第4話   能書きよりも実践こそが、真の人間を存在させる

キリスト教でも天理教でも、駅前や道で説教をされている方を見かけますが、(神の目線で)存在しているのはその人だけで、説教を聞いて頭でわかっていても実践できない人ばかり。

例えば何かの宗教の信者が100万人いても、彼らが頭だけの信者では話にならない。

ある町に住むイスラム教徒の数が70人ということなのですが、70人全員が子供の時から朝から晩まで行住坐臥イスラム教徒になり切っている、神を意識して毎日生きているとすれば、100万人の名義だけの信者よりも、(70人の実数の方が)余程存在感があり、価値があるということではないだろうか。

アラーでも日本の八百万の神でもいいのですが、100万人の「頭だけ信者」と、毎日5回、恥ずかしがることなく五体投地の祈りを捧げ、24時間神を意識するイスラム教徒と、一体どちらを神(々)は「目を留める」のだろうか。

心に神や仏などいない人たち、など問題外(例えば、「神に会(お)うては神を殺し、仏(ほとけ)に会うては仏を殺し」と、尊大な心を信条とする柳生新陰流(臨済宗)のような宗教)。

  そんな人たちは別にして、およそ、神や仏を信ずる人間であっても、いくら寺や神社に寄進しようが、24時間・行住坐臥、内なる心で神と共に生活する人間には到底敵わないではないか。存在の重さという意味で。

朝、薄らぼんやりと、ただ仏壇に線香を立てる程度の「フリ」で極楽へ行けるものだろうか。   

  「学門に王道なし」とはギリシャの哲学者の言葉ではありますが。

2024年9月24日

V.1.1

平栗雅人

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能書き(垂れる)より祈れ 第1部 V.1.2 @MasatoHiraguri

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