第29話:捕らぬ妃の皮算用⑤



 さらさらと、涼し気な衣擦れの音がした。揃って顔を向けた先、対屋と主殿をつなぐ渡殿をやって来る、もはやすっかりおなじみの女房がいる。客人たちに聞こえないようにだろう、控えめな声で、

 「明璃さーん、ご主人様がお呼びですよー。今からお出かけするので同行するように、と」

 「えっほんと!? じゃあすぐ着替えてきますねっ」

 「ああいえ、今回はそのままで大丈夫です。というか、連れて行くのが男の子だとまずいんです」

 「へ?」

 「真藍殿、それはどういう……」

 先日の宴からこっち、呪符を渡したり玄妙をけしかけたりして、何かと弟子を気に掛けている卯京である。ここに来て女装束で良いとは、一体どんな風の吹き回しか。

 訝る二人に、こちらも邸の主人と同じほど世話になっている古参女房は、にっこり笑って再び口を開いた。

 「ちょっと緊急連絡が入って、左大臣様のところに向かわれるんですって。お具合の悪い方がいらっしゃるそうですわ」




 「――急病人が出たから祈祷してほしい、ということだ。しかしまあ、若いとはいえ殿上人を遣いっ走りにするとはな」

 「見つからずに済んで幸いでした……」

 「いや本当に。余計な憶測やら詮索やらをされては時間がもったいない」

 暫しの後、用意してもらった牛車に揺られて移動しながらの会話だ。いつもの如くのんびりと扇を揺らしている卯京に対し、その向かい側に座った玄妙の表情は少々硬かった。自分の中で一応の決着がついたとはいえ、さっきの今なので仕方がない。

 ちなみに、元々馬で付いていくつもりだったのだが、卯京にあっさり押し切られた。どうも見られたくないようだから目立たん方がいいぞ、とのことで。

 「成程、わたしがこの格好なのは寄りまし役だからですか。にしてもよくありましたねぇ、この一揃い」

 「ふっふっふ、物持ちが良かろう? ちょっと前までは真藍に付き合ってもらっとったんだが、ここ数年さすがに厳しいと断られてな。持つべきものは童顔の弟子だ、うむ」

 「悪かったですね子どもっぽくて!! 謹慎が解けたのは嬉しいけどっ」

 畏まる玄妙の隣で、華やかな装束をまとって頬を膨らませる明璃がいた。襟元や袖口の色目が美しくなるように、先程邸で着ていたものにいくらか衣を足して、さらに上から細長ほそながと呼ばれる上着を羽織っている。身頃が細くて長いので、後ろに裾を引いて歩く姿が優美な、主に若い女性用の盛装である。

 この時代、病は物の怪の仕業とされている。だから治療のために祈祷師や僧侶、陰陽師といったその道の玄人を邸に招くのだ。悪さをしている物の怪は、病人から別の人物へ移動させた上で祓っていくのだが、その役目を担う子どもや女性を『寄りまし』と呼ぶ。そういう体裁を取ればこの面子で押しかけても怪しくない、というわけだ。

 「てことは、そっちは表向きのご用ですね。幸雅様はなんて?」

 「言っておくが、急病人が出とるのは事実だぞ。一緒に伝えてきたこともまあまあ大事だったが。まずな、おもちの身元が分かったかもしれん」

 「えっ、ホントに!?」

 《ぷ?》

 「魚頭を退治たとき、ヒレの間を潜ったら相手がひっくり返った、と言っておったろう。そういうあやかしはもっと南方の、果楠かなんとか瑠玖るきゅうとかにいるものだ」

 稚嘉わっかとは正反対で、碧珠海の南方に浮かぶ島々だ。特に瑠玖王国は交流の歴史が長く、大陸との貿易の要衝として古くから大いに栄えてきた。文化的にも影響を受けており、日凪では魔物と呼ぶところを『マジムン』というなど、共通語に近いながら独特の方言で知られている。

 「で、だ。あちらのマジムンは様々な動物の姿を取るが、いずれにも共通している能力がある。股下を潜った相手の魂を奪う、というものだな」

 「なるほど、おもちのやったことそのものですね! ……でも何でうちの国に? あやかしや物の怪って、基本的に元いた場所から大きく移動できないんじゃ」

 「だからこそ幸雅のやつに確認を取っておったんだ。その返事がてらの招集と見ていいだろうな。あと、魚頭の残骸なんだが――」

 ちょうどその時、がくんと揺れて牛車が止まった。先導していた従者たちが慌ただしく動き回る気配がする。軽く息をついた卯京は、半開きにしていた扇をぱたんと閉じて、一旦懐にしまい込んだ。

 「……着く方が早かったな。さて、後は大臣おとど直々にお聞かせ願うとしようか」

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