第35話:虎穴に入らずんば姫を得ず④



 一方、その頃。

 「こっちの棚が暦の記録、こっちが天体の観測録、……ううむ、やはりあの手の資料はもっと奥か。面倒な」

 内裏から見て斜め前方、西寄りのところにある官衙かんがにて、わりと頑張っている卯京がいた。各部署から出てきた書類が保管されている塗籠ぬりごめは、お世辞にもすっきり片付いているとは言い難い。おまけに入口から吹き込む風のせいで、上の棚から埃が降ってくる始末だ。

 塵を吸い込まないように直衣の袖で鼻と口を覆って、明り取りの窓を見上げる。この日の傾き方だと、今は未の刻の半ばほどか。

 「かみが居られれば話が早かったんだがなぁ。よりにもよって臨時会議とは……まあ、あれだけ騒ぎが続けば仕方がないか。陰陽寮としては」

 右京の古巣にして、大内裏でもひときわ特殊な部署だ。暦部、天文部、そして陰陽部に別れており、職務は暦の作製、天体の観測と記録、それらを元に日々の吉凶を占うこと。宮中の行事や政務が滞りなく運ぶのを手助けする、縁の下の力持ちである。

 が、それらはいわば表の顔だ。いざ都に怪異などによる異変が生じた時は、速やかにその原因を突き止め対処に当たる。単独での解決が難しければ、武力を行使する実働部隊と連携することもある。陰陽師とは役職名であると同時に、そうした特別な知識と技能を持つ人々の総称でもあった。

 「ひとまず鍵だけ借りて、書庫にしている塗籠へ来てはみたが……一刻ほど前だったか? 久々に顔を出したら、みんなさっぱり変わっとらんかったな、うん」

 元の同僚たちはこちらの顔を見て、御上に付いて行ったんじゃないのかと大層驚いていた。それはそうだろう、卯京が今の地位に就くことになった原因は、他ならぬ今上帝にあるのだ。

 「うーん、もう少し本腰を入れて対策しておけばよかったか……まさかこんなことになろうとは」

 「こんなこと、とは? 卯京よ」

 「ぬわっ!」

 出し抜けに話しかけられて、うっかり変な声が出た。急いで振り返った先、塗籠の入口を塞ぐようにして立つ人影がある。いつの間に。

 「……頭、驚かさんで下さい。というか気配を消して近寄ってくれるなとあれ程」

 「おれは何も特別なことはしていないが。あと、役職で呼ぶのは人前だけで、と頼んだろうに」

 苦虫をまとめて数十匹は噛み潰したような顔の卯京に、怒るでもなく愉快そうににこにこ笑っている相手だ。きちんと烏帽子を被っているが、癖っ毛なのか額や耳の横からこぼれた髪が柔らかく顔を縁取っているのが華やかだ。丈は高く、体躯も良く、しかもなかなかの美丈夫。遠国の末宮に扮した銀嶺に、勝るとも劣らないほどだ。これで趣味の良い衣でも纏って、扇片手に微笑んでいれば、その辺の姫君や女房が放っておかないに違いない。

 綾部あやべの蒼真そうま。寮を率いる現陰陽頭おんみょうのかみであり、卯京の古馴染みにして兄弟子でもある、黎安京が誇る『当代随一』の術師の一人だ。ついでに、

 「いや人前というか、ここ普通に式だの式神だのが行き交うでしょうが。いつどこで誰が聞いとるか分らんのに」

 「まあ、彼らだって暇ではない。上の者らが多少羽目を外したところで、仲の良いことだと思うだけだろう。気にするな」

 「それが嫌だと言うておるんですが!?」

 「良いじゃないか。都に、というか、この世に一人しかいない弟弟子だぞ? 久しぶりに会えて嬉しくない訳がなかろう」

 玄妙辺りが目撃したら、驚きの余り目を丸くするに違いない。眉間にくっきりしわを寄せて、普段の飄々とした調子がどこかに吹き飛んでいる卯京の前で、蒼真の方は相変わらず楽しそうである。その原因である台詞の内容が全き事実であることは、残念ながら陰陽寮の全員がようく知っていた。

 (だから自力で済ませて、さっさと帰ろうと思っとったんだ、全く!)

 気に掛けてもらえて有り難いのは確かだが、いつまで経っても童のごとく構われる側にしてみれば、苦い上に渋い顔つきにならざるを得ない。己が今年で一体幾つになると思ってるんだ、この人は。






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