道の辺の石
皮肉にもなりやしないB級以下の物語だ。
彼女に初めて会ったのは、何十年も前のことだ。当時の俺は星としての実績を積み丁度軌道に乗り始めた頃で、各地を転々と回っては人の願いを叶えることに楽しさを見出していた。
優しい春の陽射しの下、小洒落たカフェでコーヒーを啜る契約者を尻目に、俺は彼女と目が合った。真っ白なフェドラ帽と同色のワンピースを纏っている彼女の髪は金糸のように優雅に風になびいていて、何処ぞのご令嬢が映画の世界から抜け出してきたかのような、そんな錯覚にすら陥った。
彼女は俺と数秒間見つめ合った後に、口許をゆるりと上げて声もなく笑ってみせる。その所作の一つ一つが丁寧に見えたものだから、よほど育ちのいいレディーであることは間違いないのだろうな、という根拠の欠片もない確証すら抱いた。
その後彼女は雪のように白い──白色が好きなのだろうか──ヒールをコツコツと鳴らし、その場から遠ざかっていく。ワンピースの裾がひらひらと踊る後ろ姿を眺めながら、俺はただ綺麗だと思った。
彼女に再会したのは、それから幾月か時が流れてからの話だ。彼女はすっかり大人びており、赤く熟れた苺のように艶やかな口紅がよく似合う女性になっていた。この時の俺は契約者の願いを叶え終わった後で、ミーティアからの迎えを待っている最中だった。
白いレースのような手袋──やはり白を好ましく思うらしい──に包まれた指先でティーカップの持ち手をつまんでいる彼女は、ひと口ふた口とブラックティーを啜った後に、何を思ったのか立ち上がってみせる。大袈裟に動いたものだから、近辺のカフェ・テーブルまでがたんと音を立てた始末だった。
彼女は何やら店員に文句を言っている様子で、きめ細やかなまつ毛と、それを纏っているまなじりをきりきりと吊り上げている。生憎俺は近場にいた訳ではなく、あくまで多少の距離を取っていたので会話の内容までもを聞き取ることは不可能だった。けれどどうやら彼女の癇癪は理由あってのものだったらしく、数分後に慌てた様子でウェイターが新たなティーカップを手に駆けて来る。ティーカップを受け取った彼女は中に満たされた液体の匂いを嗅ぎ、それから一度だけ口にすると表情を綻ばせてみせた。どうやら納得したらしかった。
このタイミングで、眼前に黒い梯子が降りてくる。ミーティアが上空に待機していた。俺は多少の名残惜しさを感じながらも、空に帰る他なかった。
三度目の邂逅は、休暇としてこの国に降りた際の出来事だった。うんと女性として成熟したらしい彼女は、女としての色香をその身に纏っていた。初めて会った時のことを思い返しながら、随分とまあ色気づいたものだなと、赤の他人でありながら親のような感情を抱かずにはいられなかった。
そんな彼女は男性に言い寄られているようで、不快感をあらわにした顔で男を見上げている様子だった。唇の端をきっぱり結んでおり、拒絶のスタンスを保っている。
男性は怪しげではなく、いたって健康的な英国紳士に見えた。女性にアプローチするために選んだのであろうスーツは、淡い灰色をしておりパキッとしてシワの一つも見受けられない。緊張しているであろう男性はしどろもどろになりながらも女性に思いの丈を伝えようと四苦八苦しているが、当の彼女と言えば不機嫌そうに眉を寄せてばかりいる。
お茶だけでも、と男性が言ったのだろうか。その言葉と同時に男が腕を伸ばした瞬間、彼女は即座にその手を払い除け、それだけには留まらず一歩男性へと距離を詰めると盛大な平手打ちを喰らわせてみせた。
俺は唖然とした。恐らくこの場にいる誰しもが思考停止したと思う。
ぱぁん、と乾いた音の後に、眉を八の字にした男性は踵を返して走り去って行ってしまった。そんな男性を見送る彼女の眼差しは、達成感に溢れているような、非常に晴れやかなものを感じさせた。
とんだじゃじゃ馬だなと俺は肩を竦めると、ザワつく群衆を抜けてこの地を後にする。男性が気の毒だと、若干の哀れみを抱きながら。
それから少なくとも十年以上は、母国に行くことがかなわなかった。俺の能力は一般的に汎用性が高いため、多種多様な場で願われる場合が多かったからだ。多少心理学を極めたらどうにかなるような問題だって多いが、俺の能力以前に、俺の星としての性質に惹かれるものも存外少なくはないらしく、おありがたいことに多忙の身でいる期間があまりにも長かった。
だから、数十年ぶりに彼女を一目見たとき、一瞬ばかり息を忘れてしまったことを今でも覚えている。
彼女はすっかり年老いていた。太陽に照らされて煌めいていたブロンドの髪も、すっかり白色に染まりきっている。ふっくらとした陶器のような肌も、シワが幾層にも刻まれていて以前の面影は欠片もない。滑らかな曲線を描いていた手のひらだって、骨ばって枯れ枝のようだ。
そんな彼女は、屋内でロッキング・チェアに揺られながら、静かに読書を楽しんでいる様子だった。白が相変わらず好きらしく、落ち着いたデザインのワンピースを着た彼女は、一定の速度でゆらゆらと揺れ続けている。
声をかけようか、数刻ばかり迷った。相手はきっと、俺の事など記憶にないだろう。ませた少女の頃に多少目が合っただけの獣だ、日本ならともかくここじゃあ俺達は神でもなんでもないと認識されているから、特別感だって薄い。よくある妖精か、最悪の場合、悪魔の類いと誤認されてしまうかもしれない。
それでも、どうしても気になってしまったから。揺れている彼女が見える窓を、コンコンとノックしてしまった。
「あら、どなたかしら」
彼女は音に反応すると読んでいた本に栞を挟んで閉じ、ロッキング・チェアから降りる。それからたおやかな態度でこちらへと歩み寄った。若い頃と異なり、精神的に穏やかになったように見える。
「何を読んでいるんだ、お嬢さん」
俺の姿を見た時、彼女はやや驚いた様子で目を丸くした。
「あら、あら、まあ、まあ。可愛らしい獣さんね、でも礼儀がなっていないわ。まずはお互い、自己紹介から入りましょう?」
言いながら彼女は、窓をからりと開けて俺を招き入れた。窓から入室するだなんて、英国紳士の風上にも置けないなと俺は自嘲しつつもその好意に甘えることにする。
「失礼、おっしゃる通りだな。俺はりゅうこつ座ベータ星──ミアプラキドゥスと呼ばれることの多い星だ。ミアと呼んでいただければ光栄に存じます、レディ?」
口上を述べながら手を差し出すと、彼女は頬を綻ばせて小さく肩を揺らした。己よりも小さなケダモノにませた態度を取られたのがよほど面白いらしい。
「ご丁寧にありがとう、ミスター・ミア。私はシャーロット・ラングフォード。ロッティで構わないわ、小さな紳士さん」
多少小馬鹿にされている雰囲気は感じたものの、彼女は随分と実直に俺の手を握り返してくれた。年老いてしまっている女の手は、肉薄で皮膚が柔らかく、中で身を縮めている骨の感触までもが非常に鮮明に伝わってくる。
ロッティは俺の毛質か、それとも肉球か、あるいはそのどちらもの触り心地を好意的に感じたのか二度三度と握り直していた。力を込められる度に彼女の指の繊細さを肌で感じてしまい、少しだけ切なく思う。
「さっき貴方は自分のことを星と言っていたけれど……ひょっとして妖精さん? それとも、私にイタズラをしに来た悪い魔物なのかしら?」
「さあ、どうだろう。ミズ・ロッティ、貴方次第でそのどちらにもなり得るかもしれないぜ」
キザっぽくウインクの一つでもしてやると、彼女は「まあ」と声を上げたのちにくつくつと笑う。
「ウリスクの可能性があるってこと? ならとても助かるわ。私は一人でここに暮らしているから、人手はいくらでも欲しいもの」
どうやら友好的な妖精と捉えてくれたらしい。俺は内心胸を撫で下ろした。
生前俺が愛した祖国ことイギリス──グレートブリテン及び北アイルランド連合王国──は妖精文化が根強い。それらは身近にいるものとして考えられているし、むしろ信じない奴の方が少ない。かくいう俺も妖精はいるものだと今でも信じているし、星に転生した際はクー・シーか何かにでも成ったのかと思った。……蓋を開けてみたら、スカンクの仲間であるゾリラが素体だった訳だが。大体ゾリラって何だ、俺はそんな動物聞いたこともないぞ。
「何か手伝ってほしい事があるのか? 女性に苦労をさせるわけにはいかない、俺になんでも命じてくれ」
俺の言葉を聞いた彼女は、本を両手に持ったまま数秒唇を結び、何か考えている様子だった。しかし神妙な面持ちはふっと失せ、すぐさま表情をころりと変えると困り顔になってしまう。
「ほら、私ももう歳でしょう? 水を汲みに行くのも一苦労なのよ。すぐ傍に井戸があるから、汲んできてもらえると助かるわ」
桶はそこに置いてあるから、と女が指さす先には、木製で出来た水桶が鎮座している。
二つ返事で俺は水桶を手に取ると、玄関を抜けて表に出た。周囲を見渡すと、なるほど近場に大きな井戸がどんと構えている。
「今時井戸水とは洒落てるな」
独り言を吐きながらも一杯分の水を掬い上げた俺は、足早に玄関先へと戻る。
「おい、汲んで来たぜ。次はなんだ? 洗濯でもするのか?」
「あらいやだ。今時洗濯板で洗濯なんてしないわよ。……そうね、野菜を洗ってもらおうかしら? 冷蔵庫にジャガイモとニンジン、セロリと玉ねぎがあったと思うの」
扉越しの問いにそう答えたロッティは、くつろいだ様子でロッキング・チェアに揺られている。いつの間にか座り直したらしい。
「俺に料理でもさせる気か? まあ良いが……」
足裏についた土を軽くはたいてから中に入ると、ほどなくして冷蔵庫が視界に入った。一番下の引き出しを開けると、そこには何種かの野菜が居心地悪そうに身を寄せあっている。
俺はロッティに言われた通りの野菜を抱え込むと、玄関先へと踵を返した。水でたっぷり満たされた桶の中にそれらを放り込むと、指を使って汚れを落としていく。……とはいっても、店先で買ったものだろうか、あまり土や泥がついているようには見えない。
「ミズ・ロッティ! セロリの筋は取るのか?」
野菜を洗いながら声を荒らげると、次いでロッティから返事が飛んでくる。
「もちろん!」
料理なんていつぶりだろうかと独りごちながら、俺はやれやれと肩を竦めた。
結論から言うと、その後俺がやれるようなことはほとんど無かった。
彼女はセロリを細かく刻んでしまうと、そのままの流れでニンジンとジャガイモをそれぞれ四つ切りにした。ひとしきり野菜の処理が終わった後は、冷蔵庫から取り出したラム肉を慣れた手つきで一口大に切っていた。
気を使って「俺が切ろうか」と提案したものの、「毛が混入すると嫌」という至極真っ当な理由で却下されてしまった。
ロッティは料理が得意なようで、鼻歌交じりに調理していた。鍋を熱するとオリーブオイルを垂らしてラム肉を加え、火が通るまでの間にざく切りにした玉ねぎと一緒に、先程下処理したセロリやニンジンも炒める。肉の焼ける匂いと、野菜の甘い香りがふわりと漂う。星は生憎食事をせずとも死にはしないものの、食欲そのものは無くなっていないものだから、思わず口内に溜まり出していた唾液を音を立てて飲み込んでしまった。
十二分に火が通った後は適量のミネラルウォーター、固形のブイヨン、ジャガイモ、それからあらかじめ洗っていたらしい押し麦を中に放り込む。随分と小洒落たスープだ。俺が生きていた時代は、悪名高いスターゲイジパイやフィッシュアンドチップスばかり食べていたということもあって、こういった手の込んだ料理はどうしてもそそるものがある。
彼女は材料をしばらく煮た後、冷蔵庫から取り出したいんげん豆のペーストを鍋に注いだ。中のものがくつくつと煮立っている。白い湯気が纏う香りは、俺の空腹を刺激しながらも無責任に天井へと昇っていくばかりだ。
俺が呆けている間に、ロッティは塩と胡椒で味付けをしていた。時折スープを一口掬って、味の微調整を行っているようだった。
「……よし、完成よ! 食器棚にスープ皿があるから、持ってきてくれる?」
「あ、ああ。了解した」
声をかけられてハッとした。そのまま何処かぼうっとした感覚のまま、木製で拵えられている食器棚へと向かう。両開きの扉を開くと、すぐ目の前にお目当てのものが壇上に上がるのを待ちわびていた。
「まあ、せっかく作ったのに私の料理を食べないつもり?」
一枚だけ持って彼女の前へ行くと、そんな風に言うものだから。俺は軽く謝罪して、そして何よりも女性に恥をかかせたことを悔いながら自身の分のスープ皿も手渡した。
「ミスター・ミア、これ、食べたことある?」
問うロッティを前に、俺は緩く首を左右に振る。
「あら、こっちでは親しまれているのだけれど」
「浅慮で申し訳ない。なんていう名前なんだ? このスープは」
「スコッチブロスよ。それよりも、このままじゃせっかくの料理が冷めてしまうわね。さあ、食べましょう!」
スコッチブロス、と胸中で呟きながら俺は木製のスプーンを手に取った。
「本当はカブも入れた方が良いんだけど、買うのを忘れてしまったのよね。……ん、さすが私! 美味しい!」
早速自作のスープをすすった彼女は、ぱあっと表情を綻ばせると意気揚々と自賛している。中身は存外じゃじゃ馬娘のままなのかもしれないな、だなんて失礼なことを考えつつ、俺もロッティに倣ってスープを一掬い口に流し込んだ。
「……美味い」
「ふふん、でしょう? 長年の独り身で身につけた技術、侮ってもらっては困るというものよ」
野菜の旨味がスープ全体に染み渡っている。ブイヨンベースでありながら、その味はどこか優しい。控えめに主張している麦はプチプチとした食感があって、歯触りの良さを感じさせた。そしてほろほろに煮込まれたラム肉はスプーンの先でも簡単にほぐせてしまうほどに柔らかく、口の中で溶けてしまうほどだ。素朴な野菜の甘さと、肉のまろやかな旨み。生前こんな美味いスープは飲んだことがなかった。
「小さな紳士さん、たんと召し上がれ。おかわりもありますから」
いたずらっぽく微笑んだ彼女は、年老いているのにやはり綺麗だった。
この日から俺はロッティと行動を共にするようになった。彼女は歳をとっても快活な女人で、老人であることを忘れてしまうような心地にすらなった。
ロッキング・チェアに揺られながら本を読んでいる際の横顔は、お年を召したレディーといったところではあるが、ふとした時に見せる純朴な笑顔は、大口を開けて大胆に笑うといったもので。遠くから眺めているだけでは人となりは知れないものだなと、再度認識を改めることもあった。
彼女は自らの老い先が短いことを理解していたのか、度々屋内の荷物を整理していた。この時に俺の出番がやってくる。「腰が痛くて運べずにいたから助かるわ」と目を細めて笑う彼女を前に、俺は人はこんなにも脆い存在だっただろうかと、ややセンチメンタルな気持ちになってしまった。
「なあ、ミズ・ロッティ。失礼を承知で聞くが、配偶者はいないのか?」
ある時、ずっと疑問に感じていたことを口にしたことがあった。不躾にも程がある自覚はある。けれど、初めて彼女が料理を振る舞ってくれた際に「長年の独り身」と言っていたものだから、浮いた話の一つもありやしなかったのかなんて、そんな野次馬精神が湧いてしまったのだ。
俺のろくでもない質問に、彼女は顔色一つ変えやしなかった。
「ええ。……興味がないわけではなかったのよ? でも、なんていうか、自分より意思の弱い人とはお付き合いしたくないじゃない?」
「あー……なるほど?」
あんた産まれてくる国を間違えたんじゃないか、と言いかけた言葉をすんでのところで飲み込む。
俺達英国紳士は、紳士というだけあって好意を寄せる女性にそんなにガツガツアタックなんてしない。歯の浮くような言葉だって吐かない。それどころか嫌味が呼吸するみたいに出てくる始末だ。全員が全員そうではないが、国民性というやつがある。
フランスかイタリア、それかスペインにでも産まれていりゃあ気の合う奴と巡り会えて、子宝にだって恵まれていそうなものを。神って奴はつくづく趣味がいい。おかげで彼女はこんなに明朗に育ってしまった。明朗すぎるくらいだ。
「これでもモテてはいたのだけれど、軟弱な人ばかりでね」
ふふ、と懐かしみながら語っているものの、当時の苛烈な振る舞いを見てきた俺としては苦笑しか返せない。
いやいや、あんなに勇気を振り絞ってお茶に誘っていた男すら軟弱なのなら、英国紳士は全員お断りになりやしないか?
「だからスクール時代、ガールズトークに入れないのが少し辛かった」
ふむ、と相槌を打つ。あの様子では付き合うどころではないだろうしな、と心中で零しつつ。
「両想いになるおまじないとか、色々流行っていたのだけれどもね? する相手がいなかったのよねぇ」
「レディーはそういうの好きだよな。どういうのがあったんだ?」
生前独身のまま死んだ俺としても、こういった色恋の話は興味深い事象だ。思わず彼女を見つめる視線に熱がこもってしまう。
「そうねえ……ジャガイモに好きな人の名前を書いて埋めるでしょう? そこから芽が出たら両想いとか、スプーンの形をしたアクセサリーを身につけていたら恋愛運が上がるとか」
「ジャガイモで命運が決まっていいものなのか?」
「でも実際流行っていたわよ」
あっけらかんとした様子でそう返した彼女は、それから小さく「あっ」と呟く。
「あと、ちょっと過激なのもあったかしら」
「おいおい、生贄信仰じゃないだろうな」
茶化した態度を取ると、ロッティは小首を傾げる。
「そんな恐ろしいものじゃないわ。手作りのお菓子に自分の陰毛や血を入れるとか」
「ちょっと待ってくれ。『手作りのお菓子に自分の陰毛や血を入れる』って聞こえたぜ?」
「ええ」
「冗談だろ?」
「いいえ」
自身の両耳がぺたり、と横に垂れるのが分かった。愛らしいお嬢さん方、君達はそんな恐ろしいことをしていたのか。俺は途端に女心が理解出来なくなった。難解だ。あんまりにも複雑怪奇な迷宮に無装備で突っ込まれたような気持ちだ。
「ごく一部の子だけだけれど」
俺の様子を見てか、ロッティはフォローを入れる。そういう問題ではない。
「不衛生だろう……」
「それは私も思う。けれど、彼女達の気持ちもわかるのよ」
「分かるなよ……」
「自分の一部が好きな人に取り込まれるって、なんだかとてもロマンチックじゃない?」
「……そうだな、大層ロマンチックだ。まるでB級映画だぜ」
皮肉混じりに返すと、彼女はそれ以上話を広げようとはしなかった。交際に縁のなかった彼女のことだから、異常に見えるスクールメイトの行動すら憧れの対象として映ったのかもしれない。到底正気とは思えないが。
俺はどうにも気まずい思いをしながら、小さく咳払いをした。無駄に長ったらしい尾は、落ち着きなく上下に揺れている。
ロッティは手に持っていた書物を開くと、視線を下に落とした。ロッキング・チェアが揺れている。規則正しく、規律的に。
彼女と暮らしていくうちに分かったことが一つある。それは、彼女はもう、天涯孤独の身であるということだった。もしこの女が死んでしまっても、誰もそれに気付くことが出来ない。
「まあでも、連絡が途絶えるということなのだから、友人の誰かは気付いてくれるわよ」
当の本人は朗らかに笑っていた。
仮に気付いてくれたとして、あんたの遺灰を一体誰が埋めてくれると言うのだろう。そう思うと、どうにも気分が悪くて仕方なかった。もし聞いたら「友人の誰か」と返してくることは明白だった。
一人で死ぬのがどれほど寒く冷たいものなのかを、俺は覚えている。だからこそやるせない気持ちになったのかもしれない。けれど俺に出来ることと言えは、彼女を支えてやることぐらいだった。
──なあ、もし俺があんたの願いを何でも一つだけ叶えてやれるって言ったら、どうする?
数日前に、幾分か真剣な声色で問いかけたのを思い出す。
──別にどうもしないわよ。私はもう十分生きたのだもの。
今だって貴方に助けられてばかりいるわ、と返された俺は、ただ一言「そうか」としか言葉を吐くことがかなわなかった。
願ってくれなきゃ、叶えられるものも叶えられない。これじゃあせっかくの星も、道の辺に転がった石と同じだ。
その日は突然やってきた。ロッティは、ベッドの中でひっそりと息を引き取っていた。早起きなはずの彼女がなかなか起きてこないものだから、マナーに欠けると思いながらも彼女の自室へと慌てて足を運び、ドアノブを回して中に押し入ってようやく事態が発覚した。
安らかな寝顔のようだった。絹糸のようにまろやかなまつ毛が、くったりとこうべを垂れている。白い肌はより一層血の気が引いていて、まるで本物の陶器みたいで。
「ミズ・ロッティ、起きろ」
指先で触れた彼女の頬は、冷たくて、ただ固い。
「おい、ミズ・シャーロット。朝だぜ、早起きが得意なんじゃなかったのか」
語りかけども、返事が来ることなどあるはずもなかった。
「起きてくれないか、洗濯物だって溜まっていただろう。読みかけの小説だってあんたが起きるのを待っているんだぜ。続きは明日読もうって、昨日寝る前に言っていたじゃないか」
死人に口なし。まさしくその言葉がぴったりだ。ああ全く、日本の奴らは言葉選びが上手くて参る。
「シャーロット」
昨日交わした「おやすみ」が、永遠になるだなんて。そんなのあんまりだろう。
その後の足取りは、あまり覚えていない。ただ何となくこのままにしておく訳にもいかなかったから、彼女と縁のある奴のふりをして、片っ端から関係者に電話をかけたことだけは記憶している。俺の努力が実ったのか、彼女の葬儀は粛々と執り行われた。血縁関係は一人もいやしなかった。親しい間柄の友人らしき老婆が数人、涙を流して彼女の死を嘆いていた。
棺に閉じ込められた彼女は、相も変わらず美しいままだった。死化粧でもしてもらったのだろうか、心なしか頬がふっくらしているように見えた。
やがて彼女は業火の中に取り残され、全てが燃えて遺灰のみに変質してしまう。随分と、小さくなってしまった。火葬場から上がる煙を眺めていた俺は、あれもまた彼女の一部なのだろうかと、ふやけた思考の中考えていた。
遺灰の引き取り手がいない場合、多くは火葬関係者の手に渡る。長年の友人でも骨壷を受け取ることに忌避感があったのだろう、誰も名乗りを挙げはしなかった。順当に行けば、ひと月後に関係者の手によって彼女だった遺灰は土の中に眠ることになる。
そう思うと、いても立ってもいられなかった。
紅茶の味をした粘土を飲んでいる気分だ。ひたすらに粘性が強くって、喉に引っかかって気持ちが悪い。せっかく良い茶葉を使ってやったというのに、これじゃあ台無しにも程がある。
それでも無理にあおって飲み干すと、数秒のうちに吐き気が襲った。星になった今も、食性は人間と違わないのかとこの時初めて気が付いた。
空になったティーカップに、まだ温かいブラックティーを注ぐ。いい香りだ。やはり紅茶はロイヤルブレンドに限る。口直しにスコーンの一つでも用意するべきだったと思いながらも、俺は傍らに置かれたそれに再び手を伸ばした。
白い陶器で出来た器。その中には、灰がある。シャーロットの。厳密には、シャーロットだったものの。
俺は遺灰を砂糖の代わりに紅茶の中へ一掬い入れた。
「……これなら、味もそう変わりない」
一口テイスティングしたのちに、二杯目をさらさらと流し込む。
「うん、まあ、そうだな。美味くはないな」
嚥下してから三杯目の彼女を注いだところで、ティースプーンを使って中身を前後に動かして混ぜる。最初は入れすぎたせいでイタリア人の飲むコーヒーみたいにドロドロになってしまったが、これなら苦労せずに飲み切れそうだと思った。
底に溜まっている彼女は、最早当時の面影の欠片もない。
「俺があんたの想い人だったら、少しはマシな結末になったのにな」
自嘲気味に飲み下しても、ざらついた無機質の味しかしなかった。シャーロットは、確かに血肉の通う人であったはずなのに。
「なんてロマンチックな結末だろうよ」
皮肉にもなりやしないB級以下の物語だ。願いを叶えることもなく、叶えられることもないまま突拍子もなく死にやがって。些細なことでもいいから、願ってくれりゃあ良かったのに。
あんたのためなら、俺はなんだってしてやるつもりだったのに。
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