第10話 彼女と一緒に待つ夜明け

「もう大丈夫なのか?」


 フロントの男は怪訝そうな顔で僕たちを見た。


「うん、もう平気だよ」


 血色の良くなったヒナが笑って答えた。


「そうか? ならよかったが」

「それでなんですけど」


 今度は僕が口を開く。


「僕たち、このホテルを出ようと思いまして」

「そりゃまたどういうことだ? いやホテルだし引きとめるこたできねえけどよ」

「どこか遠くに引っ越そうと思うんです」

「はあ……」

「大丈夫、前納したホテル代返せなんて言わないからさ」


 悪戯っぽくヒナは言って、ホテルの出口へ向かった。


「じゃあね」

「……おう、じゃあな」


 フロントの男は、見間違いじゃなければ、寂しそうだった。すごく。ものすごく。


「それじゃあ僕も」

「ちょっと待て」


 フロントの男は僕に何かを放った。僕はそれを不格好にキャッチした。


「……なんです?」


 つまんで持ち上げると、車のキーのようだった。


「餞別だ。やるよ。裏にとめてある」

「え。でも」

「いいから。お前はともかく、あの娘は俺の娘みたいなもんなんだよ。少しは何かさせろ」

「いえそうではなく、古い鍵だなと。いつ頃の車ですか」

「なんだよ文句あるか?」


 険悪に声を低くする彼に僕は笑う。


「冗談ですよ。ありがたくいただきます」

「おう」

「それでは……と、最後に訊きたいんですが」


 ふと気づいて振り返る。


「なんだ?」

「あなたはヒナとはヤってませんね?」

「あたぼうよ。可愛い娘にひどいことしたがる父親がどこにいる」





 古いセダンに乗り込みながら彼女にそのことを言うと、ヒナはくすくすと笑った。


「知ってる? あの人にも昔娘さんがいたんだって」

「へえ」

「小さい時に病気で亡くなったらしいんだけど。名前がヒナコちゃんだとかで」

「なるほど」


 キーを差し込み、回す。

 エンジンが意外に軽快な音を立てて始動する。


「じゃあ、行こうか」

「うん」

「どこにする?」

「あなたと一緒ならどこにでも」

「了解」


 アクセルを踏み込んだ。

 ひどく久しぶりの運転で、車はぶきっちょに夜を行く

 目的地はない。でも漠然と行きたいところはあった。

 二人ともここらの地理には詳しくなかったので、適当に走った。

 迷うことを恐れる必要はない。どうせもうどこにも戻れないのだから。

 車のラジオからはニュースが聞こえてきた。


「夜九時ごろ通り魔事件がありました。会社員の男性が刃物で刺されて軽傷。命に別状はなく……」


 僕は窓を開けた。


「なんか海の匂いがしない?」

「そう?」


 隣の彼女が首を傾げる。


「すると思うけどなあ」


 言いながら僕は首筋から肩にかけての部分を片手で撫でる。

 ほとんど消えているが、牙の痕が少しだけ残っている。

 彼女はそれをじっと見つめていたが何も言わなかった。


 車はそれから小一時間ほど走って、ある道路脇に停まった。

 ドアを開けると、今度こそ濃厚な潮の香りが鼻をツンと刺激する。

 彼女は歓声を上げた。

 うす暗い空の下に、黒い波が穏やかに打ち寄せては返している。


「わたし、海なんて何年ぶりだろう!」


 叫ぶように言いながら水際に走っていく。

 僕もゆっくりその後を追う。

 彼女は不格好に海水を掬っては舞い上げていた。


「ショコラ!」

「うわっぷ!」


 僕の顔に海水が掛かる。しょっぱい。

 僕は呆れて笑った。


「子供じゃあるまいし」

「あ、なに大人ぶってんの」

「女の子なら女の子らしく慎みを」


 とそこまで言って、注意の逸れた彼女に海水を蹴りあげる。


「あ! 何すんの!」


 僕はその時には退避を始めている。笑いながら。


「この!」


 ヒナは濡れた砂を丸めて僕に投げてきた。

 ほとんどは外れるがいくつかは当たる。

 僕は逃げながら笑い続けた。彼女も笑っていた。

 ああ、なんで最後に限ってこんなに楽しいんだろう。

 ひたすらはしゃいでいるうちに水平線が明るくなってきた。

 僕たちは立ち止まってそちらを見た。

 どちらともなく座り込む。

 並んで肩を寄せて、明るさを増していく空を見上げる。


「わたし、朝日を見るのなんて何年振りかな」

「僕もじっくり見るのは久しぶりだな」


 それきり二人とも黙りこむ。

 日が出るにはまだもう少しかかりそうだ。

 最後に言い残すことはなかっただろうか。僕はしばし考えた。

 と、彼女が言う。


「セックスしとけばよかったね」


 あ、と僕は声を漏らした。結局ヒナとは交わりを持っていない。

 なんだか大事なことをし損ねてしまった気分になったが、僕は努めて冷静に返した。


「いや、でも大したことじゃないさ」

「どうして?」

「ヒナは幸せだった?」


 唐突な質問に、彼女は瞬きをした。

 考える間をおいて、彼女は答える。


「まあまあかな。人生前半はいまいちだったけど、後半の追い上げがすごかった」

「奇遇だね、僕も同じだ」


 深呼吸する。


「終わりよければすべてよし。だから、セックスなんて大したことじゃないのさ」


 したかったけどね、とこっそり付け加えた。

 ますます水平線が明るくなる。もう間もなくだ。

 一日の始まりを告げる朝日が、僕たち吸血鬼にとっては人生の終わりを告げる朝日が昇る。

 彼女が急に立ち上がる。


「ショコラ、愛してる!」


 僕は微笑む。


「もう聞いたよ」

「ううん、言い足りない。もっと言う」


 彼女は海に向かって叫ぶように繰り返す。

 愛してる、愛してる、愛してる。

 フェアじゃないな。僕は思いたって立ち上がる。


「ヒナ、愛してる!」

「知ってたよ!」

「そいつは良かった! 愛してる!」


 愛してる。愛してる! 愛してる!!

 空が照らされた。夜が明ける。

 輝かしい、目をつぶさんばかりの朝日が水平線の彼方から昇った――


(終わり)

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吸血少女と待つ夜明け 左内 @sake117

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