第7話 彼女を知る旅に出よう
彼女に添い寝してもらっただけで、僕はだいぶ回復していた。気分は晴れやかで、どこまでも行けそうな気がした。
カーテンの隙間から細く光が差し込んでいるがうす暗い。
隣では彼女が意外に可愛い寝顔で眠っていた。
僕はそっとベッドを抜け出して、支度を始める。
部屋を出ようとした時、彼女が目を開けた。
ぼうっとしながらしばらく僕を見て、それから微笑んだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
ホテルを出る前にフロントの男にも挨拶した。
「昨日はありがとうございました。助かりました」
「もう大丈夫か?」
「おかげさまで」
では、と言って行こうとするところを呼びとめられた。
「あの娘をあんまり心配させるなよ」
「あの娘が心配? 僕は心配されるほど価値のある人間じゃありませんよ」
「それは誰が決めたんだ?」
僕は言葉に詰まった。
「確かに九十九人はお前さんのことなんか知ったこっちゃないだろう」
「……」
「でも一人くらいは心配する。そんなもんだ」
「そうでしょうか」
「その一人を大事にしろよ」
彼はそう言って掃除に戻った。もう話す気はないようだ。
僕はしばらくの間彼の言ったことを噛みしめて、会釈をしてからホテルを出た。
「あなたの名前は?」
バイトが終わって、部屋のソファーで。彼女は訊いてきた。
「興味ないんじゃなかったの?」
僕はプリンの一すくいを口に運びながら微笑む。
「今はある」
「賀藤敬一だよ、ガトウ。佐賀の藤の敬う一ね」
「ガトーケーイチかあ」
そのだらしない発音に僕は懐かしいものを覚えた。
「昔、僕についてたあだ名があるんだけど、分かる?」
「……なんだろ?」
「ショコラ」
「なんで?」
僕は黙って彼女に考える時間を与えた。
ヒナはすぐに気が付いた。
「ガトーショコラか」
彼女が合点のいった表情でこちらを見る。
僕は空になったプリンの容器を置いて背もたれに身体を沈めた。
「そういうこと。おまけに甘いもの好きだったからね」
「へえ。ショコラね。ショコラ。ショコラ」
彼女は口の中で何回か呟いた。
「わたしショコラ、好きだよ」
「僕もだ」
「じゃなくて」
彼女はこちらに向き直って言う。
「ショコラ、好き」
僕は一瞬分からず固まった。それから理解して、僕はこそばゆいものが胸の内を撫でるのを感じた。
「……チョコケーキっていいもんだよね」
誤魔化してみたが無理がある。
彼女はわずかに顔をしかめてこちらに身を乗り出した。
のみならずこちらに覆いかぶさって押し倒す。
「ふうん、そういうこと言うんだ」
「……いつの間にそんなに砕けた態度とるようになったんだっけ?」
「これがわたしの素なの。知らなかった?」
「知るわけないじゃないか」
「じゃあこれから一杯教えてあげる」
彼女は身を起こして離れた。
触れ合っていた部分に名残惜しさを覚えながら僕も起きる。
「じゃあ、行こうか」
彼女のいきなりの言葉に僕はぽけっとした。
「どこに?」
彼女は、
「わたしを知る旅」
とだけ答えて、笑った。
空気が温かくほどけた気がした。
駅前にゲームセンターがあることは知っていたが、入ったことは一度もなかった。
入口をくぐると耳を潰す高低様々な音の圧。煙草の煙も漂っているのか少し煙たい。
彼女は迷わずにずんずんと進んで行く。僕は控えめにきょろきょろしながらその後を追う。
「ヒナってこういうとこ結構来るの?」
「割と。夜は長くて暇だからね」
意外だった。もっと何というか、おしゃれな喫茶店やブティック的なイメージだった。
「そんなに変?」
少女は振り返って僕を軽く睨む。慌てて首を振る。
「いや、よく似合ってるよ」
「それはそれでなんかむかつく」
ヒナは筐体の一つの前で止まり、
「よし、これ」
と、席に着いた。
格闘ゲームらしい。
覗きこんでみるとキャラクター選択画面にはずらりとごつい男たちが並んでいる。
珍しく、流行りの可愛い女の子キャラは一人もいない。
ヒナはその中でもひときわ大柄なキャラを選んだ。
もの凄まじく似合わない。僕は正直に胸中で呟いた。
そんな僕を置いてけぼりに彼女は操作を始めた。
呆れ混じりにぼうっと見ていたが……次第に僕はそれに見入るようになっていた。
上手い。
僕はゲームなんてもう何年もやっていないが、そんな素人目にも分かるぐらい彼女の腕前は大したものだった。
大柄なキャラにふさわしく動きは鈍くて的も大きい。
だが彼女は彼を的確に操り、敵の攻撃をいなし、一撃で沈めていく。
「……へえ」
「すごいでしょ」
彼女は操作の手を止めないままこちらを振り返り、にやりと笑った。
「ショコラもやる?」
一瞬悩んだけれど、やっぱりやめておいた。
「それじゃショコラが面白くないよね。じゃあ他のを――」
そう言って彼女はゲームを切り上げようとした。
その時声がした。
「ちょっといい? ちょっとだけ」
勢いのある野太い声だった。そちらを見るて、僕は反射的に顔をしかめた。あまり綺麗でない金髪に頭を染めた青年がそこにいる。
柄シャツをだらしなく着崩して腰パン。明らかにチャラい。
「何?」
ヒナが問うと、彼は細い目をさらに嬉しそうに細めて近付いてきた。
「いやーすごいね君、マジかっけーわ。ちょっと俺と対戦しようよ。いいだろ?」
言葉だけを聞くと友好的だが、完全に僕を無視している。それ自体は別に構わないけどほっとけばヒナが危なさそうだ。
僕は二人の間に割り込もうとした。
が、その前にヒナが声を上げた。
「OK。勝負しよ」
え。僕は驚いて声を漏らした。
「マジ!? やりー!」
言うなりチャラ男は向かいの筐体に走っていく。
「ちょっと。負けたら何されるか分からないぞ」
僕はヒナを咎めた。本気で心配だった。
ヒナはこちらを不敵に見上げた。
「任せて」
数分後。僕はチャラ男に同情していた。
彼の戦績は20戦0勝20敗。完全試合が四回。
それだけでもきついだろうに、周りにはたくさんのギャラリーが集まってしまっている。
「すっげーな、あの子」
そんな声が聞こえた。
「くそ!」
椅子を蹴ってチャラ男が立ち上がる。
ずんずんとこちらに歩いてくる。
僕は再び身体を緊張させた。
「テメエ……!」
唸る彼に対しヒナは冷静だった。
「次は何で勝負する?」
「あれだ!」
チャラ男が指さしたのはパズルゲームだ。
僕の同情はさっきより大きいものになった。
戦績は……やめておく。彼がかわいそうだ。
「くっそ!」
それからクイズゲーム、レーシングゲーム、シューティングゲームエトセトラエトセトラ。
徐々にチャラ男は怒り狂い、ヒートアップし、怒鳴り散らし暴れ散らし、最終的にはなぜか3人でクレーンゲームをやっていた。
「じゃーな! 楽しかったぜ!」
彼は腕一杯の景品を抱えながらこちらに手を振った。
「また遊ぼうぜヒナちゃん。ショコラもな!」
本当に幸せそうな顔だったので、僕は苦笑いしながら見送った。隣を見ると彼女も愉快そうに笑いを堪えている。
なるほど、これが彼女の楽しみ方なのかもしれない。
夜道を歩き、今度は本屋へ。
中を適当にぶらついて背表紙の列を眺めて回る。
ヒナも僕もこれといって探している本はなかった。
と、彼女が足を止めた。棚から一冊を引っ張り出す。
「なにそれ」
訊ねると、彼女はこちらに本を持ちあげてみせた。
「宮沢賢治」
「詩集?」
彼女は頷いてパラパラとめくりだす。
「好きなの?」
「特にそういうわけじゃないんだけど」
その時彼女の手が止まった。覗く。
一編の詩だ。
これは僕も知っている。
病床にある人間の視点から書かれた一連の文章は、しかし不思議な透明感があってその苦痛を一切感じさせることがない。
「――――あなたの方から見たらずいぶんさんたんたるけしきでしょうが、わたくしから見えるのはやっぱりきれいな青空と」
声に出して文面を追ったヒナはそこで一息分、間を空けた。
「すきとおった風ばかりです」
彼女は静かに詩集を閉じ、ゆっくりとそれを本棚に戻した。
二人で外に出る。
「もし死ぬ日が来たら、ああいう風に穏やかに死にたい」
彼女がどこか遠い口調で言う。
「縁起でもないな」
僕は静かに答えた。
僕はそう答えたが、でも分かるところはある。
普通、死ぬときはやっぱり苦しくて痛いのだろう。
言葉では表すことのできないほど。だから人は生と死の狭間でわめき散らす。
死ぬときは「きれいな青空」と「すきとおった風」を眺めながら死にたい。そう思う。
町の一角にある公園は暗闇に沈んでいた。滑り台やブランコなどが眠る大型動物のようにたたずんでいる。
彼女は先行して滑り台に向かった。階段を上り、一番上に座り込む。僕はそれを下から見上げる。
彼女は遠くを見ていた。視線の先を見ると、暗い空を押し上げるように黒い建物がいくつも並んでいた。
ヒナはそのうちの一つを指さした。
「あれ、中央総合病院」
僕は頷く。
「僕の母さんはあそこにいたよ」
「そうなの?」
「僕が高校を卒業する前に死んじゃった」
いつもしかめつらだった母を思い出す。父と離婚してからずっとその表情だった。
僕が重荷だったに違いない。よくよく体調を崩しては病院の世話になっていた。
入院して、危篤状態になって、それでも最後の言葉は「まだあの子の母でいたい」だ。
あの日僕は大声で泣いた。
「奇遇だね。わたしのお母さんもあそこにいたよ」
「え?」
「奇病でさ、入院してた」
「それは」と僕はうめいた。「大変だったね」
「うん。大変そうだった。吸血症っていうんだけど」
「吸血?」
「そ。わたしが今なってるやつね」
いわく、原因は不明。人の体液から精気を補給しなければ死に至る。また、日光を浴び続けてもよくない。末期にはごく短時間、身体を日光にさらすだけで命に関わる。
「それ以外は普通の人と同じ。いきなり発症するんだ」
彼女の母も以前は普通に暮らしていたらしい。
ヒナが小学校を卒業するころに発症して徐々に悪化、入院に至った。
「医者は色々試したみたいだけどね、駄目だった。お母さんはどんどん痩せてった」
母親はやっぱり彼女が高校を卒業する前に死んだ。
「そして今度はわたしの番。発症して昼夜逆転。そういうわけ」
つー、と彼女は滑り台を下りてきた。
「見て」
腕を掲げる。
近寄って視線を落とすと、そこにあるのは火傷のような傷痕。
「これは?」
「今日、あなたが出発した後、やっちゃった。カーテンが揺れてさ」
そこに日光が当たったらしい。
「少しだけなんだけどね。でもそれだけでこうなっちゃう」
僕は黙ってそれを見下ろした。
その傷にそっと触れながらつぶやく。
「作り話じゃなかったんだね」
「わたしの名前」
唐突に彼女が言う。
「ん?」
「わたしのヒナって名前、太陽の菜っぱって書くんだ。陽菜」
「……」
「笑っちゃうよね。太陽が駄目な吸血鬼なのに」
立ち上がる彼女を抱きしめた。
街灯の光を反射して光る彼女の瞳が間近にある。かなしく輝くそれを見つめ、僕は彼女と唇を重ねた。長く、長く。
彼女の手が僕の背に回される。きつくではなく、ゆるく、どこか頼りなく。
唇を離して僕は空を見上げた。町の明かりでかすかにしか星は見えない。
彼女の頭を胸に抱きながら、僕はそれを見上げ続けた。
世の中はままならないことばかりだ。
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