第2話 冷たい川
玄関のほうから聞こえた物音で、
──玄関が開いた? 今、何時……?
枕もとのデジタル時計を手に持ち、液晶のバックライトを点灯させる。
午前二時十二分。まだ深夜だ。
こんな時間に誰が外に出て行ったのだろう。
いや、もしかしたら誰かが入ってきたのかも。泥棒?
奈美恵に緊張が走り、眠気が一気に吹き飛んだ。
静かに布団から這い出て、足音を立てないようにそろり、そろりと寝室の戸まで近づいた。そのまま静かに、ゆっくり戸を開ける。
こんなときには男手があればいいのだが、あいにく夫は長期の出張中だし、脚の悪い義父を頼る訳にもいかない。
門脇家の玄関は、奈美恵夫婦の寝室と廊下を通して直線で繋がっている。部屋の入口から玄関を見たが、暗くてよく見えない。
物音はしない。もしかして、空耳だったのだろうか。
いや。いつも眠りが浅く、音に敏感な自分が感じたのだから、音自体はしたはずだ。
そう考えて、奈美恵は意を決して廊下の電気を点けた。
橙色のLED電球に照らされた廊下。光は玄関にも届いていて、薄ぼんやりと三和土と上がり框が見えるようになった。
誰もいない。
もしかしてほかの部屋に侵入しているのだろうか。
この家は平屋建てだ。部屋数は多くない。奈美恵はスリッパを履かず、音を出さないよう素足で各部屋の戸を確認しに行った。
台所、浴室、トイレ。居間、義理の両親の部屋、子どもの部屋。すべて閉まっていた。
泥棒が部屋に侵入後、ご丁寧に戸を閉めるとは思えない。となると、多分、泥棒じゃない。
そう思ったら奈美恵は急に身体から力が抜けた。緊張で全身が強ばっていたようだ。
──でも、そうしたらさっきの音は誰かが出て行ったってこと?
門脇家に住んでいるのは、奈美恵と夫、夫の父母、そして一人娘の加奈子だけだ。夫は今いないから、義父か義母か加奈子が該当者ということになる。
奈美恵は寝ている家族を起こさないよう、静かに玄関まで移動した。
三和土に家族の靴が並んでいる。いつも右のほうに置かれている加奈子のクロックスがなかった。
──加奈子が外出した? こんな時間に?
どこに行ったのか。コンビニはこの辺りにはない。散歩に行ったわけでもないだろう。
まさか、悪い人間と付き合いがあって、会いに行ったのだろうか。娘はこの春から高校生になった。そういう人間と接点が出来てしまったのかもしれない。
奈美恵は寝室に戻ってパジャマの上からカーディガンを羽織ると、そっと玄関の扉を開けた。
あの物音がしてからまだ大して時間は経っていない。もしかしたら、加奈子はまだ近くにいるかもしれない。
外は真っ暗だった。今夜は雲が多く、ちょうど今は月が隠れていた。ここは住宅街だが、灯りがともっている家は皆無で、数十メートル置きに立っている街灯の光だけがアスファルトを照らしていた。
家の前に出てきょろきょろと左右を見渡すが、人影は見えない。
右か左、どちらかの方向に行ったはずだ。奈美恵は勘でアタリをつけて進んでみることにした。
高校への通学路でもある右の道。
スマホのライトで道を照らして、普段より速めの速度で歩く。頭の中では一人娘が非行に走っている絵が浮かんでしまい、奈美恵は胸に苦しさを覚えた。
田舎の住宅街なので、こんな時間には誰も歩いていなかった。ひっそりと静まり返った空間に、奈美恵の靴の音がやけに大きく聞こえる。見慣れた風景がまるで異世界のように違って見える。
二分ほど歩いた。もうすぐT字路だ。またアタリをつけて進むとなると、追いつける確率がまた下がってしまう。そもそも、こっちの道で合っていたんだろうか。
こんなことなら、加奈子のスマホにGPSアプリを入れさせておけばよかった。いや、加奈子も年頃なのできっと嫌がって入れてくれないだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかT字路の手前まで来ていた。
さて、右と左、どっちに行くべきか。
奈美恵が視線を右の道に向けると、歩いている人の姿を発見した。パジャマ姿の女性だった。
加奈子だ。
奈美恵は思わず大きな声を出した。
「加奈子!」
聞こえていないのか、娘は歩を止めない。
いや、よく見ると歩き方が少しおかしい。ふらふらとした足取りで、まるで夢遊病者のような……。
奈美恵は小走りで加奈子の後を追った。
「加奈子」
追いつくなり、すぐ後ろから声をかけた。
反応はない。
だから奈美恵は肩を掴んだ。
「どこ行くの、加奈子。こんな時間に危ないでしょ?」
返事が返ってこない。それどころか、肩を掴まれたまま、娘は歩き続けている。
「加奈子!」
奈美恵が加奈子の前にまわりこんで、正面から声をかけた。
その瞬間、雲間から月が顔を出し、月光が親子を照らした。
「!」
娘の表情がおかしい。目が半分閉じていて、眼球が灰色に濁っている。焦点も合っていない。
口が少し開いていて、ぶつぶつと何かを小さい声で呟いていた。
そして娘は、目の前にいる自分の母親に気づいていないようだった。
「加奈子、加奈子!」
奈美恵は加奈子の両肩を掴んで激しく揺すった。
「…………。え……? あれ、お母さん……?」
「加奈子!」
「あれ、わたし何で外にいるの? 部屋で寝ていたはずなのに」
そう言って辺りをきょろきょろと見渡した。ふざけているようには見えない。
「パジャマ着て外に出ちゃったの? え、え、何で? なんで?」
訳が分からないのは奈美恵のほうだった。狼狽する娘を見て、奈美恵は異様なものを感じた。背筋に冷たいものが流れる。
「加奈子、とにかく帰りましょう。明日、詳しく話を聞かせて」
奈美恵は不可解な事態に戸惑う娘を連れ、もと来た道を戻っていった。
◆
「……ということがありまして」
藤明院の本堂。法衣姿の経真が、相談者とその娘を前に座していた。
「なるほど。それが初日の出来事だったんですね」
四月の下旬に差し掛かった、ある日曜日。桜は終わりかけていて、葉桜が目立つようになった時分だった。
今日は午前は晴れていたが、午後からどんよりとした雲が広がって、お堂の中も少し暗い。
「そして、次の日も同じことが起きました」
奈美恵が話を続ける。
「そのときも同じ時間帯に娘が出て行って、わたしが捕まえました。おかしいと思い、次の日に加奈子を総合病院に連れていって、心療内科で夢遊病と診断され、薬を処方されました」
奈美恵の隣に座っている、学生服と思われるジャンパースカートを着た娘が、気まずそうに視線を泳がせている。
この制服は見たことがある。確か隣町の女子高の制服だ。少女は少しふっくらとした体形で、真っすぐ伸びた黒髪が肩にかかっていた。
この娘は、事前に聞いた話では高校一年生ということだった。年頃の女の子が自分の痴態を若い男性に晒すのは、さすがに恥ずかしく、落ち着かないのだろう。
「薬をもらって安心していたんですが……。その夜も同じことが起こったんです。まだ薬がちゃんと効いていないのかな、と思ったのですが、次の日も、その次の日も起きて。結局、毎日続いています。病院ではもう少し様子を見るように言われたんですが、病気とは違うような気がしまして……」
母親に元気がない。娘よりも母親のほうがまいっているように見える。あまり眠れていないらしく、目の下にクマがあった。
「もしかして、何かの祟りだったりするのでしょうか?」
「祟りって……」
隣の娘が鼻で笑った。
「そんなの、非科学的すぎるよ、お母さん」
「何言っているのよ、もしそうだったらどうするの。病院じゃ治せないじゃない」
「そりゃそうだけど……」
「それに藤明院さんにも失礼でしょ。やめなさい」
「……はい」
経真は苦笑いをしてそのやり取りを見守っていた。
「加奈子さんの仰る通り、霊とか祟りとかは非科学的ですけれど、目に見えない世界が昔から存在しているのも事実なんです。例えば今でも神仏や亡くなった人の霊魂を丁重に扱うのも、それで何かしらが起こるから現代まで続いてきたのだと思いますよ。まあ、見えないので立証するのが難しいんですけどね」
微笑みながらそう言う。
加奈子は「なんとなく分かった」という表情になり、経真と目が合うとパッと視線をよそへ移した。人見知りなのかもしれない。
「もし何か良くないものが憑いていたら、ぼくが祓っちゃいますから安心してください」
「あの……。こう訊くと失礼だとは思うんですが、その、大丈夫……なんでしょうか? その、明禅さんが随分お若いので……」
「お母さんだって失礼なこと聞いているじゃない」
「加奈子」
母親がキッと鋭い視線を娘に送った。
憎まれ口を叩くのは、きっと自分の恥ずかしさを誤魔化すためなのだろう。
経真がまた苦笑した。
「はい、それは任せてください。これでも退魔師としては小学生のときから訓練を積んでいますし、除霊の経験も十分積んでいるつもりです。密教僧なので、密教特有の除霊技術も身に着けています」
「確か、娘と同じ高校生でしたよね? それなのにもうお坊さんをされているんですか?」
「ぼくがうちの宗派の僧侶資格を取ったのは中一のときです」
「中一⁉」
奈美恵が声を上げ、加奈子も驚いて視線を経真に向けた。
「はは、僧侶になるのに年齢制限はないんですよ。でも、うちの宗派は修行内容に体力を使うものや霊的なものも含まれるので、普通は成人してから資格を取るのが一般的なようです。ぼくは小学生のときに先代に師事して鍛えられていたので、早い段階で僧の認定を受けられた、ということなんです」
「へええ~……。あ、やだ、すみません、わたしったら」
「ああいえいえ、大丈夫です」
経真は相変わらず柔和な微笑を浮かべている。経真の朗らかな雰囲気に奈美恵の気持ちもほぐされたようだ。経真には昔から人の心を落ち着かせる不思議な魅力があった。
「うちは代々悪霊祓いをやっている寺です。ぼくもその技術は受け継いでますからご安心ください」
「はい。失礼なことを聞いてすみません」
経真は片手を上げて、首を横に振った。
「話を戻しますね。加奈子さん」
呼ばれた少女が顔をこちらに向ける。
「身体の具合はどうですか? 何か気になるところはないですか」
「え……と、朝起きると身体がだるくて、日中も眠気があります」
「なるほど……。ほかには?」
「特にない……です。授業と吹奏楽部の練習に支障が出てるので、早く治って欲しいです。来月は体育祭もありますし」
ふむふむ、と頷きながら、経真がメモ帳に走り書きをした。
「分かりました。ありがとうございます。それでは、そろそろ始めましょうか。加奈子さん、こちらに来てください」
青年が須弥壇前の座布団を手で示した。
加奈子がそこに座ると、経真は大きく息を吸い、吐くように指示した。
「それでは、目を閉じてください」
経真が茶色の数珠を鳴らし、両手の指を交差させて合掌した。瞼を閉じる。
……。余計な霊の存在は感じられない。それに今加奈子にくっついている霊はどれも良性のものだ。
だとしたら、魔物だろうか。
経真は今度は妖気を探った。先の山口正太郎の件もある。体内に欠片でも残っていないだろうか。
……あった。強めの妖気が加奈子の中に残留していた。
液体? 濡れている?
妖気からそんなイメージを感じた。
おそらく、魔物はこの妖気を加奈子に植えつけることで加奈子の身体を受信機のような状態にし、夜中に操っていたのだろう。
これを取り除けば事態は解決。そうなればいいのだが、多分ダメだろうと経真は思った。
操られた回数が多いので、妖気を抜いたところで効果はないだろう。もう魔物に馴染んでしまっているので、妖気の有無関係なく操れるはずだ。
──しょうがないな……。
「オン・アミリティ・ウン・パッタ」
経真が両手を交差させ、両方の親指で小指を抑えた。「
すると、加奈子の全身が青い光に包まれた。群青の空の色のような、目の覚める青だった。
続けて、印を組み替えて「オン・バザラ・ヤキシャ・ウン」と別の真言を唱えた。今度は黄金色の光が加奈子を包んだ。
光が消えると、経真が口を開いた。
「……はい。それでは、目を開けていいですよ」
加奈子の一重の瞼がゆっくりと開いていく。
眠りから覚めたようにパチパチと瞬きを繰り返す加奈子。経真はひとまず加奈子に元の席に戻ってもらった。
「どうですか? 何か身体に変化は感じますか?」
「え、と……。頭がスッキリしたというか、軽くなったというか、そんな感じがします」
「はい。加奈子さんには霊が憑いていたわけではなく、祟りも受けていませんでした。ただ、厄介なものが送り込まれていたので、それを除去しました」
「厄介なもの、ですか?」
「はい。加奈子さんと門脇さんは『魔物』という存在をご存じですか?」
「ゲームとかファンタジー漫画なんかに出てくるやつですか?」
と加奈子。
「得体の知れない恐ろしいものの比喩、でしょうか」
母親のほうはそう答えた。
「そうですね。一般的にはそういった認識で合っているのですが、我々退魔師の間では現実に存在する異形の怪物たちを『魔物』と呼んでいます」
「現実にいるんですか?」
母娘は驚いた、というよりも訝しむような表情を見せた。
「そうなんです。……と言っても、普段彼らは人目を忍んで生きているので、中々目にする機会はないと思います。分かりやすい例だと、『妖怪』ですかね」
「妖怪」
「はい。アニメや漫画にも出てくる妖怪です。存在としては知れ渡っているけれど、実際に見たという人は、まあいないじゃないですか」
「はい。……お母さん見たことある? 青森のおばあちゃん家のほうで」
「ないわよ。座敷童子だって見たことないわ」
「あの辺ってそういう昔話が結構伝わっているんじゃないの?」
「あくまで昔話よ。おばあちゃんだって見たことないんじゃないかな」
そんなものなんですよ、と経真が言った。
「でも、彼らは時々人里にも現れているんです。姿を人から見えなくしたり、人間に化けたりしている者もいれば、人が寝静まった頃合いに出てくる者だっています。彼らは人間の『気』にあたる『妖気』を発しているので、それを感じ取れる人間がいればすぐに分かるんですけどね」
「明禅さんも分かるんですか?」
母親が訊いた。
「はい。あんまり遠くのものは感じ取れないですけどね。それで、ここからが大事なところなんですけれど……」
前置きしてから軽く咳払いをした。気圧が低いのか、少し喉がイガイガする。雨が降るのかもしれない。
「加奈子さんの身体にはその妖気が入り込んでいました」
「『え⁉』」
対面の母娘が同時に声を上げた。
「妖気は人間が喰らうと体調が悪くなることがあります。加奈子さんが朝起きると身体がしんどかったのは、そのせいもあると思います。寝ているときは無防備になるので、妖気の影響が出やすいんです」
「……」
「じゃ、じゃあそれを取り除けば加奈子は治るんですか?」
「残念ながら、そうじゃないんです。加奈子さんの夜中の行動は、妖気が直接の原因じゃないんです。犯人は加奈子さんに妖気を浴びせることでマーキングのようなものをしました」
「マーキング」
加奈子の顔が少し青ざめた。マーキングなど犬猫などの動物がするものだが、この文脈だとじっとりとした怖さを感じる。
「はい。そうして、遠くから毎晩加奈子さんを操っていたんです」
「遠くからって……。じゃあ、もしかしてわたしは、そいつのところに毎晩行こうとしていたってことですか?」
経真が首を縦に動かした。
母親が叫んだ。
「そ、そんな! 早くその妖気とやらを取ってください!」
「妖気はすでに除去しました。そこは大丈夫です」
「そ、そうなんですか。良かった……」
安堵の表情を浮かべた奈美恵だったが、経真の次の言葉で顔が再び曇った。
「ただ……」
「ただ?」
「おそらく、魔物はもう妖気が加奈子さんのなかに残っていなくても、操ることができます」
「えぇっ⁉」
そのとき、ぽつ、ぽつっと草花が液体を弾く音がした。次の瞬間、濁った空から水滴が一斉に大地に降りてきた。
ざぁぁぁぁぁっというさざめくような音が、堂内に入ってきた。濡れた土の匂いがここまで昇ってきた。
本堂の中が急に暗くなった。それに比例して空気も重くなったように感じられた。
「そ、それじゃあ加奈子は……」
「……」
母娘が絶句した。加奈子は呆然とした表情になり、奈美恵は俯いてしまった。それを見て、経真は鉛を飲み込んだように胸が苦しくなった。
「ひとつだけ、方法があります」
バッと視線が青年に集まった。
「その魔物の居場所を突き止め、退治することです」
ですが、と経真は続けた。
「このままでは居場所が分かりません。今、この場所からはあの妖気と同じものは感じられないので、魔物が潜伏しているのは少なくともこの町内ではないと思います」
「そ、それじゃあどうすればいいんですか?」
数拍置いて、経真が言葉を舌に載せた。
「操られた加奈子さんの後を追います」
加奈子の表情が固まった。
「え……」
「ま、待ってください! それだと加奈子が危険な目に逢うんじゃあ……⁉」
「ぼくが、そうならないようにします。危険を感じたら、すぐに飛び出して加奈子さんを守ります」
「で、でも……」
「門脇さん。お気持ちは分かります。でも、もう方法がこれしかないんです」
奈美恵が横の娘の顔を見る。暗がりのなかでも分かるくらい、顔色が悪くなっていた。
遠くで雷鳴が聞こえた。雨の勢いが強くなった。しばらくはやみそうにない。
「無理強いはしません。ですが、ここで手を打っておかないと永久にこの現象に悩まされることになります」
「引っ越ししても、ですか?」
少女が青い顔で訊いた。
「そうですね。どこにいても、その魔物は加奈子さんを自分のもとに呼び寄せられるでしょう。完全に認識してしまっていますから」
娘が震えている。
「ほかの退魔師に訊いても、同じ答えが返ってくると思います。インチキな霊能者だと、お祓いでなんとかなる、とか言うかもしれませんが……。もし、退魔師協会である『五星会』に相談したいのであれば、ぼくから紹介することもできます。でも、混んでいるようなので少し待つことになるかもですが……」
そこで経真は言葉を切った。
立ち上がり、寺務所通路の方向へ歩いていき、壁に付いているスイッチを押した。
パチパチッと天井の蛍光灯が点いた。お堂の中が白色の光に照らされる。
「『五星会』というのはどういうところなんですか……?」
席に戻った経真に母親が訊く。
「あそこは退魔師が集まってできた組織です。歴史が古く、密教僧や陰陽師をはじめ、いろいろな霊能者が所属しています。もちろん、腕がいい方も何人もいらっしゃいますよ」
「そこに依頼すれば別の方法で解決してもらえるんでしょうか」
「多分、一緒だと思います。敵の居場所が分からない限りは手の出しようがないですからね。怖がらせるような言い方はしたくないんですが、今回の件は、
「そうですか……」
ガクッと肩を落とす母親。表情から絶望の色が出ている。
──大切な娘を危険な目に遭わせたくないよな……。ほかの方法があれば良かったんだけど……。じいちゃんや親父ならどうしていただろう。くそ、おれにもっと知識と経験があればな……。
「お願いします」
娘の声だった。
「え……?」
母親のほうを見ていた経真が、顔を声の方向へ向けた。
「あの、明禅さんに、お願い、します」
声が少し震えていた。だが、決意が感じられる声だった。
経真は少し驚いていた。
「いいんですか、ぼくで」
少女が肩をさすりながら言う。
「その五星会ってところに頼んでも同じなら、早く解決できる明禅さんにお願いしたいです。自分で霊能者を探して詐欺に遭っても嫌だし……」
経真がそれまでの固い表情を崩した。
よく勇気を出して決断してくれた。その勇気を絶対に無駄にはしない。経真は力強く答えた。
「はい! 全力でやらせて頂きます! 加奈子さんはお守りしますから、安心してください」
母親のほうはまだ心配そうだった。
「加奈子、本当にそれでいいのね?」
「うん。腕がいいって評判だから、ここにわたしを連れてきたんでしょ? だったら、信じるよ」
それを聞いて、奈美恵も納得したようだ。経真に向かって、「どうかよろしくお願いします」と頭を下げた。
「お任せください。では、早速今夜実行したいんですがよろしいですか?」
「今夜ですか」
「早いうちがいいと思います」
「分かりました。わたしたちは何をすればいいんでしょうか?」
「今までと変わらず、普通に過ごしてください。それと、事が起こったらすぐに対応できるように、ぼくを門脇さんのお家で待機させて頂きたいんですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫でしょ、お母さん?」
「ええ、うちは大丈夫です」
「ありがとうございます。そうしましたら、今夜十時ころに伺います。詳しい打ち合わせはそのときに」
◆
壁時計のチク、タク、という音がやけに響く。
家人が四人とも眠りについた門脇家。その居間に経真がいた。
経真の耳には時計の音は届いていなかった。
彼は座禅を組み、精神を集中させていた。身に着けている衣服は戦法衣だ。
時刻はもうすぐ午前二時をまわる。
奈美恵の話では、加奈子が家を出て行くのは大体二時から二時三十分の間だということだった。
丑三つ時である。魔の存在が一番活動的になる時間帯だ。
陰陽道において北東の方角は鬼門と呼ばれ、鬼が出入りし災いをもたらす方角とされている。
明治時代以前に使われていた、一日を十二分割し時刻を干支の名で示す
また、丑三つ時である午前二時から二時三十分の間は、夜の闇が最も深い時間帯である。そのため、霊界への扉が開き幽霊が出やすいと謂われていた。
いずれにせよ、この時間帯はこの世ならざる者たちの時間だ。用心しなければならない。
普段午後十時に就寝する経真にとって、この時間帯まで起きているのは正直しんどい。普通なら眠くてしょうがないだろう。
だが、今は瞑想状態に入っているので眠気は感じなかった。精神を研ぎ澄ませ、霊気を練り、経真は来たる時に備える。
危険な方法にも関わらず、承諾してくれた依頼人のために、失敗は許されない。
……どうやらその時が来たようだ。
誰かが廊下を通る気配を感じ取った。経真は閉じていた瞼を開けた。
キュ、キュ、と素足が板を踏む音が小さく聞こえてきた。その音が経真のいる居間の横を通り過ぎる。
経真が居間の戸を開けた。
目の前に、パジャマを着た少女の背中があった。
加奈子は背後に立った経真には気づいていないようだ。そのままゆっくり玄関へと歩を進めていく。
──かなり深く這入られているな……。
この状態を放置すると、いつか夜中じゃない時間でも操られてしまうようになるだろう。
と、斜向かいの戸がするすると開いた。部屋の中から、普段着の奈美恵が出てきた。
「門脇さん。お休みになられていたんじゃ」
囁きに近い声量で経真が訊く。
「わたしも付いていきます。娘が危ない時に家で寝ているなんて、やっぱりできません……」
事前の打ち合わせでは、加奈子を尾行するのは経真だけということになっていた。奈美恵にまで危険が及ぶことを防ぐためだった。
しかし、子を思う親の気持ちも分かる。仮に美冬が生きていて、経真が加奈子の立場だったら、母はきっと同じことをしているだろう。そう考えると無下に却下をすることはできない。
「……分かりました。でも、ぼくがこの先は危ないと判断したら、すぐに中断して戻ってくださいね」
コクッと母親が頷く。
廊下の先でガチャッと音がした。加奈子が玄関のドアの鍵を開けたようだ。
加奈子はそのままドアノブを回して、暗い夜道へと足を踏み出した。
午後に降りだした雨は夕方に止み、今は灰色の雲がまばらに浮かんでいる。三日月が雲の間に出たり隠れたりを繰り返していた。
ピンクのクロックスをつっかけた少女の脚がゆっくり前へと動く。小さい歩幅で少しずつ前へと進んで行く。
加奈子を外に出さないために、奈美恵がクロックスを下駄箱に隠したこともあったそうだ。しかし、加奈子は下駄箱からそれを見つけ出し、履いていくらしい。なら、とクロックスを押し入れに隠すと、今度は裸足で出て行ってしまったそうだ。それ以来、隠すのは諦めてしまったと言っていた。
経真と奈美恵は加奈子の十メートルほど後ろをついていっていた。魔物に見つかる可能性があるのでできればもっと距離を取りたかったが、加奈子の身に危険が迫った際にすぐに助けに入ることを考えると、こうするしかなかった。
「加奈子さんはいつも同じ道を通るんですか?」
経真が後ろの母親に訊ねる。
「はい。なんだかそれも気味悪くて」
加奈子がT字路を曲がった。最初に奈美恵に捕まった地点だ。
「この道は通学のときにも通ってますか?」
「そうだと思います。雨の日に車で送るときもこの道を使いますし」
行先はひょっとして学校だろうか。高校に潜んでいた魔物に目をつけられてしまったということか?
経真は考える。あの液体のイメージ。あれは多分、水だ。場所が学校だとすると、プールを示しているのか?
でも、まだ四月だ。授業でプールは使わないだろう。水泳部なら何か行く用事もあるかもしれないが、加奈子は吹奏楽部だ。プールと接点がない。それなのに狙われるのはおかしい。
加奈子は片側一車線の歩道を歩き続けていた。交通量の多い国道に出たら危険だな、と思っていたが、今のところ大丈夫そうだ。
田舎の市道であることに加え、こんな時間なので車はほとんど通らなかった。ほかに歩いている人間はひとりも見当たらない。灯りがついている家はほとんどない。明るい建物はコンビニくらいのものだった。
県道に入ると、途中で交番を通り過ぎた。もし警官がいたら加奈子が補導されてしまうかも、と経真は恐れたが、交番内の灯りは消えていた。田舎なので、交番は主要なところ以外は夜間は閉まっているのだった。
どれくらい歩いただろうか。経真が腕に巻いたG-SHOCKを見る。ディスプレイには02:29と表示されていた。
確か門脇家を出たときは二時五分くらいだったから、もう二十分歩いていることになる。
「あの子はどこまで行くんでしょうか」
少し疲労を感じる声で母親が訊いてくる。
「このまま通学路を行くのなら、学校かもしれません」
「学校ですか。夜間に入れるのかしら……」
「学校じゃなかったとしても、そんなに遠いところではないと思います。加奈子さんに植えつけられていた妖気と同じものをこの秋谷町内から感じます。秋谷町はそんなに広い町じゃないので、ここからそう離れないと思うんです」
「そうだといいんですが。後ろからあの子を見ているとハラハラしてしまって。車も通りますし、変な人が通りかかっても怖いですし」
経真も同じだった。魔物以外の要因で加奈子の身に危険が及ぶのは避けたいところだった。
「ああ、そう言えば今夜はジャージを着るように言っておいたのに、加奈子ったら今日もパジャマを着てる。もう、後で洗わなきゃ」
不意に日常の一コマを感じさせるセリフが出てきたので、経真は思わず口元を緩めた。
──なんでもない日常をこの母娘に取り戻させてあげなきゃな。
橋が見えてきた。そんなに大きな橋ではない。直線で百メートルちょっと、というくらいだろうか。ただ、高さが結構ある。
橋の下は土手になっていて、そこから川べりまで下りることができそうだ。
川は幅が六、七十メートルといったところか。月明かりが水面に反射して、流れの一部が光って見えた。
加奈子が橋を渡り始めた途端、経真の身にざわざわっとしたものが走った。
急に妖気を強く感じるようになった。
まさか。
経真は走り出した。
「明禅さん⁉」
後ろで奈美恵が驚いた声を出したが、それに応えている暇はなかった。
急いで橋のたもとに立ち、目を凝らして川を見た。川上、川下、両方を隈なく見渡す。
魔物の妖気は感じる。だが、姿が見えない。
人間から見えなくしているのだろうか。
経真が真言を唱えようとしたときだった。
「加奈子!」
奈美恵の声がした。
はっとなって加奈子のほうを見ると、橋の中央付近で足を止め、欄干に手をかけていた。
「いけない!」
経真が全速力で加奈子の元へ走っていく。
経真は脚には自信がある。中学では陸上部にスカウトされたくらいだった。
──うおぉぉぉ、間に合えっ!
加奈子が欄干によじ登ろうとしていた。欄干に両腕を着いて、身体をぐいっと持ち上げた。
下半身が浮いた。
クロックスがぷらぷらと揺れ、今にも脱げそうだ。
「加奈子さん!」
経真が後ろから加奈子を抱きとめた。両腕を彼女の腹部に回してぐいっと手前に引っ張った。加奈子の身体が欄干から離れた。
勢いをつけすぎたせいで、経真は背中からコンクリートに倒れそうになった。このままでは頭を打つ。
とっさに体重移動を試みる。
「痛てっ!」
なんとか尻もちをついただけで済んだ。それでも十分痛い。加奈子の体重が加わっているので当然だった。尻が四つに割れそうだ、と経真は思った。
「加奈子さん、大丈夫ですか⁉」
臀部の痺れるような痛みを堪えて立ち上がり、加奈子の正面に回る。加奈子の目はぼんやりと半分だけ開いていて、虚ろな瞳を見せていた。
「しっかりしてください、加奈子さん!」
肩を強く揺すり続けると、「あれ……」と娘が声を出した。
──良かった、気づいたみたいだ。
「加奈子!」
そこへ母親が駆けてきた。
経真は母親に加奈子を託すと、
「門脇さん、加奈子さんを連れてこの橋から離れてください」
そう言って橋の真下を睨んだ。
川の流れの中に、不気味な黒い影がゆらりと姿を現した。
川の生き物ではない。経真はそう直感した。
水面が盛り上がった。黒い影が実体を持って、音もなく水面から徐々に浮かび上がる。漆黒の塊だった。水に濡れて月明りを受けているのに、まったく光を反射していない。静かに天に向かって伸びていく。
動きが止まった。
それは人間の形をしていた。頭部があり、腕があり、脚がある。
胴を白いものが覆っている。着物のようにも見える。
その上から、黒く細長い何かが膝のあたりまで貼り付いているのだ。
それは、髪の毛だった。異常に長い髪。その濡れた髪が顔を覆い隠していて、表情がまったく見えない。
まるでホラー映画に出てくる怨霊だ。
──川女か!
「ひぃぃぃぃぃいぃぃっ! な、なにあれっ……⁉」
奈美恵が一キロ先まで聞こえそうな悲鳴を上げた。
加奈子はこの世のものとは思えない生き物を見て絶句していた。
まずい。このままでは三人まとめて狙われてしまう。
「門脇さん、走って! 橋から離れてください!」
経真が叫んだ。
魔物が顔を上げ、こちらを向いた。すると、『イタイ……。ツメタイ……』と直接脳に響く声を出した。
門脇母娘にもそれは聞こえていたようで、同時にビクッと身体が跳ねていた。
「あれを見ないで! 急いで!」
その声を受けて、ようやく奈美恵が加奈子の手を引きながら走り出した。
──ふたりが橋を渡り終えるまで援護しないと。
経真は手で印を組み、経を暗唱し始めた。
橋の上から真下の魔物までは数十メートル離れている。声は届かないだろう。だから、霊気で声をあそこまで飛ばす。子どものころから退魔の訓練を受けている経真にはそれが可能だった。
「時照見五蘊皆空度一切苦厄……」
『ア嗚呼あああアアァ!』
川女が苦し気な声を出す。それと同時に、長い髪がぶわっと持ち上がった。橋の欄干まで届く長さだった。
そしてその髪は空中を荒々しく蠢き……。
ガツン! 欄干にぶつかった。
「ひ、ひぃぃぃ!」
「きゃあああっ!」
奈美恵と加奈子から僅か三メートルくらいのところの欄干が濡れてへこんでいた。毛量が多いため、濡れただけで質量がかなり増えている。それでこの威力なのだろう。
──これじゃあ逆効果だ……!
経真は誦経を中断し、奈美恵と加奈子のほうへと駆けた。
ふたりに追いつくと、両腕で母娘の背中を支えた。ふたりは脚がすくんでいたが、励ましてなんとか立たせた。
経真が攻撃をやめたせいか、川女は髪をぶつけてこなくなった。この隙に経真は母娘を連れて橋のたもとへと急いだ。
でも、走っている間も魔物の声が脳内に響いてくるのが怖かった。退魔師とはいえ、経真はまだ十六だ。魔物に恐怖を感じることはある。
「つ、着いた!」
五十メートルがこれほど長いとは。それ以上に長く感じた。
門脇母娘は息を切らしていた。運動による負荷のせいだけではないだろう。顔も引きつっていて、加奈子に至っては今にも泣き出しそうな表情だ。今まで見たこともない化物に襲われたのだから当然だろう。
「門脇さん、ご自宅に帰っていてください。ぼくもあれを祓ったら戻ります」
そう言いながら経真は懐から伸縮式の錫杖を取り出した。スイッチを押して元の長さに展開する。
「は、はい」
震える声で返事をした後、奈美恵は加奈子を後ろから抱くようにして、元来た道を小走りで帰っていった。
「さて、と」
母娘がこの場から去るのを見届けると、すぐに経真は川のほうへと向き直った。
魔物はさっきまで経真が立っていたところを変わらず見上げていた。いったい何を見ているのか。不気味だった。
橋の上からだと戦いにくい。経真は土手に下りることにした。
経真が河岸に立つと、それに気づいたのか川女がゆっくりとこちらを向いた。
どうやら白い着物だと思っていたのは、着物の下に着る長襦袢のようだ。濡れそぼっていて、身体にぴたりと貼りついている。
顔は鬱蒼とした髪で隠れていて全く見えない。目も、鼻も、口もどんな形をしているのか、そもそもあるのかさえ分からない。
襦袢から伸びる腕は真っ白で、生きている人間のそれではなかった。
脚は服に隠れていてよく見えない。川の底に立っているのだろうか。もしそうだとしたらかなりの大女ということになる。
川女。
以前、祖父から聞いていた。
川で自殺した女性たちの、負の念が集積して生まれた魔物。属性は水で、自分の住処に近づいたり、テリトリーを通ったりした女性を狙って自殺させる。
多分、狙われたのは加奈子がはじめてではないだろう。
「個人的な恨みはないけれど、人に危害を加える魔物を見逃すわけにはいかない。悪いが祓わせてもらう」
さて、どうやって戦うか。
大きな川ではないが、この川に入って戦うのは避けたい。
川は川女のホームグラウンドだ。経真にとっては不利に働く。
それに水深がどれくらいあるのか分からない。うっかり深みに嵌りでもしたら、戦うどころではなくなる。
となれば、岸から遠距離で攻撃をするしかない。
属性の関係上は、土属性の自分のほうが有利なのだ。なんとかなるだろう。
経真は錫杖を脇に抱えて印を組み、経を唱え始めた。
その瞬間、ばあぁっ、と川女の髪がクジャクの羽のように大きく広がった。
隠れていた顔が見えた。腕同様、真っ白だった。目はどこを見ているのか分からない。口が開いていて、唇は紫色だ。
『イタイ……。ツライ……』
広がった髪の毛が一瞬にして伸びた。髪が、巨大なクモの巣のようになる。その髪の毛が真上に集まり、束ねられた。黒い柱のようになった。異常な長さだ。数十メートルは余裕である。経真の立っている箇所まで届いてしまいそうだ。
髪の柱は毛の一本一本がうねうねと動いているので、それ自体も動いているように見えた。水滴がぼたぼたと滴り落ちていて、何とも気味が悪い。
その柱が経真目がけて振り下ろされた。
──やっぱり届くのか!
右に大きく跳んで、経真は躱した。ドスンッと音を立てて、髪の塊が川べりの土を抉った。
すると、そこから髪の毛が経真に向かって伸びた。経真は思わずゾッとし、鳥肌が立つ。
「舎利子是諸法空……」
錫杖で払って防御する。その間も暗唱は続けたままだ。
と、経真の体勢がぐらっと崩れた。いつの間にか、左足に髪が巻きついていた。
──引っ張られる!
身体が一瞬宙に浮き、経真が後ろに倒れてしまった。したたかに背中を打つ。その衝撃で、持っていた錫杖を落としてしまった。
「く、くそ!」
すぐに右手で錫杖を拾い、足に巻きついた髪を突いた。黄金色に輝く錫杖に触れた瞬間、髪が千切れた。足首を見ると、巻きつかれた箇所が濡れていて、痣ができていた。
しゅるるるる、と髪の塊が川女の元へ戻っていく。どうやら自在に長さを操れるようだ。
『はあぁア阿唖ァ……』
魔物が髪の塊を複数の束に分けた。四方八方に伸びた髪の束。まるで蛸の脚のように、うねうねと不規則に蠢いている。常人なら見ただけで卒倒しそうな、気色の悪い光景だった。
髪の束が一斉に経真に襲い掛かった。
後ろに跳び、錫杖で迎撃し、左に跳ねる。攻撃を防ぐので精一杯だ。誦経が進められない。
不意にぐいっと右腕が引っ張られた。バッと見ると、錫杖に髪が絡みついていた。
──し、しまった!
強い力が錫杖にかかる。次の瞬間には、右手から錫杖がもぎ取られていた。
錫杖を奪った髪は、錫杖を空中でぶんぶんと振り回すと、ゴミを放るかのように放り投げた。
「あっ!」
この川は暗くて底は見えないが、おそらくそんなに浅い川じゃない。もし川の真ん中にでも落ちたら拾いに行けない。
あの錫杖は、経真が修行を終えて無事僧侶になれたときに、祖父から贈られた大切なものだ。失う訳にはいかない。
経真は飛んでいく錫杖を目で追った。頼むから、川には落ちないでくれ。
その願いが通じたのか、錫杖はガサッと音を立てて向こう岸の草むらに落下した。
──よ、良かった。あそこなら取りに行ける。
しかし、安心したのも束の間。
ぎゅるる、ぎゅるるる、と髪が右足と右手に絡みついた。
錫杖を心配するあまり、魔物から目を離してしまっていた。甘かった。
「や、やば……。っ! っ痛ぅぅぅ!」
あっさりと倒され、右肩と右ひざを硬い土に叩きつけてしまった。
髪はそのまま経真を川女のほうへ引きずる。このままでは川の中に引き込まれる。
経真の心に恐怖が宿った。溺死なんてしたくない。
焦る心をいなしながら、経真は左手で懐から黄褐色の
ザシュッと小気味よい音がして、髪が切断された。あとは右腕の髪を──。
突如、視界が暗くなった。吐いた息が気泡となって浮いていくのが見える。音もそれまで聞こえていたものが耳に届かなくなった。代わりに、こぉぉぉという何かが流れているような音が静かに聞こえた。
「ぐがぼがががっ⁉」
経真は頭から川に突っ込んでいた。上半身が川の中に浸かってしまっている。
冷たい。苦しい。肺の中の酸素が足りない。
尚も髪の束が経真を引きずる。川の中腹へ、川女のところへ。
下半身も川に入った。水を吸った服が重い。身体が底へと沈んでいく。ごつごつした岩や石が身体に当たっている。痛い。
水の中だからか、踏ん張ろうとするが上手く力が入らない。このままでは溺れてしまう。
──し、死んでたまるかっ!
経真は離さずにいた独鈷杵で右腕の髪の毛を切りつけた。
ダメだ、上手く切れない。
だったら、と独鈷杵にありったけの霊気を送りこむ。黄金色のオーラが強くなった。
──これならどうだっ!
音も出さずに髪の束が真っ二つになった。
これで身体が自由に動く。経真はすぐに水面に向かって顔を伸ばし、脚をばたつかせた。
川面の向こうに三日月が見えた。
「ぶはっ! はぁ、はぁっ、はぁっ、はあっ!」
空気がこんなに美味いものだとは知らなかった。貪るように酸素を胸いっぱいに吸い込む。
川の中で立ち上がった経真は、腰まで水に浸かっていた。まだ岸に近いので立つことができているようだった。幸い、川の流れも穏やかで、なんとか流されずに立っていられている。
川女との距離が縮まっている。二十メートルくらいだろうか。
この距離だと分かる。川女は水面に浮いている。襦袢の裾が水面に着いていなかった。足の爪先が見えた。
それと、異常に背が高い。おそらく二メートルはあるだろう。
改めて背筋がゾクッとした。異形の者。異界の者。それと自分が対峙していることを思い知らされた。
『クルシイ……。ツメタイ……。ウラメシイ……。シネバイイノニ……』
川女の髪がまたクジャクのように広がった。夜の闇よりも暗く、黒い髪。それがわさわさと放射線状に伸びている。この距離で見るとあまりに異様でおぞましかった。
川に動きをとられている今、さっきのような攻撃を繰り出されたらもう避けようがない。錫杖もないので払うことも、受けることもできない。
経や長い真言を唱えている暇もないだろう。
短い真言でこの状況を打破しなくてはいけない。
──一か八か……。リスクは大きいけれど、これに賭ける!
経真は左手に持っていた独鈷杵を右手に持ち替えた。
そして。
動きの取りづらい川の中で身体を開き、川女に向かって──。
投げつけた。
空気を切り裂きながら、黄金色に光る独鈷杵が彗星のように飛ぶ。
川女が広げていた髪の毛が一ヵ所に集まる。
再び髪の塊が形成され、川女の前で壁になった。闇夜のような漆黒の壁だった。生き物のようにうねうねと蠢いている。
独鈷杵の先端が髪の壁に突き刺さった。
先がめり込んでいるが、壁の分厚さに勢いが殺されている。このままでは弾かれてしまう。
経真の両腕が動いた。両手が蓮の花のような形をつくる。
「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ!」
その真言を唱えた途端、経真の身体が黄金色に光った。それに呼応するかのように、独鈷杵の光も強くなり、推進力が復活した。
ズズズ、ズズズズズ……。
独鈷杵が毛の壁を穿ちながら進んで行く。
『シネバイイノニ……。シネバイイノニ……』
「いけっ! そのままいけっ‼」
経真が両手を広げて前に突き出した。真言で高まった霊力が、さらに独鈷杵へと流れていく。独鈷所の勢いが増していく。
貫いた。
独鈷杵が壁を貫通した。
ドスッ……!
川女の顔。その眉間に、独鈷所が突き刺さっていた。
『イや嫌ァぁあ阿亜嗚呼ア……!』
髪の壁が崩れ、毛髪が魔物の頭から四方八方に広がる。
これまで無表情だったその顔から、はっきりと苦悶の表情が読み取れた。
「これで……終わりにしよう」
青年の手が空中で踊る。
「ノウマク・サラバタタギャテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン‼」
経真は残りの霊力をふり絞って、火界咒の真言を一気に唱えた。
グォォォォッと大火が川女を包んだ。
そのエネルギーはすさまじく、水に濡れている川女の全身を焦がしていく。
炎で焼かれた箇所は白い光の粒子となって、天へと昇っていく。
脚が、腹が、胸が、頭が、髪が、細かい白い粒子となって空へ消えていった。
炎で明るく照らされていた水面が、ふっと元の暗さに戻った。
三日月が形を歪めてそこに映っていた。
「お、終わった……」
途端に両脚の力が抜け、経真は冷たい川の中へ倒れてしまった。
──あー……、やばい。立てないかも……。
四肢に力が入らない。
さっき経真は、一時的に霊力を高める大威徳明王の真言を使った。あの真言は、効果が切れた後に身体に反動が来るものだった。
さらに、とどめに不動明王の火界咒の真言を唱えた。霊力を相当に消費するため、これも身体に負担がかかる。
おまけに、普段とは違う慣れない戦い方を強いられ、肉体も精神も必要以上に疲弊していた。
つまり、今の経真は疲労困憊状態なのだった。
ゆっくりと川下へ身体が流されていく。
息が苦しいはずなのに、段々気にならなくなってきた。
溺れる寸前だった。
経真の瞼がゆっくり閉じていく。
視界が完全に暗くなりかけたその時。
『経真!』
在原鈴夏の姿が瞼の裏に浮かんだ。
──すずか……。
『ほんっと、あんたはしょうがないわね~。あたしがいないと何にもできないの?』
──はは、そんなことないさ。おれだって、ひとりでいろいろできるようになったんだぜ。寺の仕事だって……。
できるようになったんだ。いつまでも弟扱いするなよな……。
『経真、また明日ね』
今日の夕方。別れ際に彼女はそう言った。
「おお、また明日な」、経真はそう応えた。当たり前のように明日を迎えるつもりだった。鈴夏とまた過ごす明日を。
──これじゃ、嘘つきになっちゃうな……。
鈴夏は怒るとしばらく機嫌が悪くなる。それは避けなきゃな。
経真はぐっと腹に力を入れた。流され、横になっていた身体を立たせて、手足をばたつかせて水面に向かった。
「ぶはっっ‼」
空の三日月が目に入った。脚を動かしてバランスを保ちながら、肺の中いっぱいに空気を吸う。
橋が逆方向に見えた。どうやら流されて橋の下を通過していたらしい。
岸まで二十メートルといったところか。
足が着くところまで泳いでいこう。あとは歩いて行けば……。そうだ、錫杖も回収しないと。その後、門脇さんの家まで報告に行って……。
やることは多い。そう言えば明日の祝日は、午後から鈴夏が掃除に来るんだった。どんどん片付けていかないと、また鈴夏にどやされそうだ。
気力を取り戻した経真は、水を吸って重くなった戦法衣をものともせず、クロールで暗い川を渡っていった。
◆
開け放たれた窓から、柔らかな春風が経真の部屋に入ってきている。カーテンがまるで遊んでいるようにヒラヒラと風に揺れ、寝ている経真の顔に躍動的な影を落としていた。
昨夜ほとんど寝られなかった経真は、今朝、朝のお勤めこそ果たしたものの、その後朝食もとらずにまた布団に潜り込んだのだった。
結局、あの後はずぶ濡れのまま門脇家に帰還することになった。母娘の厚意で風呂に入らせてもらい、おまけに着替えまで貸してもらえたので、経真は風邪をひくことを免れた。
奈美恵によると、あの橋では何人か人が死んでいるらしい。
すべて自殺だった。
それも、全部女性だ。
あの橋で自殺した女性たちの念が川女を生み出したのか、それとも川女が別の場所からあそこに移って住み着いたのか、それは分からない。
この町の住人には、あの橋を気味悪がって近づかない人が多いらしい。
加奈子もそのうちのひとりだった。だが、先日、たまたまそこを通ってしまった。
普段の通学コースではないのだが、あの橋を渡ったほうが近道らしい。寝坊して遅刻しそうだったある日、背に腹は変えられないとあの橋を使ってしまったのだそうだ。おそらく、そのときにあの魔物に目をつけられてしまったのだろう。
魔物は退治したので安心してください、と経真から言われて、母娘は心底ホッとした表情を浮かべた。ふたりとも川女の姿を見て、なおかつ襲われているので、余程怖かったのだろう。
また、経真は加奈子にこうも言った。
あまりストレスを溜め込まないように、と。
強いストレスは「魔」を生み出す。川女に狙われたのもそのせいかもしれない、と。
──昼間のうちに除去しておきましたが、今後も「魔」が生まれないよう、我慢のし過ぎには注意してください。無理して痩せなくても、加奈子さんは十分チャーミングだと思いますよ。
経真がそう言うと、加奈子はえっ、という表情になって、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
改めて風呂と着替えの礼を言って、経真は門脇家を後にした。午前四時二十分だった。
「か~。くか~。すぴー……」
経真が幸せそうな顔で眠りを満喫している。
と、部屋の戸が開いた。
可憐な足が寝ている青年へとズンズンと近づいていく。
足音が止まった。
代わりに、はぁ、という嘆息が聞こえた。
「経真。経真!」
白い手が寝ている経真の肩を揺する。
「……ん、んん……。あれ、よう、鈴夏……」
「よう、じゃないわよ! あんた何寝てんのよ!」
「え……?」
「あたし、午後の二時に行くって言ってたわよね?」
「え、今何時……?」
「もう二時過ぎてるわよ」
ガバッと跳ね起きて、部屋の壁時計を見た。二時八分だった。
「玄関から呼んでも出てこないし、本堂のほうにもいないし。寺務室も空だし。あんた、鍵もかけないで寝てたの?」
仮眠のつもりだったのに、本気で寝てしまっていたようだった。
ほとんど明け方まで起きていたのに加え、死闘を繰り広げてクタクタだったのだ。無理もなかった。
「わ、悪い」
「……ふぅ。もういいわ。次から寝るときはちゃんと鍵かけるのよ? 不用心だから」
「う、うん……」
何も言い返せない。鍵のこともそうだが、鈴夏との約束をすっぽかしかけたのだ。
「ごめん」
「ん。じゃあ、本堂の掃除、始めちゃいましょ」
「分かった。行こ……」
経真が言いかけたとき、
ぐきゅるるるるるるるうぅ~。
彼の腹の虫が大音量で騒いだ。
「ご飯食べてないの?」
そう言えば、今日は朝食を食べていない。当然、昼だってまだだ。
「食べてない……」
なんだか今日は、幼馴染に至らぬところばかり見せてしまっている。
「ほんっと、あんたはしょうがないわね~。ほら、お母さんが作った料理持ってきたから、先にこれ食べなさい。ご飯ものもあるから。炊き込みご飯」
「マジ⁉ やった!」
無邪気に喜ぶ経真を見て、眉を八の字に下げて鈴夏が笑った。
「じゃ、台所に行くわよ」
鈴夏がくるっと背を向けた。
あれ?
そう言えば、さっきのセリフ、昨夜も聞いたような……。
「鈴夏」
部屋を出ようとした幼馴染の背中に声をかけた。
ん? と茶色のポニーテールを揺らして鈴夏が振り向く。
「ありがとうな」
「なによ、いつものことじゃない」
ああ、そうだな。いつも鈴夏はおれを助けてくれる。
だから絶対、お前のことはおれが守るんだ。
「ほら、ちゃっちゃと食べて、やることやるわよ。行きましょ」
小学校時代の通学のときのように、鈴夏が先頭を歩いた。
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