「霧の中の影」
その日は濃い霧が街全体を包んでいた。私がその町に来たのは、ただの出張のためだったが、何かしらの不安が心の中に渦巻いていた。霧はまるで街のすべてを隠してしまうかのように、建物や木々の輪郭をぼんやりとさせ、道行く人々の顔もほとんど見えなかった。
駅前に降り立った私は、行き先もよくわからぬまま歩き始めた。霧のせいで、いつもなら明確に見える道もぼやけ、ただ目の前の暗い影だけがやけに際立って見えた。やがて、ふと目を凝らすと、私の前に一人の男が立っていた。彼の姿は霧に溶け込むように淡く、顔の表情もよくわからない。
「どちらへ?」
男は低い声で問いかけてきた。私は思わず足を止め、少し後ずさりながら答えた。
「すみません、少し迷ってしまって……」
「迷ったのか。ここではよくあることだ。」
その男の言葉に、何か不気味さを感じたが、町のことを少しでも知りたいと思い、私は彼に話しかけてみた。
「この町、霧が濃いですね。いつもこうなんですか?」
男は一瞬沈黙し、やがてポツリと答えた。
「ここは、いつも霧が出る。まるで町全体が、何かから逃れようとしているかのように。」
その言葉に妙な意味が込められているように感じたが、私は深く追及する気にはなれなかった。何か、触れてはいけない話題のような気がしたからだ。男はそのまま無言で立ち去り、霧の中へと消えていった。
私は再び歩き始めたが、足元がふらつくような感覚に襲われた。道の輪郭はますますぼんやりとして、どちらへ向かっているのかもわからない。時計を見ると、まだ日中のはずなのに、空はどんどん暗くなっていく。
すると、遠くから微かな音楽が聞こえてきた。まるで昔のレコードが回っているかのような、ひび割れた音質の曲が、霧の中を漂っていた。私はその音に引き寄せられるように歩き始め、やがて古びた小さな喫茶店にたどり着いた。
扉を開けると、そこには年老いたバーテンダーが一人、カウンターの向こうに立っていた。店内は薄暗く、客は私一人だけだった。
「ようこそ、何かお飲み物を?」
彼の声は穏やかで、先ほどの不気味な男とは対照的だった。私は一息つきたくなり、席に腰を下ろした。
「コーヒーをお願いします。」
老バーテンダーは頷き、手際よくコーヒーを淹れ始めた。カウンター越しに、私は彼に問いかけた。
「この町、少し奇妙ですね。霧が濃くて、道もはっきりしないし、時間の感覚もおかしい気がします。」
彼は笑みを浮かべ、静かに答えた。
「この町は、時間という概念が曖昧なんですよ。霧が出ると、過去も未来も今も、すべてが交わってしまう。」
「交わる?」
「そうです。あなたが見ているものも、聞いているものも、すべてがこの町の記憶かもしれません。あるいは、あなた自身の過去に出会っているのかもしれませんね。」
その言葉に、私はぞっとした。まさか、と思ったが、この町に入ってからの出来事はどこか現実離れしていた。男も、音楽も、この喫茶店も、どこか懐かしさを感じる一方で、異質な感覚が私を包み込んでいた。
やがて、バーテンダーは一杯のコーヒーを私の前に置いた。
「あなたも、もうじき気づくでしょう。この町の秘密に。」
「町の秘密?」
「ええ、すべての人がここに来る理由があるんです。あなたも、そうでしょう?」
彼の言葉に、私は思わず息を飲んだ。確かに私はこの町に迷い込んだように感じていたが、それがただの偶然ではないような気がしてきた。
「私がここに来た理由……?」
「それは、あなた自身が知っているはずです。霧の中に隠されているものを探しなさい。そうすれば、答えは見つかるでしょう。」
その言葉を最後に、老バーテンダーは背を向け、再びカウンターの奥へと消えていった。私はその場に残されたまま、目の前のコーヒーに手を伸ばした。しかし、その一口を飲むことはなかった。
霧の中から、再び音楽が流れてきた。それは、過去のどこかで聞いたことのある旋律だった。懐かしさと同時に、強い恐怖が心を締めつける。私は立ち上がり、店を飛び出した。外には依然として濃い霧が立ち込めていたが、もう道が分からなくなっていた。
走っても、走っても、同じ景色が繰り返される。そして、気づけば私はまたあの喫茶店の前に立っていた。
その瞬間、私は全てを悟った。この町には出口などないのだ。ここは、記憶と時間が交わる場所。そして、私はもう二度とこの霧の中から抜け出すことはできないのだろう。
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考えさせられるような文学的作品を必ず作ってみせる!!!【短編小説】 Blue @ails
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