第2話 聖女失格
手を伸ばせば、両端の壁に届いてしまいそうなほどに狭い独房。
その天井で二人の『悪女』達が、ふわりふわりと不満げな顔で宙に浮いている。
《……あの状況で選べと言われたら、即座に頷くものだが》
《優柔不断ねぇ。だから聖職者は好きになれないのよ》
昼間もうるさかったが、夜になるとさらに活動しやすくなるらしい。
勝手に
「代償はお前自身だなんて、さすがに怪しすぎます」
《名高い我らが力を貸すのだ。それなりの代償を払うのは当然だろう》
《ルビィ様の仰るとおりよ。さぁ早く決断なさい》
絶世の美女アンジェリカの澄んだ声が頭上から降り注ぐと、まるで神託のようである。
「見ないふり、知らないふり、検討すると見せかけた保留は神殿に住まうものとして常識です」
《ほぅ、この私に屁理屈とは、見かけによらずいい度胸だ》
《御託は不要よ。そもそもあの場面で二択を迫られて、選ばないなんてどうかしてるわ》
宙に浮かび大きな声で文句を言っているのだが、マーニャ以外には姿どころか声すらも聞こえていないらしい。
初めは衛兵や他の捕虜達にも、
幸か不幸か、マーニャにしか見聞きできないということに気付き、それからはずっとこの調子なのだ。
初めは怖かったのだが、あまりに俗っぽく自由な彼女らに怯える気力も失せてしまった。
「もう疲れた……」
夜も更けて疲れも限界。
口からこぼれ落ちる言葉が、疲労感を加速する。
重い頭をゆるやかに振ると、それに合わせてぼやけたように景色が歪んだ。
《それにしてもレトラ神聖国の聖女どころか、王女だったとはな》
《とても見えないわ》
《そうだな、随分と覇気がない》
「……覇気のある聖女なんて、需要がありませんから」
断頭台が燃えた後、恐々と近付いた衛兵達に剣を向けられ警戒されながらも、元いた戦争捕虜用の独房へと押し込められた。
断頭台が燃え尽きてしまったため、今後どのように処刑されるのかは分からない。
それでも、今日一日、生き延びられた――。
「少しだけ、眠らせてください」
疲れた頭では充分に思考がまとまらない。
静かにしてほしいと告げると、《あとから力を貸してくださいとお願いしても遅いのよ》と捨て台詞を吐き、アンジェリカは壁を抜けてどこかに行ってしまった。
「良かった、やっと静かになった」
《……残念だったなマーニャ、まだ私が残っている。ずっと暗闇の中にいたので、久方ぶりに話がしたい》
「ではアンジェリカ様と話してください」
《何故だ? 私はお前と話がしたいのだ。運命に抗う者の末路ほど、興味深いものはない》
ルビィはそう言うなり宙に胡坐をかき、反抗的なマーニャの態度を楽しむかのように笑みを浮かべた。
《何でもいいから話せ。お前の話を聞いてやる》
「思いつきません」
《……絞り出せ》
アスガルド王国を建国した初代女王、ルビィ・シエノス。
実際、ひれ伏さねばならぬほどに偉いのだが、それにしても呆れるほど横柄である。
「無理です。そんな元気はありません」
石の床は触れたところから体温を奪い、染み込むような冷たさが身体の感覚を麻痺させていく。
レトラ神聖国史上、最高の聖女マーニャ・レトラ。
生まれてすぐ神殿に押し込められ、王家が、神殿が、自らの権威を高めるためだけに利用し続けた憐れな聖女。
死んだら死んだで構わない。
天に召されることで、さらにその名は上がるのだから。
物心ついてからこれまで、昼夜休むことなく、文字通り馬車馬のように働き続けた心身はついに限界を迎え、
たった一度の失敗……だが大司教は激怒した。
『神殿の品格を貶めたお前は、聖女失格である』
神の怒りと名すれば全てが許されるこの神殿内において、国王が気まぐれに手をつけた修道女の娘など……例え王女という身分があったとしても、神聖力溢れる聖女だったとしても、貴ばれるわけがない。
『後から自分で治癒できるのだから、生きてさえいればいいだろう』
音が漏れない地下の懺悔室で、大司教は何度も何度もマーニャの背中を鞭打った。
弱者を虐げる強者であることに、愉悦の笑みを浮かべながら。
……公開処刑を見に来ていた民衆と変わりない、憂さを晴らすための『
焼けつくような背の痛みに耐えきれず、口端からかすかに声が漏れる。
やっとのことで神聖力を振りしぼり、背中の傷をなんとか塞ぐと、程なくしてマーニャが打ち捨てられた懺悔室に、震えあがるような怒号と悲鳴が届いた。
沢山の足音が聞こえ、聞こえてくる内容から、アスガルド王国軍が攻め入ったのだと分かる。
燃え上がる神殿の中、せめて最期は神の傍で迎えようと這いずるように聖堂へ向かい、アスガルド軍に捕縛されるその時まで、マーニャはひとり祈り続けたのだ。
そしてその数時間後、レトラ神聖国は滅びた。
自由になれるのではと一瞬淡い期待が頭を掠めたが、――そんなわけはなく。
マーニャは捕縛され、
「……お前は神を否定した、か」
石床に寝そべったまま重い頭をゆるやかに振ると、それに合わせてぼやけたように目の前が霞んだ。
ルビィが話しかけてくるが、もうこのまま眠ってしまおう。
ゆっくりと瞼を閉じ、眠りの世界へ向かおうとしたその瞬間、ポンッと音がしてアンジェリカが現れた。
「!?」
《……ただいま》
《なんだアンジェリカ、もう寂しくなったのか?》
随分と早い御帰還だな。
揶揄われ、形の良い唇を尖らせるアンジェリカ。
全然眠れない……。
マーニャは朦朧とする意識の中、悪女達にゴリゴリと体力を削られつつ、だが騒がしさに気が逸れることに少しだけ安堵しながら、まだまだ続く長い夜に溜息を吐いた。
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