第15話:触らぬ森に祟りなし⑧


 地響きを上げて巨木が倒れる。その幹に薙ぎ倒される、寸でのところで大鹿が跳び退いた。

 とっさにその首にしがみ付いた明璃は、ひっくり返った木の根元が大きくえぐれて、黒く爛れているのを目撃した。さっき風に乗ってきた異臭が鼻をかすめて、完全に腐っているのがわかった。嫌な予感がする。

 「……まさか、ああやって食べてるの!? さっきより大きくなってる……!!」

 大鹿が答えるより先に、黒い糸のようなものが追撃してきた。飛び退って難なくかわすが、その向こうからはなめくじもどきの本体が這ってくる。思いのほか早い!

 《飛び降りて走れ、吾が引き付ける!!》

 「そうしたいのは山々なんだけど!! 今やったら首の骨折りそうですっっ」

 《ぷきゅーっっ》

 華麗に跳躍する主殿は実に格好良かったが、乗っている明璃は今にも舌を噛みそうだ。肩によじ登ってきた黒猪ともども、情けない声で叫んでしまった。


 ――ぱぁん!!!


 《……ッ》

 突如、空気を裂くような乾いた音が鳴り響いた。間髪入れずに二回、三回と続くと、なめくじが怯えたように動きを止め、最初に見たときのように蹲る態勢を取った。驚いて周りを見渡した明璃の視界に、右手奥の斜面を駆け上がって……いや、よじ登ってくる人影が。

 「明璃殿、無事か!? 遅くなってすまん!!」

 「えっ、あれ? 玄妙さん!?」

 そう。烏帽子に狩衣狩袴、ついでに足元は草鞋履きという動きやすそうな出で立ちで走ってくるのは、昨晩知り合ったばかりの若い公達だった。左手になぜか大弓を持っており、よくよく見れば矢を一杯に入れたえびらまで携えている。目の前までたどり着くと、心底安心した様子で大きく息をついてみせた。

 「いや、最初は馬で追いかけたんだが、意外に道が険しくてさ。そこの崖下で待っててもらって、自分でよじ登ってきたんだ。間に合ってよかった!」

 「ああ、それで落ち葉まみれ……じゃなくて、ありがとうございます! 玄妙さんが鳴弦めいげんしてくれたおかげです」

 魔除けのため、矢をつがえずに弓の弦を鳴らすことを『鳴弦』という。主に傷病快癒や安産の祈願として、対象者の枕元で行うものだ。もちろんあやかしや物の怪にも有効なので、もし昨夜手元に弓があったら、もっと状況が違っていたかもしれない。

 とにかく、これで活路は開けた。懐から引っ張り出した呪符を手に、大鹿の背から飛び降りた明璃が元気よく呼びかける。

 「主さん! 奥さんと出会ったのって、やっぱり秋でした!?」

 《おお、その通りだ。紅葉で山が燃えるようであった》

 「分かりました、やってみます!! よし、あの歌が良いかな――」

 請け合って、呪符を口元に寄せて何事か囁く。ひとしきりそうやったのち、ふーっと長く息を吹き付けると、


 さぁぁぁぁぁ……


 符が端から解け、煙のようになって風に散っていく。その行方を追って視線を転じた玄妙は、思わず目を見開いた。

 「楓に色が……!」

 秋になったとはいえ、山全体が赤く染まるのはまだまだ先のはずだ。だというのに、辺りに生えている木々――赤子の掌のような楓の葉が、どんどん色を変えていく。梢に雪が降り積もるごとく、高い方から順に紅を纏っていく。

 程なくして、辺りは見事な紅葉の錦に包まれた。玄妙と同様、なめくじもどきも驚いた様子で見回している。

 ぴぃ、と、笛のような音が響いた。やや間を開けて、もう一度。また一度。

 目を向けた先に、真っすぐ見つめてくる大鹿の姿がある。その口元から、人語の代わりにこぼれてくるのは、鹿同士が鳴き交わすときの声だ。懐かしいと、唐突に思った。

 (――ああ、そうだ。そうだった。ずうっと昔、こうやって迎えに来てくれた)

 このひとがどこかに行ったのではない。逝ってしまったのは自分の方だ。ようやく思い出した、思い出すことが出来た。

 ぽろぽろと、両目から涙をこぼし始めたあやかしに、紅く染まった楓が降りかかる。ひとひら、またひとひらと舞う葉が触れるたび、その身を覆う黒いものが少しずつ消えていき。

 「――よし! 上手くいった!!」

 やがて楓が散り終える頃、なめくじのような異形は姿を消していた。辺りの景色はすっかり緑一色に戻っている。

 ぐっとこぶしを握ってから、軽やかに駆けていった明璃が何かを拾い上げた。そうっと水干の袖で包むようにしているのは、両掌に納まるほどの丸いものだ。内側から静かに光るそれは儚く繊細で、言葉に表せないほど美しかった。

 「それは……」

 「はい、さっきの子の魂です。本当はこんなにきれいだったんですねぇ……主さん、手伝ってくださってありがとうございました」

 《いや、礼を言うのはこちらの方だ、明璃とやら。妻を救ってくれたこと、まことに忝い》

 「いえいえ、私がやりたかったから! 奥さんが帰ってきてよかったです、はいっ」

 《ぷきゅ!》

 「……いや待て、何でお前が自慢げにする」

 真摯な礼に盛大に照れつつ、嬉しそうな明璃は大変微笑ましい。が、何故かその肩で誇らしげにしている黒猪に、思わず突っ込みを放ってしまう玄妙だった。


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