「夏の日の幻影」
それは忘れもしない、あの夏の日のことだった。私は、祖父が住んでいた小さな海辺の町を訪れていた。東京の喧騒から逃れるように、毎年夏になるとそこへ避暑にやって来ていた。祖父の家は昔からある木造の古びた家で、私が幼い頃からの記憶が詰まっていた。だが、この年の夏は何かが違っていた。
その日は強い日差しが照りつけ、波打ち際まで歩くと、海が真っ青に輝いていた。誰もいない静かな浜辺で、私は波の音を聞きながら一人ぼんやりと歩いていた。すると、突然、背後からかすかな声が聞こえた。
「あなたも、ここに来たの?」
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。彼女は白いワンピースを着ており、日差しを浴びて輝くように見えた。私よりも二つ、三つ年下だろうか。顔には微かな笑みを浮かべているが、どこか憂いを帯びているようにも見えた。
「ええ、毎年来てるんです。君は?」
「私は、いつもここにいるの。」
その言葉がどこか引っかかった。いつも? 彼女の言葉に込められた不思議な響きに、私は少し戸惑ったが、彼女の瞳には何かしらの強い吸引力があり、そのまま会話を続けた。
「名前はなんていうの?」
「名前なんて、もう必要ないわ。でも、昔は、カナと呼ばれていたわ。」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。彼女の言葉にはどこか非現実的な響きがあった。まるで彼女が、今この場所にいる存在ではないかのように感じられた。しかし、その美しい瞳と静かな微笑みを前に、私は言葉を失った。
カナと名乗った彼女は、海を見つめて続けた。
「この海、好きだったの。波が穏やかで、空も高くて……でも、もうここに来る人はいないわ。」
「どうして?」
「皆、忘れてしまったのよ。私も、ここで何をしていたのか、どうしてここにいるのか……忘れてしまったわ。」
彼女の言葉は、まるで風に消えるかのように淡かったが、その意味は重かった。忘れられた存在、あるいは、記憶の狭間に取り残された者。私はカナが何者であるのか、ますます分からなくなってきたが、同時に、その謎めいた存在に引き寄せられていた。
「君は……どこから来たの?」
カナは少し笑ったが、その笑顔にはどこか悲しみが含まれていた。
「もう、どこからでもないわ。ただ、ここにいるだけ。」
それからしばらくの間、私たちは言葉を交わすことなく、波打ち際を歩いた。日が傾き、夕焼けが海を赤く染める頃、私はついに彼女に尋ねる決心をした。
「カナ、君は一体何者なんだ?」
彼女は一瞬立ち止まり、そして静かに海を見つめた。やがて、彼女の口から静かな言葉が紡ぎ出された。
「私は、もうここにいない者よ。」
その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。そして、全てが突然、鮮明に分かってしまった。彼女は、この世の存在ではない。おそらく、ここに住んでいた誰かの記憶か、あるいは海に沈んだ何かを象徴する幽かな影。それが、なぜかこの夏の日に現れ、私の前に立っていたのだ。
「君は……亡くなったのか?」
「そう。けれど、私もいつ、どうやってここに来たのか、もう覚えていないの。ただ、こうして海を見つめるのが好きだったのよ。」
彼女の言葉は淡々としていたが、そこには深い孤独が感じられた。私は、彼女が語る言葉の重さを受け止めながら、どうしても彼女に何かしてあげたいと思った。
「カナ、君が覚えていないことを、僕が覚えているよ。だから、君がここにいる理由が何であれ、それを忘れない。」
彼女は驚いたように私を見つめた。そして、微かに笑って、再び海に目を向けた。
「ありがとう。でも、もうすぐ私は消えるわ。ずっとここにいるわけにはいかないの。」
私はその言葉に驚き、彼女の手を取ろうとした。しかし、その瞬間、彼女の姿はまるで霧のように薄れていき、気づけば彼女は消えてしまった。あたりには、ただ波の音だけが残されていた。
その後、私は何度も祖父の家を訪れたが、あの日のカナの姿を見ることはなかった。あれが幻だったのか、それとも彼女は本当に存在していたのか。今となっては確かめようがない。しかし、あの日の記憶は私の中に深く刻まれ、消えることはなかった。
ある日、祖父にその話をしてみたが、彼はただ静かに笑ってこう言った。
「お前も見たのか、あの少女を。彼女は、海と共にこの町の記憶に残っているんだよ。」
それ以来、私は彼女のことを思い出すたびに、あの海の波音を思い出す。それは、静かで穏やかで、そしてどこか懐かしい響きだった。彼女が何者であったにせよ、その存在は私にとって、今もなお鮮明に残っている。
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