかしいよね。いくらお兄ちゃんが引きこもってるからって、三ヶ月だよ? 同じ家に住んでて、三ヶ月。だから、お兄ちゃんの部屋を調べてみることにしたの」

「……鍵はどうしたんだ?」


 ぐにっ。

 クリップは既に見る影もない。いびつな針金の先端が夕焼けを反射して煌めく。


「映画で得た知識だけど、本当にできると思わなかった」


 まさか、と口を半開きにする。彼女は俺の反応に満足げに頷いた。


「冗談」

「……なんだよ」


 ため息を吐く。少し考えればその非現実性に気づけたはずだが、普段信じないような嘘を信じさせる力が彼女にはあった。


「正解はこっち」


 彼女は針金を持ったままコルクボードに近寄った。手際よくピンを外し、写真を取り外していく。その様子を訝しげに見つめていたが、鈴蘭の写真を外した瞬間、現れたそれに、今度こそ開いた口が塞がらなくなる。

 直径七センチほどの不格好な穴がコルクボードの中央に空いていた。穴の奥は闇に遮られていたが、向こう側にうっすらと家具のような物が見えた。

 コルクボードだけでなく、間違いなく壁を貫通していた。


「一人で開けたのか」

「うん。ペンとか、ハサミとか使って」


 狂気の沙汰だ。コルクボードを前にどれだけの時間を過ごしたのか、想像もしたくなかった。

 彼女は穴を指差した。


「もっとよく見てみて」


 状況を呑み込むのにやっとな俺は、言われるがまま、コルクボードに顔を近づけた。

 ぼんやりと薄暗い部屋が見えるが、やはり穴の大きさもあり、その全体像は掴めない。

 正面にあるのはベッドだろうか。皺を寄せたシーツの上に木材のようなものが重なっている。布団に半分ほど覆われ、それ以上は分からない。

 手前には小さな円型のローテーブルが設置されており、それに乗った灰皿とペットボトルの輪郭が確認できた。

 次第に目が慣れる。靄がかかっていた輪郭がしっかりと認識できるようになる。

 ペットボトルに、誰かが手を伸ばしていた。

 乾いた唇を舐め、手の主の姿を求めるように、視線を移していく。腕、肩。人。

 木材だと思っていたものは、人だった。見える腕が、三本。いや、二人いる。二人が山のように重なり、放置されている。

 一人と目が合った。女は舌をだらんと無気力に垂らし、黒目は別々の方向を向いていたが、俺にはそう感じられた。


「見えた?」


 首筋に息が吹きかかる。短い悲鳴をあげ、バランスを崩し、尻餅をついた。


「な、な……」


 声が出ない。逃げろ、と本能が警告を発する。腰が抜けてしまったのか、全身に力が入らない。

 父は既に故人であり、彼女と兄、そして母の三人家族。女は、母親だろう。そして、もう一人が兄。二人は明らかに死んでいた。殺したのは——。


「お兄ちゃん、死んでたの」


 少女は俺を見下ろし、一切の感情も感じられない真顔で告げた。


「私が覗いた時には、もう、死んでた。お腹から血を出して、ベッドに倒れてた。すぐに、母がやったんだって分かった」


 彼女は制服の袖をめくった。腕には痛々しい青あざが何箇所にもわたってついていた。

 彼女が母親から日常的な暴力を受けていたことは既に知っていた。普段の言いぶりからも十分に察することができた他、彼女の口からもそれとなく話は聞いていた。


「お母さんは、私が嫌いだった。でも、それ以上にお兄ちゃんが嫌いだった。何かきっかけがあって、殺しちゃったんだと思う」

「……きっかけ?」

「うん。でも、それは重要じゃない。私は、今まで兄に向いていた暴力が自分に向くことになるのが怖かった。……ううん、もうその時には殴られる回数も増えて、本当に、しんどかった」


 そして、いつか、自分も兄のように殺されてしまうのではないか、という不安が芽生えた。だから、母が寝ているところを包丁で刺した。


「殺される前に殺した。それが、今朝」


 コルクボードに突き刺さった針金が異様に目に入る。

 死体は、母から鍵を奪って、兄の部屋に放った。

 ゆっくりと息を吐き出すように、彼女はそう語った。

 衝撃の連続で、言葉が出ない。

 殺人犯。目の前に居るのは、殺人犯だ。警察? 彼女の前で電話をするのか? 駄目だ。彼女に「人を殺す」という選択肢がある以上、下手な真似はできない。じゃあ、どうする? そうだ、力では勝てるはずだ。彼女を押さえつけて、それから――


「手伝ってほしいの」


 思考がバラバラに砕け散る。今日、その台詞を聞くのは二回目だった。


「て、てつだう、って、俺が?」

「君しかいないの」


 デジャブだった。少女は黙り込み、俺の荒い息遣いだけが部屋に響いた。窓から覗く夕焼けは夜と混ざり合い、毒が染み出したかのような色をしていた。


「死体を隠さないといけない。一人じゃ、できない」


 鈴蘭を彷彿とさせるボブカットが、滅紫めっしに染まった空に浮かんでいた。


「捕まりたくない。こんな人生を送りたかったわけじゃない。もっと普通の家庭に生まれたかった。パパもママも居て、旅行とか行ったりして、いっぱい写真を撮って、おとなになって一緒にお酒を飲んで、あの頃はこうだったよね、とか語り合ってさ……」


 顔を抑え、彼女は嗚咽を漏らした。


「お願い……」


 魔法の言葉をか細く呟く。心臓が高鳴る。全身の血が沸騰し、足先から頭のてっぺんまで駆け回る。喉の奥が乾いてしょうがない。何度も唾を飲み込んでは、喉仏を揺らす。

 答えは決まっていた。断る。当たり前だ。普通の生活を送りたいのは俺も同じだった。警察に彼女を突き出して、全てを終わりにする。

 あとは、意思を言葉にするだけだ。


「ことわ――」

「洗い物」


 俺の声は、叫ぶように呟いた彼女に阻まれた。顔から両手を離し、あの、吸い込まれそうになる真っ黒な瞳で俺を見据えていた。


「ありがとね」


 真意が理解できず、一瞬、固まった。

 数秒も経たないうちに体中に電撃が走った。

 頑固な汚れがこびりついた食器を思い出す。皿に、鍋に、箸に、コップ。そして、包丁。確かに洗った。洗ってしまった。


「最初から……このつもりだったのか」


 震える声で尋ねる。

 母親を刺した包丁を俺に洗わせ、犯人に見立てるつもりだったのだ。そうじゃなくても、共犯。仮に犯行が露呈したとしても、俺を使って自分の罪を減刑することも可能だろう。


「ごめんね」


 少女の口の端が押し上がった。


「最初からだよ」



 足元に鈴蘭の写真が落ちている。清廉で、可愛らしくて、思わず触れて守ってやりたくなるほどか弱そうな、小ぶりな花。

 そして、猛毒を持った、花。

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