第46話:案ずるより討つが易し⑥
贄が逃れた、と張り巡らせていた術が伝えてきたのは、すっかり夜も更けた頃のことだった。しかも一人だけではない。
(おのれ、やはり霊力が高い者には
あの姫は持っている力の総量こそ莫大だが、それを扱う術はほとんど持っていない。だからこそ攫うのが容易だったし、蟲神が羽化して最初に喰らう贄として確保しておくに相応しかったのだ。
苦労してたぐり寄せてみた現地の情報を読み解くに、どうやら結界自体は壊れていないらしい。もし何らかの異常があったら、即座に気づいたはずだから当然だ。が、中から無理矢理出ようとしたり、逆に外側から力尽くで突破しようとした形跡もない。
……ということは、誰かが内側から『入って良い』という許可を得たのだ。こちらの術士連中が得意とする、
(小賢しいまねを……やはり、此奴を盾に取るか)
傍らの御帳台から響く、やや不規則な呼吸。忠義者の臣下として付き添っている、この国そのものと言っていい人物だ。先祖代々怨み抜いてきた彼らの今代は、生まれ落ちたときから身体が弱く、散々死線をさまよっているという、線が細く頼りなげな青年だった。腕力と体力に劣る自分であっても、巫術を駆使すれば楽に運べるはずだ。
(……我らが何もせずとも、近々黄泉に渡っていただろうに。恨むなら、新参者をあっさり信じた
思いつつ、そっと帳をめくる。黄昏時よりもさらに闇が濃くなり、相手がどこに横になっているかを判別するのも難しかった。仕方なく、呪詛の気配を頼りに足を踏み出して、
――ばあん!!!
「い゛……ッ!?」
《グルルルルル!!!》
その瞬間、颶風のように飛び出してきた白いものにぶつかって、真後ろに吹き飛んだ挙げ句床に押さえ付けられた。必死で身を起そうともがいて、どうにか目だけを向けたら、自分の背中に乗った大きな影が視界に飛び込んでくる。
「び、白虎!? 何故ここに……っ、古瀬卯京の式か!!」
曇天ゆえ光に乏しい闇の中、不思議にきらきらと輝く純白の毛並みを纏っているのは、日凪には棲息していないはずの猛獣だった。青く澄んだその瞳に、高い知性と明らかな怒りの色を見て取って、これがただの獣ではないと直感する。そこへ、
「――ほうほう、そうと判断するだけの知識と技量はあるか。使いどころは決定的に間違っとるが」
「卯京、あまり煽ってやるな。一応今日まで私の女房だったんだぞ」
「いや別に、お前を責めとるわけじゃないぞ。ちょっとでもおかしいなと思わなんだのはこっちも一緒だ、だから余計腹が立つ」
簀子縁の先、角の向こうから現れた人影は、まさに今思った二人のものだった。白虎の重しで身動きすら出来ない刺客に遠慮なく歩み寄り、傲然と見下ろしてくる『当代随一』に力いっぱい歯噛みする。どれだけ自分たちを蔑ろにすれば気が済むのか、都の連中は。
「見下されるのが我慢ならん、という顔をしとるな。ついでに何でバレた、とも思っているな? ――
「だから何だ……!」
「大いに関係ある。あそこの国はな、昔から周辺諸国との折り合いが悪くて治めるのが難しい。そのせいで、中央から指図して国司を入れ替えにくいんだ。
今の国司は勤続数十年、齢は既に七十を越しとる。貴族には珍しく正妻一筋、二男二女とその子女があったが、一昨年の流行病ですべて逝去――身元を偽るなら、もっと血縁関係が分かりやすく煩雑なところにするがいいぞ?」
「っ、こ、この、ぐぅ」
《ガルルル!!》
わざとやっているに違いない、噛んで含めるような口調で指摘されて、腸が煮えくり返るようだ。思わず立ち上がろうとしたのを白虎に潰されて、蟇蛙みたいな声が出た瑞羽を鼻で笑ってから、卯京は若干口調を変えた。よそ者に恭順するのを良しとしない、天井知らずの矜持ゆえに凶行を繰り返してきた一族だ。これだけ煽れば怒りに我を忘れてくれるはず。
「ここで尻尾を巻いて逃げ帰るのは勝手だが、十中八九消されるぞ? お主みたいな木っ端術師、切り捨てたところで痛くもかゆくもなかろうよ」
「……ッ!!」
「うん、解ってはおるか。しかしな、左の大臣がそれを聞いて心を痛めておるわけだ。ただ使命に逸っただけで、うら若い女性にそんな仕打ちは余りにも、と。
――で、だ。ここで一つ、取引をせんか」
丸太のような虎の脚の下で、顔の半面を床に押し付けられている瑞羽の目が疑念に染まっている。まあここまでのことを思えば無理もないな、と頷いて見せ、卯京は話を進めていく。
「なに、難しい話ではない。お主がこちらの質問に答えてくれれば、当面の身の安全を保障しようということだ。どうでも都にいるのが嫌、というなら、我々の伝手で遠国に向かわせても良い。
顔貌の印象を変える術は知っとるな? 自分の術の気配は知られとるだろうから、私が掛けてやろう。その上で偽の名と身分を用意して、大臣に関所の手形も作ってもらう。そうすれば十分可能だ。逃げ隠れ、いや、素性を隠して潜伏するのは得意だろう」
「――っ、……、何が、訊きたい」
よし、かかった。内心でぐっと拳を握りながら、優雅に口元を扇で隠して続ける。普段は弟子から『師匠が満面の笑みだと逆に胡散臭いです』なんてひどいことを言われるので、出来るだけ優しい表情を心掛けて。
「お主らの呪詛についてだ。ああ、皇家へ仕掛けたものではないぞ?
昔の騒動で蟲神を退けた時、手伝いを買って出た一族に短命の呪いを掛けたろう。西国の
卯京の見るところ、さほど複雑な仕組みではない。ただ単純なせいで逆に強力であること、掛けられた時代が古く現代とは術の系統が異なること、魂に楔のように打ち込まれているせいでなかなか干渉できないこと――などが、明璃の数年にわたる努力のおかげで分かってきた。本当によく頑張ったと、心でそっと目を細める。
これらの問題点を一気に解決するには、掛けてきた側の助力が不可欠だ。前線に送り込まれるだけあって、忠誠心と腕前は確かなようだが、如何せん若い。というより、幼いと言った方が良い年齢だ。己の命が天秤にかかった状態なら、裏切るか殉じるか五分と五分のはず。さあ、どう出る。
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