ヨヲコム

糸式ナトリ

雨宿り

 森林に閉ざされたバス停で、女学生が鞄を抱えてベンチに座り込んでいた。彼女はどこか疲れきった顔をしていて、その目に光は宿ってなどいない。ただぼんやりと辺りを見渡しながら、未だ降り止みそうには到底ない、大粒の雨をうつろな顔色で眺めていた。

 雨が降った後に上がってくる匂いのことを、ぺトリコールと呼ぶのだという。だとしたら、雨が降っている最中に立ちのぼるこの香りに名はあるのだろうか。耳をつんざく雨音は轟きながらも、女学生の思案を止めようとはしない。むしろこの雑音は周囲の他の音までかき消してしまうから、それがかえって女学生にとっては都合が良かった。

 彼女が大事そうに抱えている鞄の中には、先程返却された答案用紙が眠っている。期末テストが終わったばかりで、女学生の目許に居座る隈の正体はここから来ていることが推測できた。採点結果は概ねそのどれもが高得点で、どれだけ低くても八十点以上をキープしている。俗に言う「ちょっと勉強ができるタイプ」の彼女は、けれど物憂げに雨を眺めつつ呆けてばかりいた。

 雨を凌ぐような道具は、彼女の鞄の中には無かった。けれどそれで良いと女学生は強く思った。より一層激しさを増す雨音を聞き募りながら、もっと降ってしまえばいいとすら願い始めている。

 彼女はあまり、家に帰りたくないのだ。

 遠くでゴロゴロと雷が鳴き始める。この様子では、当分雨など止みそうにない。けれど彼女が居座っているこの場所は紛うことなきバス停であり、彼女の帰る家周辺にそのバスは間違いなく足を止める。

 女学生と雨の関係は、文字通りあまり関係がなかった。特別親しいわけでも、元から雨に好意的なわけでも、心臓に突き刺さって抜けないような思い出があるわけでもない。けれど彼女は、雨に寄り添わんばかりに先刻バスを見送ったばかりである。何故なら、帰りたくなかった。ただそれだけの理由で。

 憂鬱そうに女学生は溜め息を吐いた。重苦しい空気は自重に従い、黒茶けた地面に落ちていく。それから間もなくして沢山の水滴に叩きつけられ、原形すらほどけてしまった。

 薄ら肌寒い気温だ。女学生はべったりと肌に張り付く髪を指先でといて耳にかけた。学生の象徴である制服の白いカッターシャツも水気を含んでしまっていて、素肌にまとわりつく感覚がある。彼女はそれを幾分か煩わしく思いながらも、けれど決してベンチから腰をあげようとは思えなかった。

「バス、行っちゃったね」

 刹那、鼻先をくすぐる甘いミルクキャンディーの香り。言葉と共に女学生の元へと届けられた唐突的な薫香に、思わずハッとして隣へ視線を向けた。視線の先には、いつの間に現れたのだろう──水色のレインコートをまとった──クリーム色の頭髪と白い体毛を持った異形の獣が座り込んでいる。

 女学生は内心驚きつつも、けれどそれを表情には出さなかった。ただ静かに高鳴る鼓動を感じつつ、ゆっくりと深呼吸している。

 獣は獣にしては珍しくレインブーツを履いていた。頭頂部には角帽に似た大きな帽子を被っており、またそのどれもが鮮やかな水色をしていた。それぞれ撥水加工がなされているようで、滑り落ちた水滴はベンチにポツポツと茶色い染みを形作っていく。

 女学生はミルクキャンディーの香りの正体がこの獣だとすぐに分かった。それでも努めて落ち着きを保ったまま、再度緩やかに深呼吸を繰り返して獣の芳香を鼻腔いっぱいに取り込む。青い紙袋にデザインされた、象牙色した丸い飴玉。付近にはリアリティに描かれた牛の絵がプリントされていて、スーパーやコンビニの何処ででも見かけることができるような。そんなありふれた、けれど何故か優しくてほっとしてしまうようなミルクキャンディーの匂いを、肺細胞の一本一本に取り込むようにして深く息を吸った。

 獣はそんな女学生の様子を微笑ましく思ったのか、小さくふっと笑った。獣のまつ毛が、白い体毛に濃淡の影を落とす。まつ毛すらこの獣は水色をしていた。その水色から覗く瑞々しい桃色の瞳は煌びやかで、女学生は僅かに息が詰まった。自分の黒黒しい瞳とは大違いだとすら思った。

 少しばかり気落ちした態度の彼女を他所に、獣は小さな背を伸ばして空を仰いだ。暗い鈍色が幾重にも連なった積乱雲は遥か彼方へと続いている。それはすなわち、雨がまだ止まないことを示していた。

「まだ暫く降りそうだね。貴方、おうちに帰らなくて大丈夫?」

 獣の吐いた言葉を前に、女学生は苦笑する。制服のポケットからスマートフォンを取り出し、二度指で画面を叩く。ぱっと表示された時刻は十八時をとっくに回っていた。

 その画面を見た時の女学生の表情を見て察したらしい獣は、静かに「なるほど」と呟く。レインコートの縁から覗く獣の指先が、緩やかに宙へ伸びた。それは獣の顎下に到達すると、ゆるく拳を作って静止する。あからさまに考える素振りをしている獣の態度に、女学生は小首を傾げた。

「辺りもすっかり暗くなっているし、僕が家まで送ってあげようか?」

 そう言ったのはやはり、ミルクキャンディーの香りを纏う獣である。女学生はちらり、とバス停の時刻表を横目で見やる。次来るまでにはもう少しばかりかかりそうだ……。

 きっと本来なら、喜ばしい提案なのだと彼女は強く感じた。このままこの場所に居続けると、だんだん暗くなる世界と肌寒さで不安になって、いずれ膝を抱えてうずくまってしまう。そのうちフクロウがほうほうと鳴き始めるし、風に揺らいでしなる木々の物音一つ一つに怯えてしまうのだろう。そんな自分が容易に想像できてしまった。

 それでも、と女学生はゆるゆると首を左右に振る。獣は小さく呻いた後、優しく声をかけた。「どうして?」と。

 女学生は獣の問いかけにどう答えるべきか迷った。ただ「帰りたくない」だけだと、問いただされてしまう気がしている。得体の知れないこの獣は間違いなく自身には知り得ない異常な存在に違いないから、下手な回答を寄越すのも気が引けて仕方なかった。

 微かに上下する女学生の唇を、獣は見つめる。少しだけささくれて乾燥している、どこにだってありふれたただの有機物の唇だった。けれど獣は何故彼女の唇が乾燥しているのか、ケアがしっかりできていないのか、目許にできた隈の原因がなんなのかをぼんやりと理解している。

 言いたいけど、言いたくない。そんな空気感に支配されたこの空間はやけに重ったるくて。獣はそれが何故だかとても嫌だったから、女学生に向けていた目線を再び雨雲へと戻した。

「……今日、テストが返ってきたんだけど」

 ぽつりと零した女学生の言葉は、もうずっと降り続けている大雨の音にすぐにでも飲み込まれてしまいそうで。

「どんなに頑張っても、パパもママも褒めてくれないから」

 うん、と獣の相槌。それはまた途方もなく甘い響きだ。

「だからなんか、……なんか。帰りたくないなって、思ってしまって」

 そこまで言い終えると、女学生はぐっと唇を噛んで押し黙ってしまった。鞄を抱きしめる腕に力が入る。革張りの黒くて艶々したそれは、使い込まれているようで節々に筋が通っていた。

 抱えていたものを言葉にすると、人はどうしてか目頭が熱くなって仕方ない。彼女はぼやけていく視界を前に目を伏せて、それでもゆっくり呼吸した。雨と、ミルクキャンディーの匂い。

「そうか、だからバスに乗らなかったんだね」

 獣の語り口調は奇妙なほど丁寧で、女学生は泣きたい気持ちを堪えるのにいっぱいになってしまう。

 あの鮮やかな桃色の瞳に、彼女の姿が映る。黒い髪を二つ結びにした、おさげの可愛い小さな有機物だ。女学生と言えど、彼女はまだ精神的にも未熟で、多くのことを知らない。彼女の世界の中心にはきっと、家族が多くを占めていて。それは尊いことのようにも思えるが、しかしその事ばかりに囚われているとやがて精神を病んでしまう。

 獣はそれを、うんざりするほど理解している。だって、身をもって体験したから。──あの時の僕も、そうだったから。

「じゃあもう少しだけ、していくかい? どうせ止みそうにないもの」

 獣の提案に、女学生は数秒間返事を出せないでいた。喉の奥が空気でせき止められて苦しくて。……それ以上に、どうしようもなく安心してしまったから。

 やがてうん、と上下した有機物の顔を見て、獣は柔和に微笑んだ。

 濁音と共に流れ落ちる雨は、あまりにも容赦なく降り注いでいる。この様子じゃあ、いつ帰ることが出来るのか見当もつかない。次来るバスに乗ってしまえば、遅くても二十時には家にたどり着けるだろうけれど。

 ……どんなに嫌な思いをさせたって、彼女を家に帰すべきなんだろう。結局のところ、これはただの逃避にすぎない。なんなら「こんな遅くまで何をしていた」と、両親は目を吊り上げて怒り狂うかもしれなかった。けれどそれ以上に、今の彼女に必要なのは心を落ち着かせるきっかけで。彼女が「それ」を望まないと言うのなら、獣にできることはたった一つだけだった。

「一緒にしようか、雨宿り」

  誰かにとっては、相当ちっぽけな願いなんだろう。どうかこの雨が出来うる限り止みませんように、だなんて。それでも彼女が強く祈るというのなら、獣は努めてそれを叶える。雨乞いの力を持っているわけでもない、何の変哲もない雨男だけれど。ただのジンクスだって、誰かの心を救えるのなら──。

 ぺトリコール、そしてミルクキャンディー。もう夜がくるこの世界で、一人と一つ星は穏やかな香りに包まれながら雨止みを待つ。雨が降った後の夜空は、きっと輝かんばかりの星に満ちて美しいから。

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