アトリビュート

六番

アトリビュート

「ヌードデッサンのモデルになってほしい」

 美術部の先輩からのそんな依頼に、私は丸々一週間かけて悩み続けた。

 それは、たとえ女同士であっても全裸をまじまじと見られるのは恥ずかしいから、という単純な話ではなかった。

 私は先輩に恋をしている。中学の美術部で出会ってからずっと想い続け、この高校も先輩がいるからという理由で選んだ。しかし、この想いはこれまでずっと胸の奥に秘めたままで、「従順な後輩」として振る舞い続けている。

 そんな意中の人の前で裸体をさらして、平然を装いながらモデルに徹することなど、この私にできるのだろうか。


 週末、私は先輩の家へ向かった。初夏の爽やかな風が感じられる日だったけれど、私の身体は緊張でしっとりと汗ばんでいた。

「今度の作品は『ヴィーナスの再誕』というタイトルで描こうと思っていてね」

 スケッチブックや美術関連の書籍が乱雑に置かれた床、その僅かなスペースで正座をして固まっている私に、先輩はイーゼルや画材を準備しながら淡々と話し続ける。

「ヴィーナスを描くからにはやっぱり裸でしょう? そういうわけで、身体をちゃんと観察したかったの」

「……私じゃなきゃいけなかったんですか?」

 理由がどうであれ、私はそうであってほしいと思った。ヴィーナスを描くのであれば、私の身体では物足りないはずだ。

 先輩は動きを止めて少しのあいだ考えを巡らせたあと、私の顔をまっすぐ見て、目を細めながら微笑んだ。

「さぁ、こっちは準備できたよ。気持ちが整ったら、いつでも服を脱いで」

 先輩が指差したベッドを、私はじっと見つめる。掛け布団はしまったのか見当たらず、眩いくらいに真っ白なシーツが広がっている。先輩の部屋には何度か来たことがあるし、ベッドの上にも乗ったことはあるけれど、目の前のそれはまるで未知の存在のように思えた。

「心配しなくても、昨日しっかり洗ったから」

 先輩は笑って言う。しかし、今の私には、儀式を執り行う聖域を目の当たりにしているように感じられ、とても笑い返すことができなかった。

「あの……脱ぎ終わるまで目を瞑っていてもらえますか」

 いよいよ覚悟を決めて私は立ち上がる。先輩が無言で目を閉じると、部屋の中に静けさが広がった。エアコンの運転音がかすかに響く中、私はロングスカートとTシャツをできるだけ音を立てずに脱ぐ。そして、下着だけの姿になると、胸の鼓動は一段と加速し、その音が先輩に聞こえてしまうのではないかと不安になった。

 私はすっと息を吸ってから、昨夜散々悩みながら選んだ空色の下着を脱ぎ、一糸纏わぬ姿でベッドの中央に腰をおろした。その純白のつんとした冷たさに驚くと同時に、自分の身体が火照っていることに気付く。

「いいですよ」

 私の囁くような声に、先輩はやはり無言で目を開く。私は咄嗟に顔を伏せ、腕で胸と局部を隠した。

 先輩の視線を全身で感じながら、静かに深呼吸を繰り返す。できるだけ無心でいたいのに、身体の至る所がむずむずして落ち着かない。

「とても綺麗だよ。本当にヴィーナスみたい」

 先輩はいつもと変わらぬ調子の声で言った。私の裸程度では何も感じていないのだろうか……そう思いながら、先輩の顔をちらと見るとはっきりと目が合った。その墨色の瞳孔は大きく開いており、私は動揺して思わず目を逸らした。

 先輩がいまどんな気持ちで私を描いているのか、まるで想像がつかない。鉛筆を走らせる音を聞きながら、私は身体のどこかに変なところはないだろうかと不安になった。しかし、先輩の視線から感じる熱は皮膚を抜けて体の内側にまで届き、その心地よい刺激によって私は次第に興奮が高まっていくのを感じた。

 「『ウルビーノのヴィーナス』みたいに、横になってほしいな」

 時折、先輩はポーズの要望を口にした。それに応じながら、全身をつぶさに見られているうちに、熱で茹だった頭の中では欲望がとめどなく湧き上がり続けた。もっと見てほしい。いっそ、触れてほしい。気付けば、私は胸も局部も隠していなかった。先輩の表情は真剣そのものだけれど、私は乞うような思いで何度も見つめてしまった。

「ありがとう。もう服を着ていいよ」

 終わってみればあっという間で、先輩の感情は最後まで分からなかった。のそのそと服を着ているうちに全身の熱はひいていき、段々と現実感が戻ってくる。先程までいたシーツに触れると、そこには湿り気と身体の熱がしっかりと残っていて私は気まずくなった。

「おかげでいい絵が描けそう」

 先輩は優しい笑顔を見せてくれたけれど、本当に私の身体で役に立てたのかあまり自信がなかった。


 数週間後、先輩の作品「ヴィーナスの再誕」はコンクールで見事に入賞した。艶やかな裸婦が波打ち際に横たわる姿を描いたその油絵は、確かに美麗で素晴らしいものだったけれど、その中に私は自分の面影を見出すことはできなかった。顔はもちろん、身体つきもまるで私とは違う。そして、裸婦と共に描かれているキューピッドと薔薇の花はヴィーナスの象徴のアトリビュートだ。そう、そこに描かれているのは決して私ではない、紛れもなくヴィーナスなのだ。

 あの日の私はただの練習の為のモデルだったのだ。そんなことは最初からわかりきっていたはずなのに、私は先輩を祝福する気持ちよりも落胆を強く感じてしまった。


 その夜、「見て欲しい絵がある」と言われ、私は再び先輩の家へ向かった。

 部屋に入ると、覆いをかけられたイーゼルがあった。無言で待つ私を前に、先輩は珍しく緊張したような面持ちでそれを取り払う。

 私は息を呑んだ。現れたのは、真っ白なベッドに横たわる裸の女性。それも、顔も身体も私にそっくりな……。

「これはね、『私だけのヴィーナス』だよ」

 その絵には、キューピッドも薔薇もない。しかし、描かれた目を見れば、これが誰であるかは確信できた。煽情的で激しく愛を求めるような熱を帯びたその瞳は、あの日の私のものだ。

 すべて見られていたのだ。身体だけでなく、溢れ出した感情すらも。そう気付くと、胸の内側から全身の隅々へと熱が駆け巡った。

 絵から先輩の方へと視線を移すと同時に、私はベッドにゆっくりと押し倒された。覆いかぶさった先輩が私のブラウスのボタンにそっと指をかける。先輩の身体の温もりを感じながら、私は力を抜いて身を委ねた。

 私は決してヴィーナスのような、崇高で神聖な存在じゃない。魂の宿った、生身の人間だ。だから、さらけ出したものも、奥底に隠れたものも、その全てをあなたに触れてほしいと、私は心から願った。


 了

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