第3話 幼馴染

 県立鳴神高等学校。二年二組。

 数学教師が壇上で数式の説明をしながら、黒板に白いチョークを走らせていた。

 教室のほとんどの生徒たちは、板書をノートに書き写したり、教師の説明に聞き入ったりと真面目に授業に臨んでいる。

 経真も黒板を見ながら、ノートにシャープペンシルを滑らせていた。だが、頭の中では別のことを考えていた。

──最近退魔の相談件数が増えたな……。

 美冬が死んでからは、藤明院への霊関係の相談は激減していた。週に一件あるかないか、といったところだった。

 ところが。最近は、最低でも週に二件は入るようになった。多いときは五件以上入ることもある。一日に二件対応する日だってあった。

 退魔寺としての信用が回復した、という訳ではなさそうだった。

 魔物の数が増えている。経真はそう感じていた。それも、人に害をなす悪質な魔物が。

 いったい、何が起こっているのか。経真には知りようもなかった。

 ただ、依頼が増えて寺の収入が増えるのはありがたいことだし、何より困っている人の為に自分の力を振るえるのは嬉しかった。

 ただでさえ少ない自分の時間が更に減ってしまうが、祖父のような、人から頼られる僧と退魔師を目指している経真にとっては良い修行となっていた。

 経真がひとりで退魔業を行うようになったのは、去年の春からだ。父親である敦胤が、妻の仇である魍暗を追って旅立ってからだ。

 それまでは、経真は祖父や父親のサポートしかしていなかった。結界を張ったり、真言で防御障壁をつくったりなどするだけで、自身が先頭に立って戦うということはなかった。

 祖父も父親も、経真をじっくり育てるつもりだったのだ。

 いくら類まれな霊力を持って生まれてきたのだとしても、育成の仕方次第では、帯に短し襷に長しな半端な使い手になりかねない。自らの力を驕って、命を落とす退魔師もいる。だから、自分たちが悪霊や魔物に臨む姿を見せて、そこから学んで欲しいと思っていたのだった。

 幸い、経真は素直で勤勉な性格なので、ふたりの後ろ姿から自分に足りないものを認識することができた。自発的に訓練をし、そこを埋める努力も続けている。

 ただ、自分が表に立って戦った経験が少ない点は、訓練では埋まらない。そのため、敦胤が旅立った後、魔物との戦いで苦戦を強いられることが度々あった。

 敦胤は「もうお前に教えることはない」と言って寺を後にしたが、それでも経真はまだ指導者を欲していた。まだまだ教えてもらいたいことはある。実戦を重ねてそれを痛感していた。

──五星会だったら、上の人から教えてもらえるんだろうなあ……。

 五星会に所属する退魔師は、退魔能力を元に等級で分けられている。五級から始まり、トップは一級だ。五星会に所属すると、自分より上の等級の人間から指導を受けられる。退魔師を束ねるだけでなく、育成する体制も整えられているのだ。

 この組織は、「晴明桔梗」と呼ばれる五芒星を模した紋章を掲げているので五星会という名前になっている。五芒星はこの星に存在する五つの属性を表している。属性とは古代中国の「五行説」に基づいたもので、万物を構成する木・火・土・水・金の五種類の元素のことを指す。そして、五星会の幹部はこの属性ごとにひとりずつ選出される。

 即ち、「もく」を司る「木司長」、「」を司る「火司長」、「」を司る「土司長」、「きん」を司る「金司長」、そして「すい」を司る「水司長」である。

 所属する退魔師は各々の属性の司長の下につくことになっている。仮に経真が五星会に入るのならば、土司長の下につくことになる。

 本来、退魔業はチームで行うことを推奨されている。属性と属性の間には相関関係があるので、そのほうが有利に戦うことができるからだ。その関係は対象の「気」の力を強める「相生そうじょう」と、気の力を弱める「相剋そうこく」の二種類がある。

 例えば、「相生」の関係で見ると、土属性の経真なら金属性の存在の気を強めることになる。味方なら有利になるし、敵なら苦戦することになる。また、「相剋」だったら水属性の相手を弱めることができるので、敵なら有利になる。しかし、味方の場合はその気を抑えてしまうのでアンラッキーだ。

 経真の場合、注意しなければいけない敵の属性は「金」と「木」だ。敵が金属性なら「相生」で相手の力を強めてしまうし、木属性なら「相剋」になり自分の力を弱められてしまう。

 苦手な属性の敵とひとりで戦うことになると、格下の相手でも危険に陥る場合がある。だから、退魔の現場では二人以上がチームになって動くことが、古来から推奨されているのだった。

──ほかの属性の退魔師の戦い方も勉強してみたいし、一緒に戦ってくれる人がいれば心強いんだけどな……。親父は当分帰ってこないだろうし。

 敦胤は火属性で、経真と相性が良かった。先代住職の玄徳とも相性が良かったので、もしかしたらその点からも、玄徳は敦胤を婿養子にしたかったのかもしれない。

 五星会、か。経真はぼんやり考える。

──うちの寺はじいちゃんの代で抜けて、個人で所属していた親父も数年前に抜けた。寺の仕事に集中するためだって親父は言ってたけど。構成員になると、強制的に仕事が割り振られるらしいからな……。

 興味はあるけれど、入るのは難しいかな。そう経真が思ったときだった。

 授業終了を告げるチャイムが鳴った。

 日直が号令をかけて、生徒たちが立ち上がり数学教師に礼をする。

 午前の授業が終わった。ようやく昼休みだ。

「経真、メシ行こうぜ」

 高瀬則之たかせのりゆきが前方からやってきた。長身で髪を真ん中で分けた、優男風の見た目をしている。経真とは中学からの付き合いだ。

「おお。ちょっと待ってくれ、っと……。よし、行こう」

 ふたりが教室を出ようとすると、

「高瀬、明禅。学食行くのか?」

 と、後ろから誰かが声をかけてきた。

「ああ。宮本も行くか?」

「行く行く! 今日は母ちゃんが寝坊して弁当なくてさ~」

 坊主頭の青年が席を立つ。身長は高くないが、体つきががっしりしている。宮本伸みやもとしん。野球部の生徒だ。

「じゃ、行くか」

 学食は西棟の一階にある。一年から三年の教室がある東棟から少し離れているのがネックだが、メニューがどれも安くてボリュームがあることから、生徒たちからは好評だった。

 学食では、既に沢山の生徒がテーブルで食事を楽しんでいた。なかには弁当を持ち込んで、学食メニューを食べている友人と語らっている生徒もいる。今日は晴れているので、テラス席で食べるのも気持ちよさそうだ。

 カウンターでおばちゃんに食券を渡し、経真たちはそれぞれの品を受け取って空いてる席に座った。

「いっただきまーす!」

 席に着くや否や、宮本が猛烈なスピードで、大盛りのかき揚げうどんをすすった。

「宮本、よっぽど腹減ってたんだな」

 経真が笑った。

「ズルルル……! んぐんぐ。だってよぅ、今朝はパン一枚だけだったからさ。母ちゃん、寝坊した上にゆうべ、炊飯器の予約ボタンを押すのも忘れてたみたいでさ。勘弁してくれって、マジで」

「運動部員が朝飯パン一枚は辛いよな。おれが同じ目に遭ったら腹が減り過ぎて失神するかもしれん」

 水泳部員の高瀬が大盛りポークカレーをぱくつきながら言う。

「だろ? お、明禅のAランチ、コロッケ美味そう」

「半分食う?」

「え、いいの⁉ やりー! この恩は忘れないぜ!」

 経真は口元で笑いながら、コロッケを箸で半分に割って、片方をうどんの容器に入れてやった。

「おぉ、コロッケうどんだな、宮本」

「いいねえ! じゃあ早速……。モグ……。うん、ちょっとだけ染みたつゆがアクセントになって、たまんねえ!」

 幸せそうな顔で坊主頭の青年が大仰に天井を仰いだ。それを見て、経真と高瀬が同時に声を出して笑った。

「そう言えば、昨日までのゴールデンウィーク、何してた?」

 高瀬がふたりに訊いた。昨日まで世間は五連休だったのだ。

「おれは毎日部活。練習試合もあったし、日中は野球しかしてなかったな」

「おれも部活あったけど、三日間だけだったな。経真は?」

「おれは寺のことしてたよ。いろいろやること溜まってて」

「寺のこと?」

 宮本の頭に疑問符が浮かんでいる。

「明禅ちが寺だってことは知ってたけど、何? 家の手伝いをしてたとか?」

「ああ、いや……」

 何と説明すればいいだろう。ぱっといい言葉が浮かんでこない。

「宮本は今年から経真と同じクラスだからまだ知らなかったのか。経真は実家でもう働いているんだ。な、経真」

 高瀬が助け舟を出してくれた。

「あ、ああ。そうそう。そうなんだ」

「マジ⁉ ってことは明禅はもう坊さんってこと?」

「うん、そういうこと……だね」

 遠慮がちに肯定する。別にひけらかすことでもない。僧侶だからって人よりも偉いというわけではない、と経真は思っているのだ。変に畏まられてしまうほうが困る。

「経真が中一のときに坊さんの資格を取ったときは、学校でも話題になったよな。普通、そんな年で取らない、って」

「へえぇ……。でも、明禅って髪型、普通だよな。坊主頭にしなくてもいいの?」

「うちの宗派は別に頭を丸めなくてもいいんだ。住職やっている親父も普通に生やしているよ。先代の住職だったじいちゃんは剃ってたけど」

「ふーん。なんか、野球部のおれのほうが坊さんっぽいかもな」

 宮本が自分の丸刈りの頭を撫でた。

「はは、違いない」

 三人で笑った。

「ああ、そう言えばさ」

 宮本がかき揚げをかじりながら経真を見た。

「明禅っていつも五組の在原さんと一緒に登校してくるよな。まさか、付き合ってんの?」

 経真が白身魚のフライを咀嚼しながら、首を横に振る。

「まさか。モグモグ。家が近所だから、モグ、一緒に登校してるだけだよ」

「マジ⁉ 良かった~!」

「宮本、お前在原のこと好きなのか?」

 高瀬が口の中のカレーを水で流し込んで訊いた。

「いや、好きって言うか、いいなって思ってるだけで……。だって美人じゃんよ」

 美人。どうなんだろうか。小さいころから一緒にいる経真にはよく分からなかった。

「まあ確かに中学のときから目立ってはいたよな」

「え、そうなの?」

「経真、お前はそういうの疎いな。二中の女子の中でも結構人気あったんだぞ?」

 知らなかった。

「でも、告白されたとかそういう話は聞かなかったな。在原、見た目はいいんだけど、ああいう性格だからな……」

 いい娘なんだけど、と高瀬がさりげなくフォローを入れる。

「『ああいう性格』って、どんな性格なんだ?」

 高瀬と経真が顔を見合わせた。

 これは自分から言ったほうがいいだろう。経真が口を開く。

「鈴夏はなんて言うか、曲がったことが嫌いで思っていることをどんどん口にするタイプだから。それで周りと衝突することが結構ある」

 幼稚園のころからそうだった。自分が正しいと思ったことに関しては、例え年上が相手でも食い下がらない。男子相手でもお構いなしだ。ただ、お節介焼きで面倒見がいいことから、嫌われることよりも慕われることのほうが多かった。

「ほうほう、なるほどな。正義感が強いんだな」

「気も強いぞ」

 経真が付け足す。

「うーん。……でも、やっぱいいよな~。在原さん。目はぱっちりしてるし、髪を結んでいるリボンも可愛いし。それにスタイルだって、出るとこ出ていてグッドだし……」

「お前、最後のほう変態っぽかったぞ」

 カレーを食べ終えた高瀬が、温度低めの眼差しを宮本に送った。

「いやあ、健全な男子としてはどうしても目が行ってしまって……。なあ明禅、在原さん今彼氏いないのか?」

「多分いないと思うけど」

 本人からはなんにも聞いていないし、付き合っている人がいるならあんなに頻繁に寺に来ないだろう。

「そっかー! なら、後でアタックしてみよっかな」

 隣の高瀬が、目で「いいのか?」と訊いてくる。

 いいも何も、止める理由が経真にはなかった。

──そう言えば、鈴夏のやつ、好きな人とかいないのかな。そういう話、今までしたことなかったな。

 鈴夏が好きになる人はどんな人なんだろう。経真はちょっと知りたくなった。

「ごちそーさん! うん、久しぶりに学食で食ったけど美味かったな」

 宮本はつゆも残さずに綺麗に平らげていた。

「もうちょっと入るかな……。おれ、おにぎり買ってくるわ。お前らもいるか?」

「いや、おれはいらん」

「おれも大丈夫だよ」

「分かった。ちょっと行ってくるわ」

 宮本が菓子パンやおにぎりが並んでいる軽食販売コーナーへと向かった。

「なあ経真」

「うん?」

「お前、在原のことどう思ってんだ?」

「どうって。幼馴染でよくうちの寺のことを手伝いに来てくれる、いい奴って思っているけど」

「本当にそれだけか?」

「それだけって言うか、大切な友達だよ。友達って言うか、きょうだいって感じかな」

「そうか……」

 ふう、と高瀬は息を漏らした。

「在原も大変だな……」

 小さく高瀬が呟いた。

「え? 何か言ったか?」

「いや。お、宮本が戻ってきたぞ。あいつ、あんなにおにぎり食う気かよ」

 両手いっぱいに白い塊を持って、野球部員が帰ってきた。


     ◆


 放課後。

 部活に入っていない経真は真っすぐ家に帰った。中学のときも、修行と寺のことを優先していたため部活には入っていなかった。

 帰宅した経真は法衣に着替え、予約のあった相談者を出迎えた。

 四十代の男性だった。左半身が異様に重く、引っ張られる感覚があるという。

 霊視をしてみると、霊が左半身に複数体憑いていた。

 悪霊という程のものではなかったが、このままでは双方にとって良くないので、読経で成仏させた。

 嘘みたいに身体が軽くなったと言って、男性は喜んで帰っていった。

 今日はこれで退魔関連の仕事は終わりだが、明日も一件入っている。魔物だけでなく、霊も増えていると経真は感じていた。誰にも言わないが、学校の敷地内を行き交う浮遊霊も増えている。道を歩いていても、あちこちに白い幽体が浮いているのを目にする。

 自分が知らないところで、何かよからぬことが起きている。そう直感が告げていた。

「鈴夏のお守り、チェックしておいたほうがいいな」

 毎年一月一日、元旦の日に、藤明院から鈴夏に特別なお守りを渡していた。鈴夏が幼少のころに悪霊に憑かれてしまってからというものの、もう狙われないようにと破魔の霊気を込めたお守りを渡しているのだった。

 以前は敦胤が作っていたが、敦胤が不在の今は経真が代わりに作っている。霊力自体はまだ敦胤に及ばないが、経真は浄化の力に秀でているので、この手の仕事には最適の人材だった。

 本来は効力が一年間もつのがお守りだが、この特別製のお守りは霊気が段々抜けてしまうので、数か月おきにチェックしておく必要があった。霊気が極端に減っていた場合は補充してやる。そうすれば、次の年が来るまで使い続けることができるのだ。

 鈴夏は経真と一緒にいる時間が長いため、魔のものに目をつけられやすい。経真自身、幼少のころから霊力が強いので狙われがちなのだ。経真の霊力に惹かれて寄ってきたものに、鈴夏が襲われないとも限らない。そんなことがないように、強いお守りを持たせていた。自分が傍にいるときなら守ってやれるが、そうでないときだったらどうしようもない。

 鈴夏に危険が及ぶのが怖くて、自分と一緒にいたら危ない目に遭うかもしれない、と子どものころに鈴夏に言ったことがある。すると鈴夏は、

「おまもりあるからだいじょーぶ! それに、あたしのほうがおねえちゃんなんだから、けいまちゃんもあたしがまもってあげる」

 こう返してきた。

 それを聞いて、経真は安堵したものだった。ああ言ったら、もう一緒に遊べないかもしれないと思っていたからだ。

 高瀬に言ったように、経真は鈴夏のことをきょうだいのようなものだと思っている。長い時間を共に過ごしてきたし、喧嘩の数だけ仲直りもしてきた。鈴夏が将来この地を離れることになっても、いい関係を続けていたいと思っていた。

「さて、と。本堂の修繕箇所を洗い出すか……」

 もうすぐ五時になる。あのお世話好きな幼馴染が来るまで、できるだけ仕事を片付けておくことにしよう。経真は作務衣に着替えるため、自室へと向かった。


 その日の夕食は、久々にありものだけで済ませた。冷蔵庫の残りの野菜や、冷凍しておいた肉などを調理して食べた。

 鈴夏は来なかった。

 今日は写真部の活動が忙しいのかもしれないと思い、経真は特に鈴夏に連絡をしなかった。いつも寺や自分のことに時間を割いてもらっているので、彼女の時間を邪魔したくなかった。

 たまにはこんな日があってもいい。鈴夏や鈴夏の母親のありがたみに気づくことができる。自分は恵まれているのだと思える。

「昨日のタッパーは明日返せばいいよな」

 台所を出た経真は自室で学校の課題を手早く終わらせ、今夜は早めに寝ることにした。


 早朝の本堂は空気が凛として静まり返っている。

 経真はこの時間のこの場所が好きだ。子どものころ、頑張って早起きし、祖父の読経を聞いていたことを思い出す。

 法衣を着た経真は背筋を伸ばして須弥壇に向かう。

 須弥壇には人の身長ほどある大きさの仏像が祀られている。

 金剛夜叉明王。主に密教で祀っている「明王」の一体だ。藤明院の本尊である。

 金剛夜叉明王を単体で祀る寺院は珍しい。五大明王の一尊であるこの仏は、不動明王などのほかの明王とセットで祀られることが普通だ。だが、藤明院では建立時から単独で金剛夜叉明王を祀ってきた。

 この仏は、過去・現在・未来の悪い欲を飲み尽くし、その智慧で人心の汚れを取り除くと謂われている。経真が人の心を穏やかにする力があるのも、もしかしたらこの本尊が影響しているのかもしれなかった。

 経真が経典を開き、読経を始めた。

 経真は除霊のときは印を組むので経典を使わずに暗唱するが、普段のお勤めのときはちゃんと経典を読み上げている。

「菩提薩婆訶般若心経~……」

 ゆったりとしたペースで読経が終わった。

 早朝に経を唱えると、心の中がスッと晴れていく気がする。僧になってから、経真は朝の読経を欠かしたことは一度もなかった。

 お勤めを終えて本堂を出ると、寺務所の玄関のチャイムが鳴った。

 まだ五時半にもなっていない。こんな朝早く、誰だろう? 新聞なら配達の人がいつも郵便受けに入れていくから、違うはずだ。

 訝しみながら、「はい! 伺います」と返事をして玄関へと急いだ。

 鍵を開けると、勢いよく戸が開かれた。

 そこにいたのは、鈴夏の母親、圭子けいこだった。

「あれ、おばさん。おはようございます。今朝は随分はや……」

「鈴夏が帰って来ないの!」

 圭子が開口一番に叫ぶように訴えた。顔が青ざめている。

「え……?」

「昨日から鈴夏が帰って来なくて……。ねえ、経真ちゃんあの子の行先知らない⁉」

「おばさん、落ち着いて。おれは鈴夏からは何も聞いてないよ。連絡はしたの?」

「したんだけど、繋がらないの!」

「ちょ、ちょっと待ってて」

 経真は自室に行き、自分のスマホを持ってきた。

 アドレス帳から鈴夏の番号を呼び出し、圭子の目の前でかけてみせた。

『おかけになった電話は電源が入っていないか、 電波の届かない場所にあるため、かかりません……』

 スピーカーから無機質な声が流れた。

 チャットアプリで何かメッセージが入っていないか確認したが、鈴夏からは来ていない。

「おばさん、ゆうべチャットも繋がらなかったの?」

「何度もメッセージを送ったの。でも、既読がつかないし、返信も全然来ないの……」

 圭子のこんな悲痛な表情を経真ははじめて見た。胸が締め付けられるような苦しさを感じる。

「こういうことって、今までなかったの?」

 母親がぶんぶんと首を振る。

「ないわ! 誰かの家に泊まるときは、必ず前もって言ってくれているもの。……あの子も年頃だから、用事か何かで帰りが遅くなっているのかと思ってゆうべずっと待ってたんだけど、帰って来なかった……」

 よく見ると、目の下に黒いクマが出来ていた。

──昨日、鈴夏がうちに来なかったのってそういうことだったのか。

「お父さんは昨日は出張で家にいなかったし、おばあちゃんに言う訳にもいかないからどうしようって……」

 そこで圭子は顔を両手で覆った。肩が小刻みに震えていた。

「おばさん……。とりあえず、警察に相談しよう。何かの事件に巻き込まれたのかもしれない」

「けいさつ……。そう、ね。それしかないわよね……」

 こういうことって110番からかけていいんだろうか、そもそもこんな時間に受け付けてもらえるんだろうか。経真が考えていたときだった。

 山門の前にバイクが止まった音がした。新聞配達かと思ったが、門を通ってきたのは郵便局員だった。

「明禅さん、速達です」

 事務的な口調で封筒を差し出された。

「あ、ご苦労様です」

 右手を出して受け取った。

 局員は軽く礼をすると、小走りで門の向こうへと駆けて行った。ガチャッとストッパーを外す音がして、次第にエンジン音が遠ざかっていった。

 経真は封筒を後で読もうと、玄関の靴棚の上に置こうとした。

 待て。

 こんな早朝に郵便局って配達していたっけ……?

 ドクンと胸が騒いだ。

 バッと封筒を見た。藤明院の住所が印刷されている。

 裏返す。

 ……何も書かれていない。

 差出人が書かれていない封筒など、見たことがない。

 経真の鼓動が速くなる。

 ふと、圭子が顔を上げて、経真が立ち尽くしていることに気づいた。

「それ、どうかしたの……?」

 この郵便物の異常性に気づいていないようだ。やはり相当気が動転しているらしい。

「おばさん、ちょっと待ってて」

 経真は寺務室からはさみを持ってきた。そして、封筒の頭部分に切れ込みを入れていった。

 中から出てきたのは、折り畳まれた一枚の白い紙だった。

『拝啓 明禅経真さま 在原鈴夏はこちらで預かっている。返して欲しければ、今夜十時に鐙田段ボール工業の廃倉庫に来られたし。但し、ひとりで来ること。警察や外部にこのことを漏らしたら、娘の命はないものと思え 敬具』

 紙の余白部分に、茶色い髪の毛が数本、テープで貼られていた。

 鈴夏の髪だ。ほとんど毎日見ているんだ、見間違えるはずがない。

「こ、これ……!」

 圭子が、印刷された文字列を目で追って言葉を失った。瞳が震えている。

「おばさん……。ごめん、おれのせいみたいだ……」

「そんな……」

「おれのせいで鈴夏が攫われてしまった……。くそっ、一体誰が……」

 拳を握る。血が出そうな程、強く。

 許せなかった。犯人が直接自分のところに来ないで、関係のない鈴夏を巻き込んだことが。

「おれ、絶対鈴夏を助け出すから。だから、安心して」

 無理に笑顔を作って、圭子のほうを向いた。圭子は何か言いたそうだったが、言葉が上手く浮かんでこない様子だった。

──無事でいてくれ、鈴夏。

 あと十六時間。それまで自分を抑えられるか、経真は自信がなかった。


     ◆


 指定された場所は、鳴神町のはずれにあった。

 鐙田段ボール工業は地元でも名が知れていた企業だった。数年前に他県に移転し、以前構えていたオフィスと工場、倉庫は今は使われていない。

 第三者に荒らされないように、侵入を拒むロープを入口に張っているが、中に入ろうと思えば易々と越えられた。警告の意味で張っているのかもしれない。

 午後九時五十分。戦法衣を纏った経真の姿が敷地の入口にあった。

 スクーターは使わず、徒歩で来た。鈴夏を連れて帰る際、50CCのスーパーカブではふたり乗りはできないし、時間まで気持ちが落ち着かないので少しでも身体を動かしていたかった。

 あの手紙からは微かに妖気を感じた。これは人間の仕業ではなさそうだ。

 魔物相手なら自分が負けるわけにはいかない。

 経真は「関係者以外立入禁止」と書かれた札が付いているロープを手でぐいっと上げて、下を潜り抜けた。

 敷地内には、左手にオフィスとして使われていた三階建ての建物、右手に工場と思われる建物と倉庫が建てられている。

 当然だが、照明は点いていないので暗い。スマホのライトで足元を照らしながら経真は右手に進んだ。

 平屋建ての倉庫の前に来ると、経真は中から強い妖気を感じ取った。これが鈴夏を攫った犯人なのだろうか。おそらく、かなり強い魔物だ。

 手のひらが湿ってくる。緊張と怒りが経真の中に渦巻いている。いつもの平常心を保つのが難しい。

──この中に、鈴夏がいる。確実に助けるためにも、冷静さを欠いちゃだめだ。じいちゃんからも、おれの強みは霊力の大きさよりも精神力のほうだって言われてたし。

 大きく息を吸い込んだ。

 そして一気に吐き出す。

「……よし」

 所々が茶色く変色した鉄の扉に両手をかけた。錠も何もかかっていない。このまま開けられそうだ。

 ギギ、ゴゴゴゴゴ……。重い音を立てて扉が左右に開いた。

 中は真っ暗だった。今夜は曇っているので、窓からは灯りがまったく入ってきていない。

 空気がこもっている。それに、埃っぽい。使われなくなってから、換気などされていなかったようだ。

 こんなところに鈴夏がいるのだろうか?

「鈴夏ー! いるのかー⁉」

 大声で呼びかけた。返事はない。

──とにかく中を探してみるしかないか。

 そう思って、灯りを点けるためにスマホを取り出そうとしたときだった。

 部屋の中央で炎が上がった。

 かがり火だ。三本の棒で火桶を支えていて、その中で赤い炎が揺らめいている。それが左右に二組ある。

 炎に照らされて、左右のかがり火に挟まれた位置に、制服を着た少女の姿が浮かび上がった。

「鈴夏!」

 鈴夏は直立していた。腕はぴったり身体の脇。腕も脚も縛られている様子はない。だが、経真の姿を見ても動こうとする素振りを見せなかった。

「ん……。ん~ん~~!」

 呻き声のような声が鈴夏から発せられる。呻き、というよりも、喋ろうとしたのに上手くいかない、といった風に感じられた。

「今そっちに行くからな!」

 経真が駆けだそうとする。右足でコンクリートの床を蹴った。

 その時、奥からぬっと人影が現れた。

 反射的に経真は足を止めた。

 その人影は山伏の格好をしていた。頭に頭襟を被り、白い鈴懸に袖を通し、白袴を穿いていた。首から下げた袈裟に付いている房は真っ赤だ。

 炎が照らすその顔を見る。若い男性に見える。肌が、黒い。日本人のそれではなく、黒人に近い感じがする。目が細長く、瞳は小さかった。そして顔の右半分が髪で隠れていた。

 一目で異様だと分かる。普通の人間ではない。そもそも、全身から妖気が溢れ出ている。それも、経真がこれまで感じたことのない程の強い妖気だった。

「よく来たな、明禅経真」

 男が言った。

「お前は誰だ⁉ 鈴夏を放せ!」

 山伏風の男が、やれやれ、という風に首を振る。

「落ち着けよ。話を急ぐな。それに……」

 質問や要望は一度にまとめて出すな、愚か者。男はそう言った。

「なっ……!」

 あろうことか、敵にダメ出しをされてしまった。精神的に先手を取られ、経真は少し動揺してしまった。

 この状況のせいか、冷静さを欠いてしまっていたようだ。さっき気を付けようと心がけたばかりだったのに。

「おれは僻來へきらい。人間じゃない。それくらいは分かるな?」

──人語を理解している魔物か。知能も相当高そうだ……。

 経真が返事をせずにいると、魔物は勝手に話を進めた。

「お前に会ってみたかったんだ、明禅経真。だからこの娘を使ってお前をここに呼んだ」

「だったら、おれのところに直接来い。鈴夏は関係ないだろ」

「人目につかないところで会いたかったんだ。お前の家は結界があって入れないからな、だからこうやって呼んだのさ」

──やっぱり、本当の狙いはおれか。『会ってみたい』って言うからには、仲間の仇討ちとかじゃあなさそうだけれど……。

 ちらりと鈴夏のほうを見ると、目にいつもの力がない。大分消耗しているようだ。おそらく攫われてから二十四時間以上経過している。きっと体力も限界だろう。

「お前の要望通り、こうやって来たんだ。鈴夏は放せ」

 ぽりぽりと、僻來と名乗る魔物が頬を掻く。仕草が人間そのものだ。

「いや、まだこの娘には用がある。それに、別に縄で縛っている訳じゃないんだ。放すもなにも……」

「なら、なぜ鈴夏は動けないんだ!」

「なぜだと思う?」

 すぐに答えを言わないのが憎らしい。

 試されているのか、おれは? 何のために?

 経真は目に霊力と意識を集中させ、棒立ちになっている鈴夏を見た。

 全身に、鈍く光るロープのようなものが巻きついているのが見えた。妖気で作られたものだ。爪先から胴体、腕、口まで隙間なく巻きついている。口から上には巻かれていないのは、呼吸とまばたきをさせるためだろう。

「おまえが術で縛っているのか」

「ご名答。これくらいすぐ分かって欲しかったな」

「術を解け!」

「断る」

 一瞬の間もなく、僻來は答えた。

「だったら……」

 経真の両手が空中で動き、印の形になった。

「おっと、ストップだ。動くな。動くと、娘の身体に傷がつくぞ」

 いつの間にか、鈴夏の横に別の男が立っていた。今朝手紙を届けに来た男だった。

 目が虚ろなその男は、手にナイフを持っていた。その切っ先が少女の顎に触れた。

 怯えたような目で鈴夏がナイフを見ている。彼女の額から、つ……、と汗の雫が滴った。

「や……やめろ!」

「お前が何もしなければ、娘に危害は加えんよ」

──こ、こいつっ……! ほかにも罪もない人を巻き込んで、操って……!

 経真が魔物を睨んだ。いつもの朗らかな表情とはかけ離れた、鬼気迫る顔つきだった。

「うん、いい顔だ。その顔のまま、ちょっとおれと遊んでもらおうか」

「何をする気だ……」

「お前、魔物相手にはめっぽう強いらしいな。この辺じゃあ敵なしだとか。でも、人間相手ならどうかな?」

 僻來の指がパチンと鳴った。

 すると鈴夏にナイフを突きつけていた男が、こちらに突進してきた。

 経真にナイフが振り下ろされる。

「くっ!」

 咄嗟に右に躱した。ひゅぅ、と刃が空を切る音がした。

「んんんっ!」

 鈴夏が呻く。やはり声は出せないようだ。

 偽郵便局員はすぐに体勢を立て直し、再度経真へナイフを振り下ろす。

 動きがそこまで速くないので避けられなくはないが、刃物で襲われる恐怖と言ったらなかった。

 縦の斬撃を躱す。直後に男が腕を水平に振った。

「くっ」

 真横に切りつけられた。法衣の脇の部分が裂けてしまった。幸い、身体のほうまで刃は届かなかった。

「身のこなしはまあまあだな。ああ、言い忘れたが、そいつ相手なら攻撃してもいいぞ。まあ、できるものなら、な」

──ふざけやがって! おれをおもちゃ扱いして……!

 経真がバッと後ろに跳躍した。跳んでいる最中に胸のホルダーから錫杖を取り出す。

「ほう、それがお前の錫杖か。携帯するのに便利だな」

 着地と同時に杖を伸ばし、構えた。

 ナイフを振り上げた男がこっちに突っ込んでくる。

──ごめんなさい!

 心の中で謝りながら、経真は錫杖を真っすぐ突き出した。

 ドン、と肉の塊に当たった手ごたえがした。

 男が胸に手を当て、怯んだ。

 今だ。

「オン・バザラ・ヤキシャ・ウン!」

 両手で小指を立てた印を組みながら、経真が真言を唱えた。

 男の全身が黄金色に包まれた。胸の辺りから黒いモヤのようなものがもくもくと出て行く。

「……」

 男の動きが止まった。

 そしてガクッと膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れていった。

 偽郵便局員は床に顔を打ったようだが、血が出ているようには見えないし、大した怪我はしていないだろう。経真は安心したように息を漏らした。

 すぐに魔物のほうに向き直り、睨みつけた。

──今なら攻撃できるか⁉

 瞬時に攻撃用の印を組んだ。

 だが、それよりも先に僻來が動いていた。

「ほお……。なんだ、まったく人間を傷つけられないという訳ではないんだな」

 そう話す魔物の手の爪が、まるで槍のように伸びている。鋭利な刃物のように光っていた。それが鈴夏の喉元に当たっていた。

 血は出ていない。まだ、切られてはいない。

「ん? おれを攻撃しなくていいのか?」

「……くっ!」

 いい性格をしている。なんて狡猾な奴だ。

「お前ら人間というのは甘い生き物だな。おれなら仲間なんぞ見捨てるが」

「お前と一緒にするな……!」

 目の前に鈴夏がいるのに、助けられない。

 経真は己の力量の無さを恨んだ。

「ふむ……」

 呟くと、僻來がこちらにつかつかと歩いてきた。鈴夏に向けられた右手の爪が、歩くのに合わせて伸びる。切っ先の位置は動いていない。

 魔物が経真の目の前で止まった。

 ボクッ。

 鈍い打撃音とともに、経真の身体が横に小さく跳んだ。

 僻來の左腕がフックを放ったのだった。

 身体をコンクリートの床に横向きに叩きつけられ、経真が呻く。

「んーんっ!」

 棒立ちの鈴夏が目を見開いてこっちを見た。

 誰かに殴られたのははじめてだった。こんなに痛いものだとは思わなかった。肉体的なダメージもそうだが、精神的にも経真には堪えた。

 そこへ僻來が近づいてきて、草履を穿いた足で経真を蹴り上げた。

「うがっ!」

 右脇に激痛が走った。あまりの痛みに一瞬、呼吸が止まる。

 全身に脂汗が浮いてきた。

「どうした? 抵抗しないのか?」

 何でもないような表情をして、魔物が訊いてくる。

 真っ黒な瞳が経真を冷たく見下ろしていた。

 返事をせずに、経真は脇を押さえながらふらふらと立ち上がった。

──くっそ、痛ぇ……。敵から直接パンチや蹴りを喰らうの、はじめてだな……。そんなことより、何とか隙を見て、鈴夏を助け出さないと……。

 ふぅ、と僻來の口から息が漏れる。少し笑ったような顔になった。

 次の瞬間、経真の腹に強烈な足刀蹴りが突き刺さった。爪先が腹にめり込んだ。するはずのない、メリッという音が経真に聞こえた。

 経真の身体が一メートルほど後方に吹っ飛ぶ。

「がはっ……!」

 硬い床が背中に迫る。経真は咄嗟に錫杖を手放し、両手で受け身を取った。

 ズザザザザ、と身体が床の上を滑る。受け身をしなければ、後頭部を強く打っていたかもしれない。

 経真の周囲にほこりがもうもうと舞っていた。

 腹が抉れたかと思うほどの痛みを感じる。さっき殴られた頬、蹴られた脇がジンジンと熱を発している。擦った背中だってヒリついている。はじめて味わう肉体の苦しみに経真の心は囚われた。苦痛が精神を乗っ取ろうと腕を広げている。

「抵抗できない人間をなぶるのも、それはそれでいいか」

 草履がコンクリートを擦る音が近づいてくる。

 痛みに歪む顔で経真は魔物を見上げた。表情が読めない。こいつに感情などないのだろうか。

 山伏の格好をした魔物は、膝を自身の腹につくほど大きく上げて……。

 経真の鳩尾に勢いよく脚を下ろした。

 ミシミシッ、と骨が軋む音がした。

「ごふぁっっっ!」

 腹がふたつに裂けそうな、強烈な痛みだった。経真の口から、唾に混じって赤いものが吐き出された。

「んー! んんんんんんーーーっ!」

 鈴夏の声が聞こえる。僻來の術で声帯も抑えられているのに、悲しみが伝わってくる声だった。

 僻來が経真を踏みつけながら、しゃがんで顔を覗き込んできた。

「痛みに苦しむ人間の顔はやはりいいな。満たされる感じがする」

 無表情でそう言い放つ。

 涙が滲んだ目で、経真は敵を見た。

 爪が元に戻っている。

 と、いうことは鈴夏は今、安全な状態なのか? もしかして今なら攻撃できる……?

 経真は顔を動かして、鈴夏のほうを見た。

 期待はすぐに砕かれた。

 いつの間にか、別の男が鈴夏の横に立っていた。手には鈍くきらめくサバイバルナイフ。

 ミリタリーパンツを穿いた男は、焦点の合わない目をしながら刃を少女の首筋に当てていた。

 かがり火の薪木が燃えるパチパチという音が、静かに倉庫内に響いた。

──抜け目ない奴だ……。くそ、どうする……?

 こういうときに、ひとりで戦っていることが悔やまれる。

 親父がいてくれれば。経真は思った。

「どうやら当てが外れたようだな」

 僻來の足がぐりぐりと経真の腹を圧迫する。

「ぐっ……。ぐぅぅ……!」

「お前が死ねば、あの娘も死ぬことになる。でも、あの娘が死んでもお前は死なない。それなのに」

「うるさい! 黙れっ!」

 魔物の甘言など、聞く気はなかった。

 ス……と、僻來の足が遠のいていった。

 僻來が拳を振り上げている。顔面に来るかと思い、経真はぎゅっと目を瞑った。

 左肩の骨が鳴った。肩の肉に、魔物の黒い拳がめり込んでいる。

「ぐぁぁぁあああーー!」

 今まで喰らったことのない、重量感のある肩パンだった。折れたかもしれない。それくらい内部から鋭い痛みを感じた。

「ちゃんと聞けよ、人の話は。ま、おれは人じゃないがな。そうだ、折角だからあの娘の意見も聞いてみるか?」

 僻來の指が鈴夏へ向く。そしてパチッと指が鳴った。

「ん……ぁ……。あ、あれ……?」

 少女の声が出るようになった。だが、首から下はやはり動かせないらしい。

「け、経真! 逃げてっ!」

 鈴夏の口から最初に放たれたのは、そんな言葉だった。

「鈴夏……」

「あたしのことはいいから! 逃げて!」

「馬鹿言うな……。お前を置いて逃げられるかよ……」

 僻來は腕を組んで、ふたりのやりとりを見ていた。相変わらず無表情だ。何を考えているのかまったく読めない。

「だ、だったら戦って! あたしのことは考えなくていいから! あんた、このままじゃ殺されちゃう!」

 そんなこと、できる訳がないだろう。

「おい、娘もああ言っているぞ」

 僻來が経真を見た。

「……。鈴夏、お前にもしものことがあったら、おれはもう……」

「もう、何だ?」

 ぐいっと魔物が黒い顔を経真に寄せた。

 切れ長の細い目が、経真の目をねぶるように捉えている。

 経真はそれを強く睨みつける。

「ふん……」

 手刀が経真の胸に振り下ろされた。

 衝撃が正中線を縦に走る。瞬間、電撃のような痛みが駆け抜け、身体が縦に割れたかと経真は思った。血が、開いた口から飛沫となって吹き出た。

「や、やめてーーーーー!」

 かがり火の方向から悲痛な声が飛ぶ。

「あ……。あ……。ぁあ……」

 ピク、ピクッと経真の肩が小刻みに震えている。目が大きく開かれ、眼球から力が感じられない。口からは涎が幾筋も垂れていた。

「立て」

 経真の腕が魔物に引っ張られ、上半身が起こされた。続いて尻が浮いた。経真は足腰に力が入らない状態でなんとか立ち上がった。

「ぐぅ……。お、お前……。おれのことは好きにしていいから、鈴夏は放せ……。関係ないんだ、あいつは……」

「さあ、どうするかな」

 僻來の身体が反転した。次の瞬間、痛烈な裏拳が経真のこめかみを襲った。

 身体が回りながら吹き飛ぶ。背中から硬い床に落ち、一回転した。戦法衣の上が擦り切れ、破れてしまった。

 倒れて床に接触した顔に、白い袴から伸びた足が迫る。

 経真は咄嗟に腕で頭部をガードした。

 右腕から嫌な音がした。

「あっ……! ああぁぁあああぁああっっっ‼︎」

 利き腕を潰された。

 痛いなんてもんじゃない。経真は思わず身をよじり、転がった。

「経真ーーー‼」

 もう鈴夏の声も耳に入らない。痛みと、それから生まれる恐怖に全身が囚われてしまっている。

──お、おれ、ここで死ぬのかな……。こんな奴に殺されるのか……。ごめん、じいちゃん、母さん、親父……。鈴夏……。

 魔物が不服そうな目で、転がる経真を見ている。

 やがて、大きなため息をついた。

「ここらで一番強い退魔師と聞いていたんだが……。こんなものなのか。まったく、人間というのは理解に苦しむ。なぜ、そうも互いをかばい合う? 自分の足を引っ張る存在なのに」

 言い返す気力もない。

 経真には、もう、打つ手が思いつかなかった。

 錫杖は離れたところに転がってしまっている。

 懐の独鈷杵は手にした瞬間、鈴夏に危害が加えられるだろう。

 経の暗唱をする暇なんてないし、真言を唱える隙だって作れない。

 万事休すだった。

 大切な、家族のような女の子ひとり救えないなんて我ながら情けない……。

 鈴夏……。

「お、おれは、どうなってもいい……。その代わり、す、鈴夏だけは、見逃してくれ……。た、頼む……」

 おれの命で鈴夏が助かるなら。

 それでもいい。

 ああ。魔物に頼み事なんて、退魔師として失格だね、じいちゃん……。

「飽いた。つまらん」

 僻來の右手の爪が伸びた。側面が鋭利な刃となり、かがり火の赤い光が反射している。まるで細い剣のようだ。

 ピタッと爪が経真の胸の上で止まる。

 この下にあるのは……心臓だ。

──終わり、か。

 鈍った思考でも、それは感じられた。視界がぼやけているが、自分の心臓に鋭利なものが突きつけられていることは認識できていた。

 不思議と恐怖はなかった。

 ただ、鈴夏がここから無事に帰って欲しいと、それだけを経真は考えていた。

 小さいころからいつもおれを引っ張って、助けてくれた鈴夏。

 今度はおれがお前を助ける番だ。

 世話になったな。

「やれやれ、わざわざあんな山から降りてきたというのに……。こんなことなら、ほかの土地に移動すれば良かったかもしれん。そうすればもっと骨のある退魔師に会えたかもしれない。噂など、アテにならないものだな」

 噂……? おれのことをほかの魔物から聞いたのか。だったら、魍暗のこともなにか聞いていないだろうか。

 もし魍暗の所在が掴めるなら、敦胤を復讐から早く解き放つことができる。

 聞きたい。でも、経真にはもう口を開く気力も、体力も残っていなかった。

「人質を取られたくらいでこのザマだ。きっと、普段通りに戦えてもお前の力は大したことなかったんだろう」

 その言葉に鈴夏が嚙みついた。

「違うっ! 経真は強いんだから! 正々堂々と戦ったら、あんたなんかすぐ退治されるわ!」

 じろり、と蛇のような眼球が鈴夏を捉えた。

 鈴夏は怯まない。

 恐怖でいっぱいであろうに、少女はキッと視線の主を睨みつけた。

「気が強い娘だな。……ふむ、よく見ると中々美味そうじゃないか」

「え……。えっ……⁉」

 制服の少女の表情が、一瞬で恐怖のそれに変わった。

──⁉ こいつ、人を喰うタイプの魔物なのか⁉

「後で喰らおうと思っていたが、動いたら少々腹が減ってきたな。小僧を殺して今喰うことにするか」

 始めから鈴夏を生かしておくつもりなどなかったのだ。

 僻來の口から、爬虫類のような、先がふたつに分かれた舌が顔を覗かせていた。それが唇を這い、魔物の口元がてらてらと妖しく輝く。

 鈴夏の口がカチカチと音を立てて震え出した。言葉をうまく発せないようで、小さく「ぁ、ぁ……」と口から漏らすだけだった。

 少女の目にはいつの間にかダムのように液体が溜まっている。そこから、温かい水が溢れてこぼれ落ち、頬を伝っていった。

「よし、食事の時間にしよう。明禅経真、死ね」

「ふざけるな‼」

 破壊音がした。

 僻來の剣のように伸びた爪が、粉々に砕かれていた。

 経真の左手が、胸の上で拳になっている。どうやらその手で僻來の爪を握り潰したようだ。

「ほお……」

 魔物が感嘆したような声を上げる。

「お前なんかに、鈴夏を喰わせてたまるか……!」

 青年の全身が、紅いオーラに包まれている。霊気とも違う。左右のかがり火の炎が、オーラに呼応するかのように激しく燃え盛った。

 退魔師がゆっくりと立ち上がった。

 怒りで全身が震えている。

 鈴夏の顔から恐怖が消え、代わりに驚きと安堵が浮かんでいた。

「怒りの感情で力が跳ね上がったか。こういう人間もいるのだな」

 だが……、と僻來は続ける。

「状況はさっきとまるで変わっていないぞ? 娘はいいのか?」

 鈴夏の喉元には、今もサバイバルナイフが突きつけられている。人質に取られていることには変わりない。

 経真が憤怒の表情のまま、ナイフを持っている男を見た。

 すると、男は立ち眩みをしたように身体のバランスを失い、膝から崩れ落ちた。倒れる寸前にサバイバルナイフが男の手から滑り落ち、カランと音を立てた。

 迷彩パンツを穿いた男は気を失ったようで、そのまま動かなくなった。

「経真……!」

「鈴夏、待ってろ。今助ける」

 経真が手をかざす。すると、離れた場所に転がっていた錫杖が光輝き、宙に浮いた。

 錫杖が経真に向かって飛んでくる。経真の前まで来ると、自ら彼の手の中に収まった。

「お前は許さない……!」

 右腕の損傷などないかのように、経真は錫杖を振るった。

 紅いオーラが炎のように揺らめく。まるで、明王の背後で燃え盛っている猛炎のようだった。

「これなら楽しめるかもしれんな」

 僻來の粉砕された爪が再生していく。追うようにして、右手の残り四本の爪が剣のように伸びた。

 さっきまでと違い、爪の剣が深紫こきむらさき色に光っている。

 硬い床を蹴って、僻來が経真に飛び掛かった。

 上段から袈裟懸けに五本の剣が振り下ろされる。

 ガキッ! 硬い金属同士がぶつかる音が倉庫内に響いた。

 黄金色に光る錫杖と僻來の剣が衝突していた。

 剣の硬度が上がっている。さっきまでと同じレベルなら、今の一撃で折れていたはずだ。どうやら、僻來は妖気で爪の剣を硬質化していたようだ。

 両者の力は拮抗しているようで、ふたりの身体はその場から動かない。武士のつばぜり合いのような様相だった。

「属性はおれが『金』でお前は『土』。皮肉だが『相生』の関係でお前はおれの力を強めてしまう。さあ、どうする?」

「そんなもの、関係ない」

 経真の錫杖が紅く光った。

 パンッという衝撃音がして、五本の爪が弾かれ、衝撃で僻來の身体が後ろに飛ばされた。まるで突風が吹いたかのように魔物が後方に吹き飛ぶ。

 僻來は空中で姿勢を変えて勢いを殺し、一回転した。曲芸師のように軽やかな身のこなしだった。

 僻來が前方を向いた姿勢でストッと片足で着地する。と同時に再度経真に飛び掛かった。いつの間にか、左手の爪も剣の状態になっていた。

 縦と横、二方向から経真に向かって斬撃が繰り出される。錫杖一本では防げない。

「経真っ!」

「……烈在前」

 経真の前に突如、曼荼羅状の障壁が浮かび上がった。

「なに……⁉」

 十本の剣はすべて霊気の障壁に弾かれた。経真は目にも止まらぬ速さで九字を切っていたのだった。

 略式の九字なのに、耐久力がいつもとは比べ物にならない。上級の魔物の攻撃を受けても、綻びひとつ生じていなかった。

「く……。邪魔だっ」

 僻來の左手の五本の剣が融合し、大きなひと振りの剣となった。腕から剣が生えているようなフォルムだった。

 僻來がその剣を勢いよく前方に突き出す。

 障壁に刃が突き刺さった。だが、刃先がめり込んだだけでそこから先へは進まない。

「おのれ……」

 僻來は右手の爪の剣も融合させた。そこへ妖気を注入し、経真の心臓の位置目がけて突き出した。

「ノウマク・サマンダ・ボダナン・バク」

 経真の右手の人差し指が振り下ろされる。

 二本目の太刀が障壁に突き刺さるよりも早く、経真の指が冷たい床に接触した。

 ズァアアアアアッッ!

 コンクリートの床から、ガス爆発が起きたかのような衝撃波が立ち上る。

「うぉ……」

 魔物が衝撃波に打ち上げられた。

 大きな音がした。僻來が倉庫の天井に背中からぶつかったのだ。その衝撃で鉄材がひしゃげ、パラパラとスチールの欠片が降ってきた。

 山伏の姿をした魔物が落ちてくる。

 そのまま蛙のように腹から落下するものと思われた。だが、僻來は二本の剣を引っ込めて、空中で姿勢を変えた。

 ドスン、と大きな音がした。

 もうもうと、埃がまるで煙のように辺りを白く曇らせている。

 その中で、黒い顔の魔物が膝をついて震えていた。

「こ、こんな……。こんなことが……! 貴様ぁ……!」

 僻來がはじめて感情を露わにした。

 目が大きく見開かれていた。真っ黒だった瞳が朱色に染まっている。

 着ている鈴懸のあちこちが破れ、背中が大きく開いていた。

 僻來が立ち上がる。

 魔物は両手を合掌させた。右手と左手の爪が再度伸びて、剣の状態になり……。十本の剣が融合していく。

 僻來の手から巨大な剣が生えている。特筆すべきはその長さだ。三メートルはあるかという大振りの剣だった。

 刀身は白磁のように白いのに、纏った妖気でどす黒い紫色に見える。

「その障壁ごと、貴様の首を斬り伏せてくれる!」

 経真は怒りの表情のまま、錫杖を握り直した。

 左腕に巻いている翡翠の数珠が、緑色にぼぉっと輝く。

 魔物が両脚に力を溜めている。

 跳んだ。

 十メートル。五メートル。三メートル。

 来た。

 刃が大上段から振り下ろされた。速い。

 バリバリッと鋭い音とともに、霊気の障壁を妖気の剣が引き裂いていく。

 僻來がニヤリと笑った。

 刃が曼荼羅を貫いた。勢いそのままに、経真の頭頂部に剣が落ちていく。

 斬られる。

「……っ‼」 

 鈴夏が咄嗟に目を閉じて、顔を伏せた。

 倉庫内に大きな衝撃音が轟いた。

「な……に……⁉」

 魔物が驚きの声を上げていた。

 一瞬の間に、経真が錫杖を両手で頭の上に掲げていた。

 深紫でコーティングされた刃が、黄金色に輝く錫杖に進路を阻まれている。

 僻來が腕に力を込め、錫杖を剣で押す。ピシッと経真の足元の床に亀裂が入った。だが、経真は表情ひとつ変えない。

 翡翠の数珠の光が強くなった。すると、両腕に伝わる剣の重量が軽くなった。

「……らぁっ!」

 気合一閃。剣を勢いよく押し返した。

 巨大な剣が浮いた。

 経真は右手で錫杖を持ち、それを頭上で振るった。

 バキ……ンッ。

 巨大な剣が真っ二つに折れた。折れたところから根元へ向かって亀裂が走っていく。

 瞬く間に長剣はひびまみれになり……。そのまま音もなく崩れていった。

「ば、馬鹿な……」

 唖然とした表情を浮かべている僻來。

「この世の物質すべてを切断する、おれの剣が……」

「おれの錫杖は斬れない。じいちゃんの想いが込められているこの錫杖が斬れるわけがない」

「そ、そんな不確かなもので……!」

「そんな不確かなものに、お前は負けるんだ」

 経真が錫杖を脇に抱える。身体を覆う紅いオーラが炎のように膨張した。

「ノウマク・サラバタタギャテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ……」

 両手が印の形に変化していく。

「センダマカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ……」

 僻來の表情に戦慄が走る。さっきまで無表情だったのが嘘のように、はっきりとそこから恐怖が感じられた。

「サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!」

「ぐあああぁあああぁぁあああああーーっっ‼」

 経真のオーラと同じ色の炎。それが僻來を飲み込んでいる。

 すべての邪悪を燃やし尽くさんとするかのような豪炎だった。

 僻來の身体から黒い瘴気が昇っていき、聖なる炎で焼かれた箇所が崩れていく。

「くっ……。どうやらお前の力を見くびり過ぎたようだ。だが、おれを倒したからと言って安心するな……」

 経真が無言で僻來を見る。

「お前を狙う魔物はこれからも現れる……。なにせ、おれたちを召喚している奴がいるからな……」

「なに⁉」

「せいぜい、死なないように気を付け……」

 そこまで言って、僻來の身体は消滅した。

 僻來が立っていたところから、天に向かって光の粒子が昇っていく。

 終わった。

 なんとか勝てた。

「経真!」

 後ろから声が聞こえた。

 振り向くと、鈴夏がこちらに駆け寄ってきていた。

 術者が消滅したので、術が解けたのだ。

「経真……。ごめん、あたし、あたし……」

「なに謝っているんだよ、すず……」

 突如、経真の胸に温かく柔らかい感触が広がった。

 幼馴染が経真の首元に顔を押し当てて、泣いていた。

「あたしのせいで、経真が死にそうになった……。う、ひっく、ごめん」

「鈴夏のせいじゃないよ。おれのほうこそ、ごめん。おれのせいで、鈴夏が攫われてしまった」

 否定の意を表すように、鈴夏が首を振った。

「怖い目に遭わせちゃったよな。でも、もう大丈夫だよ。だから、泣くなって」

 そう言いながら、経真は左手で彼女の頭をぽんぽんと優しく撫でた。

「ぐすっ……。うん」

 鈴夏が顔を上げた。

 端正な顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「さあ、帰ろう。おばさん達が待ってる」

「うん。……お腹、空いたしね」

「はは、違いない」

 そう言って、倉庫の入口へ向かおうとした矢先、

「あれ……?」

 右膝に力が入らなくなった。

 ガクッと体勢が崩れ、膝が床についた。

「ど、どうしたの⁉」

「いや、なんか力が抜けていって……。あ」

 ズキン、と右腕が急に大きく痛み出した。それと同時に、身体のあちこちが急に痛み始める。

「ダメ、かも」

 バタン。その場にうつ伏せに倒れる経真。

「ちょ、ちょっと経真! 経真っ⁉ しっかり……」

 次第に鈴夏の声が遠くなる。視界が徐々に狭まっていくなか、経真はどうやってここから鈴夏と帰るかを考えていた。

 

     ◆


 目を開けると、いつもの天井じゃなかった。

──ん、あれ……。ここって……。

 藤明院ではない。でも、どこかで見たことがある天井。

 なにかいい匂いがする。ふわっとした、心が落ち着くような匂い。それに身体が包まれている。そう言えば、夢の中でも同じ匂いを嗅いでいたような……。

 その前に、ここ、どこだ?

 身体を起こそうとした瞬間、経真は全身に電流が走ったような痛みを覚えた。

「い、いっ痛ぅぅぅぅ……!」

「ん……?」

 顔の横のほうから寝ぼけたような声が聞こえる。

 経真は顔だけ動かして、そちらを見た。

 すぐ傍に、鈴夏の顔があった。両腕を枕にして突っ伏している。

「けいま……?」

 鈴夏が目を開けて、顔を上げる。

「経真! 良かった、目を覚ましたのね……」

 幼馴染が、心から安堵したという表情を見せた。

「ここって……」

「あたしの部屋。あんた、あの後気を失っちゃって大変だったんだから」

 どおりで見覚えがある筈だった。高校生になってから上がるのははじめてだったので、気づくのに時間がかかってしまったのだろう。

 ということは、今横になっているのは鈴夏のベッドか。いくら仲のいい幼馴染とはいえ、女の子のベッドで寝ていることに、経真は少し気恥ずかしさを感じた。

「おれ、気絶してたのか……」

 確かに鈴夏を助けてからの記憶がぷっつりと途切れている。

「あれから家に電話して、お父さんに車で来てもらってすぐに病院に行ったの。あんただけ診てもらうつもりが、なぜかあたしまで診察されて……。お父さん、心配性だから」

 一人娘なのだから仕方がないだろう、と経真は思った。

「そう言えば、手当されてる……」

 身体のあちこちに包帯が巻かれ、右腕にはギプスがつけられていた。

「幸い、骨折はしていないって。でも、右腕の骨にヒビが入っちゃってるから、当分は安静にするように、だって」

「マジか……」

「マジよ」

 利き腕が使えないのはいろいろと困る。学校生活もそうだし、家事や寺の仕事にも差し支える。

「弱ったな……。ところで、なんでおれ、二階の鈴夏の部屋で寝てるんだ? 鈴夏ん家に泊めてもらうんだったら、別に一階の客間とかでもいいのに。ここまで運ぶの大変だったろ」

「一階だと生活音がうるさくて休めないだろうからって、お母さんが。ほら、おばあちゃんもいるし」

「そうなんだ。気を遣わせちゃって悪いことしたな……」

「別にいいわよ。お父さんもそのほうがいいだろう、ってあんたを二階にに運んでくれたのよ」

「いや、病院に連れていってまでしてもらったんだから、あとでちゃんとお礼を言わないと」

 祖父と母からこういうことはきちんと躾けられている。

 ふと窓の外に目を向けると、雲間に赤い夕日が見えた。

「今日って何日?」

「九日よ。あれからほぼ一日、ずっと寝てたのよ、経真は」

 そんなに長時間寝たのははじめてだ。寝すぎて頭がぼんやりしている。

 そう言えば鈴夏は制服を着ている。学校帰りだったようだ。

「ねえ、経真」

 鈴夏が改まったように呼びかけた。

「うん?」

「助けてくれて、ありがとう」

 頬が紅く見えるのは夕日のせいだろうか。心がこもった声で、幼馴染が言った。

「あたし、怖かった。動けなくされて、何されるんだろうって。このまま殺されちゃうのかもって。でも、経真がきっと来てくれるって信じてた」

「鈴夏……」

「経真があいつにいっぱい傷つけられて、そのとき思ったの。自分が死ぬのも怖いけど、それよりもあんたが殺されちゃうほうが怖いって。だって……」

 そこで鈴夏は一呼吸置いた。

「美冬おばさんが殺されて、経真まで死んじゃったら、あたしどうしたらいいか分からないから……」

 少女が目を伏せて、手元に視線を移した。

 こんなしおらしい鈴夏を見たのは久しぶりだった。

 経真はなんだか胸が苦しいような、嬉しいような、不思議な気持ちになった。

「なあ、鈴夏」

「え?」

「死なないよ。俺は。だって、まだじいちゃんみたいな一流の退魔師になれてないからな」

 それにさ、と経真が続ける。

「お前のことも守っていかなきゃだしな。大事だから」

 鈴夏の大きな目が瞬いた。頬がさっきよりも紅く染まっている。

「だ、大事って。どういう意味……?」

「へ? だって、家族みたいなもんじゃん、おれたち。子どものころからずっと一緒だし」

 少女の顔が一瞬にして期待が外れたような表情に変わった。そのままくるりと身体を反転して背を向け、

「そんなことだろうと思ったわよ……」

 と小さく呟いた。

「ん? どうした?」

「な、なんでもないわ」

 鈴夏が立ち上がった。

「あたし、お母さんに経真が起きたこと知らせに行くから。このまま大人しく寝てなさいよね」

「ああ。悪いな。そうさせてもらうよ」

 小さな口から息を漏らすと、鈴夏はドアを開けて階段を降りていった。

 鈴夏の部屋にひとりになった。

「……うーん、やっぱり鈴夏のベッドで寝るってのはちょっと恥ずかしいな。……おぉ、枕がふかふかだ。でも、夢の中でこれより柔らかい枕で寝ていたような……」

 思い出そうにももう忘れてしまった。柔らかいだけでなく、温かかった気もする。

 階下から女性の話し声が微かに聞こえる。鈴夏と圭子が喋っているのだろう。経真は、以前は当たり前に家の中で聞こえていた自分の母親の声が、急に懐かしく思えた。

 それにしても、あのときの自分の爆発的な力はなんだったんだろう。あんなこと、今までなかった。どんどん生命力と霊力が高まっていくあの感じ。あんな力が自分にあったとは……。

 祖父や父親はそのことを知っていたのだろうか。もし知っていたのなら、教えてくれていてもよかったのに。

 僻來と名乗ったあの魔物。すごく強かった。いつもの自分の力だけだったら、人質を取られていなくても勝てたかどうか分からない。

 そう言えば、奴が気になることを言っていた。

──『おれたちを召喚している奴がいる』ってあいつは言っていた。それが本当なら、これからあれくらい強い魔物がどんどん出てくる可能性がある。おれひとりじゃこの土地の人たちを守り切れないかもしれない……。

 最近、霊や魔物の数が増えたことと無関係ではなさそうだ。

 自分が考えていたよりも事態は深刻なようだ。自分だけの力で解決することは不可能だろう。

──親父に連絡を取るしかない、か……。

 しかし、敦胤は携帯電話を持っていない。今どこにいるのかも分からない。

 可能性があるとすれば、五星会だ。

 敦胤は五星会で培った人脈を頼りに全国を渡っている。だったら、五星会に連絡を取れば足跡が分かるかもしれない。

──回復したら、東北支部に電話してみよう……。

 そこまで考えをまとめて、経真は大きくあくびをした。三日分くらい寝たと思ったのに、またうとうとし始めた。

──じいちゃん。母さん。親父。なんとか鈴夏は助けられたよ……。

 幼馴染の心地いい匂いにくるまって、経真はまた眠りの世界へと出発した。

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