それは、円かなる瞳
紺碧の色した夜空にぽっかりと、お月様が浮かんでいる。遠くからでも分かる円なる輪郭の端には、銀色の粉が振り撒かれていた。
油絵具でべったり塗りたくったような紺青の中でも、濃淡というものがある。それらは時々、月が吐き出す吐息で白く滲んでいるように見えた。
美しい夜闇を眺めていると、ふっと思い返すものがある。ひっそりとした鮮やかな色彩の最中に、確かにそこに存在した夢物語みたいな獣を。
私は、病を患っていた。末期の緑内障だった。度々眼精疲労に見舞われる仕事に携わっていたせいで、いつもの疲れ目が一層悪化しているのだとたかを括ってしまった。だから、早期発見となることもなく、気が付けば世界のほとんどが黒に飲まれてしまっていた。
目が見えなくなる未来に、私はただ絶望した。幾度も怯えて枕を濡らした。頬を伝う熱い雫を拭っては、視界の隅に映り込む己の手のひらさえいつか見えなくなる日が来るのだと、自らを憂いた。
そのような折に、寝室の窓辺に獣が現れた。肌寒い夜風が白いカーテンをなびかせている最中に、それは突然現れた。
獣は、黒く塗り潰されつつある視界の中でも一際異様な雰囲気を纏っていた。途切れ途切れに見える世界全体に、蛾でよく見かけるような目玉模様が映り込んでいたのだ。穴の空いた満月みたいな、まるで梟がこちらをキッと凝視している時みたいな、そんな眼によく似た模様にきっと全身覆われているに違いなかった。
虫食いまみれの景色の隙間から覗いている瞳は、その全てがこちらを凝視している。なんておぞましいのだろう、と身震いすらした。けれど獣は、怪異じみた風貌に見合わぬ様子で、どうも私を憐れんでいるように思えた。
「この星すらも、見えずにいるのか」
言うと獣は、どこかをそうっと指さした。方向から推測するに夜空だったのだと思う。私は少しばかり恐れを抱きながらも、静かに二度ほど頷いて僅かに息を飲んだ。
「それは、いけないな。実に喜ばしくないことだ」
言いながら、獣は窓枠を軽く蹴って──正しくそうだったのかは分からないけれど、少なくとも私はそう捉えることが出来た──目の前まで一気に距離を詰めてしまうと、そのまま、どうにも緊張した様子で私の頬を両手で包み込む。
「本来これは、業務外の仕事ではあるのだが……」
獣は微かな声で言い淀むように呟くと、眉頭と眉頭の境目、とどのつまりは眉間にしっとりとした口付けを私に贈ってみせた。抵抗する間もないままに、細かい毛で覆われた、小さな口唇が額の中央に触れる。ほんの一時の出来事だけれど、それでも私にはどこかくすぐったい心地すらした。
「星は万物に見上げられるものでなくてはならない。君が、それを望まずとも」
その言葉を最後に、獣は姿をすっかり眩ませてしまった。そこにはもう、何も無い。白日の夢を見ているようだった。あるいは、幻覚だったのかもしれない。そう思った。
素肌に当たる風は、秋にしてはきんと冷えきっていた。先程と変わらぬ様子で、カーテンの端っこが揺らめいている。踊る二枚のネグリジェの間には、獣の目玉模様に似た満月と、それを取り巻く白い光の粒があった。
刹那、私は目を見開く。それと同時に「あっ」と声が出た。そろ、と指先が目元まで伸びる。
紺碧の色した夜空にぽっかりと、お月様が浮かんでいる。美しい円状だ。色んな円がこの世の中にはあるけれど、月以上に魅了されるものはないと思う。
けれどもこうして夜の空を眺めていると、思い返すものがある。
殊更、こんなに月の綺麗な晩には思い出さずにはいられない。私からこの、ひっそりとして鮮明な世界を取り戻してくれた、あのぎょろぎょろとした目玉模様を全身に携えた、名も知らぬ獣の姿を。
ヨヲコム 糸式ナトリ @natori_itoshiki
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