第38話:虎穴に入らずんば姫を得ず⑦
幸い人気は全くなかったが、急いで蔀戸を閉めて回る。明璃の背丈だと少々難儀する上半分を、玄妙が率先してやってくれて有り難かった。無事に全ての作業を終えて、いつの間にかすやすやと寝入っていた銀嶺を衾に乗せてやってから、設えてあった御帳台を静かに閉める。
秋も徐々に深まってきて、明け方の空気はぐっと冷え込む時がある。蛇は寒いのが苦手なものだし、ちゃんと対策しておきたかった。ただでさえ慣れない日凪の酒を飲まされていたのだし。
「これでよし。じゃあ交代で不寝番しましょう、最初はわたしがやりますね!」
「……いや待て、待ってくれ。明璃殿は先に休んでくれないか」
「えー。だって、食べてすぐ寝たら牛さんになるって言いますし」
《ぷきゅ》
「あれは怠け者を諫めるための方便だ。大体だな、自分より年下に働かせて先に寝るなんぞ――」
ごろろろろろろろ……
ささやかな言い争いに、地鳴りのような音がかぶさった。とっさに身構えて顔を見合わせ、急いで手近の蔀戸に寄る。上側を細く開けて、庭の方をそっと覗いてみる。
後宮にはいくつもの殿舎があるが、現在はそのうち三つに妃方が住まっている。銀嶺が泊まるのに提供されたのは、東側にあるやや小ぶりな一棟だった。庭に桐の木が植えられているため、それにちなんだ名が付けられているところだ。
今は花の時季もとうに過ぎ、紅葉し始めた葉が揺れている。その木陰で、何かがちらりと動いたのが見えて、一気に緊張が走った。蔀に顔を押し付けて目を凝らすが、元々物陰の多い壷庭なので見通しは良くない。満月を幾日か過ぎて、月の出が遅くなっているのもある。
「……明璃殿、何か感じたか?」
「いいえ、特には。少なくともあやかしの気配ではなかった、と思います」
「そうか……、まさか盗賊ではないだろうが、万が一ということもある。様子を見てくるからここで待っていてくれ」
「え、じゃあわたしも……、あ。銀嶺さんがいるんだった」
いくら神様とはいえ、泥酔しているのを独りでおいていくのは心配だ。本当は付いて行きたいところをぐっとこらえて、懐から数枚の呪符を取り出して渡す。ついでに、足元にちょこんと座っていたおもちを抱き上げてはい、と差し出しつつ、
「これ、暗視と止痛と治癒の符です。わたしが作ったものだから、効くかどうかはちょっと不安だけど……あと、おもちを連れてってください。鼻が利くからきっとお役に立ちます」
「有り難い、大事に使わせてもらおう。おもち、気になったことがあれば教えてくれ」
《ぷう!》
「ふふ、行ってらっしゃい。気を付けて」
元気に鳴いた黒猪と共に、早速出て行こうとした玄妙がつと足を止めた。妻戸の前で振り返って、何やら言いたそうな顔をしている。はて。
「? どうかしました?」
「いや、大したことじゃないんだが。……出るときにそうやって声をかけてもらうと、嬉しいもんだな。
都に出て来てからはずっと一人だったから、忘れていた。ありがとう、明璃殿」
「あ、はい、どういたしまして」
いつになく嬉しそうで、ほんの少し照れている声でそう言うと、相手はそのまま背を向ける――かと思いきや、手を伸ばして明璃の頭を軽く撫でてきた。いつも通り一つに結っている髪が崩れないよう、そうっと触れてすぐ離れる。それじゃあ、と言って、今度こそおもち共々出発していった。
「……え、えええぇ」
困ったのは残った方である。ええええ、と妙な呻き声と共にその場に座り込んだ上、行儀が良くないのは承知の上で、そのまま板の間をころころと転がってみた。大丈夫、ここは汚れてない、さっきのお客さんたちは退出のとき、廂から直に渡殿へ移動していたから……って、そうじゃなくて!
(なに!? なんなの今の!! 玄妙さん、馬に乗っけてくれたり危ない時に引っ張ったりする以外、自分から触れてきたことなかったよね!?)
鏡や水面を見なくても分かる、今絶対顔が真っ赤だ。断じて嫌じゃない、嫌じゃないんだけども……!!
くうくうと健やかに眠っている銀嶺を、断じて起こすわけにはいかないので、必死で声を押し殺して転げ回る。いい加減疲れてきて、そろそろやめたいかなと思い始めた時だった。
――ごんっ。
暗がりに沈んだどこかから、ものをぶつける鈍い音が響いたのは。
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