第9話:触らぬ森に祟りなし②



 ふっと、意識が浮上した。

 ぼんやりしたまま見渡すと、辺りはまだ薄暗い。長月に入ってから、明らかに日の出が遅くなっているのが分かる。この感じだと卯の刻くらいだろうか。

 (……えっと、師匠は今日、出仕しないから……)

 何せあんなことがあったのだ、次の日は当然物忌みで休みになる。だったらもうちょっと寝てても良いかなぁと、掛布にしている大袿おおうちきに潜り込んで丸く……なろうとしたところで、思い出した。

 「栗! 栗ご飯の支度っ、水に漬けといた栗の皮むかなきゃ!!」

 即座に飛び起きてしとねを片付け、身支度にかかる明璃。居候生活三年目ともなれば、朝一番で食事の支度をするのも慣れたものだった。



 明璃がお世話になっている卯京の自宅・古瀬邸は、大内裏の東側、都の北から三本目の大路沿いにある。この辺りは貴族の邸宅が並んでいて、近くに市も立つのでわりと賑やかだ。

 朝は定刻に内裏へ向かう上達部の牛車が路を行きかい、なかなか壮観でもある。もっとも卯京本人は『私の位で牛車参内なぞしてみろ、公卿連中からの嫌味で生き埋めになるぞ』なんてうそぶいて徒歩出勤を貫いているが。

 「て言っても師匠、今上おかみのご配慮で殿上できる位は頂いてるんだけどなぁ」

 陰陽師はれっきとした官吏だが、本来の地位は決して高くない。卯京の出世は本当に異例中の異例だ。しかし決してえこひいきではなく、能力と働きに応じた抜擢だったと聞いている。

 明璃が居候を始めてからだって、邸でのんびりしている姿は数えるくらいしか見たことがない。多忙だということは、それほど周囲に必要とされているということだ。自分の師が皆から頼りにされているのは、素直に嬉しい。

 何やかやと呟きながら着替えを済ませて、音を立てないようにそっと簀子に出る。ここの邸は古瀬家代々の館で、あちこちが古びている。うっかり板を軋ませると、散々酒に付き合っていた卯京は辛いかもしれない。いつもより気を遣って足を運ぶこと、しばし。

 「真藍さあいさーん、おはようございまーす」

 「まあ、おはようございます。もう起きられたのですね、明璃さん」

 たどり着いた厨で、すでに火を熾して立ち働いていた人物が穏やかに返した。土間で作業する関係上、小袖をたすき掛けした上に切袴を穿いた活動的な格好だが、微笑んだ表情や軽く会釈する仕草に品があって美しい。簡素にひとまとめにした黒い髪も艶やかで、盛装して静かに座っていたら、身分のある姫君だと思われそうだ。

 真藍はここの、数少ない古参の女房である。明璃にとっては右京に次いでお世話になっている相手であり、また邸での務めにおける大先輩でもあった。都での暮らしに不慣れだった頃から、何かと相談に乗ってもらった姉のような存在だ。だからこんなふうに、『まだ寝ていてよかったんですよ』なんて言って甘やかしてもくれる。それがくすぐったくも有り難くて、単純に嬉しかった。

 「ふふふ、何も無かったらそうしたんですけどね。ほら、栗の皮むきしないとだから」

 「ああ、何日か前に拾ってこられましたものね。どれも身が詰まって美味しそうだこと」

 「はい! ずっと楽しみにしてたんですよー」

 他愛のない会話を交わしながら、厨の隅に置いてあった桶の中を確認する。中ではきれいな水にさらされて、しっかりふやけて色つやが良くなった栗たちがごろごろしていた。早速刀子とうすを出してきて皮むきに取り掛かる。

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