人でなしは誰?

 祖国に足をつけたのは随分と久しぶりのことだった。相も変わらず吐く息すら凍る極寒の大地である此処は、一面が白に覆われていて物音一つ鳴りやしない。

 その中を素足で闊歩していく己の存在が、なんとも異質に感じられた。人の身であった頃はいくら着込んだって霜焼けに悩まされていたのに、星となった今は熱さも冷たさもさしたる問題では無くなってしまっている。

 すっかり人でなしに成ってしまった。

 どこか感傷的な心持ちになりつつも、ぎゅうぎゅうと降り積もる雪を踏んでいく。今回この地に舞い降りたのは観光なんて可愛い理由じゃない。人の願いを叶えるため──要は仕事だ──その一点のみだった。

 吹雪く中、目を凝らして有機物たる人間の気配を探す。何処か街の一つにでもたどり着かなければならない。ミーティアは本当に底意地の悪いやつだ。どうせならある程度人のいる場所に降ろしてくれたって良いだろうに。

 吐く息と共に零れ落ちる悪態は、白雪に混じって散っていくばかりだ。

 幾分歩いただろう。あてもなく歩き続けたぼくはやがて大きな屋敷を目の当たりにすることとなる。人里から離れた場所にこんなものが建っているとはついぞ思わなかったぼくは、思わず面食らって目を白黒させてしまった。外観は老いてなどいなかった。手入れの行き届いている──とどのつまりは間違いなく人が存在する──現存するお屋敷に違いなかった。

 高い塀が立ち並んでいるので、身体を雪だらけにしながらぐるりと周囲を回ってみる。表と裏に鍵のかかった門が一つずつあった。吹雪が吹き荒れているからだろうか、見張りは見当たらない。

 ぼくはぐっと身を屈めると勢いよく飛び跳ねた。星の身体というものは万物の力でも手にしたのかと問わんばかりに頑丈で、機能性に溢れている。そんなものだから、いくら高い塀や門だって飛び越えてしまうことは最早容易かった。

 屋敷に侵入したぼくは、二度三度と辺りを見回した。動物の形をした立派な石像が一対ずつ並んでいるものの、それ以外に取り立てて言及出来るような特徴がない。ひょっとしたらこの豪雪に埋もれてしまっているのかもしれないな、なんてことを思った。


 そんな時だった、屋敷の扉の前で力無くくずおれている女の姿を見たのは。

 咄嗟に体が動いていた。音もなく駆け寄り、そっとその頬に触れる。ひやりと冷たくなっていた。それどころか、女にはいくらか雪が積もってしまっている。唇も顔も青白く、生気を感じられない。最悪だ。率直に思った。

「おい! 大丈夫か、声は聞こえるか!?」

 言葉をかけると、女は僅かに唇を震わせる。まだ息があった。

 ともかくこんな場所にいては、遅かれ早かれ凍死の末路が待ち受けている。ぼくは手早く女に覆い被さっている邪魔な雪を払いのけると、自分が被っていたウシャンカを頭に乗せ、それから纏っていた上着を脱いで被せてやった。そうして女を担ぎ上げると、雪をしのげるような場所を目を尖らせて探る。

「……まあある訳ないよな」

 一面が雪に囲われているのだから、探すだけ時間の無駄だった。切り替えたぼくは女を一旦その場に置いて、近場に雪を積み上げては押し固めていく。

 人間なら道具が必要だろうけれど、生憎ぼくは人とも獣とも呼べない異形の存在だったから、ドーム状の雪山を作るのにそう時間はかからなかった。それから鋭い爪で中をくり抜き、人が入れるようなスペースを作っていく。さほど時間もかからぬうちに完成したのは簡素なかまくらだ。

 ぼくは女を抱き上げると、いそいそとかまくらの中へと引き込んだ。それから巻いていたマフラーさえも女の首元へと巻き上げると、ぎゅうっと抱きつく。この際星位置が露出している左手を女の左首に添えてやった。

 ぼくら星の獣は、星位置を中心として発熱している。だから人を暖めるのなら、頸動脈の通っている箇所を積極的にぬくめてやった方が効率がいいのだ。

 全身ふわふわのぼくに抱きしめられていた女は、しばらく浅い呼吸を繰り返していたが次第に安定していき、頬にいくらか赤みを取り戻していく。未だ唇は青いままだったが、回復している姿を見て内心ほっと胸を撫で下ろした。

 ああ全く、願い星としての勤めを果たしに来たのにどうしてこんなことに。

「…………クマ……?」

 考え込んでいるうちに、女は目を覚ましたようだった。ぼくの風貌を見た彼女は「クマ」と一言呟いたのちに、ゆるりと首を傾ける。

「毛が……赤い。でもここは……黄色い。変なクマさん……」

 まだ意識がはっきりしていないらしい。女は弱りながらも小さく「ふふ」と笑むと、ぼくの胸元に頬擦りした。

「……暖かくて、ふわふわ。素敵なクマさんね」

 女の腕がぼくの背へと回った。ぼくはあえて何も言わぬまま、女の好きにさせてやった。しばらくはこのまま放置しておこう。彼女が元気にならない以上、何故このような状況下に置かれていたのかを問うことすらもままならないのだから。

 女はすんすんと鼻を鳴らして深く息を吸い込んでいた。何やらぼくの匂いを嗅いでいるらしい。気恥ずかしさから身じろぐと、まとわりついている腕の力が少し増した。おい、何するんだ、やめろよ。

「獣臭くないわ……ぬいぐるみみたい、ふふ。不思議」

 臭くないならいいか、なんて絆されそうになりつつも、ぼくは気まずげに目を閉じた。早く解放してくれやしないかなんて思いつつ。


「あなたのおかげで寒くなくなったみたい。ありがとうございます、素敵なクマさん」

 数刻後、女は元気を多少取り戻したらしくぼくに対してお礼の言葉を口にした。そもそもぼくはクマではなくプレーリードッグが素体なのだけれどとか、色々言いたいことはあったが本題から逸れるに決まっていたので、突っ込みたいことは全て飲み込んでしまうことにした。

「礼には及ばない。それよりもきみはどうして扉の前であんな状態になっていた? 死のうとでもしていたの?」

 ストレートにものを言うと、女は困った様子で眉根を垂れる。

「ええと……お父様を、怒らせてしまって。その罰で、しばらくお外にいなさいと言われてしまって」

「こんな吹雪の中で!?」

 ぼくはギョッとして、思わず大声を上げてしまった。それから咳払いを一つして、深呼吸をする。罰に対したってやりすぎじゃあないのか。

「いつもはここまでじゃないのよ? ただ、なんというか、お父様が近頃懇意になさっている方に私が失礼を働いてしまったから……」

「それにしたって」

 ここでぼくは閉口した。あまり個人の家庭環境に口を出すべきじゃない。そういうのは、当人同士で解決すべき事柄だからだ。部外者のぼくがいくら助言したって、決断するのはぼくじゃなくて彼女だ。

 ぼくら星はきっと、いてもいなくても変わらない。

 女は苦笑しつつもぼくの柔らかな体毛に触れつつ、楽しげに口許を緩めていた。

「ところで……あなたは何者なのかしら? クマは人の言葉を話したり、しないのよね? ご本が確かなら、なのだけれど」

 伺いつつも、好奇の眼差しを彼女は向けてくる。美しいアイスブルーの瞳だ。

「どう説明したものかな……ぼくの名前はポラリス。こんななりだけど、星なんだ。人の願いを叶えるために度々人の前に現れる、妖精のような存在というか」

「ポラリス……というと、北極星の?」

 女は双眼をぱちぱちと瞬かせながら、ぼくの両手をぐっと掴む。その手のひらには相当力がこもっていた。

「そうだけど……」

 あんまり真っ直ぐに見つめてくるものだから、反射的に目を逸らす。外した視界の端には、ぼやけた輪郭の女がいる。不明瞭な姿なのに、彼女の眼がキラキラと輝いているのが分かった。

「まあ、素敵! ジェド・マロースかと思ったけれど、あなたはどう見たっておじいさんじゃないし、なんなのかしらって思っていたの。……空から降りてきてくれた、ふわふわなお星様だったのね。星がこんなに柔らかいだなんて、私知らなかった!」

 その言葉の後に、女は再びぼくをぎゅうっと抱きしめた。感情がコロコロ変わる奴だと思った。


 ひとまず事が落ち着いたので次の段階に移ろうと考えたぼくは、興奮している彼女を好きにさせつつも口を開く。

「ぼくが星なのはさておき、きみはこれからどうするのさ。家に入れてもらえるのか?」

 女はばっと身体を離すと、一瞬ばかり視線を泳がせた。

「どうかしら……さすがに、入れてくれると思うのだけれど」

 どうにもばつが悪そうな顔をしている。確証がないのだろう。そうも不安な顔をされると、人を見守る立場の星(ぼく)としては薄情な振る舞いなんてできるはずもなかった。

「……父親がきみを呼ぶまで、此処で暖まっていたらいいさ。それまではそばにいてあげるから」

 途端、女の瞳がうんと光り輝く。なんといったか、あれは確か──そう、アクアマリンみたいに、キラキラが留まるところを知らないような。それくらい目がぴかぴかしている。夜空にある星じゃあないんだから、そんなに光らなくたっていいのに。

「ありがとう! ポラリスさんはとっても優しいのね! 被せてくれたお帽子も、コートも、マフラーだって……全部あなたのものなのに、一つだって返してだなんて言わないものね」

 いやそれは後でちゃんと返してもらう予定なんだけどな、と言いたくなるのを堪えて、ぼくは何も言わず彼女の頭を撫でた。雪で多少湿っているけれど、美しいブロンドだ。生前のぼくと同じ色の頭髪だった。


 その後彼女は玄関から放たれた父親の呼び声を合図に、ぼくに衣服を返すとかまくらを後にする。残されたぼくはと言えば、コートに袖を通しながらこれからどうしたものかと考えていた。この感じだと、きっと周囲に人里はなさそうだし。

(……それに、少しあの娘のことが気になる)

 心配、と言うと過剰な表現になってしまうが、あの女の身を案じる気持ちがあるのは確かだった。たいそう厳しく躾られているように見えるが、今回の一件はその領域を超えている。現代風に言うなら「虐待」以外の何物でもないとすら思う。

 とはいえ、やはりぼくは部外者で、そもそも人じゃないのだ。だから見守るか、その状況を変えるように願ってもらうことくらいしかやれることがない。

(そもそもぼくに出来ることなんて、殺すぐらいしか)

 そこでぼくは考えることをやめにした。その代わりに、幸いぼくは(というか、星全体が)悪天候の中でもへっちゃらでいられるので、業務に支障のない時間内で彼女のことを観察することにした。

 今思えば、この選択が全部間違いだったんだ。


 結論から言うと、彼女は父親から手酷い暴力を振るわれていた。理由までは分からない。家の外から覗き見ているだけなので、詳細なんて知れるはずもない。けれどあの娘が特段何か粗相をしているようにも見えなかった。にも関わらず、あの父親と来たら、目を吊り上げてがなりながら娘に手をあげている。粗暴で乱暴で悪辣で、見るに堪えない。醜い人間だと素直に感じた。

 対する女は、ただ泣きながら父親に頭を垂れていた。きっと謝罪の言葉をひたすらに口にしているのだろう。なあ、きみ、そんなに謝ることなんかないんじゃないか。そう言いながら二人の間に割り込もうかとも考えたものの、そう判断するには必要な時間が少なかった。家庭内の問題は、非常に複雑に絡み合っていて、他人が横槍を入れるのは難しい。少なくとも、ぼくにとっては。


 来る日も来る日もあの娘への扱いが良くなることはなかった。推測するに、恐らくは幼少の頃からずっとこうなのだろう。だから彼女は抵抗しない。謝って、なぶられて、罰として屋敷の外に放り出されたり、食事を抜かれたり、何処か見えない場所に連れて行かれたりなんかしていた。そこから帰ってきた彼女はかなりげっそりとしていて、顔にまで青あざが出来ていた。あんなに綺麗で陶器のように白い肌には、あんまりにも目立ちすぎる。

 ぼくはいよいよ、この二人に介入するべきなのではないかと考えていた。外に放り出された際は以前のようにかまくらをこさえてやって暖めることはあったけれど、それ以上にも節介を焼いた方がいい気がしている。なんたって、度が過ぎている。

 あの女も女だ。少しくらい、抵抗したっていいはずなのに。甘んじて酷遇を受け入れるだなんて、そんなのは。

 そんなのは、死んでいるのと同じだろう。


 その日は珍しく吹雪が止み、空には青白くも美しい大きな月が顔を覗かせていた。月光の下、僕は女の自室を外から覗きつつ、彼女が戻ってくるのを待っていた。

 寝室についた女はいつもなら枕元のランプに灯りをつけて、本棚から一冊好きな本を取り出し、それを読んでから眠りについていた。けれど現在の彼女は、どうも落ち着かずベッドのふちに座っては立ち上がってを繰り返している。

 そういえば、今日のネグリジェは相当装飾が凝っていて、まるでドレスみたいだ。

 婚約者か許嫁か、その類いでも訪れるのだろうか、だなんて邪推も束の間に、扉がぎぃ、と開かれる。現れたのはあの父親だった。

 ──ああ、最悪だ。そんなことまできみは我慢を強いられるというのか。

 父親が姿を見せると、彼女は諦観した様子でベッドへと横になる。いつものように、一切の拒絶もなく父親を受け入れるつもりなのだろう。その心中でどれほどの悲鳴を上げているのだろう。唇をきつく噛んで、痛苦に耐えようとしているんじゃないのか。

 なあ、きみ、今すぐそんな野郎は突き飛ばしてしまいなよ。股間を蹴り上げてやればいい。悶絶している隙にロビーへ降りて、調理場からナイフの一つでも取り出して脅してやれば済む話じゃないか。

 なあ、きみ。そんな顔で父親に首筋を舐められて、嫌じゃないはずがないだろう。嫌だって言いなよ。気持ちが悪いって、言ってくれよ。

 娘が無抵抗なのをいいことに、あの下衆の行動はエスカレートするばかりだ。首筋から耳のねもとまで舐め上げて、胸元のボタンをぷちぷちと一個ずつ丁寧に外していく。嫌がる素振りをされないからこそ、ああも余裕そうに衣服を脱がせることが出来るんだろう。

 この行為は、きっときっと、初めてなんかじゃなくて。ぼくが彼女と出逢うよりも以前から続いていたものに違いがなくて。


 そうしていたら、もう辛抱出来なくなった。何も無い空間からアサルトライフルを取り出したぼくは、手早く照準を定めると引き金を引いてしまう。たぁん、と乾いた音が鳴った後に薬莢が降り積もる雪へと沈んでいった。

 怒りのあまりに握りしめているこのライフルは、ぼくが愛用しているAK-47と呼ばれる種類で、最も人を殺した兵器として非常に有名な代物だ。

 突然頭を貫かれた父親だったそいつは、娘に覆い被さり動かなくなる。頭部から血が吹き出していた。ざまあみろと思った。

 女は何が起きたのかの理解が及ばず、上体を起こしたままおろおろと周囲を見渡したのちに、次に撃たれるのは自分かもしれないと思ったのか恐怖でぎゅっと身体を縮めた。

「大丈夫、ぼくだよ」

 下衆を蹴っ飛ばしながら声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げる。それから父親だったものが床に転がったことに気付くと、声を上げて駆け寄った。

 どうして?

「あああ、お父様、そんな、どうして」

 それはこっちのセリフなんだけどな。

 狼狽えて泣いている彼女を背に、ぼくはどうしたものかと考えあぐねていた。片手に下げた相棒は、心なしか居心地悪そうにしている。獲物を討ち取ったから誇らしげにしてほしいのに、相棒がそんなだからぼくまで良くないことをした気持ちになる。

「あなたが……殺したの?」

 振り返った女の瞳は、涙に濡れて今まで見てきた中で一等美しく輝いている。

「うん。きみが、酷い目にあわされていたから」

 簡潔に理由を話すと、彼女は両手で口許を覆ってしまった。だからって殺すなんて、とくぐもった声が聞こえる。

「お父様は、お父様はお母様が亡くなって少し疲れていらしただけなの。なのにこんな……」

 鼻を鳴らす彼女を前に、ぼくはどのような言葉をかけたらいいのかすら分からなくなっていた。

 きっともう、何を言ったって取り返しがつかなくなっているのだろう。

「それにしたって、きみ。彼のしたことはとても業の深いものだよ。異常だ。人でなしのすることだ」

「でも、たった唯一の家族だったのに」

 涙ぐみながらそう言うと、女は深くうなだれてしまう。ぼくは女の傍らへと近寄ると、身をかがめて彼女の顔を見つめた。目は充血して、まなじりまで腫れてしまっている。こうも悲しませたのはぼくの行いのせいなのだろうか。

「なあ、きみ。きみはとても性根の優しい人だけれど。それでもきみ自身を犠牲にしたって誰も幸せになりはしないよ」

 ぼくの言葉を聞いた女は、何かを言いかけるも途中で口を閉ざしてしまった。父親の死と、突如訪れた解放と、ぼくの行動に感情がついていけないのだと思った。ぼくはそんな彼女をただ見つめながら、涙を拭おうとして──手を引っ込めた。行き場のなくなった指先が、宙を掴んだのちにゆっくりと下ろされる。

「……いつかきっと、お父様は正気に戻るって信じたかったの」

 女は涙を手の甲で乱雑に拭った。はだけた胸元にまで滴った雫は、先程行われていた父親の蛮行を彷彿とさせてしまって、見栄えがよろしくない。

「でもそうはならないって気持ちも、どこかにあって」

 でも、でも、と彼女は繰り返している。

「分かり合いたかった……」

「……」

「でもあなたの言うことが正しいってことも、本当は痛いほど分かってるの」

「……そう」

 それからしばらくの間、ぼくらは同じ体勢のままじっとしていた。


 ぼくはあの下衆を殺さない方が良かったのかもしれないと、泣き疲れた様子の女を見ていて感じていた。ぼくはきっと彼女にこれ以上傷ついてほしくなかったから、彼女の意思を一つも聞かず勝手に行動してしまった。それが良くなかったのだと、頭が良くないなりに思った。

 難しいことは、分からないんだ。ぼくは殺す以外に脳のない人でなしだから。

「あの、ね、ポラリスさん」

 不意に女が声をかけてくる。ぼくははっとして顔を上げた。艶やかなアクアマリンの眼が、真摯にこちらを見据えている。

「私を、お母様とお父様のところに連れてって」

 一瞬呆気にとられた。彼女の意図を理解するのが、嫌だった。

「きみ、それはつまり、そういうことだよ」

「そうね」

「他の道があるんじゃないか。きみはもう自由なのだし、裕福な家系だろう? きみのやりたいことをしたらいい。本が好きなら、研究者にでも小説家にでも、書店をひらくことだって」

 ちょん、と女の人差し指がぼくの口唇に触れる。

「私だけ生きるだなんて、そんなの都合が良すぎるわ。お父様はしばらくずっとああだったけれど、私が小さい頃はね、珍しいご本を用意してくれたりなんかして優しいところもあったの」

 それにね、と彼女は続ける。

「あなたもとっても優しいお星様。素敵でふわふわで、暖かい。だから私がされていることを、黙って見ていられなかったのでしょう?」

 静寂の中、星と人間の呼吸音のみが響いている。

「ならそれは、私があなたに人殺しをさせてしまったことと同じだと思うから。お父様に下ったのが罰だと言うのなら、私もそうでなければいけないわ」

 アサルトライフルを握る手が震える。

「ね、私も人でなしなの」

 言いながら微笑んでみせた女の顔は、月明かりに照らされてとても美しかった。ぼくは口の中を噛みながらも相棒を握り直すと、一呼吸置いて言い慣れた言葉を口にする。

「きみの願いがそうだと言うのなら、ぼくはそれを叶えるまでだ」

 ぼくの言葉を聞いた彼女は、嬉しげに目を細めた。

 優しいのは、ぼくでも父親でもない。優しいのは、そう宣ってしまえるきみの方だ。ぼくはそう思ったけれど、彼女の中ではそうではないのだろう。

「……もし生まれ変われるのなら、あなたみたいになれたらなぁ」

 頭蓋を撃ち抜かれる刹那、きみはそう独りごちた。

 ぼくはきみの名前すら、聞けていないままだ。

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