其は呪いに似ている
「本当に、その選択で良いのかい?」
獣の放つ声は微かに震えていた。握りしめた拳に思わず力が入る。舌がもつれてしまって、上手く言葉が引き出せない。
隻眼を細めたまま、眼前で蹲る女を見遣る。女は髪をくしゃくしゃに乱し、泣き崩れていた。その光景があまりにも凄惨なものだったから、獣はもういたたまれない気持ちでいっぱいになってしまう。
「あんな目にあった私を見ても尚、そんなこと言うの?」
女が発した声は鋭利な刃物のように、獣の星位置へと突き刺さる。
「それとも、貴方もオスだからあの男の肩を持つわけ?」
「……そうじゃないとも。ごめんね、ただ私は」
ここで獣は閉口する。彼女にどのような言葉を向けたところで、もう意味など無いと理解してしまったからだ。どれだけ他人が選択肢を示したところで、当人の決定を覆すことなど出来ない。
女が気だるげに顔をこちらに向けた。あの人のためにとせっかくめかしこんだメイクも、今や涙で見る影もない。幾度か瞼を擦ったのであろう、目許が黒く染まってしまっている。整えたばかりの彼女は誰よりも眩く輝いていて、期待に胸を弾ませていたはずなのに。
数時間前の彼女の裾を引いて「やっぱりやめよう」と止めた方が良かったのだろうかと、獣は心中で唸り声を上げた。
獣は脳内で言葉の選択を待った。どうこの女に声を掛けるべきか、先程からそればかり気にかけている。窓の外からはざあざあと大振りの雨音が轟いて止まない。
煮え切らない態度の獣を前に、女は再びしゃくりあげて泣き始める。獣の胸がぎゅうぎゅうと軋んだ。まるで自分の事のように悲しくて、呼吸すらままならない気がしている。
獣はゆるりと口を開ける。
「……うん、そうだね。君が望むのであれば、私だってやぶさかではないさ」
星の名を賜る獣の瞳に、煌々と光が灯った。
「君の願いは聞き届けた。私は──君の願い星、だからね」
ミザールは被った大きな笠をそのままに、枯れ木に寄りかかって夜空を眺めていた。チラチラと点滅する星屑達は、まるで群れて泳ぐ小魚のように愛らしい。頬を撫でる風も今宵は随分と優しげで、このままうたた寝したって誰も咎めやしない気すらしている。
そんな穏やかな状況下で、とある一つ星の顔色が優れていないことに気付いていた。やれやれ、といった様子で彼は腰を上げる。自らに備え付けられた小鈴がちりんと一鳴きした。
向かいの木に腰を据えているのは、黒い尾を丸めたまま「心ここに在らず」といった表情で空をあおぐ獣。靡く水色の衣装も、今は少しくたびれて見える。
「気分が優れないのかい? シリウスさん」
問うと、獣──シリウスはゆっくりとその顔を上げた。黄金色の瞳は夜の闇を照らしている。
「ええ、まあ。多少は」
シリウスは唇を一文字に結んだ。言葉数が少ない様子を見るに、本当に気を病んでしまっているらしい。ミザールは小さく息を吐く。
辺りには星が弾けるぱちぱちとした破裂音が響いていた。
ミザールは何も言わないまま、ただシリウスの隣に腰を落とす。同席を求めることはしなかった。ただ淡々と歩み寄り、そっと傍らに座り込むのみである。そんなミザールの態度をシリウスは視線で追い、けれど追い払おうとはしなかった。
ミザールは笠を手に取り、優しく地べたへと置く。
「愛とは残酷なものですね」
やがて、シリウスは誰に向けることもないままに口を開いた。
彼の言葉を聞いて、ミザールは「ははあ、さては契約者との間に何かあったのだな?」と一つ腑に落ちる。
一等星であるシリウスは、他の星の子を束ねる頭の役割も兼ねている。そんな彼が目に見えて弱っているということは、大方外界が起因していると見るのがセオリーだった。だってプライドの高い彼は、星同士の争いで弱った心を同族に易々と見せはしないのだから。
「一度愛してしまった相手を、心の底から嫌いになれないのは何故でしょうか」
告げるシリウスの目許は、少し赤みが増している。
ミザールは相変わらず何も言わなかった。生前僧侶として生きた彼は、こうして他者の悩み事を聞くことに長けていたから、というのもある。しかしそれ以上に、ぽつりぽつりと独り言ちる態度でいるシリウスに第三者の意見を差し込んでしまうのは、あまりにも酷だったからだ。
ミザールはシリウスの境遇を知っている。生前は誰からも好かれる好青年であったこと。両親に恩を返すためひたむきに仕事に明け暮れていた時、ある女に心を奪われてしまったこと。それから人生の歯車が狂ってしまったこと。愛した女を手に殺め、そしてその報復として命が絶たれたこと。一部始終を知り得ている。
だからこそ、彼の口から放たれる「愛」に関する内容の重さに、ミザールは耳を傾ける。否定も肯定もせず、暗い夜空に灯るたった一つきりの星として。
「嫌いになり切れたなら、こうも苦しくはならないはずなんです。憎いのは確かなんです。死んでしまえばいいのだと、そう呪いたい気持ちも確かにあったんです」
でも、と白い獣の口が歪む。彼の言葉の節々に嗚咽が混じり始めていた。
ミザールは目線をシリウスへと伸ばす。彼の目尻には涙が浮かんでいた。その様をまじまじと見るのはきっと彼自身が望んでいないから、とそのまま視線を地面に落とす。
「……私だって、あの人をただ憎むだけで済んだなら。どんなに」
シリウスの背から伸びる何本もの蜘蛛脚が、ギチギチと音を立てた。
ミザールはやんわりと項垂れる。頭上に伸びる星空はこんなにも美しいと言うのに、彼の心は荒れ狂う嵐そのものになってしまっているこの現状を哀れまずにはいられなかった。
「……愛って、酷いやつですね」
あの日確かに大切だった思い出も、想いも、愛おしさすら感じた重みも。今はただ己を傷付けるだけの凶器に成り果ててしまった。
それなのに捨てることが出来ないのは、今でも愛しているから。
顔を上げたシリウスは、眉根を寄せたまま、歪んだ口許を懸命に曲げへらりと笑ってみせた。大粒の涙を、ぼろぼろと零しながら。
全ての方がついた、と言う事実だけが胸中に響いている。
星の子は願い通りに、彼をこの世から葬り去ってくれた。殺害方法について夜通し話し合ったのが、昨日の事のように思い出せる。もうひと月は経ったと言うのに。
一人で暮らすには広すぎるこの家も、数日後にはただの空き家へと成り代わる。そんな漠然としない事実だけが、静静とリアルとして記憶へ刻み込まれていくのだ。
己よりも小さな獣の姿をした星の子は、「これだけで帰るのは悪いから」と家中の整理整頓まで手伝ってくれた。大の男が一人で持ち上げるには無理がある大きな化粧箪笥を、軽々と持ち上げた時は心底びっくりした。あんな体にどれだけの力が秘めてあるのか、ただの人の子である自身には分からない。
「……あれ?」
目に付いたのは、夜空を切り取ったかのような布地に包まれた何か。おおよそこの世のものとは思えない外観のそれを見て、「星の子が置いていったもの」だなと察する。
咄嗟に手に取って、畳まれた布を開いていく。質量を伴っていない布のようなそれは羽根よりも軽く、空気を掴んでいる感覚に似ていた。
やがて内側から姿を現したのは、銀色に光る指輪。中心で控えめに輝く宝石はダイヤモンドに違いない。まだ真新しく、使い古されたと見るには無理がある清潔さを纏っていた。
その指輪を見て、女は言葉を失う。
ああ、だって、これは。
「思い出は一生付きまとうものだとも」
シリウスが去った後、ミザールは暗闇を歩きながら、自らの呟きに糸を通していく。彼が地面を踏みしめる度に水面が揺らいで、小鈴が控えめに鳴いていた。
「だって、今はそうでなくても。あの日抱いたものは、確かに真実だったのだから」
であるからこそ、こうも苦しいものなのだ。
笠越しに見える星空は、一本二本と星の筋を辿り始めていた。流星が駆けているのだ。今宵は随分と空の機嫌が良いらしい。
ミザールはそんな夜空を見つめて、ゆっくりと息を吐く。
「後悔し続けるのだろうね。君も、契約したその娘も」
頭上では流星群が、龍のように踊っていた。
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