第14話:触らぬ森に祟りなし⑦


 黎安京を東に抜け、鴫川しぎがわを渡ってさらに行くと、まもなく山裾に行きあたる。人の手の入った里山は、ほどなく途切れて手つかずの山林となった。

 鬱蒼と茂る木々は、広葉樹が大半だ。これから秋の半ばにかけて実を結び、葉といっしょに地に落ちてくるが、今は紅葉もほとんどしていない。今年は夏が少しばかり長かったから、その影響だろう。

 そんな中、もし馬であれば通れなかっただろう獣道を、脚に任せてどんどん進む明璃たちがいた。大鹿は体格にそぐった健脚と体力の持ち主で、少々切り立っている地形でもひょいと乗り越えてしまう。危なげの全くない歩みを感心して見ている内、気が付いたことがあった。

 (……あれ? あの辺、何だか黒くなってる……?)

 動物が行き交うおかげで、ぎりぎり草に埋もれていない隘路。それに並行していたり、時おり交差したりしながら、何かどす黒い筋が続いている。幅はおそらく、明璃が軽く両手を広げた程度。森の下草が押しつぶされて、一方向になぎ倒されているのがわかる。ということは、

 「なにか、這っていった跡……?」

 《ぷ……》

 《その通り、直に行き会おう。くれぐれも騒がぬよう頼む》

 「は、はい」

 大鹿に低く念を押された直後、まだ日中なのに鳥の声がふっと途切れた。さあっと蔭って昏くなって、森の奥から吹く風に異質なものが混ざる。緑と土の匂い以外の、澱んで濁った胸の悪くなる異臭だ。

 その、景色全体を覆う翳りが最も濃い所。立派な枝を広げた大樹の根方に、何かがいた。

 「……え、っと、あの子が奥さん……?」

 《そうだ。他にもいろいろと取り込んでおるようだが》

 ほとんど息だけで訊ねた明璃に、こちらも囁きで応える大鹿だ。堂々と張り上げればさぞ迫力があるだろう低い声だが、金色の瞳同様に悲しそうに曇っている。無理もないことだ。

 (予想したのの何倍も気の毒なことになってるもんなぁ、奥さん……)

 そんなことを思う明璃の視線の先。どんよりした気配を漂わせてうずくまっているのは、強いて言うなら涅色のなめくじ、のようなものだった。ただし、昨晩出くわしたときの黒猪と同じか、一回りほど上という規格外の大きさだ。先程の黒い跡、どうやらこれが這いずった跡だったらしい。

 「……あの、立ち入ったことを聞いて申し訳ないんですけど。なんでこうなったのか、心当たりとかありますか」

 《うむ。我は山に住む霊鹿れいろくの長、人の子がヌシと呼ぶ者だ。が、妻は生身の鹿でな》

 珍しい白い毛並みをした、美しい牝鹿だった。賢く霊力も備えていたので、時を経れば自然に霊鹿となって、長く添えるだろうと思っていた。しかし。

 《ここから西に三つ峰を越えたところに、切り立った崖に囲まれた渓流がある。その淵に落ち込んだのだ》

 不幸中の幸いというのか、その周辺は土地そのものが霊性を帯びていた。身体が全て地に還って、浄化されて魂だけになれば、精霊として戻って来てくれるはず。そう思い、寂しさを堪えて待っていた。そうしたら、

 《しばらく前に眷属が報せてくれた。魂が妙なものに取り込まれたと……強烈な瘴気で近づくことも出来ぬし、どうにもおかしな気配がする。ならばと、恥を忍んでそなたの師を頼ったのだ》

 「それは有り難いことですけど……おかしな気配って?」

 《おそらくだが、あれは呪詛の放つものだ。陰陽師は正邪双方を司るゆえ、かけることも解くこともできると聞く》

 「呪、……うわっ、ほんとだ!」

 実に深刻な調子で、さらにとんでもないことを言われてしまった。あわてて気配を探ってみたら、よく知っている嫌な波動を感じ取って鳥肌が立つ。こんなに近くにいて気づけなかったとは、見習いとはいえ陰陽師として減点ものだ。

 気の毒やら申し訳ないやらで、思わず声がひっくり返ったのがいけなかった。大人しくぶよぶよしていたなめくじもどきが、ざわっと表面を波立たせて向きを変えた。

 何故分かったかと言えば、もぞもぞと水平に回転した気がしたから。ついでにそれまで見えていなかった、紅くて丸い点が二つ出現したからだ。


 しゅうううううう……


 どこからか、空気が漏れるような音がする。そう思ったのと、なめくじが根元にいた大樹がぐらり、と傾いて、根元から倒れ掛かってきたのが、ほとんど同時だった。








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