第9話 僕は負けたんだ

 ホテルを出るとき、フロントの男はいなかった。これからやろうとしていることを考えれば鉢合わせなかったのは幸運だった。

 僕はまだ開いていた旅行用品店に入り、大きなキャリーバッグを買った。人間だって一人くらいならぎりぎり入ってしまいそうなくらい大きい。

 それを引きずって歩く。

 目的の人物の帰り道は大体知っていた。徒歩での帰宅であることも、その途中に人気がない道があることも。夜遅くだ。時間だってちょうどいい。

 急ぎ足で歩いてしばらく、その背中を見つけた。

 やせ形でしかし肩幅のあるワイシャツ姿。

 彼は大股でゆったりと歩いていた。

 懐から果物ナイフを取り出す。ホテルの部屋にあったものだ。

 それから確認する。

 周りに他の人間はいない。

 そして、これが重要なのだが、僕には彼を襲う動機がしっかりしている。

 僕が彼を襲うのは日ごろから不当に低く扱われた恨みによるもので、他の動機は全くない。

 それが、そう思われるのが何よりも重要だった。

 間違ってもヒナにとばっちりが行くことになってはいけない。ヒナは関係ない。


 僕は慎重に機会をうかがった。

 ここから数十メートルの寂れた裏道だ。その間で勝負をつける。

 じわじわと距離を詰める。キャリーバッグは持ち上げて音がするのを避ける。

 だがきっかけがないまま時間が過ぎた。このままでは裏道を抜けてしまう。

 と。

 彼がしゃがみこんだ。靴紐がほどけたらしい。

 その時には僕はもうキャリーバッグを放り出して駆けだしていた。

 男が気づいて振り向く。しかし遅い。それより早く、果物ナイフがその背中を突き通した。

 独特の、鈍い手応えがした。うめくような悲鳴を上げて男が倒れた。

 やった。と思った。これで人間一人分の血液が確保できる!

 大した距離を走ったわけではないのに息が荒かった。

脚も震える。ついでに手も震える。

 さっきの手応えで痺れたように力が抜けていた。

 そして見やると男は這うようにして逃げ出そうとしている。生きていた。

 止めを刺さなければならない、と気づいた。

 追いかけてまたがる。ナイフを振り上げる。


「っ……」


 後は振り下ろすだけ。それで終わる。

 だが、できない。さっきの鈍い肉の感触が僕にそれをさせてくれない!

 なんでだよ! 僕は毒づく。なんでできない!?

 口から嗚咽に似た声が、目から涙に似た汗が、それぞれ漏れて落ちる。

 そして気付く。

 僕にはできない。どうしたって、できない。

 日ごろからどれだけこいつにむかついていようと。

 吸血鬼の少女がどれだけ血を欲していようと。

 それを助けるためにどれだけ決意を固めようと。

 そんなものは関係ないのだ。

 僕にはできない。

 気づいた途端、僕は悲鳴を上げた。

 果物ナイフを放り捨て、みっともなくそこから逃げ出す。

 足をもつれさせ、半分転げるように走り出す。

 暗い道を延々と蹴り、走り続けた。

 ずっとずっと走って、それから一度だけ吼えた。



 ホテルの三階のいつもの部屋で、広いようで実は狭いその部屋で、ヒナは月明かりを浴びて眠っていた。

 美しい光景で、それを見ているだけで何故か視界が涙で滲んだ。僕はもう、そこに立ち入ることも、彼女に触れることもできないのだ。

 しばらくぼうっと眺めた後、背を向けた。


「ショコラ」


 声がしたのはその時だ。

 肩越しに振り返る。彼女がこちらを見ている。


「こっちに来て」


 僕は躊躇した。だって僕は、罪人だから。

 でもそんなことは関係ないかのように彼女は言う。


「来て。お願い」


 近寄ると、彼女はもがくように身を起こした。それから僕を抱きしめながら言う。


「ごめんね」


 彼女はずっと寝ていた。僕の罪科を知るはずもない。

 しかし全てを知っているような口調で言う。

 泣き声の混じった声で謝っている。


「別に」


 僕は平板に答える。


「君のことは関係ない。僕はあいつが大嫌いだったから」

「ごめん」


 それでも彼女は謝り続ける。ただ、謝り続ける。

 僕は、それによってゆっくりと凝り固まっていたものがほぐれるのを感じた。

 そのせいで、心の奥に縛りつけていた恐怖が、震えが顔を出した。

 腕が震える。肩が震える。身体全体が細かく震える。

 怖い、怖い。浴びた返り血が生温かかったのを思い出す。

 僕は小さく叫んだ。彼女に抱きしめられながら嗚咽する。

 痙攣するように声が漏れる。

 もう嫌だ。あんなのはもう嫌だ!

 それは事実上の敗北宣言だった。

 僕は負けたのだ。

 彼女の命と自分の覚悟を天秤の両端に乗せて、結局彼女を取れなかったのだ。


「でもショコラはショコラのまま帰って来てくれた」


 はっとする。

 熱いものが喉を詰まらせる。

 なんだかもうよくわからない感情で顔が歪む。


「ありがとうショコラ。愛してる」


 彼女の前で泣くのは何度目だろう。


「僕もだ、ヒナ」


 震える声で、答えた。






 嗚咽がやみ、身体の震えがおさまってから。

 僕は彼女に一つの提案をした。

 部屋の静けさが僕の声を押し潰すかのようで、彼女は黙って聞いていた。

 僕の言葉が終わった後も彼女は考え続けたようだった。

 僕は急かすようなことはせず、暗い部屋の中、唯一月明かりに照らされた彼女の横顔を眺めていた。

 短くない時間の後にヒナは決断を下した。その華奢な身体をそっと抱き寄せる。

 目を閉じた。

 まぶたの裏の闇の中で感じるのは、背中にまわされた彼女の腕。

 それから首筋にあたる彼女の吐息と、肌に走った痛みだけだった。

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