第3話 「自浄其意 自ら其の意を浄うする」のはイスラム教徒だけ?

私にとって神的なるものとは、先ず「透明感」、そして透明であるにもかかわらず、人に安心を与えてくれる「謙虚な存在感」です。

例えば、静岡県三島市に湧き出る清らかな富士山の伏流水。

アルプスやヒマラヤと異なり、自己主張せず謙虚で慎ましやかな姿(存在感)によって、見る者の心をピュア(清純)にしてくれる富士山のような。

21世紀の現代における、口ばかり・名ばかりの「仏教徒」など、日本の神は要らないと言っているのではないか。むしろ、「三つ子の魂百まで」と、子供の時から、毎日神を意識して生きるイスラム教徒こそが、以下の言葉を実践している現実がある。

諸悪莫作 諸々の悪をなすことなかれ

衆善奉行 もろもろの善を奉行せよ

自浄其意 自ら其の意を浄うする

是諸仏教 これ「イスラム」の教えなり

(もともと仏教由来の言葉ですが、今やこれを実践している日本の仏教徒(私が知っているのは臨済宗という禅宗のみですが)など、完璧にゼロにちがいない。)

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先日、初めて訪問したイスラム教寺院のモスク(奈良市)には、日本で生まれたイスラム教徒の子供のために、易しい日本語(ひらがな)で書かれた「イスラームの学習」「イスラームの学習2」といった教科書が置いてありました。

ひらがなを読めるようになった子供の時から、「神の意識」を持つ大切さを教えられているからこそ、スーパーで見た25歳くらいの女性のみならず、イスラム教徒のどの女性も男性も、みな澄んだ美しい(神の)目をしているのでしょう。

あの透明感のある、澄んだ・美しいそして存在感のある瞳とは、一朝一夕では生まれない。

日本の至る所で見かける、イスラム教徒と同じ外国人である韓国人、或いは次に多い中国人には絶対に見られない。

また、たとえ在来種純粋日本人であっても、最近ではほとんど見ることのない、(目の)美しさなのです。

坊主でも在家でも、いくら般若心経を唱えても俗物は俗物だし、神聖なる聖書の知識をたくさん蓄えても、やることはパリサイ派ユダヤ人ばり、という人間ばかり。まして、仏教やキリスト教を軽蔑するような「カネ本位の新興宗教信者」など、完全に「目が飛んでいる」。

「自浄其意 自ら其の意を浄(きよ)うする」というのは、東大に入るよりも億万長者になるよりも、よほど難しいだろう。そんな目をした男女が奈良近郊の町には70人もいるというのですから、その意味では希有の神聖な地域といえるでしょう。

(実際、私がこれまでスーパーで見た10数人の彼や彼女たちは、その目だけで、私たち俗物人間とclasify識別できるのです。)

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