夏のおわりの心中ごっこ
野森ちえこ
地元の海にて
ザザー……ン
耳をなでる落ちついた波音と、胸を叩く乱れた心臓の鼓動を感じながら青年はいささか困惑していた。
足もとで女性が大の字になっている。
「あの……なにしてるんですか?」
「心中ごっこ」
「……ひとりで?」
「じゃあ、遭難ごっこ」
「じゃあって」
散歩中に波打ちぎわで人が倒れているのが見えたときは心臓がひゅんっと縮んでしまったのだが、恐るおそる近づいてみれば、顔色は生きた人間のもので、
「べつに死にたいとか、そういうのじゃないから大丈夫よ。こうやってね、地面に全身をあずけて両手を広げて、ひたすらボーッとしてると、いつのまにか自分がリセットされてるの。流れる雲とか、指先がたまに海水にふれたりするのとかを感じてるうちにさ。まあ、そんな気がするってだけなんだけどね。あなたも一緒にどう?」
髪も背中も砂だらけになるのは確実で、そんなことをする意味も理由もない。そう思った青年は「結構です」と即答した。
「それは残念」さして残念そうでもなく女性はすこし笑って「それなら邪魔しないで」と目をとじる。
心配して損した。なんだ心中ごっこって。青年はブツブツと心の中で悪態をつきながらその場をはなれた。
大学時代最後の、夏のおわりのことだった。
それから五年。
✧
青年は疲れていた。
就職のために地元をはなれ、慣れない環境の中で懸命に働いてきたけれど、ある日ふと気持ちが落ちた。もう生きるのをやめてしまおうかと思うくらいに。
会社を休んで数日。ふいに頭に浮かんできた光景がある。
それは五年まえの夏のおわり。地元の海岸で大の字になっていた女性の姿だった。
女性に会ったのはあの一度きりだ。当時の青年は、世の中にはおかしなことをする人がいるものだなとありきたりな感想を持っただけだったけれど。
——心中ごっこ、か。
その日、青年はほとんど無意識のうちにひとり暮らしをしているアパートを出ていた。
✧
電車を乗り継ぐこと約二時間。
青年は地元の海で、寄せては返す波音を左耳のすぐ横に聴いていた。
空が赤い。もうすぐ日没だ。
目をとじて波音を感じる。本気で死のうなんて思ってはいない。ただ、あの女性がいっていたように『自分がリセットされる』なら。そんな気持ちになれるなら。
ザクザクと、どこからか近づいてきた砂を踏む音が右耳のすぐ横で止まった。
「なにしてるんですか?」
落ちついた女性の声が上から降ってくる。
「……心中ごっこ」
「ひとりで?」
「じゃあ、遭難ごっこ」
目をあけると同時に、フフッと吐息のような笑い声が降ってきた。あのときの女性だろうか。そんな気もするし、違うような気もする。
「一緒にどうですか」
「そうね。二人なら心中ごっこができるわね」
女性は青年に寄りそうように横たわった。どちらからともなく手をつなぐ。
左手に海を、背中に地面を、右手に女性の体温を感じながら、青年の目は暮れゆく空をぼんやりと映している。
もうすこし、自分にやさしく生きてみてもいいのかもな——なんて思う。
思考が流れる。
呼吸がめぐる。
雲が流れる。
波音がめぐる。
夏が、もうすぐおわる。
(了)
夏のおわりの心中ごっこ 野森ちえこ @nono_chie
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