不毛と思うだけ不毛な話

 グリーゼ411の受話器は、緩く耳に当てられている。眼前でぽつりぽつりと不安を零す契約者の、その弱音を一つ残らず聞き取るためだけに。

「なんで好きになっちゃったんだろうな」

 黒い受話器はグリーゼ411の尾てい骨と確かに繋がっており、契約者である男が言葉を放つ度に僅かに振動した。ほんの些細な空気の震えでしかないが、グリーゼ411にとってはその微弱な呼気もたまらなく煩わしい対象に違いなかった。それなのに尾を放り投げることなく、彼はただじっと契約者の言葉一文字一文字を耳で拾い上げることに専念している。

 契約者の目はどこか虚ろな様子で、何も無い空間を見つめていた。グリーゼ411は聞くことに集中していたものの、それでも己と契約者を取り巻く部屋の環境があまり宜しくない事態に気付いてしまっている。

 シンクには未だ片付けられていない食器が重ねられている。汚れが乾いて固まっているのが視認できた。グリーゼ411は思わずため息を吐く。自身が人だった頃を思い出して、少しばかり憂鬱な気持ちになったのだ。

 床には足の踏み場もないくらいゴミや服が散乱していて、本来見えるはずのフローリングが拝めないでいる。グリーゼ411はまたもやため息を吐いた。この男の弱り方は、どうも自分に似ていて困る。

「星神様に、恋愛感情があるのかどうかわからないけど」

 掠れた、やや低いテノール。契約者の唇をグリーゼ411は見た。すっかり乾燥してかさついている。一言で言うならば、不健康を極めている。そんな状態でしかなかった。

「本当に好きで、でもきっとこの気持ちは向こうからしたら気持ち悪いものなんだろうなって。そう思うとどうにもやり切れなくて」

「……だからといって、日々の生活を疎かにするのは違うんじゃないの?」

 グリーゼ411の四白眼が契約者を捉える。白い薄皮が浮いた唇がぽかんと開けられていた。願い星が放った、説教じみた言葉に多少面食らった様子で。

 それはその通りなのだけれど、と言いたげな契約者は僅かに歯噛みをしたが、言い返す気力がないらしく噛み付いては来なかった。はは、と掠れた笑い声が薄暗い室内に溶ける。

「ウジウジ悩んでる暇があるならとっとと告りなさいよ。アタシに言われるなんて、アンタ相当アレよ?」

 契約者は苦笑した。ハイライトの消えた目は生気がない。土色の肌は妙に痩せてみえる。グリーゼ411が呼ばれるよりもずっと以前からきっと、強く思い悩んで苦しんでいたのが理解出来る容態だった。

(なっさけない男)

 そんな契約者だからこそ、グリーゼ411は呼ばれる。もう何度今にも死にそうな、生きる精気も根気も尽きた人間の前に飛ばされたか分からないのだ。覚える方が難しい。

「告白したい気持ちがない訳じゃないよ。ただ……」

 契約者は言い淀む。白い唇が固く一文字を結んだ。人が呼吸をする音ばかりが、受話器の先から漏れている。

「ただ、何よ?」

 グリーゼ411は気晴らしに辺りを見渡した。豆電球すら灯っていない、薄暗くてかび臭い契約者の自室を。シンクも床もご覧の有様で、カーテンも締め切っているから外の様子を伺うことすら出来やしない。

 明かりらしい明かりがこの小さな箱庭には存在していなかった。星獣が集う夜の世界ですら、星屑と月明かりに照らされているというのに。

(きっとこの有機物は、恋をするまでは真っ当に生きていたはずなのに)

 当たり前に出来ていた事が何一つ満足に行えていない様が、どうにもおかしくて笑いすら起こりそうな心持ちでいた。当然笑いはしないが、ともかくグリーゼ411はこの人間に哀憫じみた感情を獲得してしまっている。

 契約者は大きく息を吐いた。それを合図に、グリーゼ411は人間へと視線を戻す。酷く緊張しているのだろう、全身に力が入って強ばっているのが分かった。

「……お、男なんだ」

「はい?」

 グリーゼ411は、受話器を握る手に力を込める。

「俺が、好きなの。……男なんだ。同性なんだよ」

 言葉尻があまりにも小さいものだから、グリーゼ411はなんとか聞き取ろうと受話器に耳を押し付ける。思わず眉間にシワが寄った。

「あ、や、やっぱり、変……だよな、わかってる。気持ち悪いよな星神様も」

 そんな星獣の表情が、同性愛を咎めているように感じたらしい。契約者はややどもりながら矢継ぎ早にそう言うと、顔に影を落とした。目尻には涙が浮かんでいる。

 グリーゼ411は本当のところ「面倒臭い有機物だな」と強く感じていたが、三度目のため息をすんでの所で飲み込んだ。ここで深く息を吐いてしまったら、きっとこの人間は深い悲しみに暮れるに決まっているのだ。

「別に気持ち悪くないんじゃないの? 昨今の有機物って、そういう理解が進んでいるものだと思っていたのだけれど」

 包帯だらけの腕に力を込め直すと、グリーゼ411は受話器を握り直した。己の体の一部だというのに、この付属物は嫌に重ったるくて好きになれない、などと思いつつ。

 星獣の言葉を聞いた契約者は、微かに安堵の息を漏らした。けれど話の要はそこではないらしく、表情は未だ暗いままでいる。

「そりゃあまあ、色々と世界は変わってきているよ。でも俺が好きな人もそうとは、……限らないだろ」

 グリーゼ411の瞳に映る人間は、やけに小さく見えた。

「なんでなんだろうなぁ」

 その問いに答えなどないことを、きっとこの契約者は既に知り得ている。それでも咄嗟に零してしまうのは、本人の問題では解決のしようもないからだ。

「……なんでもクソもないわよ。感情ってそういうもんでしょ」

 星獣は返事をすると数秒眼を閉じ、自らが人間だった頃を思い描く。眼前で蹲る契約者のように人の身体を得ていた、最早朧げになりつつある記憶。──幼少時代、男子が嫌いだと言う意中のあの娘のために精一杯女子に近付こうと努力した、あの頃。

(おかげで今でもこの口調、直んないのよねぇ)

 結果、初恋は無惨にも玉砕した上「男子なのに女の子みたいな喋り方して気持ち悪い!」とまで言われてしまった。

(あ、なんか泣きそう……)

 契約者は不意に黙り込んだグリーゼ411の姿を不思議に思ったものの、それに触れようとは思わなかった。今の彼は自身の問題に手一杯で、他者に善意で何かを成そうと思えるほどの余裕と選択肢が存在していない。

「いっそ異性愛者にしてもらおうかな」

 契約者が放った言葉の意図を、グリーゼ411は掴みかねた。

「はい?」

 やや気の抜けた声が星獣から漏れる。それと同時に、少しばかり歯を食いしばった。理解に及ばない自身に対し腹を立てたのだ。

 この星獣は態度こそ投げやりに見えるが、根は務めを真摯に果たそうと動いてやまない真っ当な星に相違ない。だからこそグリーゼ411は懲りずに幾度も黒い受話器に耳をすませ、人間の「本当」の願いを引き出そうと行動するわけで。

「俺が女を好きになれたら、こんなに不毛な気持ちにならなかった。だから、星神様に異性愛になるように願おうかなって」

 不毛。男は確かにそう言い捨てた。

 契約者から届いたその言の葉を聞いて、グリーゼ411の眼に強い光が宿る。

「それは違う」

 グリーゼ411は勢いよく立ち上がる。刹那、絡んだ包帯に皮膚が引っ張られて、たまらず眉根を寄せてしまった。けれど止まらないまま、散らかった床を無遠慮に踏んで契約者の元へと詰め寄る。

 契約者は突如行動を起こした星獣に戸惑ったようで、弱い視線をあちらこちらへと泳がせていた。

「異性愛だろうが同性愛だろうが、そんなの関係ない。不毛かどうかなんて相手によるのよ」

 ぐっと身を寄せて言い募ったグリーゼ411は、契約者の両肩を強く掴んだ。受話器が地面に転がり落ちる。くたびれたビニール袋の上に鎮座したそれは、今や役目を必要としていない。

「アンタら勘違いしてるけどね、異性愛だから恋愛イージーモードって訳じゃないの! 男を好きになろうが女を好きになろうが『ああこいつ、アタシのこと眼中にないんだな』って思うことなんていくらでもあるわ!」

「い、いやでも異性愛の方が割合多いし……」

 星獣は癇癪を起こしたかのように言い詰める。気圧された契約者は狼狽えて視線をさ迷わせた。

「何言ってるか聞こえない! 良い!? 異性愛だからって振られた後も友達でいられる訳じゃない! そのまま関係が壊れる可能性があるのは異性愛も同じ! 悲劇のヒロイン気取るのはアンタの勝手だけどね、行動もせずグチグチグチグチ言ってるだけなのが一番虚しいしダサいし格好悪いわ!」

 ──拒絶される可能性なんて誰好きになろうが一緒なの!

 そこまで言い終えたグリーゼ411はすっかり息が上がっていた。大きく上下している肩を見て、契約者はただ唖然とした様子でいる。何かを言い返す気には、不思議となれなかった。半ば八つ当たりでも受けた気分だったのだ。

「あーもうほんとヤダ! とっとと告って振られてきなさいよバカらしい!」

 がなるグリーゼ411の白い牙が、暗がりで強く光った。

 星獣はやがて手を伸ばし受話器を拾い上げる。シワと埃で塗れたコートから覗くグリーゼ411の手首には、赤黒い血が滲んでいる。

「で、何? コレがないとアンタの声聞こえないのよ」

 言葉の続きを促す星獣の目は、先程とは違い活力が微塵も籠っていない。

「……いや、もういい」

「は? 何ソレ、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」

 本当にもういいんだよ、と呟いた契約者の心中は、正直なところなんとも言えなかった。晴れ渡りはしないし、かといって淀み続けている訳でもない。

 グリーゼ411の言うことは確かに分かる。けれど、それでも異性愛と同性愛では元のハードルが違うのだ。どちらの恋愛が有利なのかと問われると、やはり異性愛に軍杯が上がる。

(……でも)

 それでも待ち受ける結末は全く変わりはしないのだと。そう叫んでくれた今、契約者は少しばかり前を向ける気がしていた。

「俺、来てくれた星神様が貴方で良かったかもしれない」

「えっ何よ急に。名前も呼ばないくせに急に都合のいいこと言うじゃないの」

 グリーゼ411から刺さるジトついた視線は、妙に鋭くて敵わない。契約者は笑みを浮かべた。長らく笑っていなかったからあまりにも不格好ではあったものの、それでも微笑に違いなかった。

「気安く名前を呼ぶの、気が引けるんだよな……」

「意味わかんない。こんな部屋に閉じ込めておいてそんなこと気にしてるワケ?」

 閉じ込めてはいないんだけどな、と苦笑した契約者は、改めてグリーゼ411へと向き合う。

 この星獣は話に言く星神様のように、愛らしい姿をしている訳でも、特別親切な訳でもない。頭髪はぼさついているし、纏っている服は色褪せてくすんでみっともないし、何より傷だらけで包帯だらけの体が痛々しい。笑った顔はあまりにも不格好だし、男神に見えるのに口調は女性的で、少しどころか結構理不尽に機嫌を損ねる。

 それでも、そんな星獣だからこそ、足下も見えないくらいに真っ暗な闇を力強く照らす星になりうるのだ。

「呼んでみなさいよ、ホラ」

「…………グリーゼ、411」

 カラカラに渇いた喉から放たれた名は、どうにも掠れて仕方ない。

「──ええ。それが、アンタの願いを叶える星の名前よ。覚えてくれても良いわ」

 それでも、確かに呼ばれた星獣は満足げな様子で破顔した。唇の端が引きつっている、お世辞にも笑い慣れているとは言えない笑顔だった。




 その後契約者の恋が成就したのか否かを、グリーゼ411は知らないままでいる。あの人間が真に願ったものは、恋愛成就ではなかったのだ。

「ほーんと有機物って勝手よね」

 付近に転がる砂利を蹴った彼は、自嘲気味に笑みを深める。

「ま、一番勝手なのはアタシなんだろうけど」

 おおぐま座の閃光星は、今日もどこかで輝いている。

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