LOCK
息をすることすら憂鬱になったのは、はたしていつからだろうか。
鬱屈とした感情が幾重もの鉛みたいに、全身にのしかかり続けている。短くて、けれど長い一日の終わりに訪れる色のない安寧と共にまぶたを閉じる度、明日が来なければと願わなかったことだって、無いわけじゃない。恵まれていない訳でもない。
いいや、きっと自分は他の人と比べると、ずっと機会に恵まれてきたのだと自覚している。適度な友人がいて、熱中の出来る趣味だってあるし、その趣味を共有する仲間だってネットワーク上にも存在している。何よりも、生涯を共に歩むことを誓い合った愛する人だって、すぐ近く、触れ合える距離にいてくれている。息苦しい毎日は終わりを告げ、親からの呪縛から解き放たれ、新天地で改めて幸福をなぞっていくのだと、心の片隅にある不安と手を繋ぎながらも決意だってしたはずで。
なのに、ああ、どうしてかなあ。微睡む意識を強引に引きずり出すような、それでいてたおやかな日が昇る度に思う。あのまま目覚めなければ、きっと楽でいられたのにと。そう思うこと自体が傲慢なことを知りきっているのに、心ばかりは融通をきいてくれない。
毎日、似たようなルーティーンワークを繰り返している。代わり映えのしない日々だ。このままではいけないと感じる気持ちだって、張り裂けそうなくらいにはある。周囲と比べたってどうにもならないことくらい、誰に言われなくたって理解している。けれど焦りばかりが募るのだ。このままではいけない、このままではいけないと自罰的な感情が大きなとぐろをまいてチロチロと舌を出し、今にもこちらを呑み込もうとして止まないのだ。
流れに身を任せてしまえたら、どれほど良かっただろう。愛する人がいて、愛されていて、けれど些細なきっかけで虚しくなったりなんかして、繋がりは確かにあるはずなのにどうしようもなく寂しくなって。人に囲まれた中膨れ上がる孤独が苦しくて、そう思う自分すら許せなくなってこの世界に幕を下ろしたくなるのに、おしまいの四文字を書き切る勇気すら出せない。そんな自分が、たまらなく嫌いで嫌いで仕方がない。
決められた食材を買いに出るだけの行為すら、高い壁に感じてしまえていた。今日もまた、こうして外に出るまでに時間を無為に浪費してしまった、なんて自己嫌悪が募る。無意識下に漏れ出たため息だって、もう何度目か知れなかった。
「失礼、お嬢さん」
どこか呆然とした感覚の中、背後から声を掛けられる。しっとりとしていて、非常に穏やかな低音だった。外の世界は今の自分にはあまりにも眩しすぎるから早々に事を終わらせて帰りたいのに、一体何用だと言うのだろう。疑問を抱きつつも怪訝な様子で振り返ると、そこには誰もいない。
「もう少し目線を下げて頂けるかな? ごめんね、俺たちは極力有機物よりも小さく在るよう心がけているから、びっくりしちゃったよね」
言われるがままに見下げると、そこにはすみれ色の軍帽を被り同色のコートを羽織った、松葉色の髪を靡かせる獣の姿があった。
はた、と思考が止まる。今日の夕飯に使用する食材が詰まった袋を握る手に、思わず力が入る。
灰色の体毛を纏っている眼前の生物は、切れ長のまつ毛をふっと伏せて緩やかに微笑んでいた。黒い虹彩に浮かぶ滑らかな翡翠色の瞳には、絵に描いたような鍵の形をした瞳孔が横を向いている。あまりにも現実離れしている獣の風貌を前にして、息が詰まるのを感じていた。
「鍵を落としてしまわれたんじゃないかな。恐らく、貴方のものだと思うのだけれど」
白い手袋越しに差し出された先には、確かに自宅の鍵がちょこんと鎮座していて。よりにもよって鍵を無くしただなんてとんでもないことをやらかしてしまっていた、と再三の自己嫌悪に襲われる自分を前に、獣はどこかばつが悪そうな顔をしていた。
「ええと、落とし物を届けに声を掛けたのは事実なのだけれどね。それ以上に貴方が、あんまり暗い顔をしているものだから。……お節介をかけたくなってしまった、なんて言ったら困ってしまうかな?」
頭の隅っこで忙しなく、星の獣についての情報が入り乱れていた。
恐らく自分は彼を前に何らかの返答をしていたのだと思う。でなければ会話が進むことはなかったはずだ。事実が全てを物語ってくれている。だというのに、どのような言葉を口にしたのか、そもそも会話の中身だとかを、重要な部分をどこかに落としてしまったみたいに思い出すことが叶わなかった。それ以上に、目の前で慈しむ様子で目を細めているこの獣の存在が、白昼夢のように感じられてしまって仕方なかった。いっそ、都合のいい夢であった方が幾分かマシだったのかもしれない。起きて気怠げにまぶたをこすりながら、「いるわけないか」と独りごちてしまえばそれで済んだのだから。
「初めまして、お嬢さん。俺はやぎ座ベータ星──ダビーと呼んでくれたなら、嬉しく思うよ」
差し出された鍵を受け取ろうとした手を、ダビーと名乗った獣は両手で包み込み、柔和に笑んでみせた。肌触りのいい布越しに伝わる温もりは、人と遜色なかった。
書籍でいくらか、彼らの話を読んだ経験があった。彼らは時に現実では到底実現しようもない奇跡を起こしてみせたり、時に人ならざるものの恐ろしさを露呈させたり、……そっと優しく寄り添ってくれたりなんかしていた。そんな星の獣が、まさか己の下に現れるだなんて、一体誰が予想できただろう。
伴侶にこのことを伝えるべきか、と少しばかり思案した。けれど、言えるほどの勇気が出なかった。星は──正確には星たちは──対象によって視認の有無を変えることが出来るらしく、今回の場合あえてこちらに姿を晒したのだと言う。
ダビー……呼び捨てするのはおこがましいのでダビーさんと心中でも呼ぶが、彼はとにかく纏う空気すら柔らかい星だった。タンポポの綿毛のようにやわこい灰色の体毛を震わせて声もなく笑う様を見た時は、上品だなとも思った。彼の行動の一つ一つが几帳面でいて丁寧で、思いやりに溢れているような印象を受けた。
彼は鍵を拾ってくれた日以降、度々こちらに姿を見せては「何か出来ることはないかな」と手を差し伸べてくれる。どうも自分の卑屈さが筒抜けになっているようで、ダビーさんは事ある毎に心配するような素振りを見せては太い眉を八の字にしていた。そう思わせている自分が情けないのだと、口にしてしまおうかと思った。当然、言えようはずもなかったけれど。
「俺は見た目こそ愛らしい……のかな? 愛らしいんだろうけれど、星だから望むことは叶えてあげたい質なんだ。貴方はどうも遠慮しているようだから、むしろ心苦しいんだよ」
言いながら彼は、松葉色をした毛先を二本の指で弄んでいる。視線はこちらをじっと射抜いていた。だけど何故だか、威圧的に感じるよりは妙な居心地の良さすら抱かせるような、不思議な感覚になってしまう。横に傾いている鍵の形をした瞳孔は、まるでヤギの目みたいだ。部屋の明かりに照らされて艶やかに光る翡翠の瞳をぼんやりとした心持ちの中見つめながら、一瞬ばかり思い悩む。不安事の一つでも、聞いてもらおうかなんて。直接誰かに相談事をすること自体が怖いから、実際行動に移せるわけも無いのに。
「ああでも、強制はしないよ。きっと貴方は、気を遣われることだって苦手でしょう? そういった状況を苦しく思う気持ちは、俺にも理解出来るなぁ」
ふふ、と小声で笑ったダビーさんは相も変わらずこちらを見つめたままだ。
「でも、俺がこうしてあなたの前に姿を見せたのには意味があるんだよ。きっかけこそただの落とし物だったのかもしれないけれど、些細な理由だって何度も繰り返していたら意味が込められていくものだから」
翡翠が楕円形に歪んだ。その時の、彼の大人びた表情はただの獣とは到底思えなかった。目の前にいるのは、大きめのぬいぐるみみたいに、全身がふわふわしていて、位の高そうな軍人の格好をしたマスコットキャラクターのはずなのに。なんだか彼は、例えるならバーで度数の高いお酒を片手にカウンター席で静かな時間を味わっているような、色香のある年上の男性に思えてしまって。
気まずさから反射的に目を背けると、心地いい低音の笑声が耳に届く。
「ごめんね、見つめすぎたね。不快に思っちゃったかな」
いやそんな、と口早に返すと彼は「なら良かった」と呟き、再び小さく笑った。
今日は旦那の帰りが遅くなってしまう日だった。心の拠り所として確かに存在している彼に、きっと依存している部分がある。でなければ、こうも気持ちが沈み込んでいることの説明がつかない。
伴侶の存在が欠落しただけで、もう全てがどうでも良く思えてしまう。昼食だって食べずに日が暮れてしまった。いい加減何か食べなきゃなあ、と思い始めた矢先、スマートフォンの呼び出し音が静まり返っている部屋に鳴り響く。
拙い指先で拾い上げると、そこには「母親」と表示されていた。その情報だけで、今日はとびきり最悪な日だなと、涙が滲みそうになった。出たくなんてない。出なければいい。頭では理解している。でも、そう出来るような選択肢なんてあってないようなものだった。
まだ閉めていないカーテンの奥からは、星がいくつか点滅しているのが確認できた。それを眺めながら、スマートフォン越しに放たれる母親の言葉にただ相槌を打つ。
この人はまさか、こちらが気を病んでいるだなんて知りもしないんじゃないだろうか? 一度感情のままにがなり続けてやろうか、なんて実行出来そうにもない妄想を脳裏で繰り広げてみる。
(……いや、そんなことしても意味ないな)
自嘲気味に口角が上がった。
育ててもらった恩義という名の鎖が、スマートフォンと手をぎちぎち締め上げていた。早く終わってくれと祈ったのは、今回が初めてではない。
現実逃避のために、ベランダへと身を乗り出してみた。月が登り始めている。今夜はどうやら満月らしかった。それを取り巻く白い斑点達は、各々がホタルのように不規則に点滅を繰り返している。綺麗だなあ、なんて呆けている間にも、電話越しの雑音は勢いを増していた。
「少し借りるね」
刹那、耳に当てていたスマートフォンが何者かに抜き取られる。声音で誰かはすぐに分かったが、それ以上に彼の行動の真理が理解できなくて、驚いて声が出なかった。
「『ごめんねお母さん、急に友達から連絡があったから切るね。また今度話は聞くから』」
目の前に現れたダビーさんはこちらの声色をそっくりそのまま真似てそう言うと、通話終了ボタンを押してこちらにスマートフォンを差し出す。
「もしダメだったら申し訳ないけれど、無理して話しているように見えたから……なんて、あはは。またお節介だったね、余計なお世話だったかな」
この星の言う通り、「今度」が憂鬱になったのは確かだった。けれど、何故だろう。幾分か胸がすっとするような気持ちになるのは。
「あ、ち、ちょっと。やっぱりこういうことは勝手にしない方がよかったよね、ごめんね、女性を泣かせるなんて俺は嫌な男だね」
泣かないで、俺のせいだけど。と言いながら両手を伸ばしたダビーさんは、手袋越しに頬を伝う涙を、まるで産毛を撫でるような繊細な動きで拭ってみせた。微賎な布の一本一本の繊維の感触が、頬で感じられる度にくすぐったい気持ちになる。
「弱ったなぁ、どうしたら貴方の笑顔が見られるんだろう」
青白い不確かな輪郭の月明かりが照らす下で、彼は困ったように笑っていた。すみれ色のまつ毛が、灰色の顔に群青色の影を落としている。ダビーさんの背後に広がる夜景が輝きを強めていく中、私は──ただ漠然と、綺麗だと思った。
全ての星がそうなのかは分からないけれど、一つ分かったことがある。少なくともやぎ座ベータ星という星は、すこぶる人に優しい。私のような人間にすら気をかけてくれるくらいには、うんと優しい。
その優しさが、煩わしいなんて思う日もあった。我ながらあまりにもワガママで、厚かましくて、そんな自分がたまらなく嫌いになった。けれどダビーさんはそんな私にも「そういう日だってあるよね、大丈夫だよ。むしろごめんね」と謝り、その日は姿を消したりなんかしたりした。そしてそんな日は、私のように苦しんでいる人に無償の優しさを提供していたりなんか、するのだろうかなんて。当たり前に彼が義務として行っているであろう事象を想像しては、勝手に落ち込んでしまったりなんかした。星の獣は、そのどれもがそう在り続けているのに。
一人でいる時は、彼のことを思い出す時間が増えて行った。切れ長でどこか色気のある眼や、特徴的な瞳孔。右に癖がついている松葉色の髪は、少し固い毛質だった。コートのふちに纏めてある鍵束は、彼が身を翻すとかちゃかちゃと金属質な音を当てているのを思い出した。「貴方が楽しそうだと嬉しいな」と、ゲームをしている私を見ている時のあの、緩んだ目尻。彼には恐らく馴染みのないものだっただろうに、終始まろやかな相槌を打ってくれていた。
非現実的な存在が、ゆっくりと色を帯びて現実に成っていく。生活の一部に、組み込まれていく。土に滲みた水を飲む植物の根のように、満ち満ちていく。それを痛感する度に、どうしても思い出すことがあった。
──願いを叶えてくれた星には、二度と逢えることはない。
私の抱える願いがどうか悟られなければいいのにな、なんて、よこしまな気持ちが心のどこかにあった。
その日も旦那の帰りが遅かったのだと思う。仕事が順調なのは良いことだけれど、寂しいものは寂しい。どこか空虚な気持ちを抱えながらお風呂でも沸かそうかと思案していると、いつものように彼が現れた。
「こんばんは」
そう言って帽子を手に取ってお辞儀するダビーさんはいつになっても仕草が丁寧でこちらまでかしこまってしまう。けれどそんな姿が可愛く見えたりなんかして、思わず笑みが零れた。
「今日も貴方の伴侶は仕事が忙しいみたいだね」
辺りを見渡した後にそう言ったダビーさんは、こちらの身を案じる様子で歩み寄ってきた。きっと旦那がいなくて虚しく感じていることを、察してくれたのだろう。
肯定の意味を込めて頷くと、彼は「そうか」と呟くと右手の人差し指と親指を顎に添え、何やら考え込む素振りをし始めた。予定でもあったのだろうか、と小首を傾げると、数分か数十秒かの後に視線をこちらに向ける。
「俺が鍵屋としての仕事を任されてるって話は、以前したことがあったかな?」
うん、と再三頷くと彼は納得した様子で言葉を続けていく。
「金庫ってあるでしょう? 大切なもの、誰にも取られたくないものを保管するために貴方達有機物が生み出した、時代の産物のことなのだけれど」
人間を有機物と呼ぶ習性は何度聞いても慣れないなあ、なんてことを思いながら相槌を打つ。
「俺は鍵という概念の開閉が出来る他に、金庫という異空間を制御する力も持っているんだけどさ」
すり、といつの間にかダビーさんの両手が私の左手のひらを撫でさすっていた。驚いて喉の奥がひくっと痙攣する。帽子を被り直していた彼の表情は、鍔に邪魔されて伺えない。
「貴方を入れてもいいかな」
どういう意味かと問う前に、視界が急速にぐにゃりと曲がり出してまともに立っていられなくなった。ピントの合わないカメラのようにぼやけては見えてを繰り返している世界は、何をせずとも吐き気を誘発させる。
「俺、駄目なんだ。……自覚はあるんだよ? でもね、あんなに無垢な顔で一時でも世界を楽しめているはずの貴方が、こんなに苦しんでいる姿を見ているのは辛抱ならなくてさ」
ぐったりとした状態で上体をダビーさんに預ける形になっている。彼は重がる素振りもなく私を抱きとめると、ゆっくりとした動作で背中をさすっていた。まるで赤子でもあやしつけるかのように、随分と丁寧な手つきで。
「ううん、それも本心なんだけど。それ以上に俺は貴方を俺のものにしたくなってしまったんだ」
ごめんね、という、もう幾度も彼の口から聞いた謝罪を最後に音が断絶されたのが何となく分かった。彼で言う"音という名をした概念の鍵"を、閉めてしまったのだろう。
瞳孔は狭まっては広まってを繰り返しているようで、明暗すらも落ち着きがなくなっている世界は見ているのが辛くなってしまった。吐き気から逃げるために目を閉じる寸前、彼と視線が交わる。
ずっと横を向いていた鍵型の瞳孔は、はっきりと縦を向いていた。
「不器用で繊細で臆病な貴方にこれ以上傷がつかないように、俺が大切に保管し続けてあげるからね……」
がちゃん、と、聞こえるはずのない、鍵のかかる音が耳奥で響いた。
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