第8話 来るべき時が来た
その夜から十日ほど後。
僕は全速力で走っていた。
ホテルの方向へ。時間はまだ七時で、バイトは無理矢理早く抜けてきた。
ぜいぜいと息が切れ肺が痛むが構ってはいられない。
彼女が、ヒナが危ないのだから。
バイトの終わり頃、携帯が鳴った。何の気なしに取った。
「俺だ」
声は開口一番にそう言った。
「わかるな? フロントだ」
「ああ、分かりますよ。なんですか?」
僕は仕事で噴き出した汗を拭きながら暢気に返した。
その時の能天気具合は自分で自分を殴ってやりたいぐらいだ。
声は落ちついた調子で、しかし早口に告げた。
「単刀直入に言う。ヒナちゃんが倒れた」
「は?」
「本当はもっと早く電話すべきだったんだけどな、ヒナちゃんが止めるものだから」
「ちょ、ちょっと待ってください、どういうことです?」
「いいから来い」
「だから説明を」
「いいから!」
声はいきなり語気を強めた。
それで僕は本当に危ない状況なのだと悟った。ようやく、理解した。
ホテルに飛び込み、鍵の掛かっていないドアを開けると、ベッドに横たわるヒナがまず目に入った。
それから脇に立つフロントの男。
「ヒナ!」
呼びかけながら駆け寄る。
だが反応はない。
「今は寝てる。多分もうすぐ意識は取り戻す」
フロントの男は落ちつかせるように僕の腕に触れながら言った。
「何があったんです?」
「六時頃、なんとなく様子を見に来たら床にヒナちゃんが倒れてた」
ヒナの顔は蒼白で、ひどくやつれて見える。
一気に衰弱している。昨日は何ともなかったはずなのに。
「一体どうして……」
「怪我はない」
「何かの病気じゃ」
「わからんね。ただ……気になることがある。ちょっとこっち来い」
フロントの男が部屋の隅に僕を引っ張った。
「なんです?」
「ヒナちゃんが最近男を連れ込むところを見ていない。お前はどうだ、見たか?」
僕ははっとした。彼女の精気補給源。
「僕も、見てません」
最近ずっと夜は一緒だ。他の男は来ていない。
「俺は事情はよく知らん。だが関係はあるんだろ?」
フロントの男はこちらの返事を聞く前に出口に向かった。
「とにかく任せる。何かあったら呼べ」
ドアが閉まった。
「……出てった?」
僕はその声にはっとして振り返った。
ヒナが目を覚ましていた。悪戯っぽく笑う。
「二人きりになりたかったから。寝たふりしてた」
「ヒナ」
近寄って手を握る。
「最近精気を補給していない、そうだね?」
ヒナは小さく頷いた。
「なんで。命にかかわるじゃないか」
「だって……」
彼女が口をつぐむ。
「だってもなにもない。君に死なれるのは嫌だ」
我ながら必死すぎるほどの口調だった。
彼女は唇を噛んでそれを聞いていた。
僕はもう一言言おうとして、その瞬間に気づいた。ヒナが口を開くのとほとんど同時だった。
「だって、十分な精気の補給って、他の男と寝るってことじゃない」
僕は拳を握りしめた。
「わたし、もうそんなの嫌だ。死ぬより嫌だ」
ヒナも毛布の上で小さく拳を握っていた。
何も言えない。言えるはずもない。
僕だって嫌だからだ。他の男にヒナを抱かせるなんて、もう死んでも嫌だったからだ。
「でも、じゃあ」
どうしたら、と言いかけて思い付く。携帯を取り出す。
しかしヒナが言葉で制した。
「病院も駄目」
「なんで」
「吸血症は治せない」
「それでも血液はもらえる」
「でも、お母さんはあそこで死んだ……わたしはあんなとこ嫌い。それに」
彼女は声を詰まらせた。
「あなたに会えなくなる」
言葉を失った。
なるほど。僕は苦々しく認めた。確かにその通りだ。吸血症は奇病である。僕みたいな部外者は当然面会謝絶だろう。
「じゃあ……じゃあ」
僕は必死に無い知恵を絞る。
「僕の血を飲めば」
彼女は首を振る。
「駄目。あなたに病気がうつっちゃう。重荷を背負わせるなんて絶対やだ」
じゃあどうしろってんだ!
僕は胸中に叫んだ。
僕にどうしろってんだよ! 分かんねえよ!
おい神様! もしいるんなら答えろよ!
「ごめん、わがまま言って」
彼女は虚ろに視線をさまよわせ始める。
意識がはっきりしないらしい。
「でもわたしは……わたしは……」
うわごとのように呟き、それからまた目を閉じた。
僕は慌ててその口元に顔を近付ける。
頬に当たる息を感じてほっとした。大丈夫、まだ生きてる。
だがこのままではじきに死ぬ。
その事実を目の前に、僕は愕然とした。
ヒナが死ぬ? よろよろとソファーに近寄り、座り込む。
僕は必死で頭を探った。何か方法はないか。彼女を救う方法はないか。
いきなり、唐突に目の前に迫った危機。
現実感のわかないそれは、しかしもう目と鼻の先にある。
考えて考えまくって。
でも、実は分かっていた。方法は一つしかないということは。
本当のところ僕が考えていたのは、それから逃げる方法が本当にないのかってことだったのだ。
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