第47話:案ずるより討つが易し⑦
――どおおおおん!!!
出し抜けに、凄まじい音が鼓膜を揺るがした。人馬、いや人虎一斉に視線を向けた先は、言わずもがなだが内裏の方向だ。万が一にも火の手が上がっているなら、垂れ込めた雲が赤く染まるはずだが、今のところその気配はない。であるならば、弟子たちの側で不測の事態があったか。
「卯京、あの音は!?」
「こんな遠くからで分かるか! さっき飛ばした式の術を――」
ぶわぁあっっ!!
急いで符を取り出そうとした視界を、そうとしか言いようのない勢いで塞いだのは、大量の蟲だった。ばたばたと羽音を立てて舞い飛ぶのは、四枚の羽根を持つ蝶か蛾か……この暗さからすると、蛾の方が相応しいだろうか。
とにかく、息が出来ないほどの大群が二人の周囲を駆け抜けて、一瞬で姿を消す。はっとして見下ろした先には、頻りにくしゃみを繰り返している白虎に押さえられた袿だけが残されていた。やられた!
「術で姿を変えて逃げたのか……、どうする!?」
「あんっの腐れ……っ、内裏に戻るに決まっとろうが!! お前はここで甥っ子を看てろ、行くぞ!!」
《グオウッ!》
顧みた卯京は、それはもう恐ろしい形相をしていた。いつもの余裕がどこかに吹き飛んだか、言ってはならない言葉を寸でで飲み込んで白虎に飛び乗る。そのまま塀を跳び越えて出立していく後ろ姿を、見送るしかない。
それはそうだ、自分だってきっと動揺する。飛び交う蛾の羽音に混じって、嘲笑交じりにあんなことを言い残されたら。
『――そうかそうか、あの小娘! あいつは
塵芥を巻き上げて巨体が横転する。すぐさま跳ね起きてお互いを睨み付け、今度こそ! と言わんばかりの勢いで再び……いや、もう何度目かも分からない取っ組み合いに突入した。
片方はもちろん、先ほどから内裏を食い荒らしている蟲神。いまひとつは――
「ぎ、銀嶺さーん!! いくら何でも酔いすぎですってー!!」
「済まない、俺がもっと気を付けて見ていれば……」
「いやー、お兄さんのせいじゃないさー。神様はお酒が好きなものだしねえ」
通常の何十倍、と言う規模に巨大化して大暴れ中の蛇神に、オロオロしっぱなしの一同がいた。付き合いは短いが、日頃はあんなに穏やかでおっとりしている銀嶺とは思えないド迫力である。
どうにも酔い潰れたとばかり思っていたのは、浴びるほど呑んだ酒のせいで神気が上がり過ぎていたらしく。ほぼ暴走していて、こちらの声がほとんど届かない状態だった。芋虫とがっぷり四つに組んでごろごろ転がったり、尻尾でビシバシはたき合ったり、お互いをがぶがぶ噛んでみたり……字面にしてみれば妙にほのぼのしいが、そのひとつひとつにどごーんばしーんとものすごい音が付いてくるのだ。威力のほどは推して知るべし。
凄まじい力の応酬により、桐蔭舎だけでなく隣の梨園舎までもが壊滅状態だ。でもそんな中、良いこともあった。彼らが盛大に取っ組み合っているおかげで、こっちまで気にしている余裕がなく、自由に動き回れたのだ。
「霊力の高そうなものどこだー!!」
そしてもう一つ良いことがあった。あまりにも大騒動がすぎて、後宮に住まっている皆さんは早々に恐れをなしたらしい。駆け足で通り抜けていくと、お妃たちが済んでいるはずの建物もしんと静まり返って人の気配がない。これから事態がどう転がるか予測できないだけに、早急に避難してもらえたのは有難かった。
ぷきゅ、とおもちが声を上げた。悠那の手から飛び出して、高欄をくぐり抜けて簀子縁に上がり、とっとこ走っていく。それを追いかけると、先ほど通りかかった橙花殿の妻戸が開けっ放しになっていた。入ってみたところ、慌てて避難する際にひっくり返したのか、いろんなものが放りっぱなしだ。物入れに使う塗籠の扉も開いていて、倒れかけた調度類の脚らしきものが見える――
「……あれ? あそこにあるの、もしかして」
「あ、待って-。今明かり点けるね」
妙な既視感を覚えて、駆け寄って確認する。暗い室内を手探りで進もうとしたら、悠那が『これだけは得意』という明かりの術で照らしてくれて助かった。……うん、やっぱりこれだった。見覚えがあるはずだ。
昼の挨拶回りの際、殿舎の一角に置いてあった衝立だった。中ではあの立派な唐獅子が、今はおとなしく絵として鎮座している。その背後にはこれまた見た覚えのある、美しく咲き誇る深見草の姿が――
「そうだ! これ出せないかな!?」
「これって、深見草ですか!?」
「日凪ではそういうの? うちでは大陸風に牡丹て……いやそれは置いといて!
だってえーと、付喪神っていうのになってるんでしょ? じゃあこれそのものに相当な力があるよ、食べたら一気に育ち切っちゃうんじゃないかなぁ」
どごーん! と、すぐそこで轟音がして建物が揺れた。みんなで顔を見合わせる。悩んでいる時間はなさそうだ。
「う、うー……ええい、上手くいくかわかんないけどやってみます!!」
術士は度胸! と、半ばやけっぱちで呪符を引っこ抜いた。口元に持って行って、花の絵に向かって吹き込むように唱える。
「『人知れず 思う心は 深見草 花咲きてこそ 色に出でけれ』――」
詠み終えて、静かに札を吹く。ふーっと触れた細い息に攫われるように、絵から数本の花が消えて、代わりに妻戸の向こうの白砂の上に大輪の深見草が現れる。明璃の背丈よりずっと大きい。この植物はさほど香らないはずだが、美しい姿から甘い薫りが漂ってきそうだった。
《……ふも?》
芋虫はすぐに興味を示した。ひっくり返って目を回している銀嶺を放って、よじよじとそっちの方に近寄って行き、ややあってはむ、と口に含んだ。そのまま無心に食べ始める。
固唾を呑んで見守っていると、すぐに変化が現れてきた。糸を吐いている様子はないのに、徐々に周りに白いものが漂ってきて体を覆っていく。深見草が全て食べられるよりも先に、完全に繭の姿になってしまった。
「繭になった……! すごいぞ明璃殿!」
「わーいやったー!! 明璃さん
《ぷっきゅー!! ……ぷ?》
大成功に盛り上がる中、おもちがきょとんと首を傾げた。声がひとり分足りない。あれ、いつもなら一緒に喜んでくれるのに……
どうしたんだろう、と振り返った先。ほとんどが闇に沈んだ室内で、明璃の背後に立っているそれがいた。
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