第30話:捕らぬ妃の皮算用⑥


 数日ぶりに訪れる左大臣の本邸は、相変わらず広々として豪華だった。

 宴の夜おもちに崩された築地塀ついじべいも綺麗に修繕されており、少々壁の色が明るい以外は全く元通りだ。今日もあちこちで、主に言いつかった役目をこなす家人達が忙しく行き交って――

 (……あれ? 人が少ない)

 車宿くるまやどりから直接屋内に入り、先導するまだ若い女房――きちんと礼儀に則って、扇で顔の下半分を隠している――に従って渡殿を行きながら、明璃は心の中で首を傾げていた。先日初めて来たときは、特別な行事の最中だったから、普段に輪をかけて賑やかであるのは勿論だろう。が、それにしたって静かすぎる。いや、静かというか、人の気配が希薄だ。

 先を行く卯京は元より、要人警護が任務の玄妙もそれを感じ取っているのだろう、緊迫した気配を醸し出している。普通の人には見えないのを良いことに足下をうろちょろしていたおもちが、不安そうにこちらを見上げてきた。

 《ぷきゅ……?》

 「よしよし、大丈夫だよ。こっちおいで」

 《ぷー》

 こっそり呼びかけると、心細かったのかぴょいん、と跳び上がってきた。肩の上にそっと乗せてやったとき、ようやく前方から声が掛かる。

 「――こちらでございます。古瀬殿、どうか何とぞよろしゅうに……」

 「ええ、無論です。大臣、ただ今参上致しました」

 「おお、よくぞ来てくれた。瑞羽みずは、入ってもらってくれ」

 はい、と静かに応じた女房が、御簾からではなくわざわざ妻戸を開けて通してくれた。

 ここは邸の東側にある対屋たいのやで、よくよく見れば蔀戸しとみどがほぼ閉め切られたままだ。風を通すために上側だけ半開きにしてある箇所がいくつかあって、その向こうはしっかり御簾が降りている。病人を寝かせるには随分と厳重な様子だ。

 だが中に入って幸雅と対面した一同は、更なる驚愕を得ることになった。

 「……お、大臣おとど!? そのお顔は一体」

 「済まない、やはり酷い状態なんだな。ようやく半刻ばかり休めたところだったんだが……まだ血の気が戻っていないらしい」

 苦笑しつつそう言った幸雅は、薄暗い室内で見ても明らかに顔色が悪かった。年齢にしては若々しくて張りがあった肌が、見事にくすんで隈ができ、随分と老け込んで見える。さすがに髭は当たっていたが、この分だと放っておけばあっという間にごま塩状態になるだろう。穏やかで通りの良い声も掠れていて、聞くだに気の毒な状態だった。

 明璃たちだって驚いたのだ、長年の付き合いである卯京の衝撃は計り知れない。女房の気配が通路を遠ざかっていったのを確認するや、大股で勢いよく距離を詰めて詰問にかかる。

 「お前な、困ったことがあったらすぐ連絡しろ! 本当にどうしようもなくなるまで一人で抱え込むんじゃない、幸雅に何かあってみろ、奥方と子ども達に顔向け出来んだろうが!!」

 「うん、卯京にも心配をかけてしまったね。本当にすまん。……言い訳がましいが、今回は本当に突発事態だったんだ。不用意に文など書いて、もし外部に漏れたら大混乱になりかねなかった」

 「……、まあ、それなら致し方ない。で? 何なんだ、その突発事態ってのは」

 まだまだ怒っているからなのか、それとも取り乱した照れからなのか、普段よりつっけんどんな口調で先を促す。幸雅はひとつ頷くと、身振りで付いてくるように示して、奥の方へ足を向けた。そこで気づいたことがある。

 (あれ、御帳台みちょうだいだ。本物は初めて見た)

 対屋の真ん中、母屋に当たるところに、堂々と立っているのは立体的に設えた帳だ。皇族や宮筋の方々とか、それこそ左右の大臣であるとか、そういう高貴な身分の方が使う座所、もしくは寝所である。

 その入り口に垂らした布を、大臣がそっとめくる。さらなる暗さに目が慣れるよりも先に、異様な気配が漂い出てきたのが、はっきりとわかった。




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