ポケットに入れて、手を。

秋犬

ポケットに入れて、手を。

 その日は昼を過ぎても風が冷たく、粉雪がちらつくような天気であった。冬の太陽はさっさと傾き、街ではガス灯に明かりが灯され始めた。


「イヤ! 近寄らないで!」


 大邸宅の一室である小部屋に使用人が駆けつけると、服をはだけた少女の前に立ちすくむ少年がいた。


「こいつが、私を無理矢理押し倒してきたの!」

「そんな、僕は」


 使用人はすぐさま少年を殴り飛ばし、屋敷の主人であるアメデオ・ラガッツィに報告した。


「ええい、情けでこの家に置いてやっているというのがわからんのか!!」


 アメデオは更に少年――アルド・クルードを数度殴りつけた。アメデオの娘のガーネットは泣き崩れるばかりであった。


「子供だと思って甘やかしておけば、この様だ」


 今年で十四歳になるアルドは、じっとアメデオを睨み付ける。


「なんだ? 死んだ親父に似て偉そうにしやがって。文句があるなら出て行ってもらうぞ」

「……もういいです、わかりました、出て行きます」


 アルドは絞り出すように声をあげた。


「行先はあるのか?」


 自分から出て行けと言いながら、アメデオは嘲るように尋ねた。


「死んだ母の親戚が遠くの町にいると聞いています。まずはそこを当たってみようかと思います」

「そうか、達者でな」


 騒ぎを聞きつけて、アルドの弟のヴィトが駆けつけた。


「兄さん、一体何が」

「ヴィト、出て行くぞ」


 それからアルドは真っ直ぐ屋根裏部屋に上がると、屋敷から出て行く準備を始めた。


「ヴィト、お前はここに残れ」

「嫌だ、兄さんが出て行くなら僕も出て行く」


 半年前、大企業であるシデルジカ鋼業で起こった人身事故は世の中を混乱させた。工場の安全管理が十分でなかった、更に安全対策に用いるはずの予算が架空の領収書と引き換えに消えていたことなどが連日報道され、工場長であった二人の父が首を吊ったことで事件の真相は闇に葬られた。


 後任には元工場長の従姉妹の夫であったアメデオ氏が就任し、不祥事が二度と起こらないようクルード家の財産管理の一切を彼が取り仕切ることになった。クルード家の屋敷も彼の管理下に置かれ、残された二人の息子はアメデオ氏の情けの元に暮らしていた。母親は随分前に亡くなり、シデルジカ社の影響力が強い市内では二人の味方をする親類は他になかった。


「勝手にしろ」


 すぐ二人は荷物をまとめた。何もかもを取り上げられている二人が持って行けるのは、昨年仕立ててもらったコートと家族写真を挟んだ日記帳くらいだった。二人が出て行く準備を終える頃になると外はすっかり暗闇に覆われ、家路を急ぐ人の影も見当たらなくなっていた。


「そら、電車賃だ」


 屋敷を去る際、アメデオ氏が一枚の紙幣を投げて寄越した。ヴィトの足元に落ちたそれをアルドはさっと拾い上げる。


「兄さん……」

「行こう。どのみち、この家はもう僕らのものではないんだ」


 アルドとヴィトに希望はなかった。学校では遠巻きにいじめられ、住み慣れた屋敷に他人が居座り自分たちの財産を貪られる屈辱は如何ともし難いものだった。まだ十一歳のヴィトには酷な生活だとアルドは思っていた。


「それで、どうするの?」

「とりあえずこの街を出る。それ以外道はないよ」


 二人は、とぼとぼと人通りの少なくなった大通りを駅舎まで歩いた。


「……最終列車、行っちゃったね」

「なに、朝になれば列車は来るさ。明けない朝はないってね」


 昼間からちらついていた雪は本降りになり、地面に積もり始めていた。アルドは黙ってヴィトの手を引き、雪を凌げる場所を探した。


「寒くないか」


 アルドはヴィトに尋ねた。


「平気だよ」

「そんなわけないだろう」


 ヴィトは何も言わなかった。ガス灯の明かりに雪が照らされて、闇を舞う白い花弁のように辺りを少しずつ白に染めていく。


「朝までの辛抱だ。朝になって列車が来れば、僕らはこの街から出て行けるんだ」


 ようやくアルドは乗合馬車の待合室に鍵がかかっていないことを突き止めた。


「ちょうどいい、ここで朝まで待たせてもらおう」


 火の気のない待合室は外と気温は変わらなかったが、雪が凌げるだけマシだった。待合室にあった時計を見ると、夜明けまでまだしばらくかかりそうだった。


「誰か来たらどうするの?」

「見つからないように隠れていよう」


 二人は椅子の陰に腰を下ろし、外から見えにくいよう膝を抱えた。それからしばらく、時計の音だけが待合室に響いた。


「寒くないか」


 アルドは再度ヴィトに尋ねた。


「僕は大丈夫」

「そんなわけないだろう」


 アルドはヴィトの手を握ると、自分のコートのポケットに一緒に押し込んだ。


「ほら、手、随分冷たいじゃないか」

「兄さんだって」


 ポケットの中で、二人は固く手を握った。それから寒さから逃れるように、自然と身体を寄せ合った。


「兄さんは、悪くないんだろう?」


 ヴィトがぽつりと呟いた。繋いでいる手が少し熱くなった。


「悪くないよ。父さんも、きっと悪くない」


 アルドの声も掠れて熱くなった。


「悪くないなら、どうして僕らこんなことになってるの?」

「わからない。でも、このままここにいたらきっともっと悪くなる」

「だから出て行くの?」

「そうだ、もっといいところ。誰も僕らを知らないところまで」


 実際、アルドに行先の見当などなかった。死んだ母の親戚というのは出任せで、とにかくこの家から出なければならないという思いひとつでヴィトと飛び出してきていた。


「そうしたら、もう家には帰ってこないの?」

「あれはもう僕たちの家じゃないんだ。もう……」


 ポケットの中で、アルドの手が熱くなっていく。ヴィトはその手を握り返した。


「大丈夫、僕ら二人いるから。きっと大丈夫だよ」


 アルドは返事をしなかった。小刻みに震える熱い手を握りながら、ヴィトは心の内まで冷たくなっていくのを感じていた。


「ごめん、ごめんな、僕のせいで……」

「兄さんは悪くない! 悪いのは全部あいつらだ、そうだろう?」


 握り合った手が溶け合ってひとつになったような気がした。それから二人はしばらく肩を震わせていた。頼れる者も信じられる者も縋れる者も、全てがこの手の内にある。ポケットの中に様々な思いを閉じ込めて、二人は涙を拭った。


「帰ってこよう、絶対」


 アルドの短い言葉に、ヴィトは小さく頷いた。


***


 雪は夜のうちに止んだようだった。


 翌日、朝日が差し込む待合室に二人の姿はなかった。鐘を鳴らしながら大きな乗合馬車がやってきて、始発の列車が駅舎に滑り込んだ。大勢の客がそれぞれに乗り込んだが、二人の少年の行方を心配する者はその中にいなかった。


〈了〉

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ポケットに入れて、手を。 秋犬 @Anoni

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