桜の樹の下には
桜の樹の下には死体が埋まっているのだと、誰かが言った。あの美しい桃色の花弁は、人の血を吸い上げているからこそあんなにも美しいのだと。しかしそれは誤りである。確かに生物の死骸は植物の栄養になり得るが、もし本当に桜の樹の下に死体が埋められたのであれば、桜の花の色を構成するアントシアニンという色素と、土壌に存在するアルミニウムが混ざり合うため紫陽花のように青色に変色する……はずなのである。
もっとも、この理論すらおかしいのだ。そもそも桜にとって重要なのは気温である。気温によって花の濃淡が変化するのだ。だからなんというか、そう、この話自体があまりに無意義なのである。
そのようなことを言いながら、ベテルギウスは目の前の男をじっと見つめていた。無精髭が生えて、目許には黒々としたクマができ、やや頬のこけた不健康そうな雰囲気を放つ男を。
ベテルギウスと男は、とある閑散とした村の山奥にいた。今日は雨が酷く降っており、草木がごうごうと唸りながらその身をしならせている。土砂降りの下、互いにずぶ濡れになりながらも一切傘を指さずにいるのには、相応の理由があった。
ベテルギウスと男は、大きく天へ伸びる桜の樹の下にいた。開花はまだのようで、いくつか蕾をこさえてはいるものの満開には届かない。しかしながらも、その大木は樹齢百年をも超えているようで、桜として未熟な状態にも関わらず圧倒的な存在感を放っていた。
その桜の樹の下で、男は女の亡骸を抱いていた。そして付近に穴を掘り、いかにも「私はこれからこの死体を埋めます」と言わんばかりの顔でベテルギウスをぼんやりと眺めていた。
「死体損壊及び遺棄罪に該当するが、貴殿はあえてその場所に埋めるのかね?」
言いながら、ベテルギウスは一歩、一歩と歩みを進める。男は僅かにうろたえたように見えたが、しかし身じろぐだけで動こうとはしなかった。
弾丸のような雨が降る中、辺りで泣き喚く草木も、静かに距離を詰めるベテルギウスも、現状を甘受してじっとしている男も、その男の腕の中にいる女の死体も、押し並べてみな桜の樹に見下げられている。
男に近付いたベテルギウスは、その時ようやく男の状態をしげしげと観察することが出来た。足下が随分と泥にまみれているのは、恐らくこの場で死体を埋めるために穴を掘っていたからだろう。その汚れとは別に衣服の──殊更腹辺りは何やら赤茶けた染みができていて、ベテルギウスは瞬時に「ああ、これは血だな」と理解する。
死体を此処に持ってくるだけで、ああも血液が付着するだろうか。ベテルギウスは少しばかり沈黙し、緩やかに思案する。乱雑に降りしきる雨粒に打たれながら、うなだれがちな男の行動を。
もし此処に呼ばれたのが己ではなく、あの守銭奴な探偵……あるいは聡明な棺台の娘達の長であったなら、こうも考え込むことなく早々に結論を叩き出せていたのやもしれない。けれどベテルギウスは、そのどちらでもなかった。証言台に立つ被告人に罪状を言い渡す裁判長にすぎない。
「殺めたのか?」
仮に殺めていなくとも、亡骸をこの場に連れてきて、あまつさえ埋めようとしているのだからどちらにせよ罪は免れないが。そう思いつつ、冷淡な態度で問いかける。
男はびくっと肩を震わせると、うなだれがちだったその顔をゆっくりと上げた。深いクマが刻まれた眼は少し窪んで見える。大層疲弊した様子で、雨に濡れているのにも関わらず彼の唇はかさついていた。
男の唇は何かを言いたげにぶるぶると震えた。地上で呼吸をしようと足掻く魚のように、はくはくと口唇が開閉している。男は何度もそうして苦しんだ後、何分か経った頃にようやく言葉を絞り出した。
「そうです。私が、私が……私がやりました」
男の吐いた言の葉を聞いて、ベテルギウスは眉間に皺を寄せる。ベテルギウスは何よりも罪人が嫌いだった。記憶の隅に追いやったはずの生前が、重い雁首をゆるりともたげる心地がしてしまうからだ。
胸が嫌にムカムカする感覚を思い出しながら、ベテルギウスは男をじっと見つめてばかりいる。男はそんなベテルギウスの様子に萎縮して、痩せてばかりいる体を更に縮こませてぺこぺこ頭を下げた。
「わかっています、わかっています。私はとても悪いことをしました。こんなこと、きっと仏様は許しちゃあくれんのでしょう」
罪は確かに償いますから、どうか話を聞いてください。
男は何度も頭を垂れた後そう言い募り、雨でぐちゃぐちゃに濡れた地面へ額をつけ──所謂土下座という体勢になって、ベテルギウスに願いを投げかけた。
そんな格好になりながらも、男は腕に抱いた女の亡骸を離そうとはしない。亡骸だけは極力汚れないようにと気を使っているからか、地にそれがつかぬよう細心の注意を払っているようにベテルギウスには感じられた。
ベテルギウスは男から視線を移し、次に女の亡骸を見た。まだ肌は土色になったばかりで、比較的美しい様態であるように見受けられる。黒髪は緩く束ねられ、前髪には愛らしい白い髪留めが着いていた。
女も男同様少し痩せており、指先は枝のように細い。纏っている衣類も簡素な和装だが、縁にポツポツと点在している桜の花がしとやかな印象を抱かせた。
けれどそんなしとやかな女は、既に事切れている。死因は明白で、胸元が赤黒く染まりきっていた。出血多量によるショック死が妥当だろうなとベテルギウスは思いつつ、小さく息を吐く。
ある程度見終えたところで、ベテルギウスは目線を男に戻した。男はやはり怖気付いた様子でぶるりと身体を震わせ──あるいは雨によって寒さを訴えたのかもしれないが──唇を一直線に結ぶ。
「何があった? 嘘偽りなく述べよ」
ベテルギウスが鋭く眼光を瞬かせながら言い捨てると、男は再度深深と頭を下げ、感極まった様子で何度かしゃくりあげながらも、やがて事の顛末を語り始める。
その最中も雨は無遠慮にざあざあと降り注ぐ。空はすっかり灰色に覆われていて、今が朝なのか夜なのか、人ではその区別すらつけやしなかった。
私と妹はある都会に産まれました。父も母も大変勤勉かつ厳格で、それでいて優しい性格で、私も……恐らく妹も、両親のことを深く愛していたと思います。
程よく順風満帆な人生を歩んでいたんですが、どういうわけか私が二十二、妹が十六になる頃、両親は仕事帰りに交通事故にあったとかでぽっくり逝ってしまいました。その事を電話越しに警官から聞かされた時のことは、正直に言うとあまりよく覚えとらんです。だって、あんまりにも悲しくて、息が出来なくなって。おとうもおかあも死んだなんて、そんな酷なことを妹にも伝えなきゃならない。どうやって伝えたのかすら、今の私にははっきり思い出せません。
出棺の日、お棺に入った両親は包帯でグルグルに巻かれていて顔すら見ることが出来ませんでした。大変な損傷だったのでしょう、顔も体もきっと車に突っ込まれて、ぐちゃぐちゃに……。どんなに苦しかったろうかと、おとうとおかあのことを思って私は年甲斐もなく泣き出してしまって。包帯越しに両親に触れても、もうあの時の温かさは微塵もなくて。わあわあと泣く私に感化されてか、妹も顔を覆って泣き始めてしまったようでした。
それから私達は、遠い親戚のところにご厄介になることになったんです。それが今、私が此処にいる、この村です。深い山奥にあったこの村はみんな一致団結といった感じに絆の強い方々だったようですが、反面よそ者の私達にはひどく冷たいようでした。
私は別にそれでも構いやせんでしたが、妹はまだ十六です。多感な時期ですし、そんな時に友達と別れて孤独な思いをしています。愛している両親に先立たれて、もうそれだけでも随分な目にあっているのに、村の方々は冷たい視線を向けて、愛想もない様子で私達をジロジロ見ているんでした。
親戚のおばさんは面倒事を避ける事なかれ主義な面があったようで、私達に口酸っぱく「面倒な事は起こさんでくれよ」と言っていました。ああ、おばさんごめんな、私も妹もその約束は守れんやった……。
この村で過ごして数年が経ちました。私は二十四、妹は十八になっていました。そんなある日のことです、妹が頬を赤くして学校から帰ってきました。
私はすぐ問いかけました。一体何があったのかと。どう見ても赤く腫れていたものだから、きっと誰かにぶたれたんでしょう。そう思いました。
けれど妹ときたら、
「ううん、なんでもないよ。大丈夫だよ、おにい」
と歯を見せてにっかり笑うもんですから、そんなことを言われてしまっては私はなんにも返せやしません。そうか、何かあったらすぐに言うんだぞとだけ返し、その日はそれきりでした。
けれども、日を追う事に妹はどこか怪我して帰ってくる。それは軽い擦り傷だったり、一箇所だけ青タンが出来たり、捻挫だったりと特別大きな怪我じゃあありやせんでしたけども、妹は内向的な性格なもんで、そんな頻繁に傷なんてつくるはずなかったんです。私は何かおかしいぞということは気付いていたんですが、聞く度に妹は「大丈夫」と答えるもんで、深く問いただすのも気が引けてしまいました。
ああでも、今思うんなら。無理にでも聞き込んだ方が、こんな目にあわずに済んだやもしれませんね……。
いや、いや、すいません。話が逸れてしまいまして。ええと、それから──それから、それからも、妹はどこか追い詰められていったようでした。家に帰るのが遅くなる日もありました。当初は部活動か何かを頑張っているのだと思っていましたが、今思うとさや子に呼び出されとったんかなぁ……。
すいません、すいません。さや子って言われても誰かさっぱりですよね、後々出てきますんで、べてるぎぃす様はそのまま聞いて下されば。
あくる日、妹は朝早く出ていったんです。この日だって私は「部活動頑張れよ」としか思いませんでした。この日が運命を大きく変える日になってしまうとも知らずに。
私はいつも通り仕事……ああ、私はあれですよ、村の皆さんに畑の手伝いを任されてまして──村に若い男がいるのは貴重なんでしょう、なんせ衰退の一路を辿ってたようですから──そう、キャベツに青虫がついてないか確認したり、苺が受粉するために蜜蜂を育てたり、これからの季節スイカが美味くなるもんですからスイカの種をポットに詰めたりとかをしていたわけです。
そうして仕事がひと段落して家に帰った私は、屋内の惨状に目が丸くなりました。家中ひっくり返されとるんです。箪笥も机も台所も便所も、もうありとあらゆるところがぐちゃぐちゃにされとるんです。私は泥棒でも入ったんかと思いましたが、それでもどこか様子がおかしいなあということに気付いて。
包丁が何本か無くなっとったんです。嫌な予感がしました。口の中がカラカラに干からびていく感覚。お化けが背筋でも這ったんかと思うくらい、ぞぉーっとした寒気が背中を駆け抜けます。
私の頭の中には、いつもお世話になっているおばさんよりも妹のことが浮かびました。外はもう夕日が沈みかけとります。すっかり夕方です。妹が帰っていてもおかしくはなかったんです。もし、何か事件に巻き込まれていたら……。
そう思うといても立ってもいられんで、私は鍵もかけずに家を飛び出しました。それから村中探し回って、そこでどうやら妹とさや子……妹と同じ学校に行っている、妹の同級生が家に帰っていないことを知りました。
私はもう心臓がずっとバクバク言っているのを聞きながら、駆けずり回って探しました。それでもさっぱり見つからない。すっかり太陽も落ちて、空にはポツポツとお星様がお顔を覗かせとりました。
もう夜だから、朝になったら探そう。そういうことで、私のように妹とさや子を探していた村の皆さんは散り散りに家へと帰っていきました。
それでも私は帰りませんでした。まだ探したい旨を伝えると、誰かが懐中電灯を持ってきてくれたので、それを使って山の方へ向かいました。村にいないのなら、森林で迷子にでもなったんかもしれない。そう思ったからです。
夜の山は危険だらけだということを知っていましたが、あの時の私は妹の無事を祈る一心で、ただひたすらに山の奥へと潜って行きました。
そして私の予想は、ある意味当たっていました。懐中電灯が照らしたその先に、うずくまる妹の姿が見えたからです。
「さくら、さくら、無事か!」
私は思わず駆け足になって妹に寄りました。妹はうずくまっているので、その顔色は私には見えません。やっと見つかって良かったと安堵した私ですが、しかし何か違和感が拭えないこの状況が気持ち悪く思えました。
妹はふう、ふう、と荒く息を吐いています。どうにも苦しそうです。一体何があったのか。ひょっとしたら野犬にでも噛まれたのかもしれん。そう思い、妹の様子を確認しようとしゃがみ込んだ時でした。
姿勢が低くなり、懐中電灯の角度が変わります。照らす先には、横たわり腹から血を流しているさや子がいたのでした。
私は頭が真っ白になりました。
さや子が血を流して倒れている。あの、さや子が。いなくなったさや子が。
さや子の近くには、見慣れた刃物が転がっていました。くっと息が詰まります。うちの包丁です。うちの家で野菜や魚や肉を切る時なんかに使っていた、あの……。
ああ、と口から声が出ました。私はふらついた足取りでさや子に近付きます。けれどもさや子はもう死んでいて、体をゆすろうとしても重くて僅かにしか動きませんでした。
それから私は妹の方へ振り向きました。ひょっとしたら、数分はさや子の死体を眺めて呆けていたのやもしれませんが、とにかく妹へと振り返りました。妹を見るのが怖かったけれど、それでも見なければならないと思ったからでした。
「おにぃ……」
悲しげな妹の声。妹の腹にも、刃物がずっぷりと刺さりこんでしまっていました。妹がうずくまっていたのは、これのせいだと瞬時に思いました。懐中電灯が妹を照らします。妹の足下は普段の土の色ではありませんでした。きっと血が垂れているからでしょう。ああもうほんとうに、どうしてこんなことになった?
私は言葉を忘れて、ただ妹の頬を包みました。あちこち駆け回ったせいで土や埃だらけになっちまった手で、そおっと赤らんだ頬を触りました。妹は苦しげにふうふう息を吐きながら、泣きそうに潤んだ目をぱちぱちさせて「おにい、おにい」と私のことを呼び続けています。
「おにい、私、私……私、ごめんなさい、おにい……」
妹にどんな言葉をかけたのか、あんまり覚えとりません。ただ、段々と冷たくなっていく妹を抱きしめて背中をさすっていたことしか……。薄桃色の、白い桜の花があちこちにある着物を着た妹の背を、幾度も幾度もさすっていました。
「私もう、許せなくて、でも今までは我慢できてて、おにい……」
矢継ぎ早に語り出す妹の、その声音のなんと弱々しいことか。
「ぶたれるのも水かけられるのも、文房具無くされるのも、服脱がされるのも全部我慢できたのに、でも、」
ああそうか、やっぱりお前は虐められとったんだなぁと。妹を抱く腕に力が入ったことを覚えています。
「でもさやが、さやが、おにいのこと馬鹿にしたから、私許せんくて」
──だから此処に呼び出して、さやを殺して私も死のうって。
そう思ったのだと、妹は赤裸々に語ってくれました。私はもう両の眼からぼろぼろ涙を流して、ただただ妹を抱きしめて背中をさすっていました。
妹は死ぬ間際まで私に謝り続けていました。何度も「ごめん、ごめん、おにいごめん」と謝罪の言葉ばかり告げていました。その度に私は、何らかの言葉をかけていたような気がします。けれど思い出せません。今も、思い出そうとすると涙が出てきよるんです。
謝るのはこっちの方なのに。もしお前が虐められていることに気付けていたのなら、こんな、こんなことには。
「べてるぎぃす様、べてるぎぃす様、私がやりました。私がさくらを殺したも同然なんです。だから私がやったんです」
語り終えた男はそう言い募ると、もう何度目になるかも分からないくらい深いお辞儀をしてベテルギウスを見つめた。雨によって跳ねた泥土が男の顔を汚そうが、本人は気にもしていない様子だった。
ベテルギウスは男が語った始終を聞き、緩慢に吐息をこぼす。彼が抱いているのは妹であるさくらだったのかと、一人腑に落ちていた。
「さくらは名前の通り、桜の花が由来なんです。服もこの髪留めも、全部桜なんです。あいつは自分の名前の由来になった桜が大好きだったんです」
男は妹の亡骸を抱き直すと、ベテルギウスに向かい合う。窪んだ瞳の奥から、カッと眩い光が芽生えていた。
「私はいくらでも罪を背負います。ですからどうか、べてるぎぃす様、妹を桜にしてやって下さいませんか」
「……それは、贖罪のつもりか?」
ベテルギウスは静かに問う。気が付くと雨はまばらになっており、鉛色の雲の隙間から紺碧の夜空が漏れている。
「いいえ、そんな。……まさか」
男は一瞬ばかり視線を地面に落とした。瞳に憂いが混じっていることを、ベテルギウスは即座に見抜く。
「妹のことすら理解してやれんかった私は、贖罪すら出来ません。これは、ただの自己満足です」
そう言って破顔した男の顔を、ベテルギウスは再び見つめる。ひどくくたびれきった、何の変哲もない男の顔だ。目は窪み、深いクマを眼瞼に宿し、痩せこけて、泥まみれの。
何の変哲もないのだ。きっと、彼のように不幸な末路を辿った者は世界に溢れている。溢れていた。ベテルギウスは生前裁判長として勤めた。胸の痛む事件も、その反対に唾棄すべきだと感じた事案も。様々な人間の結末を見定めてきた。
だからこそ、ベテルギウスはこの男の下に辿り着いたのだろう。その事を、他の何でもないこの星が一等理解している。
「情状酌量の余地もあろう。良かろう、貴殿の願いは叶えようとも。……ただ」
ただ、と続けたベテルギウスを前に、男は緊張した面持ちになった。
「その前に貴殿は罪を償うべきだ。人の罪は、人が裁かなければならない。貴殿が罪を洗い流した時、その願いは吾輩によって叶えられるだろう」
男は目頭がかっと熱くなった。咄嗟に下を向き、唇を強く噛み締める。抱え込んだ感情が決壊した様子で、彼は言葉を放つよりも先に何度も頷いてみせた。そんな男を見たベテルギウスは、僅かに目を細める。
夜空には春の星が瞬いていた。それでもまだ、桜が舞うには程遠い。
男は二年と八ヶ月振りに外を出た。ベテルギウスの言う通り、情状酌量の余地があると判断されある程度減刑されたのだった。
男にはもう、何も無い。あの後彼は人殺しの兄として村を追い出されてしまった。身寄りのはずの叔母も、そういう理由で男を駆逐した。大人しく刑務所で過ごしたところで、男には帰る家すらない。
それでも男は、どこにも怒りをぶつけることはしなかった。憎しみも恨みもない。ただ、あの時妹の気持ちに少しでも気付けていれば、声をかけてやれていれば、という後悔の念ばかりを抱き続けている。
そんな男から放たれる吐息は霜のように白い。三年弱ぶりに出た世界は粉雪のちらつく、まつ毛すらも凍りそうな真冬の夜だった。
冬、冬、冬だ。何をどう見たって冬だ。桜はおろか、他の草花も息を潜める真冬の夜だ。身体の芯から凍える、極寒の冬だった。
男は落胆した様子で、とぼとぼと歩き始める。春には遠い。それでもいつかあの星が願いを叶えてくれるはずだからと、ひと握りの希望を手に足を前へと踏み出す。
──その時だった。ふと、通り過ぎた男女から耳を疑う言葉を聞いたのだ。
刹那、男は走り出す。あの日のように風を切り、一心不乱に前へ。
テレビで放映されているニュース番組では、冬なのにも関わらず桜が満開になる異例の事態が起こっていることを大々的に放送していた。それも全国的なもので、桜の樹の下には、防寒着を着込みながらも楽しげに花見を満喫する人で溢れている。
その映像の傍らで、ぼろぼろの服を着て、髭を生やした男が桜をしずしずと眺めていた。あの美しい桃色の花びらに、大切そうなものを見るような視線を向けて。
男があの日、桜の樹の下に妹を埋めようとした理由はなんだったのだろう。有名な小説のように、妹を埋めることで妹自身が好きだった桜を更に美しく咲かせたかったのかもしれない。あるいは、埋めて桜の糧にすることで、妹を桜と同化させたかったのかもしれない。桜の樹の下に埋葬すること自体に、何か意味を見出そうとしたのかもしれない。
答えなど、男にしか分からない。
ベテルギウスは電器屋に並べられているテレビから離れると、やんわりと首を振った。それから何をするでもなく屋外へ出ると、紺色の夜空を見上げる。
様々な星々が瞬く中でも、冬の大三角を構成する三点の星はひときわ輝いて見えている。シリウス、プロキオン、そして──赤く瞬く、ベテルギウス。
それを確認し終えると、星獣は小さく息を吐いてこの場を後にした。「少々大事にしすぎたかもしれない」と、自身の行いを咎めながら。
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