3章 私と友人

 木製の重い扉を開くと、扉の前に新しく降り積もっていた雪煙が舞った。蔵の奥、階段の左手、壁沿いには檜の箪笥が置かれている。箪笥の上から三番目の引き出しを開ける。

棚の中には、女の手のひらに収まる小さな乳白色の木箱が入っていた。蓋を開くと、わずかな匂いと、乾燥した肉片が薄いガーゼに優しく包まれて保管されていた。

これは、臍の緒だ。木の小箱の中に1本だけが、大事そうに収まっている。姉の臍の緒は、食べた時に『お前』が綺麗に啜ってしまったから、残っていない。

震えている。私の手が。これは、私の臍の緒だ。かつて私と母を繋いでいた、一本だけの命綱。かつてあった私の顔、姉の顔を思い出す。それは、『お前』が初めて食べた肉の味。最上の肉の味だ。これを食べれば、『お前』は満足するかもしれない。そう思った。

吹雪の中、お前は完全に動きを止めたようだ。寒さ、身体の痛みで私は体を起こした。『お前』を殺すには、消すには、行動不能にするには絶好の機会だ。私は震える手で箱ごと口につけ、短い一本の臍の緒を、私の口内に収めた。カラカラに渇いた臍の緒を必死に舌の上で転がしていく。濡れた舌を伸ばし、口の中で動く臍の緒を舐める。口の中の水分を、涎をいくら出しても、かつて臍の緒にあった弾力が戻ってくるわけもない。私は自分の臍の緒に噛み付いた。硬い臍の緒をいくら舌の上で転がしてみても、咀嚼してみても、なんの味もしない。肉の味が舌の上には無い。頭が、記憶が真っ白になりそうだ。年代や肉質が違うとはいえ、人の肉ばかりを食べて、味がよく分からなくなってきたみたいだ。今私の舌の上にある肉片も、美味しくないわけではない。懐かしい味がしなくもない。若干血の味が残っている気もする。だけれど、足りない。舌への、脳への刺激が足りないのだ。

私は、自らの体にかぶりついた。腕から血が飛び出した。血管を、筋肉ごと啜る。でも、まだ足りない。他の肉を探す。視線の先に、蔵を出た雪の上に、足の長い、白い雪兎がいた。その赤い瞳と目が合って、私は獣にかぶりついた。口の中には一気に毛がまとわりつく。気持ち悪い。悪くない味だが、この感触は好きではない。毛が喉に引っかかって、うまく飲み込めない。周りの雪ごと、私は獣を爪の先まで喉の奥に押し込んだ。

蔵の中に戻る。土の床が血で赤黒く濡れている。血は土の地面に染み込んで、流れ垂れて側に積まれて置いてあった段ボール箱の下の方から染みて、自重に耐えきれず箱の底が一部破れて、重みのある中身が転がり出ていた。ころり、と転がり出たのは、床を染めた赤色とは対称的な、緑色をしていた。いつぞやに誰かが持ってきた、野菜だ。私は自分の血に濡れたビニールごと、野菜にかぶりついた。目尻から、冷たい涙がこぼれる。久方ぶりに味わった、肉とは違う味。確かな濃い味がする。味が分かる。舌に刺さるような、痺れるような感覚が全身へと広がっていく。美味しくはない。食べれば食べるほど、身体は拒否反応を示す。舌が震える。味がする。腹が痛い。喉がせりあがってくる。毒を喰み、体が溶ける。

ニンジンを齧る

ジャガイモを齧る

キャベツを齧る

どれだけ野菜を食べれば、『お前』の動きを永遠に止められるだろうか。ガリっと、獣や人の骨とは違う、硬い感触があった。野菜の奥に入っていたのは、私が小さい頃、ままごとで使っていた野菜のおもちゃだった。一瞬本物と見間違うくらい、存外綺麗に残っていた。こんなもの、とっくに誰かにあげたものだと思っていた。ひと目見ただけで、遊んでいた当時の感触を胸のうちに思い出す。野菜の他に、卵や、魚、肉も転がっている。ふざけて、もう一口齧ってみた。プラスチックの端が欠ける。どろりと、本物が出てきた。おもちゃの中から、ではない。私の口と、胃の中からだ。

ごぼり、と胃液に混ざって先程押し込んだ野菜や白い毛だらけの肉塊が口から溢れ出した。びちゃびちゃと音を立てて、蔵の土床をさらに汚していく。

思い出と現実は違う。

記憶と現実は違う。

酸っぱい汁がまた喉の奥から迫り上がってくる。もう、何も出てこない。これまでに食べた肉も、『お前』も。

あぁ、『お前』はもういなくなったのか。そう思った時、思考が止まった。嗅ぎ慣れない、やわらかい肉混じりの、血の匂いがした。床に散らばっているのは、先程思い切り吐き出した野菜と、腕を齧った時に流れ出た私の血だけだ。でも、もう1つ、蔵の扉の向こうに、嗅ぎ慣れない血の匂いがする。とても、いい匂いだ。季節外れの、狂い咲きの桜の濃い匂いに、甘い匂いの混じった桜のような匂いがした。


『約束してくれたもんね』

『私を食べてくれるって』やさしい匂いに誘われて、白昼夢を見た。

『私の名前は、ゆい。結って書いて、ゆいって読むの』私と、友人が初めて会った日。ゆいと初めて出会った時の記憶だった。私と友人は桜の木の下で笑顔で約束を交わして、2人で手を繋いで、学校へと向かう。私はその背中を見つめていた。

私は側にある桜の幹に手を当て、そのまま倒れ込むように木に体を預けた。短い夢だった。ようやく友人の名前を思い出せた。

『お前』と、友人が会うのは、これからが初めてなのだろうか?


 白崎家の母家の中庭には、桜の木が一本植わっている。この木がいつ頃植えられたのか覚えている人間は今ここにはいない。太い幹には苔が生えて、しかししっかりと足元に根を張って、天に枝葉を無数に伸ばしている。今年も美しい桜の花をこの空に向かって咲かせるのだろう。枝が風に揺れて、桜の花びらが散って、ゆっくりと風に乗って地面に落ちていく様子が思い浮かばれる。枝の上から、花びらのように粉雪が降り落ちる。桜の木の根元に、1人幹にもたれる少女がいた。腰ほどまである白い長い髪は、風に揺れると体側、内側は半分黒髪であることがわかる。白と黒の混ざり合った髪色の彼女の名前は、白崎るう。この屋敷、白崎家の1人娘だ。

るうの前には、制服に身を包んだ少女が立っていた。少女は目を閉じたるうを見て、1人、とりとめのない話をしていた。いつものように。変わらないやわらかな笑顔で。

「るう、起きてる?」少女はるうの髪に指を通す。

「それとも、『お前』かな、……まあ、どっちでもいいか」少女は笑顔を浮かべる。

「約束してくれたやん、うちのことも食べてくれるって。あの日正体を明かしてくれて、るうの秘密を教えてくれて。約束してくれた。ちょうど、こんなふうに桜が満開の春の日やったね」少女は散りゆく花びらを愛おしむように、手のひらを上に向けた。

「今は雪やけど、桜が散ってるみたいに見えるな」少女は指を少し折り曲げる。

「るう、あん時うちの手を握って、言ってくれたやん。『あなたのこと食べてあげる』って。なのに、次の日には何にもなかったみたいにいつもの「るう」に戻っちゃってさ。『お前』は、寝ていたの? お腹が空いて動けなかったの? だからうちは『お前』が大好きなお肉を、毎日あげることにしたの。うちのことを食べてくれるっていう約束を思い出してもらうためにだよ。それから『お前』と約束してから、何ヶ月くらい経ったんかな。「夏野菜カレーを食べたい」ってるうが、『お前』が言い出した時はビックリしたわ。でも、付き合ってあげたんよ。おばあちゃんのカレーだって言うから、るうが、『お前』が記憶を取り戻すきっかけに、きっとなるだろうなと思って。全ては初めて食べたお肉の味を、『お前』に思い出してもらうためだった。そうすれば、『お前』は必ず起きてくれると思って。諦められなかった。ただ死ぬだけなら他にも方法があったけれど。……うちが死にたい理由なんて、今はどうでもいいでしょ。それとも話したら、今度こそうちのこと、食べてくれる? そうじゃなかったら、味が変わるわけじゃないし、別にいいでしょ。今話さなくったって」少女は桜の木の下で眠る、るうに向き直った。

「初めはうちの周りの人をみんな食べてもらおうと思った。でも、それじゃあ何も変わらない。このうちの生きている苦しみは、なんも変わらない。……まあ、るうが京一君を食べてくれたのは計算外だったんだけどね。全然いいんだよ。怒るわけないやん。うちが、るうのことを。そうでしょ。それに、『お前』が捕まっちゃったら意味ないし。まあ、警察とかに捕まっても意味がないんかもしれんけど。……どうやったら『お前』は死ぬんやろうね。まあいいか。だから、うちのことを食べてもらうことにした。約束通り。もう、思い出したんやろ、部屋ん中も、庭も、蔵ん中も、凄かったなあ。でもこれも、うちとの約束を叶えてもらうためや。……にしても自分の腕に噛み付かせるなんてなあ。可哀想になあ、るう。痛かったやろ。もう大丈夫やで。もうすぐ、もう終わりやから」少女はるうの髪をゆっくりと撫でる。吹雪や飛び散った血で乱れていたるうの髪が、真っ直ぐに整えられていく。

「……もうこんな喋り方せんくてもいいんやろうけどなあ。どうしてやろ、でてきてしまうわ。……さて。るう、それとも『お前』かな。約束破ったら、ハリセンボンやで。うちのお願い、叶えてくれるって、あん時ちゃんと聞いて、言ってくれたやろ。そろそろうちのこと、ちゃんと殺してな」少女は、るうの唇を軽く指で撫でた。少女の指先についていた雪の雫で、るうの薄い唇は潤いをわずかに取り戻した。すうっとるうの口の端から、一筋の水滴が垂れた。


 友人の声がする。近くにいるのだろうか。私はうっすらと目を開ける。瞼がひりついて、まつ毛が何かで固まっている。私はどれほどの間眠っていたのだろうか。目の前には、制服に身を包んだ友人がいた。風に吹かれて、友人の短い髪が揺れる。少し、伸びたのだろうか。何だかいつもより友人の顔は大人びて見える。そう見えるのは友人のいつもの笑顔が、少しだけ悲しそうだからだろうか。誰が、どうして友人にそんな顔をさせるのだろうか。

友人に手を伸ばす。友人の頬に、髪に私の手が触れる。友人の髪は猫っ毛で、細くてふわふわしていて、少し硬いけれどとてもやわらかい気持ちのいい手触りだ。友人の身体の熱が、指先から伝わってくる。とてもいい匂いがする。血の混じった、桜の匂いだ。

私は、友人のことが好きだ。頭以外のこの身体が全て『お前』に乗っ取られていたとしても、友人が好きだと、愛していたいというこの想いは、私だけの感情だ。そうであってほしいと思っている。私の瞳から、一筋の涙が溢れる。

友人は何も言わない。いったい友人は今、何を考えているのだろう。いくら友人のことを考えても、友人のことは何も分からない。友人はあまり自分の家のことを話さないからだ。私の家のことばかり聞いたり、話したりしていたから。友人のことをもっと知りたい。友人は、私のことをどう思っているのだろうか。

友人にもっと顔を近づける。友人は何も言わない。ただ真っ直ぐに私のことを見つめている。こんなに友人に顔を近づけるのはこれが初めてだ。鼻先が擦れて、友人との間の距離がもう数センチまで縮まった。ぬるい鼻息が頬にかかって、髪を揺らす。くすぐったい。互いの唇の先が、つんと触れ合った。やわらかい、ふにふにとした熱を伴う感触はあっという間に脳まで伝わって、体全身が痺れて、細かな振動と共に溶けてしまいそうだ。わずかな酸味が口の中に広がる。筋肉に支配された舌はとっくに互いに絡み合っていた。

先ほどまで舐めていた肉の味が、舌に蘇る。『お前』は、今どこにいるのだろうか。

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