2章 白崎るう

 今日見た夢は特に長かった。でも、起きた瞬間に全て忘れてしまった。情景はすぐにどこかへ行ってしまい、後を追うことはできなかった。

頭が重い。たくさん寝たはずなのに、頭も体も重い。布団から起き上がるのに随分時間がかかってしまった。のんびりとした動きで制服に着替えていると、玄関の開く音が廊下の向こうからかすかに聞こえた。

「おはよう、るう。ようやく雪も落ち着いたなあ。……っても除雪でなんとか道を綺麗にしただけで、歩道も家の周りもお山さんもまだまだ真っ白やけどな。それでも、除雪する手間が少しでも減ってよかったわ」友人は上着についた雪を手ではらいながら、玄関先で明るく笑う。私は、友人の姿を、その笑顔を苦笑いで見つめる。昨日までと何も変わらない友人の姿があった。

私は、変わっていないだろうか。私は、いつの間に昨日を過ごしたのだろう。昨日の記憶が頭から抜け落ちている。昨日、一昨日の夜になるのだろうか、夢の中で初めて友人の姿を見た。その夢の中で人喰いの化け物、『お前』の正体が自分だと、知った。『お前』は、私は祖母を母を、白崎家の人間を少なくとも二人は食べていた。『お前』は人の肉を食べる化け物だ。だから、私は友人を守るために殺さなくてはならない。『お前』を、私を。

昨日私は、友人と一緒に最後の休校日をこの家で過ごしたのだろうか。私は友人と何をしたのだろうか。友人に対して何もしていないだろうか。友人は、ぱっと見る限りだとどこも怪我はしていないようだ。血の匂いもしない。少なくとも、今の私は『私』を保てている。友人にかぶりつきたいとは思わない。……友人の笑顔を見ていると、その柔らかそうな身体を抱きしめたい、とは思うけれど。でも、今友人に抱きつくわけにはいかない。いつ私の中から人喰いの『お前』が出てくるかは分からない。だから、欲望の、感情のおもむくままに動くわけにはいかない。友人の身体の内を、乱暴にこの歯で暴くわけにはいかない。恐怖に震える。身体の表面が震える。内側から出てこようとする動きを、止めようとしている。なのに、口の中は涎でいっぱいだった。

いつのまにか、いつものバスに友人と並んで座っていた。身体がバスの振動に揺られて、その上に乗った頭も一緒に揺さぶられている。少し酔ったみたいだ。寝不足かもしれない。目を閉じる。でも、意識を落とすことはできなかった。気分が悪くなってくる。自分の手を握りしめる。バスの中でのいつもより長く感じられる時間を過ごす。脂汗が一粒、頬を垂れる。友人にはバレていないはずだ。友人は、いつもと変わらず私の隣でとりとめのない話をしているはずだ。

バスを降りて、学校に着く。友人と昇降口で別れて教室へと向かう。ノートを広げると、いつしか描いた肉片がページの上に転がっているのが目から脳の中に飛び込んできた。口の端からすうっとぬるくベタついた液体が垂れた。ノートを荒っぽく閉じる。今日は生物の授業がなくてよかった。いまだ酔いの覚めない頭が、鈍く揺れていた。今日は図書館に寄る用事も意味もない。廊下や空き教室で起こっていることに意識を向ける暇もない。だからこそ、学校で過ごす時間はいつにも増して長い時間だった。友人に再会できるのが楽しみなのに、一方で身体のうちから勝手に溢れてくる『お前』の「友人の肉を食べたい」という欲望を抑えるのに身を強ばらせる。いつ、『お前』が私を押し退けて友人の前に現れるのか分からない。いつまで耐えられるだろうという不安と、私の脆弱な精神への信頼感だけが、真綿のような蜘蛛の糸のような細い紐で胸中に張り巡らされていた。

私はどうして友人に対して、これほどまでに大きな感情を抱えているのだろう。私の中で眠っているかもしれない、静かに息を潜めている『お前』のせいなのだろうか。いっそのこと学校中の人間を食べてしまえば『お前』の衝動は、この食欲は抑えられるのだろうか。何も分からない。友人の姿を見る度に、頭の中で思い出すだけでも涎が溢れそうになる。

友人を守りたい、ずっとそばにいてほしい、それだけが私の願いだ。対して『お前』の声は、衝動は、たった1つだけだ。これも何も変わらない。「肉を食べたい」という声だけだ。

 昇降口を出ると、友人が待っていた。

「おつかれ、るう。帰ろうか」友人が手を差し伸べてくれる。友人の手を、そっと握る。これくらいなら、きっと大丈夫だろう。大丈夫、大丈夫だ。『お前』が出でこない距離感を探ればいい。そして、このまま友人と一緒に居られれば、それだけで。


「君も、今帰り?」

男の声だった。軽い口調で頭上よりも少し高いところから、粉雪よりも軽い声が校門近くで降ってきた。友人の手を握る力が強くなる。手汗が、皮膚の上に滲んでいる。友人には、バレているかもしれない。

私は視線をゆっくりと上げる。同じ高校の制服に身を包んだ、男が、男子生徒が目の前に立っていた。私はこの男に会うのは初めてだ。少なくとも覚えている限りではあるけれど。男の身体からはなんだか嫌な匂いがする。なんだろう。臭いとか、酸っぱいとか、変な匂いというわけではない。嫌な、胸が熱さでひっくり返りそうな、生理的な不快感とは違って、もっと無くした記憶に起因する嫌悪感を揺り起こすような匂いだ。

「こんな時間に、珍しいね」友人は男と話し始める。男は友人のクラスメイト、知り合いなのだろうか。

「今日は流石に部活休みだよ」男は言う。

「それもそっか」

「久しぶりに会えたけど、相変わらずだね」

友人は、男と笑顔で、口角を上げて会話を交わしている。友人の口調がいつものものから、標準語に戻っている。友人が、どんどん私の知らない人になっていくようで、怖かった。物理的な距離よりも、もっともっと、本当に遠くに行ってしまいそうで。咄嗟に、友人と握り合っている手を握りなおしてその感触を思い出した。

「……この人、誰?」私の声は寒さで震えていた。

「あぁるう、この人はな」

「彼氏、だよ」男はあっけらかんと、当然の如く強烈な言葉を吐き出した。

背筋が凍る。吐き気がする。今は空腹でも、まして食べすぎたわけでもないのに。

「その言い方やめて。あんたのこと、うちは別に好きじゃないから。ただ家が決めただけでしょ」

「そうだね。だから今のところは彼氏じゃなくって、許嫁って言った方が正しいのかな」

男から嫌な匂いがする。身体全体から匂ってくる。鼻ではなく、脳の奥に刺さってくる、不快感。胸のえづき。これは、他の女の匂いだ。目の前の男から、友人とは違う女の匂いがする。

こいつか?こいつか?化け物の正体は。こいつが女の肉を食べているんだ。だから、友人とは違う女の匂いがするんだ。分かりきっているのに、そうであればと思う。そうであればいいのにと願ってしまう。こいつであるはずがない。初めて見た顔と後ろ姿はとても『お前』とは似つかない。

でも、こいつのことも殺したいと思った。

「白崎さん?……あぁ、君の隣に住んでる人か。そういえば前に話聞いたことあったっけ。高校からの友達なんだってね」

「そうだよ。こんな可愛いるうのこと、忘れないでよね」

友人は私の頬を両手で包み込む。友人の左右で温度差のある手の感触が、私との繋がりを思い出させる。友人の温度が、声が、友人はずっと私のそばにいるのだと思い出させてくれる。

「ねえ、ちょっと白崎さんのこと甘やかし過ぎじゃない?」男は友人の顔を見る。瞳の色は背景の雪を映しているはずなのに、その中心は深く濃く濁っている。

「そんなことないよ」

「るうにも京一のことは前にも話したけど……覚えてない?」

「覚えてない」

「即答だね」京一、と呼ばれた男は口の端に薄く笑みを浮かべている。

「るうは人の顔やこと覚えるの苦手やから、しょうがないやろ。るう、気にせんくても大丈夫やで」

「そっか」男は言う。

友人によると私はこの男に一度、もしくは何度か会ったことがあるらしい。どうして。今まで一度もいなかった。夢にも記憶にも出てこなかったのに。男との接触は、学園祭より前のこと、高校1年生の春から秋にかけてのことだったのだろう。この半年間で、一体何があったのだろうか。

「今日は一緒に帰ろうよ」男は友人へと一歩近づいて、言った。

「そんなこと言っても、あんたの家は逆の方向やん」

「送って行きたいんだよ。それに、おばさんたちにも久しぶりに会いたいし。家が決めたことだけど、だからこそ僕はちゃんとしておきたいんだ」

「……じゃあ、るうも一緒でいい?」友人は男に提案する。

私は、絶対に嫌だ。これ以上この男と、他の女の匂いを漂わせている人間と一緒に居たくない。でも、言い出すことができない。代わりに冷たい汗だけがびっしょりと身体の表面に溢れ出していた。繋いだ手を介して、確実に友人にはバレているだろう。友人が、僅かに顔をこちらに向けた、気がした。

「ありがとう。でも、家に送ってくれるのは別に今日じゃなくてもええやんか。雪も積もってて大変やし、今日は大丈夫やよ」

「……そっか。じゃあ、また今度だね」男は友人の顔を真っ直ぐ見つめて、言う。

「白崎さんも、またね」男は最後に、私の方を一瞬だけ見て、私たちに背を向けてバス停と反対側に歩いていった。

どれくらいの時間、校門前で話していたのだろうか。男が離れていって、朝からずっと張り詰めていた全身の力が抜けてしまった。ふるふると身体が震える。寒気がする。友人が身体ごと私を振り返った。

「るう、ごめんなこんなに待たせてもて。立ちっぱで寒くなってもたな。さ、もうすぐバスが来る時間やから。すぐにあったまるで」友人は腕時計で時間を確認する。いつも通りの口調に戻った。バスは、いつも通りの時間にやってきた。

「るう、行こうか」友人の手を握り返す。いつもの、友人だ。大丈夫だ。

 あの男は、『お前』とは違う。友人のことを食べたりはしない。そのはずなのに、どうしてこうも嫌悪感を抱くのだろうか。それは、男が友人とは違う他の女の匂いをさせていたからだ。あれは、誰のものなのだろうか。でも、よくよく考えてみれば、あの男の母親のとか、洗剤や制汗剤の匂いかもしれない。嗅ぎ慣れない匂いをそう思ってしまっただけだ。でも、記憶に対して初めて会う男の人に、あんなに嫌悪感を抱くなんて。私はそんなに男の人が苦手なのだろうか。『お前』は、女の肉しか食わないのだろうか。




 幼い私が眠っている。ここでは、いつものようにうまく息ができない。けれど、息苦しくはない。濃いめの空気が肺と喉と口を行き来している。身体の奥から酸素が溢れ出してくる。

目の前に、もう1人の私がいる。ぷにぷにとした出来立ての身体の肉が、温かい水の中でゆったりと眠るように揺れている。私は目の前の肉に手を伸ばさず、口だけで獣のように、まだ歯の生えていない薄い唇で肉にかぶりついた。一欠片も肉片を残さないように、周りの水と空気を一緒に飲み込む。水の中にドロリとした感触が広がっていく。でも、口の中の味は薄まることなく、芳醇な香りと濃い味が全身に広がっていく。

こうすれば、食べてしまえば全て解決する。『お前』のことも夢の中で食べてしまえれば、全て消えてしまえば、私の夢の中だけでも終わらせることができるのに。




 次の日の朝は、いつもより早く起きてしまった。睡眠時間自体はいつもより短いのに、対して頭は妙にすっきりとしている。座敷に面した襖が少しだけ開いていて、冷たい風が入り込んでいる。温い布団から這い出て、制服に着替える。身体には汗もかいていない。着替えたての体で雪見障子を開く。冬の朝日が薄い熱と共に部屋に差し込んでくる。庭の上で雪が光を反射してきらきらと光っている。清々しい朝だ。

厚手のコートに身を包み、スクールバッグの中身をゆっくり最終確認する。壁の時計を確認する。バスが来るまでにはまだ時間がある。冷えた廊下に出て玄関扉を内側から眺める。友人はあとどれくらいで来るのだろうか。スカートを持ち上げて、玄関マットの上に三角座りをする。マットの彫りが、短い毛が太腿と素肌に刺さって、くすぐったい。

友人を玄関で待つ。こうして朝、学校に行く前に友人を待つのは久しぶりだ。初めてではない。でも最近は夢見が悪いせいか友人を待たせてしまうことが増えていた。朝早く、それもこんなにすっきりと起きることができたのは久しぶりだ。

玄関の向こうで物音がする。玄関扉はまだ開かない。風の音だったのだろうか。

雪を踏み固める、さくさくという足音がする。でも玄関の扉はまだ開かない。獣の足音だったのだろうか。

自分で扉を開けて、玄関前で待っていてもいいのかもしれない。でも、友人にこの玄関扉を開けて欲しい。いつものように開けてくれるのを見たいと思った。

『うわっ、びっくりした』そう言って、屈託なく笑う友人の姿を1番近くで、1番早く見たいと思った。

どれくらいそうして待っていたのだろう。聞き慣れた物音がして、玄関扉が勢いよく開いた。冷たい風と友人の爽やかな匂いが、空気の流れが止まっていた家の中に一緒に飛び込んできた。勢いに負けて、くしゃみが出た。

「ごめんな、遅うなって」

友人はいつもより倍慌ただしく駆け込んで玄関へと上がり込んだ。座り込んでいたスカートの中にまで外の空気が入り込んでくる。またくしゃみが出る。

「それと、ごめんな……今日はハムサンドしか買えんかったんよ」友人は申し訳なさそうな顔でいつもの紙袋を差し出してくる。その手は少し震えていた。でも、私はそんなことどうでもよかった。肉が好きな『お前』はどうだか知らないが、私はいつもの友人の顔を見れただけで、満足だ。体が震える。くしゃみがもう一度出る。顔の中心が熱い。

「いいよ、今日はもう食欲ないから」そういえば今日は起きてからあまりお腹が空かない。睡眠が短かったのと、夢の中で何か美味しいものを食べたからだろうか。『お前』の活動が鈍くなっているのだろうか。

「どうしたんるう!?体調悪いんか」ところが、友人は私の食欲がないという発言にすごく驚いていた。長靴を慌ただしく脱いで、私の体をやさしく抱えて支えて、廊下を早足で歩く。ひきっぱなしであげるのを忘れていた、先ほど出てきたばかりの布団の中に逆戻りさせられる。

「気持ち悪い?頭痛いん? とにかく、今日は学校休みにしな! うちが先生に言うといてあげるから! カツサンドも、学校近くのお店で買ってくるから! とりあえず、このハムサンドはここに置いとくから、お茶と水も置いとくな……薬はこの家置いてなかったな。待っててな! とりあえず学校行ってくるから! うちが戻るまで待っててな。ちゃんと布団で寝てるんやで! それと、飲み物もちゃんと飲むんやで! 乾燥はばい菌がすぐに増えてまうからな!」

友人はそう言うと背を向けて、玄関を飛び出していく音がした。遠くでカラカラと引く音もしたから、玄関扉を閉めるのも忘れなかったようだ。友人はまるで冬の嵐のように訪れて、すぐに過ぎ去っていってしまった。とりあえず、友人の驚く顔は見ることができた。でも、思っていた驚きの顔ではなかった。それに、友人はすぐに私の目の前からいなくなってしまった。布団の足元が冷え始めてきた。布団の横になっていても、先ほどまですっきり覚醒していたので、眠気はなかなか来ない。口の中には空腹感も口渇感もない。ただ、友人の姿を思い出すだけでうっすらとしたやわらかい多幸感に胸が染まっていく。埋まっていく。なのに、この空間に1人きりであることを思い出した瞬間、泣きそうなくらい胸の痛みと孤独感が背中から襲ってきた。頭が痛い。涙が出てきた。

 外は静かだ。友人はもう行ってしまったのだろう、遠くへ。学校へと1人で行ってしまった。先ほどまでこの場所にいた、友人の顔を思い出す。友人の動きを視線で繰り返す。私は友人の姿を見ていることと友人と過ごす短い、とても満たされた時間がなによりも好きだ。友人を失いたくない。友人の名前を大声で呼びたい衝動に駆られた。でも、私に友人の名前を呼ぶことは出来ない。大声を出し慣れていない口からはか細い、友人の名前も紡げない声しか出てこない。代わりに口から出てきたのは、大量のよだれだった。『お前』のせいだ。寂しさと悔しさで、胸が張り裂けそうだ。

寂しい、だなんて。私は自分の中の名前のついた感情に驚いていた。布団の中で静かに閉じていた目を見開く。懐かしい感情だ。寂しいだなんて、家族には抱いたことがない。友人以外の他の誰にも思ったことはない。友人が、初めてだ。私が、1人の時間と空間が寂しいと感じることができたのは。

『お前』は、今どこにいるのだろうか。

友人の顔を、横になる自分を心配そうに、名残惜しそうに家を出る背を向ける友人の顔を思い出す。友人ともう二度と会えないなんて、耐えられない。あぁ、友人の身が危ない。夢の中で自分の家族を自分で食べてしまったことを思い出してしまった以上、私の中の『お前』がいつ暴れ出すかは分からない。はっきりしているのは『お前』が人喰いの化け物で、私の体の中に潜んでいること。『お前』が、私が私の家族を食べてしまったこと。そして、夢の中だけではあるが、まだ『お前』は、人の肉を求めている。『お前』は、危険だ。

寒さで震えて重くなった身体をなんとかして起きあげる。『お前』を殺すためだ。

体がだるい。枕元には水分と一緒に、見慣れた茶色の紙袋が置かれていた。袋の口を開けると、中にはハムサンドが2人分、入っていた。いつものカツサンドよりずっと薄くて、小さい。友人の買ってきてくれた朝ごはんだ。私は、片手で口の中に2つハムサンドを押し込んだ。パンの間からは油も何も出てこない。ただ、口の中の水分だけがパンに吸い込まれていった。でも、何か口の中に入れたおかげだろうか。さっきよりはましに身体を動かせるようになってきた。

「……どうすればいいんだろう」友人を守るために、私の中にいる『お前』を殺したい。でも確実に殺す事のできる方法は分からない。途方に暮れて、顎を軽く持ち上げた。

 玄関扉の開く音がした。確かに聞こえた。引き戸を開くガラガラという物音が。する。聞こえる。先ほどまでの体の重さも忘れて、小走りで玄関に向かう。廊下を曲がって、衝立の向こうに立っている顔が、見えた。それは、学校の制服を着ていた。黒い、短い髪。にっこり薄ら笑いをその顔にまた浮かべていた。女の匂いがする、男。玄関に立っていたのは、友人の、家が決めた許嫁の、京一だった。

男は、大きなビニール袋を持っていた。

「白崎さんが最近野菜を食べたいって言ってたって、友人が言ってたのを思い出してさ。あいつには『るうの家の畑で作るんやから、わざわざ持っていかなくてもいい』って言われたんだけど、毎日お肉ばっかり食べてるって聞いたからさ。うちにある野菜、持ってきたんだ。うちの野菜も、白崎さんのうちで採れる野菜と同じくらい、美味しいよ。それにお肉ばっかりじゃ、本当に体の調子悪くなるよ」

私の体調は過去最高に最悪だ。主に目の前のこの男のせいで。

「……学校はいいの?」私は目の前の男に尋ねた。私は体調不良のため学校を休んだ。友人は少し前に慌てて学校に向かっていた。今この男がここにいるということは、遅刻確定ではないか。

「うーん、俺はサボり、かな。こんな雪だし、部活ないんじゃつまらないでしょ」自分の行動について、男は全く気にしていないようだ。

「それよりうちで育てた野菜、せっかくだから食べてみない?これ、採れたてを持ってきたんだ」

「今は冬、だけど。何か育ててるの」私は男に訝しげな視線を隠そうともせず、まっすぐ刺すように向けた。

「もちろん。他の季節みたいに沢山の種類をとはいかないけど、冬だってハウスとかで野菜を育てられるんだよ」

ハウス、その手があったのか。でも、うちにハウスの道具なんてあっただろうか。雪の日は畑なんてしていなかったのだろうか。祖母が高齢だったからだろうか。母が寒がりだったからだろうか。

「今年は特に雪が多いから、ハウスも潰れそうになったりで大変だったけどね」男はそう言うと、手に持っていたビニール袋の中身をお店よろしく玄関先に広げはじめた。

「これはコマツナ、これはアスパラガスね。で、これが少し早いけれど、ブロッコリー。少しはうちの冷蔵室に保管されてたやつも持ってきたけれど、これは今ハウスで育ててるやつだよ」

どれも大ぶりの、少し土がついている野菜たちが仰々しく玄関前に並べられていく。玄関が野菜で一面埋められて、逃げられない。男もこのままこのならんだ野菜に遮られて、ここから入ってこられなければいいのに。

「美味しいよ」

本当に?これが?

 私は、座敷で男と向かい合っていた。短足脚の木製テーブルの上に、空の皿が行儀よく並んでいる。食器棚から適当な皿を大小適当に持ってきた。部屋を囲む襖は全て閉めきられている。男の座る背後、色褪せた襖の奥は私の自室だ。荒れた布団と、友人の持ってきてくれたハムサンドの入っていた紙袋が散乱している。空間と男とは襖一枚で仕切られている。

「とりあえずさっと茹でてみたよ」男はテーブルの中央に置かれた皿を手で指し示す。ブロッコリーが1房、藍色のお皿に乗っている。緑色の木は丁寧にひと口大に切り揃えられている。

「マヨネーズをつけて食べるとさらに美味しいけど、まずはそのままでもいいかな。ありがとうね、白崎さん。押しかけた上に台所まで貸してくれて」

実を一つ、箸で摘んでみる。茹でられたブロッコリー、その姿は樹木ように見える。生命のかたまりだ。そう思うと粒のひとつひとつが人の顔に見えた。べと、とブロッコリーは力無い箸先から落ちて、端の小皿のマヨネーズに沈み込んだ。

マヨネーズは、私は好きなものの1つのはずだ。油の味が美味しいから。友人が朝くれるパンにも時々マヨネーズが挟まっているのを知っている。濃厚な油の味が好きだ。なのに、マヨネーズのその姿をちゃんと、じっくり、考えながら見たのは初めてだからだろうか。

白濁の色が、目の前の男の笑顔が、連想させた。

「食べて欲しいの。お願い、るう」女の、今にも泣き出しそうな声だ。誰なのだろうか。私に、『お前』にそう願ったのは。

友人と、目の前の男の関係はなんなのだろうか。家の決めた許嫁とは、家の中の誰が決めたのだろうか。

「もう顔も見たくないの」怒りを滲ませた声が、地面にぽとりと落とされる。私と面向かって、悲しんでいたのは誰だろうか。

友人に許嫁を断る、拒否権はないのだろうか。友人に、好きな人はいるのだろうか。

「あんなやつ、大嫌い」嫌悪感のこもった、女の声だ。怒りと悲しみと憎悪にまかせて、私に、私の中にいる『お前』に願ったのは誰だったのだろうか。

好きな人って、何なのだろうか。

「好きだから、大好きだったから、殺したいの」

縛って、そばにいて、めちゃくちゃにして。好きな人と、愛している人って、違うのだろうか。愛していれば、いいのだろうか。好きなのが、いけないのだろうか。

私は友人のことが好きだ。友人を愛することができれば、私は、『お前』は友人を殺さずにいられるかもしれない。

「……白崎さん、どうしたの? ブロッコリー、口に合わなかったかな」

男が、白濁の散った皿に手をかけた。手に、白いのが付いている。あれは、私の飛ばしたマヨネーズだ。男が散らかしたものではない。なのに、男の手元から匂いがする。油の匂いに混じって、友人とは違う女の匂いが。

 ぷつん、となにかがどこかで弾ける音がした。口の中で、歯と歯の間にブロッコリーの粒が挟まって、すりつぶされていた。頭は、すっきりと起きているはずなのに、夢の中にいるみたいに胸が熱く、ふわふわした。足が軽い。

なにを、考えていたんだっけ。意識が少し薄れて、白昼夢の中に少し落ちそうになって、無我夢中で手足を動かした。抵抗があって、首筋に触れる冷たい風で、夢が覚めた。

目の前が、白から真っ赤に染まっていた。皿の上から外の風景に色を変えて、雪の上に、男が頭から血を流して倒れていた。

 すぐに、夢の中の記憶が、感触と感情が脳裏に戻ってきた。

男を外に連れ出した。引き摺り出したのだろうか。その時その時の感情は思い出せるのに、何をしたのか、どうしてそうしたのか、現実の景色だけが霞のように消えていく。男はそれなりに鍛えていたようで、腕の力は強かった。男の腕を掴む私の腕が痛い。どれくらいの力で引っ張ったのだろうか。『お前』は。

男は庭に倒れ込んだ。雪に埋もれていた庭の石にうまいこと、奇跡的に、運命のように、不運なことにぶつかった。目の前に光が飛んで、頭蓋骨の殻が割れる音がして、うつむせで転がった。男を外に連れ出したのは、家の中に血が飛び散るといけないからだ。すぐに上に降り積もる、雪の上なら、ここならいくら散らかしても気づかれないだろう。

もちろん、友人にだ。他の人なんてどうでもいい。誰に願われるでもない。これは、私の思いだ。『お前』の感情ではない。

友人を、この男に渡したくない。好きな人を、他の人に渡したくない。だから、男を殺した。

私が友人を……愛していたのなら、どうしていたのだろうか。

 風で、茶色の紙袋が外に転がり出てきた。縁側の襖が開いている。

「でも後になって、やっぱやめとけばって思ったの」また、女の声がする。男からもうその匂いはしないのに。男の中身の匂いだけが、雪の、水の匂いの中にうっすらと浮かんでいる。

「でもいいの。るうが全部食べてくれるから。後悔なんてしないわ」

「こいつが、そしてわたしがいなくなったって、誰も困らないもの」

……この男は友人に何をして、何をするのだろうか。男は俯いて雪に顔を埋めている。脳裏に男が友人にすると思われる行為の想像が、映像が浮かぼうとすらしなかった。だって、私はこの男の顔すら覚えていないのだ。記憶にない人のことを、自分の頭の中に、像すら浮かばない人物の夢を見ることはない。

残さず食べてしまえばいい。そうすれば何の問題もない。鮮やかな赤が雪の上を鮮やかに染めていた。他には何も残っていなかった。開けられたままの障子と襖の間からわずかに見える机の上には、色とりどりの皿が行儀よく並んでいた。


 『お前』は、まず男の頭にかぶりついた。割れた奥から柔らかい脳と汁が出てきた。血は流れ切ったのか、新たに傷をつけてももう口の中に液体は溢れてこなかった。

ぐいと頭部を引っ張ると、背骨のあたりがぴんと張る。次に肩と腕にかぶりついた。薄い肉なのに、骨も近くにあるからだろうか、妙に硬い歯触りだ。繊維質な肉を歯で噛み切る。全て食べ終わるには、綺麗に片付けるには少し時間がかかるかもしれない。まあ、しばらくすればこの硬さも取れるはずだ。死後硬直は、何時間で解けると友人は言っていたっけ。……どうして友人とそんな話になったのだろうか。数週遅れのアニメを観ようと思ったのに、雪と風のせいでうまく電波が入らなくって、麓に住むクラスメイトからアニメのオチを、死後硬直を使ったトリックのネタバレを食らったから、と友人は可愛い怒り顔で、そのやわらかい頬を膨らませて言っていたっけ。

友人のことを思い出すだけで、口の中から涎が溢れ出てくる。やっぱり、『お前』は男よりも女の肉の方が好きなのだろう。女の、やわらかい肉を食べたいのだろう。

雪の上は、冷たい。口の中だけが熱い。

男の肉をゆっくりと噛み締めながら、私はかつて食べた肉の味を思い出していた。久しぶりに人間の肉を食べているからだろうか。今までのどの夢の記憶よりも、鮮明に思い出すことができる。さして美味しくもない男の肉の咀嚼を、記憶の中の女の肉でどうにか上書きしようとしているのだ。


 まず舌の上に思い出すのは、1番最後に食べた、母の味だ。私が母を食べたのは14歳の時だった。その肉から、血管から溢れてくる血液からはサプリメントの味がする。濃い、凝縮された味。『野菜を食べなきゃ』と言っていたのに、忘れっぽい性格とすぐ他のことに夢中になるから、結局出来合いを食べることが多かった。別に、そのこと自体に良い悪いはないのだろうけれど、肉や血の味はやっぱり、他のものとは違った。最上にはなれない。それでも今食べている男の肉よりはずっと美味しい。何より食べやすい。味がいいに越したことはないが、食べやすさというのも重要だ。最高に美味しい手の届かない食べ物より、多少味は落ちても手の届く距離にある食べ物を求めるのは自然なことだ。母の肉は、肉けというより脂肪のほうが多いのだろう。食べれば食べるほど油が口の端から垂れていく。かつて嫌というほど吸った、母乳のような重みを感じた。


 次に舌に上がってきたのは、祖母の味だった。薬の浸った味。やわらかい、張りのない、薄い肉。強度のない、色褪せてすぐにめくれてしまう薄い皮、噛めばほろほろと崩れてしまう、脆い骨。祖母の肉の入った夏野菜カレーはあんなに美味しかったのに、体の方に残った肉はあまり美味しくない。母が肉けのあるところを選んでカレーに入れてくれたのだろうか。そういえば、祖母の体に残っていた肉は太陽の日に長年晒された外側がほとんどで、身体の中央部分はすかすかだった。

母はどうして祖母のカレーを作ったのだろうか。祖母の顔も、母の顔も覚えている。台所に並んで、晩御飯には私のリクエストをよく聞いてくれていた。その記憶も、中学に上がるまでのものだが。

いつしか夢で見た、台所に立つ友人の姿が、記憶の中の母に重なる。

違う。違う。母の髪は短くなかった。でも、髪の色は同じような薄茶色だった? 違う。母は髪を染めていた。母の髪色は茶色というより、赤みがかっていた。母の姿と友人の姿は、頭の中で離そうとしても、離そうとすればするほど無理矢理にでも重なろうとする。母の身長は低かったのか? 友人の髪が伸びたのか? 違う。違う。

私は母のことが好きだった。だけど、友人のように愛したいとは思わない。

だから私は母を食べた。母が願ったように。思い出せるのは、舌に残った母の肉の味と、匂いだけだった。

 人の肉を食う『お前』の姿が、じわじわと私になっていく。

違和感なく夢の中の記憶が、現実の映像とぴったりと重なっていく。私が肉を食べる。美味しそうに食事をしている。目の前に出されたものを綺麗に残さず食べる。思い出す。やわらかい油の多い肉の、母のことを舌先で思い出す。

母は、父のことを怒っていた。それも、日増しに増えていた。私はそんな2人の様子をある夜、襖越しから見ていた。宿題が終わらなくて、そのせいで夜遅くまで起きていたからだ。父は遠方で働いているから、いつも帰りが遅い。母はそんな父の帰りをいつも遅くまで待っていた。母は私の部屋の隣の、座敷で起きて父の帰りをいつも待っていた。

私が高学年になった頃、父の帰りがそれまでよりも遅くなった。日付を越えて帰ってくるのが、何日も帰ってこないことがいつものことに、普通のことになってきていた。

 ある夜、両親が喧嘩していた。月のない夜だった。私は14歳になっていた。

「どうにかしてよ」願い、願いがそこにあった。年に1回のプレゼントを、一生に1度だけのお願いを何回も乞う子供みたいに。月明かりのない夜、家から僅かに漏れている蛍光灯の灯りの下、私は父を食べた。母は縁側に座って、その様子を、私が父を食べる様子を最初から最後まで見ていた。

「ありがとう、るう。綺麗に片付いたね」月影の中、うっすらと祖母の姿が見えた。

「あと、もう少しかな」その翌日だったか、翌年だったか。それはもう覚えていない。よく似た季節の中だった。宵闇の薄い空に白い月が薄い目を、もしくはその口をうっすら開いて浮かべていた。ちょうど目の前の母のように。

私は、母の作った祖母の野菜カレーを食べていた。銀の匙にカレーの熱がうつる。でも、口の中が1番熱くて、美味しかった。

 

 記憶が、薄れていく。まるで認知症のようだ。記憶の引き出しの中に確かに思い出は残っているのに、うまく開けることができない。今、肉の油で幾分か記憶の引き出しが開きやすくなったようだ。

 もう一つ、舌に残っていたのは、私の曽祖父の肉の味、そして朧げな記憶だった。曽祖父は私が覚えている限りの姿では、かなり認知症が進んでいて、さっきまでしていたことも自分がどこにいるかも、何をすればいいのかも分かっていなかった。そして、ふらふらとおぼつかない足取りで何かを求めて、家の外に徘徊するようになっていた。

「体はまだ元気だから、厄介なのよ」

「早う寝たきりになったら楽なんやけどな」

「口ばっかりやで。すぐ怒るし、おんなじことばっか聞いてくるし」

「どうしたらええんやろうな」これは、誰の声だったのだろうか。

誰かの願いのまま、私は曽祖父を食べた。そうしたら、記憶が朧げになってきた。足は筋肉質で、肺は少し苦かった。タバコと、少し炎症も起こしていたのかぷちぷちと空気の入った袋を潰していく感触があった。

「やっぱり病気のは食べたらあかんかったな」

「大丈夫やで、るう。もう終わりやから」

 私の髪の色は、黒髪と白髪の半分ずつ。内側の黒髪は、陽を浴びると黒髪の部分が少しだけ赤っぽく染まる。白から黒に染めていた淡い髪色が、黒髪と白髪の境界線をグラデーションで美しく彩っている。私が食べたのは、父と母、祖母と、そして曽祖父。黒髪と白髪の、半分ずつ。

「るう、あんたは本当に食べるのが好きやね」

食べるのは大好きだ。友人のことも同じくらいに大好きだ。友人のことはそれ以上に、愛していたいと思う。

「お願い、るう」母が願っていた。だから、私は食べた。祖母も、父も。母が願ったように、綺麗に、なにも残さず。

髪と骨は味がほとんどしないから、肉ほど好きではないけれど、食べることはできる。口にしてみて、食べてみて始めて、骨の中にも血が通っていることを知った。そして、つやつやとしている髪もけばけばとした髪も、食感はどれも思っていたより硬いことを知った。短髪は魚の小骨のようだ。でも、飲み込んでしまえばなんてことはない。祖母の髪は硬かったけれど、クリームの匂いがした。父は少し、油っぽかった。でも、それよりも父の身体に残っていた匂いの方が嫌だった。父自身のものでも、母のものでも私の匂いでもない。少しだけ、知らない女の匂いがしたからだ。

けど、母が願ってくれたから。私を、私と認めてくれるのなら、人喰いの化け物の『お前』じゃない。『白崎るう』として見てくれるのなら。

私は、何でも、誰でも食べることができた。


 体に力が湧いてきた。口から取り込む男の肉が『お前』の、私の血肉となり、身体を作る。体の内側から力が湧いてきた。男のような力だ。女体の筋肉が張り詰めている。きっと、寒さのせいもあるだろう。男の骨を靭帯から引き剥がす。めりめりと音が雪に吸い込まれていく。頭部を中心に『お前』は食べたものの要素を少しだけ引き継いでいるようだ。男の見た目を引き継がなくてよかった。男がどんな見た目だったかなんて、もう覚えていないが。

 記憶が再びぼやけていく。男の肉と骨と髪は雪の上からすっかりなくなってしまった。肉の油もこれまでのようで、肉を食べ終わると同時に記憶も段々と脳裏から薄れてきた。口元から血が口腔内の涎と一緒に垂れる。今は、何時なんだろうか。空の上に太陽が浮かんでいる。友人は、いつ戻ってくるのだろうか。


 やっぱり、私は『お前』を殺さなくてはならない。『お前』はとても危険だ。人の願いのために、人間を食べる、人喰いの化け物だ。

私は、感情のままに人を殺した。私は、危険だろうか?

とにかく今は、友人を守るために、『お前』を殺すしかない。『お前』は私の中に血と肉と一緒にこびりついている。私から引き剥がすことは、もう無理だ。

人間の体を殺すだけなら、方法はいくらでもある。簡単だろう。私は再び重くなった足取りで開いたままの襖の方へと、台所にゆっくりと向かった。

台所の窓側、シンク下の扉を開け、包丁を手に取った。鈍色に光る刃先を、ゆっくりと喉元に近づける。包丁の柄を強く握って、どこに刺そうかと思い迷ってしまった。喉?胸?お腹?頭?どこが1番いいのだろうか。

喉はだめだ。呼吸が出来なくなるだけで、死ぬわけじゃない。首の太い血管を切って脳への血流が閉ざされる分、私の意識が失われ、代わりに『お前』が出て来る危険性の方が高い。

心臓を止めれば動かなくなるだろうか。でも、どこを刺せば心臓にうまく刺さるのだろうか。さっき、男の身体の中身を隅々まで見た。脳内にその映像は鮮明に残っている。心臓の周りには胸骨や肋骨、鎖骨、肩甲骨などが檻のようにややこしく張り巡らされている。生命活動を維持するために大切な臓器を守る分、周りの筋肉も分厚い。一回でうまく心臓を刺せなければ、喉を切るのと同じで、うまくいかないだろう。

お腹も、だめだ。首を落とされるまで自分の腹を自分で3回切った人の話を思い出した。

頭も、多分駄目だろう。

自らの命を貫くことを何度も想像する。思い浮かべる。あとはそのまま腕を動かせばいいだけだ。でも、でも、出来ない。イメージ通りにしようとすればするほど、友人の笑顔が頭から離れない。

友人と、別れたくはない。

 目尻が熱い。口元から涎が垂れる。瞼が重くなってきた。頭が重い。場違いな眠気がきた。手から包丁を滑り落としてしまった。包丁は静かに台所の床に突き刺さった。夢を通して、また何か思い出せるのだろうか。友人を守るために、『お前』を殺すための手がかりが何か見つかればいい。眠ることが前に比べて怖く無くなってきた。『お前』のことは何も怖くない。私が怖いのは、友人を私の目の前から失うことだけだ。

『お前』は、今どこにいるのだろうか。瞼を軽く閉じる。自分の内側に感覚が集中する。手も足も、この体は私の思うように動く。そして、この体が母たちの肉を食べたことは間違いない。その感触を、歯応えを、舌触りを鮮やかに覚えている。私の体は『お前』に乗っ取られていて、その期間の記憶はない。でも私はこの口で、この目でしっかりと見ている。それは記憶として私の脳内に残り、夢として見る。夢としてその感触、肉や骨の歯応えと匂いと映像を思い出すのだ。ようやく思い出すことができた。

重い体を動かして、台所を出た。頭部に引っかかる玉暖簾を退かす気力もなかった。スリッパを履くのも忘れて、雪で濡れたままの足でペタペタと廊下を歩く。玄関に向かって左手の廊下の奥に進んで、私は祖母の部屋を開けた。初めて入った。シンプルな部屋だった。部屋の中には何もない。忘れていれば良かったのに。祖母のカレールウと野菜に浸った肉の味、母の油っぽい乳のような肉の味を、祖母と母を食べた感触を思い出した途端に空腹が襲ってきた。美味しかった味を夢の中だけのものではなく、現実のものとして思い出して舌の上に認識すると、もっと、もっと食べたいと体が本能のままに叫んでいる。吐き気はしなかった。吐き出そうにも仕方がないのだ。祖母の、母たちの肉はもうとっくに私の、『お前』の体の一部になっていたのだから。

また、思い出してきた。口の中に肉とは違う、骨にも糸にも似た感触が蘇る。そして、母は嬉しそうに笑っていた。

「るう、今日はなにが食べたい? とりあえず昨日の残りもんをちょっとアレンジして、食べやすくしようかな」母は台所に立って料理を振るう。私はそれを嬉しそうに口にする。そういえば、父の姿を見ていない。玄関に靴が置かれている。家の下には車高の低い青い車が置かれているから、父がこの家に帰ってきているのは確実なのに。そういえば、祖母もいない。畑に出かけたのだろうか。でもいつも使っている道具の入った押し車や長靴は蔵のそばに置かれたままだ。

「今日は具沢山の夏野菜カレーやで」母は楽しそうに料理をしていた。結婚して、妊娠出産するまではあまり自炊も料理もしなかったそうだが、母の作る料理はいつも美味しかった。普段食べている料理とは違う、濃い味の肉がいつも出てきたからだ。曽祖父の姿が見えないのはいつものことだ。また外をふらふらと歩いているのかもしれない。また、探しに行かないといけないのだろうか。でも目の前の母親はなんら慌てていない。きっと、大丈夫なのだろう。

化け物は母だったのか? 私だったのか?母は父を、祖母を、曽祖父を調理した。私が食べやすいように。

そして私は、『お前』は、皿の上の、目の前の肉を食らった。そして、女を、母を食べた。いつものように綺麗に片付けた。

誰かが願った。曽祖父を殺して欲しいと。

母は願った。祖母を殺して欲しいと。

母は願った。父を殺して欲しいと。

私はその通りにした。綺麗に残さず食べた。目の前の母は笑っていた。とても嬉しそうで、悲しそうだった。


私は、最後に母を食べた。だから、母を食べた味が舌の1番上に残っている。顔も覚えていない男の味がその上に乗った。……邪魔だ。舌触りな味を唾と一緒に喉の奥に押し込んだ。

私は、今私でいられている。友人を食べたいとは決して思わない。台所の前で私は再び立ち尽くした。座敷につながる襖も、縁側に面した雪見障子も開きっぱなしのままだ。冷たい風が無遠慮に家の中に入り込んできている。私は自室に轢きっぱなしになっている、先程男を外に引きずり出す時に踏んでしまった布団を振り返った。部屋の中には縁側から雪が風と一緒に吹き込んできている。




「あ、起きた? さっき測ったんやけどな。熱出てたで。あかんやん、こんなに寒い中玄関で待ってるなんて。それに、タイツも履き忘れてたよ。夜はちゃんとお布団かぶって寝てたん?たくさんかぶって暑いからって、気付かんうちに布団跳ね除けたんとちゃうん?」友人が、枕元で笑っている。いつもの笑顔で。

友人は、私のことをどう思っているのだろう。どうして、ここまでしてくれるのだろう。

恋、好き、愛、とは違うのだろうか。友愛なのだろうか。それは、どんな感情なのだろうか。私の胸中にある、どろどろを渦巻いているこの感情とは名前も姿も意味も、違うのだろうか。

めちゃくちゃにしたいとか、噛みつきたいとか、大事にしたいって、なんなのだろうか。ぐるぐるぐるぐると、考えは脳内を回る。ゴールについた、と思ったらスタートだった。堂々巡りと同じ場所のようなパラレルワールドのように、考えれば考えるほど知りたい本当の気持ちからは、ずれて遠ざかっていってしまう。




 再び目覚めると、私は布団の中にいた。服を、制服から着替えている。私はモコモコのパジャマに身を包んでいた。あたたかい。『お前』が着替えたのだろうか。『お前』も、私の母と同じで寒いのが苦手なのだろうか。壁の振り子時計を見上げる。文字盤の針は2本とも1と2の間を示している。障子の外の明るさを見る限り、そして開け放たれた襖越しに台所の窓を見る限り、夜ではない。時刻は昼過ぎのようだ。どうやらあれから数時間ほど、眠っていたようだ。

この時間ならまだ学校は終わらない、友人はまだここにはこない。雪見障子越しの外を見る。外は相変わらず吹雪いている。

もしかしたら、友人は今日は学校から帰って来られないかもしれない。

もしかしたら、もう会えないかもしれない。

「……そんなの嫌だ」好きなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろうか。どうして友人の顔を思い出すだけでこんなにも、口から涎が溢れてくるのだろうか。

 友人を殺したくない。『お前』に友人を食べさせるわけにはいかない。ここから逃げれば、どうにかなるだろうか。でも、山を降りるわけにもいかない。山を降りたところに、『お前』が狙う友人がいるのだから。反対に山を登るわけにもいかない。結局は登り切って、降りるだけ。どこにも行くことはできない。山を降りても、登っても、私の逃げ場所はどこにもないのだ。それに、もう動けない。お腹いっぱいなにかを食べたはずなのに、胃から一向に栄養になる気配がない。布団から上半身を起こしたはいいものの、身体はこれ以上、布団の中から張り付いたように動けない。出ることができない。腹部のものは錘のように、私の腹に溜まっている。


次に目が覚めた時、雪見障子の外は静かで真っ暗だった。頭が重いが、意識ははっきりしている。視界はまだ揺れるが、身体の怠さは大分楽になったようだ。体を起こして、布団から離れる。今日起きるのはこれで何度目だろうか。

突如、腹痛が襲ってきた。ぐるぐると押して水を引いて腸全体を腹膜ごと強くねじって搾るような強烈な痛みが襲ってきた。腹痛を引き起こすようなストレスの原因や、普段と違うものを食べた記憶は、心当たりは1つしかない。友人の許嫁だとか言う男。そしてあの男が持ってきた野菜だ。

私は、いつぶりに野菜を食べたのだろう。

胃の中の異物をどうにかして吐き出そうと喉が震える。酸っぱい感触が喉にのぼってきて、胃液を布団の上に嘔吐する。でも、独特な匂いがする液以外は、何も出てこない。野菜も男の肉も、すでに消化された後のようだ。

野菜を食べれば、殺せるのではないか。『お前』を殺す方法として、かつてそう思いついた時もあった。馬鹿みたいだ。だから私は無意識のうちに夏野菜カレーを欲していたのだろうか。でも、駄目だったみたいだ。野菜でも『お前』を殺すことはできなかった。でも、死ぬほど辛い腹痛が、私の感触として腹部で暴れ回っている。『お前』も、少しは苦しいと思っているのだろうか。お前に、そんなことを考えることはできるのだろうか。

口元が歪む。これは私の意思か、『お前』の笑みか、ただの筋肉の収縮か。

夏野菜カレーを食べたいと思った。付け合わせはサラダで。

私は最後の力を振り絞って、蔵へと向かった。視界が歪む。

友人だけは、食べたくない。誰に願われたとしてもだ。自分に益だからではない。食べたくない。『お前』に、お前の食欲にこれ以上呑まれたくない。……どっちにしろ自分勝手な理由なんだ。友人だけは守らないと、口の中からは涎が溢れてくる。白い息が口からあふれた。

私は、『お前』は、吹雪の中をゆっくりと歩くいていく。

何も寒くない、何も感じない。なのに何も見えない吹雪の中で、友人がいなくなることを想像するだけで簡単に背筋が震えた。頭の中が空っぽになっていく。舌が渇いていく。足先が冷えて固まっていく。ずっと空腹のままでもいい。記憶ごと食べられてしまってもいい。友人だけは、彼女だけは失いたくない。友人の肉を想像する。口から涎がまた溢れてくる。えづく。吐き気がする。

雪の中を、蔵に向かって進んでいく。けれど、幾分も歩かないうちに私は、『お前』は雪の中に倒れ込んだ。

このまま私が凍死してしまえば、全て綺麗に終わるのだろうか。友人は無事生きて、私の中からお前も雪解け水と一緒に消える。……そうもいかないだろう。

遅かれ早かれ、吹雪がやめばいずれ友人はここに戻ってくる。そうすれば私が家の中にいないことに気づく。雪が溶けてしまえば、この化け物は、『お前』はもう止められないだろう。『お前』は、女の肉が大好きなのだから。こいつは、友人に飽き足らず、女を全部食べるまで止まらないのだろう。『お前』は、私だ。この化け物を街へ降ろしてはいけない。

……女の何がいいんだか。そうだ。私も確か女のはずなのに、どうして『お前』は私自身を食べないんだろうか。友人を食べられることばかりで、考えもしなかった。私の家族を皆食べておいて、どうして『お前』は私自身を食べないのだろうか。……いや、既に手遅れなのかもしれない。私ももう、既に『お前』に食べられているのかもしれない。脳みそが体を振り返る。そう出来たのは、首から下の私は、私ではなかったからだ。

手が重たげに動く。足が立ちあがろうと、雪の中で震えている。もう無駄だというのに、『お前』は私の身体を動かそうと震えている。私の意思では身体を動かせない。いつから動かしていると思っていたのだろう。動いているのを見てそう錯覚していたのだろうか。脳はとても騙されやすいのだと、いつぞやに友人が話していた。脳は体とつながっていないのに。脳みそはただこの体に乗っかっていただけなのに。すでに私の身体はこいつに食べられた痕だった。唯一残っていたのは、考えるだけの脳みそだけ。手も足も口も胃も腸も、既に私のものではなかったのだ。やっぱり、包丁で頭を刺しても無駄だったな。私が死ぬだけだ。

1番美味しい肉の味、初めて食べた肉の味が舌の奥底、根っこの方にわずかに残っている。男の肉の味を押し込んだその少し手前、喉の奥に舌を伸ばす。再び少しえずきそうになりながら、舌の先に肉の味がする。記憶が、1番最初の記憶が蘇ってくる。


 至上の肉の味。それは双子の姉の味だ。なにも混ざっていない肉の味は濃いミルクのようで、とろけるような肉の感触は歯がなくても容易に噛み切ることができた。口の中で広がる、双子の姉の味。

「お姉ちゃんは、生まれる前にお腹の中で死んでしまったんやよ」と、小学生の時に母から聞いた。

記憶もない、覚えていないはずなのに、思い当たる。いくら食べても出会えなかった甘美な味、完璧な味。その時だ、その時『お前』は私を食べたんだ。姉を食べる前に、まずお胎の中にやってきた『お前』は私の出来立ての身体を食べた。私の身体の中に絶えず流れ込んでいた臍の緒からの栄養じゃ飽きたらずに。その時『お前』は「女の肉」の美味さを知ってしまったのだ。だから『お前』は私を食べた後に、目の前にいた姉も、ついでのように食べたのだ。

 無数の弾丸のように、吹雪が、風と雪の粒が私の身体を打ち付ける。蔵の藍色の屋根も、平屋建ての母家の屋根も、開けっぱなしの雪見障子も見えなくなってしまった。『お前』は野菜と寒さが苦手らしい。殺すことはできないが、動きを多少鈍らせることは出来るみたいだ。吸収された野菜が、寒さが全身に回ったらしい。もうここから動くことはできない。

私は、『お前』は静かに目を閉じた。

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