かみさまⅠ
ケネディは貧しい農家の一人息子だった。父は戦争に行ったきり、もう何年も帰って来ない。背の曲がった母はケネディと二人きりで、小さな土地に設けた小麦の畑を一生懸命に耕し種を蒔いていた。
けれどそれも数年前の話で、母は今ケネディの前で床に伏してしまっている。ぜいぜいと肩で息をしながら、土に塗れた息子の頬をそっと撫で「私は大丈夫よ」と微笑んでいる。
ケネディは朝も夜も根のつく限り遮二無二働いた。やせ細った硬い土は、耕すだけでも日が暮れる。安物の鍬では歯が立たない。
どんなに懸命に土をほぐして種を蒔いても、採れる小麦はほんのひと握りだった。土地そのものが良くないのだ。しかしケネディの家は決して裕福ではなかったため、その土地を耕すしかなかった。
小麦を売るだけでは、満足に生きていけない。そのためケネディは街に出稼ぎにも行った。手紙を配達したり、パンを捏ねたり、熱い鉄を力いっぱい打ったりなどした。それでも稼いだお金は、毎日の食事と母の薬代に消えていく。
やがてケネディはほとほと困り果ててしまった。豆だらけの手のひらで顔を覆い、日に日にやつれていく母を背に、明日を憂いた。
『はじめまして、おにいさん』
──その時だった。金色の、小麦色の髪を靡かせた神様が、彼の目の前に現れたのは。
その獣は、獣と呼ぶにはあまりにも輝かしい存在だった。金糸のような髪が、建付けの悪い扉から漏れる風に吹かれてゆっくりと揺れていた。雪のように白い体毛と、それに似合わない灰色の、ややくたびれて見えるシャツ。獣の背後から伸びているのは、薔薇のように棘がついた、黒い鎌状の尻尾。
背から伸びているのは、ミルク色にうっすら花粉をまぶしたような、鳥のようにふわふわとした翼だ。
ケネディは突然現れた獣に、目を奪われた。獣の、小麦色のまつ毛が動く。内側から姿を見せた両の眼は、琥珀のような、蜂蜜のような、……朝の光を浴びた、朝露のような。そんな輝きを放って、土と泥と炭で汚れたケネディの顔を映した。
ケネディは「あっ」と声を漏らした。それと同時にこうも思った。この獣はきっと神様だと。
『おにいさん、ひどくおつかれのようなのね』
獣はケネディに駆け寄ると、美しい瞳をふっと伏せてそう言った。ケネディは返事することを忘れたまま、ただその獣に魅入っている。
『あのね、おにいさん。ぼくはね、おにいさんみたいに、いっしょうけんめいながんばりやさんの、おねがいごとをきくためにここにきたの』
獣の喉からは、星空を映したような黒く、四方に尖った石らしきものが突き出している。獣の口は微塵も動いてはいない。それなのに、ケネディには獣が何を言っているのかがしっかりと分かっていた。
ケネディは僅かに息を飲んだ。目の前の生き物が、とんでもなく神々しいものに見えている。
──子供の頃、母が語って聞かせてくれたおとぎ話を思い出す。星を名乗る神の獣。人の前に戯れに現れては、願いを叶えるとされる、伝説の。
『おにいさん、いいこいいこ。……あのね、ぼくがおにいさんのところにこれたのはね、おにいさんがまいにちおいのりしてくれたからなのよ』
そう言うと、獣はくすくすと笑った。あどけのない笑顔は、まるで幼子のようで。ケネディは威厳に満ちつつもどこか子供らしい獣に、ようやく肩の力を抜けたのだ。
続けて獣は言う。
『ねえ、おにいさん。おにいさんのおねがいごと、かなえてあげたいな』
ケネディに向けてふにゃりと微笑んだ獣の、双眼。あまりにも美しい光の形をしていたから、ケネディは思わず見つめずにはいられなかった。
ケネディは乾燥して切れた唇を、そっと開ける。
「……母の薬を買うだけのお金が、欲しい」
願いを聞いた獣は、瞬きを一つ。
『そんなものでいいの?』
「ああ、それでいいんだ」
決まりきった顔をしているケネディを見て、獣はまた小さく笑った。
『うんうん、わかったよ。おにいさんのねがい、ぼくがかなえてあげるからね』
獣が用意してくれたらしい硬貨は、母の薬を買ってもお釣りが来る金額だった。そのためケネディは、母のために街で果物を数個買ってから帰宅した。ピカピカに磨きあげられた赤い林檎を見て、ふっと笑みが零れてしまう。
何故己の下に獣が現れたのか、その理由は分からなかった。しかし、今までの努力が無下にされた訳ではない気がして、それがたまらなく嬉しく感じたのだ。
ケネディは隙間だらけの扉を開けた。ギイギイと軋む音が鳴る。そうして扉の先の光景を見て、ケネディは手に持った果物を全て落としてしまった。
「……母さん?」
ホコリだらけのベッドから落ちて、地べたに転がる母の姿。ケネディは慌てて駆け寄った。母に触れる。まだ僅かに温かい。だが、息が止まってしまって──。
「母さん、……母さん! しっかりしてくれよ!」
ケネディは頭の中が真っ白になった。咄嗟に母の体を揺さぶる。
「母さん待って、っ待ってくれよ、俺を置いていかないでくれ!」
ぐったりとした母の様子に、ケネディはたまらず狼狽した。
その時、視界の隅で小麦色の毛先が揺れる。ケネディは顔を上げて振り返った。視界に映るのは、硬貨をくれた獣の姿。
白金に輝く瞳は、じっとケネディの姿を捉えている。
『おにいさん、ぼくはね、おにいさんがあんまりつつましいおねがいをするものだから、もうすこしだけおにいさんのねがいをかなえたいとおもっているの』
獣の言葉を聞いたケネディは、咄嗟にこう叫んだ。
「──た、頼む! 母を助けてくれ!」
獣の眼がゆるりと細む。
『うんうん、かなえてあげるからね』
そうして、母は息を吹き返した。それどころか、あれほど弱り果てていた事実がまるで夢だったかのように病状が回復し、今ではケネディと共に畑を耕すまでになっている。
母に獣のことを話すと、両方の目から涙を零して喜んだ。星の名前を持った神様が助けてくれたのだと、そう信じて両の手のひらを合わせ、夜の空をあおぎ拝んだ。
その獣の姿は、今やもう何処にも見当たらない。死にかけていた母を治したから、きっともう空にお帰りになったのだろうとケネディは思った。
母が回復した後も、問題は山積みだった。健康になった分、母の分の食料も必要になったのだ。だと言うのに、畑は一向に実らないばかりか、耕しても耕しても硬くて黒い土ばかり出る。
──隣の家のブルースはあんなに立派な小麦が出来ているのに。毎年見事な小麦を作り上げている。今年なんて、今までの中で一番の出来に見える。ケネディは内心羨ましく思いつつも、鍬を振るう手は止めなかった。
幾度も幾度も重い鍬を振るうものだから、ケネディの手はいつだって豆だらけでデコボコしている。豆はできる度に潰れるものだから、ケネディはいつも痛そうに手のひらを擦っていた。
『おにいさん、きょうもおりこうさまなのね』
そんなケネディの前に、ふわりと降り立つ金色の獣。白い体毛は風に合わせて揺れている。
『ねえねえ、ほかにもかなえたいことって、ないのかしら?』
ケネディはもう、獣が突然現れても驚かなくなっていた。疲れて霞む目を二度三度と細めると、ようやく獣の全貌を拝み見る。
それから少し考えたそぶりで痩せた土を眺めた後、おもむろにこう呟いたのだ。
「たくさん小麦の採れる畑にしてくれ」
獣はニコニコ笑ってこう言った。
『もちろん。おにいさんのねがい、たしかにかなえてあげる』
その年、村で一番小麦が実ったのはケネディだった。今まではほんのひと握りだったというのに、今年は両手に抱えきれやしないのだ。何束にも縛って、あの太陽の色の実を叩いて、粉にして。そうして街に売りに行くと、ケネディの家はあっという間に豊かになった。
小麦が、小麦粉が、こうまでお金に変わるとは。ケネディは母と手を取りあって喜んだ後、今までよりもほんの少しだけ贅沢をして、ホコリだらけのベッドで眠った。
さて、こうしてみると、ケネディのことを面白く思わない人も出てくる。殊更隣の家のブルースなんかは、今の今まで痩せた土地を押し付けられたケネディのことを知っていたものなので、何故今年は急にああも小麦が実ったのかが気になって仕方なかった。
そのためブルースは、深夜にこっそりケネディの家に聞き耳を立てた。ボロボロの小屋に二人きりで住むケネディとその母は、これまでの暮らしよりも少し豊かになり始めた多幸感でぐっすりと眠りについている。
ブルースは思わず舌打ちをした。ああ、何か秘密が絶対にあるはずなのに。だってケネディの家の小麦は、大層不自然に実った。昨年までは痩せてひょろひょろで、粉にするにも細っこい実しかつけなかったはずなのに──と。
いいや、それだけじゃない。あいつの母親も途端に見違えて回復した。ケネディの稼ぎじゃあ、そんなにいい薬は買えなかったはずなのに。なぜ、どうして。疑問ばかりが浮かぶのだ。
けれどブルースの耳に届くのは、二人分の寝息のみ。すうすうと小気味いい呼吸ばかりが聞こえてくる。
ブルースはため息をついた。何も知れそうにない。諦めて帰ろう。そう思いながら壁から耳を離すと、そっと後ろを振り返った。
『おひさしぶり、おにいさん』
──するとそこには、小麦色の髪を纏った白い獣が立っていた。見慣れた蜂蜜色の双眼で、ブルースのことを見上げていた。
ウヌクアルハイは、その村の顛末を見届けました。
最初の最初は、ブルースの願いを叶えてあげたのでした。今よりも立派な小麦が作りたいと彼は言ったのです。それから暫くするとウヌクアルハイはケネディの家に移動して、今度はケネディの願いを叶えてあげました。
しかし時が経つにつれ、どの村人もやがては隣の家を妬み始めます。ウヌクアルハイに出逢うと「あいつよりも良くしてくれ」「あいつの畑を悪くしてくれ」と、そんな願いばかり口にするようになったのです。
沢山の村人達の願いを叶えるうちに、他者よりも優位に立ちたいものだったり、足を引っ張るものだったり──そんなお願いごとばかりになってしまったものだから、ウヌクアルハイは呆れ返ってしまいます。
なのでウヌクアルハイは、一緒にこの地に降り立ったミモザに手を貸してもらうことにしました。
『わるいことをしたひとはね、ひあぶりにされてしまうのよ』
轟々と燃える村を眺めつつ、ウヌクアルハイは言いました。黒い煙がたちどころに天空にのぼってゆきます。ミモザはそれを遠目で見やりながら、そっと手で十字架を切りました。
『ああ、ほんとうにかなしいったらない。ぼくはかみさまとして、みんなのねがいをかなえたかっただけなのに』
そう言い募るウヌクアルハイの口許が緩く弧を描いていることを知るのは、ミモザだけなのでした。
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