幕間 白崎さき

 『おめでとうございます。元気な女の子ですよ』

 テレビ画面の中で、顔は見たことがあるけれど名前はうろ覚えの女優が汗と偽物の涙を流して、作り物の新しい命の誕生をこれでもかと喜んでいた。頬に涙を流して、喜ぶ演技をする女の周りでは音楽が誰かの感情を掻き立てようと必死になって流れている。

ソファに座ってテレビ画面と対峙していたわたしは、頭を抱えた。

「こんな母親になんて、なれるわけないよなあ」

ただ大きく膨らんでいくお腹に、自分以外の誰かが横や自分の膝の上、後ろにいることを想像するだけで、恐怖すら覚える。自分以外の誰かがここにいるなんて。と、実際ありもしないことを想像するくらいには暇を持て余していた。自分のお腹をさする。やや腹筋が足りないが、ぺったんこのお腹。誰かが入ったことも入れたこともない、自分の体の中にある空っぽの空間。

開け放してある窓から生ぬるい風が吹き込んでくる。季節は夏の始め。仕事が休みの今日、日差しだけが強いクソ暑い外に行く用事もなく、遊びに行く気にもなれず。誰かに会う予定も無ければ、用事として最低限の家事も終わらせてしまい、もう他のことをするやる気も気力もない。程よい倦怠感と横になって、ソファに身体を埋めて自然とやってくる眠気に体を預ける。だらりと体の力を抜いて、首だけを動かしてテレビへと視線を戻す。少し目を離した隙に話の流れがわからなくなるくらい、画面に映った物語は駆け足で先へと進んでいた。ついさっき生まれたと思っていた子供は前向きに、困難あれど一生懸命生きて、物語は終わった。テレビの向こうの話だ。休みの日にしばらく前に話題になっていたドラマを見ようと思ったけれど、わたしにとってはハズレだったようだ。

 テレビの画面を消す。部屋の中は急に静かになって、外の音がよく聞こえるようになった。前方に残った黒い画面を見つめて、映っていた女優のことを思い出す。一方で細いウエストが羨望の的になり、他方では大きなお腹とみるやうっすらと軽蔑の目を向ける。そうして子供が少ないと嘆いて喚起して。……退屈になると余計なことばかり考えてしまう。とてもじゃないが、うーん、子供を産む気になれない。可愛いとか、いいなと思うことはある。けれどもわたし以外の人間がここに、お腹の中にいる、あまつさえ股から血まみれで生まれて、そこから物を食べて大きくなっていく。学校に行って、わたしと同じような歳になって、……と想像を深めれば深めるほど想像がつかないし、自分が何を考えて何をしたいのか、よく分からなくなった。一瞬お腹を何かがポコン、と蹴る、ような気がした。ありえないことだ。モジョに近づく自分を嘲笑うように1人、夏の初めの予定のない休日を過ごしていた。

 窓から日差しが差し込んでいる。やや日差しが強くなってきた。開け放っておいた窓にかかった網戸の向こうから、もう一度生暖かい風が吹いてきた。風は、窓辺のプランターに生った葉を揺らしている。窓際に近づいて、カーテンを閉めようと手をかける。アパートの下に広がる景色を視界に入れながら、プランターの中でゆらゆらと揺れる緑色の小さな葉に手を触れる。

少し前、夏が来る前にと本とテレビで見た知識をもとに、アパートの窓辺で家庭菜園を始めた。室内の、テレビとソファの間に置かれたテーブルの上には、その時に買った家庭菜園の本が外の光に照らされている。種から育て始めた苗木は順調に成長している。

今の会社に新卒で就職してはや数年。学生の記憶は学友とその話でもしない限り思い出せない年齢になった。体型と色んな数値を気にし始めて自炊を始めたはいいものの、とてもじゃないが長続きしなかった。致命的に野菜を食べない。野菜は高いし、何よりメニューを考えたり作ったり皿洗いや片付けに至るまで全ての行程がめんどくさい。考えたくもない。

誰か作る位相手でもいればな、と思わなくもないが年齢イコール恋人いないのわたしはすぐに諦めた。でも野菜を食べなければ、年々感じる体の不調に不安を抱える。肌とかお腹とか疲れやすさとか。野菜を安く食べれれば、少しでも安く、楽しく出来れば家に緑も増えるしということで、家の窓辺で、プランターを使って小さな家庭菜園を始めた。

窓辺での家庭菜園を始めたのは遡ること数ヶ月前。家の中でわたしはひとまず図書館で買った家庭菜園の本と睨めっこしていた。読めば読むほどめんどくさい。少し古い本の中身はごちゃごちゃしていて、つまりどうすればいいのか何をすればいいのかがさっぱり分からない。図書館の本は諦めて、わたしは近所の本屋さんでイラストの多い読みやすそうな本を手に取った。素人なんだから、最初から本格的にやるのは無理だ。何か1つ、とりあえず育ててみよう。何も目標がないといつものように三日坊主で終わってしまうのが目に見えていたから、何か目標を作ることにした。

「さて、何を作ろうかな」

なんの野菜を作るか、とても迷った。本に載っている野菜のイラストや写真を飛ばし飛ばし見ていく。いろいろ候補はあるが、ひとまずトマトだけは即刻候補から外した。

あの赤い、大ぶりの果肉を齧った瞬間、そしてそのあとも飲み込むまで永遠に続く、ぶちゅっとしたやわらかさ。その感触は脳髄の柔らかさを思い出す。……脳髄を食べたことはないけれど、それくらい気持ち悪い。トマトの嫌な感触から芋づる式に思い出される、小学校の時の夏休みの宿題の記憶。専用の一株用のプランターに植えられたプチトマト。その成長記録を絵日記に書きなさい、という物。なんで嫌いなものと毎日顔を合わせて絵にまで描かないといけないんだ。うわあ、また大きくなっている。こんなところにまで実をつけてる。ノートの図を書く枠内を、無邪気な憎しみと憎悪と快楽で真っ赤に塗りつぶしたこと、その苦味とクレヨンの匂いと感触を思い出した。

過去の苦々しい思い出はさておき、初めての家庭菜園でもあるし、初めては、自分が好きなオクラを作ることにした。

近所のホームセンターで必要なものを揃える。初期費用はそれなりにかかったが、育て始めるとこれが中々面白い。最低限といいつつそれなりに引かれる金額以外、特に使うこともなかった貯金から家庭菜園のための必要資金を少し払って、土、小さいスコップ、かわいいジョウロ、肥料、そしてオクラの種を準備する。買ってきた道具を並べるだけで、満足感が出てきた。本を見ながら作業を始めていく。プランターを用意して、専用の土を入れる。なんだか楽しくなってきた。種を等間隔に植えて、水を撒く。天気がいい日が続いたからか、ものの数日で芽が出た。そして今、オクラの苗はそれなりの大きさになってきた。葉を茂らせて、ゆったりと風に揺れている。もうすぐ夏になるだろう。実のなる日が、楽しみだ。

窓辺のプランターでオクラを育て始めてから、仕事帰り、起きた時、仕事に行く時、窓辺の苗の様子を見るのが楽しみになった。いつ実がなるかな。病気になってはいないかな、鳥に狙われたりしないかななど、色々なことを考えるようになった。そのことに関しては珍しく面倒には思わず、手間はかかるけれど楽しいなと思えた。実がなる時が待ち遠しく、好物のオクラの美味しい味を思い出すと頬が緩んだ。オクラは順調に育っていった。

ある日の仕事帰り、夕暮れに照らされたオクラの苗に、実がなっていた。小さな膨らみが葉の近くにできていた。待ち望んでいたオクラの実だ。さっそくどうやって食べようか、考え始めた。ゆでで切って、醤油と鰹節をさっとかけて食べるのがやっぱりいいかな。ドレッシングとポン酢を買ってきて、サラダうどんにしてもいいな。あんなに野菜を食べなかったのに、いざ目の前に自分の好きな野菜が自分の手で育てて実ってその味を独り占めできるのだと思うと、楽しみがどんどん増えていく。自分で育てたものを食べるだなんて、なんだか勿体ない気もする。食べてしまうと寂しくなるだろうか。すると、ぐう、とお腹が鳴る。空腹には変えられまい。きっと美味しいオクラができるだろう。食べてあげればいいんだ。

 オクラの実がもうすぐ食べごろになるだろうかという頃、会社では飲み会、懇親会が開かれることになった。「全員できるだけ参加で、時間は18時半から、会場はいつもと同じホテルで」と口頭で伝えられた。気が向かないが、仕事終わりのお酒をたまに外で飲むのもいいか、と思った。だがしかし、会場に着いて席に座って、飲み始めてすぐに後悔した。結局出てくるのは仕事の話か下世話な話ばかり。テーブルの上に出される料理は美味しいけれど、お品書きの値段を見ると食欲が失せる。なんだが量も、結局みんなで分けて食べると1人分はそんなになくて、少ない。飲み会に参加してわたしはすぐに気疲れしてしまった。お開きになったら、早々に帰ろう。そう思うと時計と鞄をいじる時間が自然と増えてしまう。退屈だ。箸を置いて、中身が3分の1ほど減ったグラスを眺めていた。

「白崎さんは、話するの苦手なんですか?」隣に座っているグレースーツの男性が声をかけてきた。男はジョッキを手に持っている。お酒の匂いに混じって、汗の匂いがわずかにする。

「ああその、今日はちょっと疲れちゃったみたいで」

「そうなんですか」男は私の隣にある椅子に座り直し、こちらに身体ごと向き直る。

なんでわたしの苗字を知ってるんだろう。顔は社内で見たことがある。でも名前は知らない。多分、この人は自分とは違う部署なので、あまり会うこともない。廊下で何度かすれ違ったことはあるだろうか。相手はわたしの名前を知っているようだけど、わたしは知らない。警戒心がぬっと顔を出す。

「僕久しぶりに会社の飲み会出たんですけれど、さっきまで色んな人のところ回ってたんです。最初からここ、白崎さんの隣に座ってたんですけど、それは偶然ですよ。でも、社内でたまに見かけるから、一回話してみたいな、と思って」

「そうなんですか」この人は最初からわたしの隣にいたらしい。全然気づかなかった。

わたしは手元のグラスに口をつける。美味しいような、ちょっと味が分からないような。もう酔いが回ってきたのだろうか。

「でも確かに、顔は知ってるけれど話したことない人って意外と多いかもしれないですね」

「そうでしょ。毎日忙しいと社内でも話すことなんて最低限ですし。まあ学生じゃないんだから必要以上に仲良くする必要もないんですけれど、僕は白崎さんとこういう場所で話すことができて、嬉しいです」男は屈託のない笑顔を真っ直ぐこちらに向けた。男の人のそんな無邪気な、子供っぽい顔を見るのはいつ以来だろうと思った。

「白崎さんってあの町出身なんですか! 僕も同じ中学でしたよ。クドウ先生って知ってます?数学の教科担当で……そうそう、その人。僕らの卒業と一緒に引退して。白崎さんって同い年なんですね。もっと年上かと思ってました……いや、悪い意味じゃなくて。白崎さんって大人っぽいというか、落ち着いた雰囲気があるといいますか……あぁ、どう言えばいいんだろう」

実は地元が近くて、同じ学校の卒業生。そして同じ年。それだけで目の前の男性との話は少しずつ盛り上がった。グラスの中のお酒もいつの間にか色が変わって、お代わりもしていた。普段はあまりお酒を飲まないのに、話をしているうちになんだか喉が渇いてしまった。

気づけば同じお酒を飲んで、わたしも彼とビールを飲んで、酔いが全身に回ってふらついて、同じ電車に乗って、

目が覚めたら、同じ布団の上で彼と寝ていた。


彼の肌色が朝日に照らされている。自分の肌色と溶け合うような、透き通るようなその背中に指を沿わせる。色は似ていても肉質や肌の硬さはわたしとは全然違う。布団の上に伸ばされた腕に手を伸ばす。並べてみると腕は男の方がよく日焼けしているのが分かる。太さも全然違うのだ。

「あ、オクラの水やり忘れてた」

ま、いっか。オクラの実の記憶は、昨日の彼との朧げな、黒に近い濃い記憶で塗りつぶされてしまった。

オクラの収穫はそのまま忘れてしまい、家に帰って気がつくと、オクラの実はパンパンになって、食べ頃を過ぎていた。自重に耐え切れなくなったオクラの実は、茎から千切れて落ちかけていた。申し訳ないとは思いつつ、はち切れそうになったオクラの実を枝から切り落とし、中から種を取り出した。また今度、育てればいい。仕事終わりの楽しみは、オクラの育成と観察から、彼との時間になった。

 会社の帰り。数駅離れたカフェに1人入る。コーヒーの匂いが立ち込めるここで、彼が来るのを待つ。待っている間、鞄から暇潰しの道具を取り出す。近所の図書館で文庫本を借りた。内容は特に覚えていない。ただ、読みやすくて短編ものを、と思って手に取った。栞がいくページか進んだ頃、彼は約束通りにやってきた。どれくらい待っていたのかは、その瞬間忘れてしまう。

「お待たせ」彼はわたしと違う部署、営業で働いている。

「今日も忙しかったよ。外回りから戻った後の会議と書類が中々終わらなくってさ……っと、ごめんね。一本だけ電話してくる」彼は営業で働いている。だから携帯を複数持ちしている、らしい。わたしは彼とは違う部署で働いていて、他の部署の人の話はあまり聞かないから、営業がどんなことをしているのか、知らない。頬杖をついて、彼が戻ってくるのをカフェテリアの2人がけの席で座って待つ。正面にある時計を眺める。彼は10分ほどで戻ってきた。

「君は何飲んでたの?」

「アイスコーヒー」

「じゃあ僕もそれで」彼は店員にわたしと同じ注文をする。

「最近暑くなってきたね」カラン、と彼のグラスの中で氷が溶ける音がする。わたしのアイスコーヒーはややぬるくなりはじめていた。

定期的にきていたものが来なくなって、検査をした。当たりだった。なんとなく、そんな気はしていた。嬉しさの他に、脳内を色んな感情がよぎる。めんどくさいな、もうできないのかな、仕事の調整どうしよう、流石に親には連絡せんとまずいよね、など。まず初めに、仕事終わりの彼に報告した。彼は、にっこり笑っていた。

「……実は、最初からこうなればなって、あわよくば。思っていたんだ。内緒だよ」

グレーのスーツで視界がいっぱいになる。道の真ん中で彼に抱きしめられていた。とても嬉しいはずなのに、胸の奥に空洞ができていた。どうしてだろう。ここだけはどうしても埋まらない。埋められない。彼との距離はゼロに等しいのに、満たそうとすればするほど、どうやっても満たされない場所の淵と中心核が際立っていく。空っぽだったお腹の中は、彼で埋めることができたのに。街の人の視線が刺さる。

彼と出会って、ちょうど1年が経とうとしていた。わたしの妊娠を期に、彼と結婚することになった。春の終わりごろに彼と出会って、次の年の夏の暑い時に、妊娠発覚。その年の秋の初めに、わたしは数年ぶりに実家に帰ることになった。

 彼の、夫の運転する車でわたしたちは実家への道を進んでいた。彼の車は車高の低い、名前はよく分からないけれど、普通の車だ。座席に座ると横に寝転んでいるみたいになる。低い視線で車窓から見える景色を眺めていく。窓の外を通り過ぎていく景色は、空に向かって背を伸ばすビルや周りを目隠しされた入り組んだ道路へと入り、車の振動に揺られてうつらうつらしているといつの間にか長いトンネルをいくつも抜けて、周りの人工物はぐっと減って鬱蒼とした山々が見えてきた。あいも変わらない低い視線から道のガードレールを見上げると、段々畑や林、濃い緑が彩る木々が見えてきた。車道の反対側、山の斜面の崖側には剪定された木々の先が緑や茶色が混ざって転がっている。車は曲がりくねった山道をゆっくり登っていく。

私の実家、白崎家は山の中にある。就職してから実家に戻るのはこれが初めてだ。山道を登り切ると、現在は祖父と母が2人で暮らしている一軒家が、道路から石造りの階段を少し登ったところにある。白崎家は代々稲作をしていて、実家はそれなりに大きな家だったのを覚えている。わたしは高校時代までを実家で過ごしていたが、大学進学を機に家を出ていた。それからしばらくして、祖母が病気で亡くなったと、手紙で知った。その時一度里帰りしようとしたのだが、もう葬儀も法事も終わってしまったからとも手紙には書いてあったから、戻るタイミングを失ったというか、暗に戻ってこなくてもいいと言われているような気がして、その時もそれなりに忙しかったから、結局実家には戻っていなかった。実家の下にある広い敷地に車を停めて、実家への階段を登る。しかし、今回は結婚と妊娠という大きなライフイベントであるため、流石に一度実家に戻ることにした。というよりまず電話で母に結婚と妊娠のことを報告したら、実家に戻ってくることを強く勧められた。

「はい、白崎ですけど……なんや、さきか。久しぶりやなあ。なんや、なんかあったんか。……うん、うん。……なんやて、結婚!? それに、おなかに赤ちゃんもいてるの。それまた急な話やなあ。……まあええわ。もう仕事は休んでるんやろ? それならうちで出産まで過ごせばええわ。病院まではまあ遠いけど、ここの方が過ごしやすいやないの。あんたも旦那さんもこれから忙しくなるんやから、うちで過ごせばいい。それがいいわ」

仕事関係以外であまり件数の登録されていない携帯の連絡先を眺める。母に電話してその声を聞いたのもこの前がずいぶんと久しぶりだった。携帯の右上で受信感度を示す線がわずかしかない。石造りの階段を上がりきって、実家の前に着いた。最近増築したばかりの部分の屋根瓦が秋の日差しを反射して、目に刺さる。母家はそれに比べると落ち着いた風合いだが、決して建物自体はボロくはなく瓦屋根の平家建てで風格ある面持ちだ。母家の向こう、蔵の近くでで業者が何やら作業をしている。山奥のこの家に辿り着くまでには舗装されていない道も多いし、道路とこの家は直接繋がっていないから、搬入作業や何やらと業者も大変だっただろう。座りっぱなしですっかり硬くなってしまった腰をその場で伸ばす。実家の増築は、わたしの母の強い希望あって実施していることだった。

単身赴任で遠方で仕事をしていた父は、わたしが高校生のときに仕事先の事故で亡くなってしまった。数年前に祖母も病気で亡くなっている。祖父も高齢になった。わたしの母は病で寝込むことの多くなった祖父のことをこの家で1人、面倒をみている。だから実家に帰ってきて久しぶりに見る母はさぞや疲れていると思ったが、予想に反して母は活気的だった。むしろ前より、最後に会った時より元気な気がする。

「お帰り。疲れたやろ」

「わたしは座ってただけやもん、大丈夫やよ」

「キョウイチさんも、遠いところ運転ご苦労様でした」

「お義母さん、今日からお世話になります」

わたしたちは結婚と妊娠を機に、山奥にあるわたしの実家、白崎家で同居することになった。これは母の強い希望だ。夫は反対しなかった。

「まあ多少会社から遠くはなるけれど、通えない距離じゃないし。お母さんが大変なのは分かってるからさ。それより、さきを1人にしちゃうのが申し訳ないよ」

「わたしは大丈夫だよ。実家だから落ち着くし、色々やることもあるし」

「でも、おじいさんの介護だって。慣れないのに大変だろ?」

「だいぶ弱ってきてるらしいから、大丈夫だよ。それより、この子が生まれてからの方がもっともっと大変だよ。今のうちにのんびり過ごせたらいいな」

古い母家の方、増築で手をつけていない部屋の方に荷物を持っていく。

「疲れたやろ、今日はゆっくりしな」母は日々の生活で疲れているどころか、帰ってきたこちらを気遣うほどの余力があった。部屋に荷物を置く。ひとまず今日は荷物を広げたり片付けたりするだけで終わりそうだ。でもわたしには荷物の片付けや引っ越し後の手続きなどのやるべきことの他に、1つ実家でやりたいことがあるのだ。

「キョウイチさん、申し訳ないんやけどふもとの店で買ってきてほしいものがあるんやけどな」

「そんなのあるんやったら、来る前に頼めばいいのに。着いてからまた行くんじゃあ二度手間じゃない」

「さっき思い出してもてな。それに、運転中に電話できんやろ」

「わたしにかければよかったのに」

「あんたの電話番号、メモするの忘れてん」

「なにそれ」

「まあまあ……じゃあ僕、買い物に行ってきますね」

「すいません、お願いします」母は夫に買い物メモを渡す。夫は荷物を運び終えると車を取りに今きた道を行ってしまった。和室の中はわたしと母の2人になる。

「何頼んだの」

「夕ご飯の食材が足りんようなってもてな。いっぺんに2人も増えると分量わからんくなってもてな」母はそう言うと食事の支度に行くのか部屋を出ていった。薄暗い部屋にわたしは1人になった。障子から昼過ぎの日差しが差し込んでいる。外からは騒がしい音がし始めた。増築工事が再開されたようだ。絶賛工事中の狭苦しい家にいる気にもなれず、重量級の沢山のこまごまとした荷物を自分一人で片付ける気にもなれず、わたしは気晴らしに、母家から少し歩いたところにある白崎家の畑へと向かった。スニーカーを履いて、玄関を出て、家の前の階段を降りずにそのまま右に曲がって、傾斜のついた舗装されていない、砂利と草だらけの道を抜ける。短い草が足元を撫でる。畑は母家から少し歩いた、川と林の近くにある。テニスコート2面くらいの広さの畑が広がるこの畑で、好きに作物を育てるのが夢だった。とはいえ、昨年もオクラの育成に失敗したばかりだけれど。

夫はわたしが実家で畑作を始めたいと言うと『妊娠してるんだから無理しない方がいいんじゃないか』と言ったけれど、『お腹の子供は安定期に入ったし、体も少しは動かさないと。出産と子育てには体力がいるんだから。仕事は休んで、好きなことをするならいいでしょ。ストレスもそんなにないし』と言って説得した。

そう、わたしはここ、実家の畑の一角を借りて、家庭菜園として畑を始めるつもりだ。今日は実家に着いたばかりだから、とりあえずは畑の下見に来た。これから片付けや書類やらやることが山積みだが、楽しみが1つふたつと、いくつかあるだけで気の持ちようや感じ方、考え方も違うものだ。

うちは代々稲作、米作りをしてきた家系だというが、母は自分の代から畑を始めたそうだ。現在は稲作と並行して畑作をしている。特に母が丹精込めて手をかけているという畑には、ジャガイモ、キャベツ、ダイコン、ナス、ニンジン、他にも見たことはあるような気がするけれど名前が分からない、思い出せない菜葉類など、色々なものが実になっている。ここしばらくは毎日何かしらの野菜を収穫しているそうだ。蔵の前にも台車に積まれた野菜が置かれていた。

広々とした畑の周りには鬱蒼とした木々が畑を囲うように広がっている。昔から、小さい時からこの木々の風貌は変わっていない。細く真っ直ぐ伸びる木々は遠目から見れば白っぽく見えるのに、枝葉に常に生えている濃い緑の葉のせいで木々に囲われた畑自体がなんだか暗く見える。家から少し離れた場所にある、黒々とした木々に囲われた畑。太陽の登りきった日中でも周囲には影ができるくらい雰囲気は薄暗い場所だが、この畑で採れた野菜や果物はどれも美味しい。

この機会に野菜作りを、家庭菜園を始めようと思ったのにはちゃんと理由がある。まず1つは昨年のオクラのリベンジ。そしてもう1つはお腹の赤ちゃんもとい自分の身体のためだ。

今は妊娠の安定期に入った。お腹の赤ちゃん、そして自分のためにも栄養のあるものを食べようと思っていた。妊娠中の必要な栄養素について調べると、これがまた色々あった。妊娠したての頃にいろんな本を適当に読んでいると、つわりのせいもあって目が回りそうになった。

妊娠初期は、胎児は母体からの栄養素をそれほど必要とはしない。しかし、妊娠中期・後期に入ってくると母体が食べるもの、摂取する栄養素は胎児がお腹の中で正常に成長するために重要になってくる。特に、血液を作る鉄分や、ビタミン、胎児の体を作るカルシウム、タンパク質が大事になる。

これまでの食生活を振り返り、胎児に必要な栄養素を含む食事は、特にわたしに欠けているものだった。まずは手作りで、自炊として色々作ってみようとした。けれど案の定、手順の煩雑さや慣れないことを一度に始めたせいか、あまりうまくいかなかったり、長続きしなかった。

実家に帰ってきて、仕事を休職する。時間がたくさんあるこのタイミングで家庭菜園を再開しようと決意した。結婚前に気まぐれに、それなりに楽しかった窓辺のプランターでのオクラの栽培も結局は中途半端だった。だが、今回はそうならないようにしたい。いつまでも失敗続きではいられないのだ。

さて、この畑でわたしはなにを育てようか。

「今度こそ!」と決心を空に口にする。

 細い木々の隙間から夕陽が溢れて、地面に落ちていくのが見える。畑に来てから大分時間が経ったようだ。とりあえず今日のところは下見だけだ。足元が暗くならないうちに、家に帰ろう。部屋残してきた荷物たちのことを思い返しながら、帰路に着く。夕焼けに照らされた背景の木々に紛れて、畑の脇に柿の木が植わっているのが目に入った。最近始めたのだろうか。学生の頃にはなかった気がする。それとも、気づかなかっただけだろうか。ここにも畑と同じく、立派な実がなっている。一部の実はカラスだろうか、鳥に上手いこと中身をくり抜かれてしまっているものもある。柿の木の側に、糞が落ちている。これは鳥のものではない。そうすぐ分かったのは、地面に落ちている糞が黒く染まっていたからだ。ただ、一部オレンジがかっている。柿の実を食べたのだろうか。多分、これは熊のものだろう。この畑は、母家と同じく山の中にある。熊や他の動物がこの辺りに出てきてもなんら不思議ではない。母はよく一人で平気だったな。木々の合間に見える夕陽が目に刺さる。わたしは家への帰路を急いだ。

畑から戻ると、下の道に夫の車が止まっているのが見えた。夫もちょうど母のお使いから戻ってきたようだ。

「ただいま」

「おかえりなさい。わざわざありがとうね」わたしは夫から買い物袋を1つ受け取る。夫はわたしの姿をじっと見つめている。

「……どうしたの?」

「いや、ここで『ただいま』って言ってもらうのは初めてだから、なんだか新鮮な気持ちだな、と思って」

「なにそれ」わたしはつい笑ってしまう。山の向こうにゆっくりと落ちていく夕日を背に、わたしたちは2人で母家の玄関へと入った。

玄関に入るとすぐに、祖父がいた。祖父は焦点の定まらない濁った目で玄関扉の向こうを、おそらく夕焼けを見つめていた。

「おじいちゃん、今戻りました。もうすぐ夕食ですね。向こうからいい匂いがしますよ」

夫が台所の方を指差してそう言うと、祖父は踵を返して黙って玄関横の自室へと戻っていった。

「……なんだったんだろうね」

「さあ」わたしは玄関で少し土に汚れたスニーカーを脱ぐ。祖父が何を考えているなんて、わたしに分かるはずもなかった。

 久しぶりの実家での夜ご飯だ。食卓を3人で囲む。座敷のテーブルの上には懐かしい食器と、いつくかの目新しい食器が並んでいる。

「……おじいちゃんはどうしたの?」

「じいちゃんは、あっち、自分の部屋で食べるって」母は廊下の向こう、玄関を挟んだ山側の、祖父の部屋の方をちらっとだけ見た。それ以上祖父の話をするつもりはないらしい。

「そういえばあんた、今日畑行ったらしいな」

「うん。これから畑するのに下見しとこうと思って」わたしは菜葉のおひたしを箸でつまんだ。

「ていうか柿の木の近くに熊の糞落ちてたよ」

「熊!!??」これには夫が1番驚いていた。通っていた学校は一緒だったが、夫は山中ではなく里の方、駅の近くの方に住んでいたので山の中での生活はどれも新鮮らしい。

「ありゃま、もうきてたか。あとで警察に連絡しとくわ」

「すぐに来てくれるん」

「いや、どうかなあ」

「熊って、そんな近くに出るんですか」

「熊が住むのは山の中、うちらが住むのも山ん中やからな、しょうがないわ」

この野菜炒めに入っているお肉は、何肉なんだろうか。ちょっと、硬い。

 夫はこの白崎家に婿入りする形でわたしと結婚した。ちなみにわたしの父も、祖父も白崎家に婿入りしてきたそうだ。男の人は苗字が変わるのを特に気にするかなと思ったけれど、うちの夫はそんなに気にしていないようだった。『婿入りすると嫁姑のいざこざがすくなくていいでしょ。僕もその方が気楽でいいよ。僕の実家の方にも、また落ち着いたら顔を出しに行こうね。僕は家の三男だし、両親も僕も苗字のことなんて気にしてないよ』

だから、わたしはずっと「白崎さき」のままだ。白崎家の姓に固執しているのは、誰なのだろうか。

噛みきれなかった肉の繊維が、歯の奥に挟まって、キンと耳元で音を立てた。

 座敷横の和室がわたしと夫の寝室だ。中には布団が2組並べられている。持ってきた荷物は壁際に勝手に寄せられている。母がやったのだろう。皺一つない、厚めの布団が揃えられている。夕食と風呂を終えて、わたしと夫は部屋に戻ってきた。

「和室で布団を敷いて寝るなんて、修学旅行を思い出すなあ」夫は呑気に話しながら、布団に潜り込む。夫から懐かしい石鹸の香りがする。わたしと同じ匂いだ。

「毎日修学旅行気分だね」部屋の明かりを消すと、障子から月明かりが溢れていた。今日の月は、綺麗なのだろうか。もう少し隣の布団で眠る夫の横顔を眺めていたいと思ったが、わたしは程よい体の疲れと共に、気付かぬうちに眠りに落ちていた。


 翌日も朝から眩しい光が部屋に差し込んでいた。夫はすでに仕事に出かけた後だった。置いてあった仕事用のカバンとスーツが一式綺麗になくなっていた。今日は見送ることができなかった。座敷で1人、昨日の残り物に卵料理を一品と汁物を合わせた朝食を済ませた。今日も畑に行くつもりだが、その前にわたしは祖父の様子を見に行くことにした。結局昨日はうまく話すことができなかったが、結婚したことや妊娠したことをまた自分の口から祖父に伝えられていない。玄関に入って左にすぐ曲がったところに、祖父の部屋はある。元々足腰が悪いのもあり、入り口近くの部屋がいい、と祖父の希望で玄関横の和室が祖父の部屋になっている。だが本人の認知症の進んだ今はいつ家から出ていくんじゃないかと心配なこともある。だがわたしの心配もよそに、祖父は部屋の中にいた。祖父はベッドに腰掛けて虚空を見つめている。昨日の夕方の姿をそのままベッドの上に持っていったみたいだ。

「おじいちゃん、久しぶり」

「……」

「うちな、妊娠したの」

「……」

「おじいちゃんの孫やで」

「……」何を言っても祖父はなんの言葉も発しない。聞こえているのかどうかも怪しい。わたしと祖父の間で特に会話にならないことは、察しがついていた。昔の、この家を出る前に覚えている元気な頃を上書きするほどに皺と乾燥に覆われた目の前の躯体を見ていると、もうこれ以上何も言う気にはなれなかった。わたしの言いたいことは言えた。伝わっているかどうかは分からないが。

正直にいえば、祖父の周りを取り巻いている乾燥と頭の霞が、お腹の子まで伝染するんじゃないかと思った。あくまでも生理的な防御反応だった。わたしは数分も経たないうちに、祖父の部屋から出ていた。玄関扉のガラス越しから見える外の景色は良い天気だと言うのに、なんだかうす暗く見える廊下を一瞥する。いくつか部屋を挟んで廊下の奥に行くと、母の部屋がある。こちらにはあまり入ったことはない。もっと小さい頃なら宝探し気分で探検することもあるかもしれないが、今は特に興味も湧かない。母のことは年を経れば経るほど謎が増えていくばかりだ。これまでもあまり母と話もしてこなかった。実家に帰ってきた今が1番母と話をしている気がする。

玄関先に残暑の残る日差しが差し込んできた。早く蔵と畑に行こう。湿った土の残るスニーカーを履いて、外へと出た。

 コの字型の母家の周りをぐるっと回って、中庭の方へと出た。母家の方で朝早くから工事している業者に軽く会釈をしつつ、庭の奥の蔵の前に着いた。木製の大きな扉には、簡単な鍵がかけてある。かちり、と小さい音を立てて大きな扉は土煙を上げながら仰々しく開いた。蔵の中に眩しい外の光が入る。濃い影が土の床に張り付いている。蔵の中には電気が通っていないので、奥の方は暗くてよく見えない。なんだか埃っぽい。祖父の部屋とはまた違って、こもった熱と湿った空気が蔵の中に澱んでいる。窓を開けてもいいのだけれど、何年と開けられていないだろうし、錆か黴かで飾られた木の窓枠にはあまり触りたくない。入口の方でわずかに吹き込む風が外から内へと出入りしていく。

まずは蔵の中で畑作業に使えそうなものを探すことにした。蔵の奥の方には、米の貯蔵や農具が置かれているはずだ。母家から持ってきた懐中電灯をつける。ぱっとぬるい光に照らされた先には、蔵の階上へと続く階段があった。わたしは、そこを下から覗き込んだ。階段の先には、木の板と釘で閉ざされた扉があった。そういえば、小さい頃にもよく蔵の中を探検したり遊んだりしていたのを思い出した。この板張りはその時からずっとこうだった。蔵の2階はずっと閉められたままなのだろうか。誰かが蔵の2階に出入りしているなんて、聞いたことがない。何か用事があっても、大体の必要なものは蔵の1階に置いてあることが多い。米や採れた野菜の保管、そして農具を置いておくための場所だ。わざわざ重たいものを2階に運ぶ必要はない。使わなくなったから、閉ざしているだけなのだろう。そう思えばあまり気にならないが、蔵の中でも一等湿り気と陰気さを帯びていて、厳重に、それこそ蔵の入口よりも固く閉ざされた2階への入り口、板張りで封じられた空間は見ているだけでやっぱり不気味だ。何か、重苦しい空気がこの扉の奥には詰まっている気がする。懐中電灯に照らされた木目の模様のせいだろうか。埃っぽい蔵の中の空気のせいだろうか。5本の指先だけで扉に手を触れて、軽く、押してみた。わずかに動かしただけで木々の間や隙間からは埃が溢れ出てくる。板張りと釘の他に、中からも施錠されているのだろうか、扉は重くてそれ以上動かなかった。扉から手を離す。自分の指の跡がうっすらと木目模様に残っていた。開けるのはやめておこう。というか、もう触らないでおこう。母に何か言われたらたまったものじゃない。それに、代々米農家のうちに蔵の中とはいえ、何か値打ちのあるものや見てみて面白いものがあるとは思えない。ただ、使われていないから蔵の2階は閉ざされているだけだ。そう思い、わたしは階段から離れた。懐中電灯の明かりから離れると、その存在はあっけなく影の中に消えてしまった。

ふと、階段を降りた先。階段下の土の床で何かを見つけた。

それは、黒茶色の塊だった。大きさは空豆くらい。死にかけの夏の虫かと思ったが、そうっと手に取って見ると、それは乾燥していて、両端が尖ったアーモンドのような形をしていた。動くことはない。足もついていない。虫ではない、なにかだ。どうしてだろうか。その塊が、無性に美味しそうに見えた。アーモンドも空豆もそんなに好きじゃないのに。ゴクリと喉が鳴る。蔵の床に落ちていた黒い塊をよく見てみれば、それは植物の種のようにも見えた。これを畑で育ててみようか。ふと、そう思いついた。冷たくもましてや温かくもない、自分の手のひらと同じ温度の黒い塊を、

わたしは拳の中で握りしめた。

蔵の外に出ると、既に太陽が頭上で照りつけていた。外はやけに静かだ。騒がしく増築作業をしていた業者は、早めの昼休憩に入ったようだ。少し日差しに照らされただけで、頭がくらくらする。とりあえず、お昼にしようか。畑に行くのは、また夕方近くにしよう。

家の中に入ると、母は収穫した大量の野菜の皮むきをしていた。

「どこ行ってたん」

「蔵の中。なんか畑で使えるものないかな、って探してた」

「いつから」

「朝からやけど」

「そんなもん、脱水なるで!?」

あ、そっか。暑い中窓を閉め切った蔵の中に居すぎたから。水分を取るのを忘れていた。ズボンのポケットに先ほど蔵の中で拾った黒い種を忍ばせる。

「どうりでさっきから頭がふらふらすると思った」

「なにしとるん。はよ水飲み」

「だって早く畑始めたいんやもん」

「そんなこと言って、倒れたらしゃあないやん」母は手に持っていたジャガイモをカゴの中に入れ、昼食の支度を始めた。わたしは冷蔵庫から麦茶と、ついでに麺つゆを取り出した。

昼ごはんは、素麺だった。ガラス製の器に氷と麺つゆが入っている。それと、キュウリ。トマトも多分サラダとして出ていたけど、わたしは適当にかつ的確に赤い脳髄を口にするのを避けた。扇風機の音が心地良い。

午後は、太陽の日差しが落ち着くまで、麦茶を置いて、自室の縁側近くでのんびり過ごすことにした。うつらうつらとした心地よい視界と脳内の中、次第に日は傾いてきて、影を作る。縁側から庭越しに見える蔵も、白の体から藍色の頭にかけて影をかぶっていた。庭の桜の木が薄緑の葉っぱを添えて、静かに揺れている。あ、荷物を片付けるのを忘れていた。横に向けた視界に壁にもたれかかって置きっぱなしの荷物が映った。どれくらいぼうっとしていたのだろう。少し眠ってしまったかもしれない。背後の壁の振り子時計を見る気にはなれなかった。そろそろ夕食の支度を手伝わないといけないかな。わたしはその前に畑へと向かった。日が沈み始めて、地に落ちる影の色が濃くなってきた。鬱蒼とした木々に囲われた、うちの畑。母が作った畑だ。柿の木の下を通る。今日は糞は落ちていなかった。広々とした畑の様子をざっと見る。畑には行儀よく野菜の苗と実が整列している。畑の周りを囲う木々の近く、影がひときわ濃いところは何も植えられていない裸の土肌が開けられていた。畑の隅のその一角にわたしの視線は自然と吸い込まれていた。畑の端に足を向ける。土の様子を見る。ほのかに湿っていて、カエルが1匹いた。ここにしよう。ここに好きな野菜を育てよう。今は影が出ているが、日中は陽も差すだろう。ここで育てるのはオクラと、ナスと、そして、今日蔵の中で見つけた、この黒い種だ。ポケットから種を取り出し、目の前にまで落ちてきた夕日にかざす。喉がごくりとなる。お腹が空いた。その下すぐのお胎は満ちてきているはずなのに、胃の中の空洞がやけにはっきりと存在を主張している。この黒い種は1つしかないので、狭い畑の中でも1番分かりやすい、他の苗に紛れない畑の端の方に植えることにした。

 それから、わたしは自分も体調もみながら、夫を朝早く仕事に見送った後に、暑さがキツくない朝早くか夕方に畑に出ることにした。まずは畑の土の様子を見て、基本の土作りから始めることにした。この一角はしばらく手付かずだったのだろう。土の中の虫たちは元気だが、雑草もそれなりに生えている。畑にしゃがむように腰を下ろして、草むしりをする。土の中に長く細くねちっこく根を張った草木の根っこをずるりと土ごと引っ張り出して、畑の外へと放る。土の中に残った細かい根っこも出来るだけ抜いていく。野菜の生育に邪魔になる細かい石を退けて、土造りを終えたら肥料を土に入れて、野菜を育てる準備をする。蔵で拾った黒い種は何の種か分からない以上、育て方も分からないので、とりあえず他の野菜と一緒に育ててみることにした。畝を作り、種を等間隔に植える。沢山植える広さもないので、野菜の種類も種も少なめにした。最後に黒い種をポケットから取り出し、冷たく湿った土に埋める。黒い種は分かりやすいように畑の1番隅に植えた。

「ついに畑始めたから」わたしは昼食のちくわキュウリを口に入れながら、母と話す。ちくわの間からキュウリの水気が溢れ出して、少し咽せそうになった。

「体は大丈夫なん」

「うん、平気やで。つわりももう落ち着いてるし」

「それもそうやけど、水分もちゃんと取りいな」

「分かっとるよ」白いご飯が、冷えた口の中でやわらかく広がった。

実家で暮らすうちに、少しずつ元の口調、地元の口調、昔使っていた言葉が戻ってきた。

お腹の中の赤ちゃんも順調に育ってきている。安定期になって、次第にお腹も膨らんできた。ぽこん、とお腹を内側から蹴ってくることもある。この前バスに乗って麓の産婦人科に定期検査に行ってきた。赤ちゃんは順調にお腹の中で大きくなっている。心音やお胎の中での身体の向きも問題なし。出産や育児に向けての不安ももちろんあるが、実家にいるためだろうか、まあ大丈夫だろうという気持ちの方がやや大きい。何より今やっている畑仕事がとても楽しい。木々に囲われた畑の一角で始めた家庭菜園も、順調だ。手ずから植えた野菜は母のものにも負けず順調に育ってきた。水やりをして、種から芽が出て、雑草を取って、オクラも実をつけてきた。ここで気を抜いてはいけない。前回と同じ過ちをまた繰り返すわけにはいかない。ここからが大事な時期なのだ。妊娠期間も、野菜作りもだ。自分の好きな野菜を数種類実家の畑で育てて、時々空いた時間に体調を見ながら母の手伝いや片付けをする。それくらいの毎日だけれど、仕事をしていた時よりも何かをしている、育てているという充実感がある。夫も帰りは遅いが、うちの母ともうまくやっている。仕事のため、朝早くに出かけ、夜遅くに帰ってくる。前との生活とは少し変わってしまって、夫と話せる時間は少し減ってしまったが、夫はちゃんと真っ直ぐ家へと帰ってきてくれる。時々夜ご飯も一緒に食べることができる。寝る時はいつも一緒だ。大丈夫。全てが順調だった。

 祖父の介護も、時々していた。寝っぱなし、と思えばふらつく足で何処かに出かけようとする。祖父とうまく会話が出来ない、意思疎通が取れないのは相変わらずだった。

祖父は現在病院に罹ってはいないが、多分内臓疾患がいくつかと、他に認知症もあるに違いない。ここから病院が遠いのもあるが、白崎家の人間は揃って病院嫌いなようだ。お腹の中の赤ちゃんも最初は母がうちで引き上げようと言っていたくらいだ。流石に衛生面や出産後の管理のことを考えて、今回の母の提案は丁重にお断りしておいた。


 色々なことが順調に進んでいる一方で、蔵で拾った謎の黒い種は、育てるのにとても苦労した。土から芽が出るのが他の野菜よりも数週間遅かったので、もしかしたら種ですらなかったのかもしれないと最初は危惧していた。もしかして、他の雑草と一緒に黒い種の芽も抜いてしまったのかもしれないと心配していたが、他の種に遅れてしばらくしてなんとか芽が出た。と思ったのも束の間で、天に背いて伸びていく双葉はとても細くて弱々しい。水をしっかり与えているのに、もしかして水をあげすぎてはいけない種類のものなのだろうか。なんとか苗の大きさまで育ってはきたが、茎は相変わらず細く、側についている葉もなんだか弱々しい。目を離すとすぐに葉は色を錆びさせて病気になりそうになったり、実をつける気配すらない。しかし黒い種から生えた枝葉はろくな芳香も花粉も飛ばしていないというのに、妙に虫が寄ってくる。不思議な植物だ。

黒い種から育ったこの苗は、他の野菜を育てるのに犠牲になってくれているのだろうか。はたまた、育ちたくないのか。それとも素人知識満載の私の手腕のせいか、肥料や土が合わないのか。

またしばらく経つと、他の野菜は収穫時期になり、それぞれの実はお店に並んでいるものにも引けを取らない、大きさも形もとてもいい感じに育った。みずみずしてくて、美味しそうだ。程よい大きさの実になったオクラの収穫も今度こそ、忘れずに行う。パチン、とハサミで実の上の茎を切り、手の中に収める。今度こそ、美味しく食べてあげよう。他の野菜の種は母から譲ってもらったりお店で買ったものだったが、このオクラの種だけは、前のアパートから持ってきたものだった。

他の野菜の収穫が落ち着いてきた頃、畑の1番隅に植えた黒い種から育てていた茎が、突然太くなってきた気がした。他の野菜が育ちきったから、土の中の栄養分をとれるようになってきたのだろうか。薄い葉の下には、焦茶色の小さな実ができていた。よかった。ちょっと形は歪だが、実のなる植物だったようだ。このまま大きくなると、どうなるのだろうか。わくわくしながら、実を撫でる。すこしぬるりとした気がする。手を見つめる。何もついていない。手が太陽に照らされている。手の指先に影がかかる。空に濃い雲が出てきた。もうすぐ雨になりそうだ。収穫した野菜たちを抱えて、わたしは慌てて家へと戻った。

雨音が響く母家の中で、わたしと母は2人で食卓を囲み、採れたての野菜料理を食べていた。今日も夫は帰りが遅くなるらしい。さっき電話で連絡があった。遠い電話口で聞こえた夫の申し訳なさそうな声が耳に残っている。寂しいが仕方がない。いずれ帰ってくるのだ。今日は早めに寝て、明日早起きして、夫の寝顔だけでも見よう。

「そういえばこの前あんたが言ってた熊な、死んでたらしいわ」

「そうなんだ」よかった。明日夫にも教えてあげよう。

「村の人から聞いたの?だけど『死んでた』って……? 警察とか猟友会の人が殺したんじゃないの?」

「聞いただけやから詳しいことはよう知らんけどな、森の中で柿咥えて死んでたらしいわ。誰かが毒でも入れたんかな」

「母さん、そんなことしたの」

「あほ、そんなこと熊にするわけないやろ」

「ふーん、不思議だね」熊の死体に思いを馳せる。その最後の姿を頭の中に思い浮かべたのはほんの、一瞬だけ。すぐに忘れてしまった。オクラの鰹節和えを口に流し込む。シャクシャクとした歯ごたえが美味しくて、オクラの産毛がくすぐったく喉を擦る。

 布団の中は暑い。夜になって少し涼しくなったかなと思って夏布団を肩かぶるとすぐに汗をかいてしまう。気持ち悪くて、寝苦しい。おかげで変な時間に目が覚めてしまった。壁の振り子時計の文字盤は見えない。だが、外は静かだ。雨も止んだようだ。天井の木目模様がぼんやりと見え、照明の白い輪郭だけが不思議とはっきり見える。一人ぼっちの布団の中。横に顔を向ける。空っぽの布団が1組、自分の横に綺麗にひかれている。夫はまだ帰ってきていないようだ。眠れない。風の音がして、意識を音に向けてしまうと、廊下に面した襖を絶え間なく揺らす音に気がついた。あぁ、もう眠れる気がしない。ガタガタと襖が不規則に揺れる音が耳につく。いるはずもない、誰かが。小さい少女が襖を向こうで揺らしている幻覚が頭をよぎって、離れない。

襖を何かで押さえようか。そう眠い頭で思った時、その時には襖の鳴る音は止んでいた。ようやく眠れそうだ。そう思った時、バン、と襖が一際大きく揺れた。

今度こそしっかり目が覚めてしまった。身を固めて、布団を頭までかぶる。胸がドキドキする。ゆっくりと、襖が開いた。

「あぁ、ごめん。起こしちゃったね。静かに開けようと思ったんだけれど」仕事帰りの夫が申し訳なさそうな顔で、疲れた顔で襖の向こうに立っていた。

「い、いいよ。大丈夫。ちょっと寝苦しくて起きてたところだから」

「そうだったんだね。……今日も遅くなっちゃって、ごめんね」

「ううん。ちょっと、……トイレ行ってくる」

トイレから戻ると、夫は布団に入っていた。先ほどの衝撃がまだ頭と胸の中に残っているが、横で眠る夫の顔を見つめる。疲れた顔で寝ている。暗い中でも夫の顔はよく見えた。目元にクマができている。慣れない生活の中で長くなった通勤時間。疲れていて当然だ。夫は全てに納得してくれた。この生活は全て、母の提案だったのだから。

目を閉じる。眠りに落ちるにはもう少し時間がかかりそうだ。再び静寂が訪れた暗い部屋の中で、また余計な思考がぐるぐると回り始めた。枕元で、誰かの低い、高い声が入り混じった声がする。頭上から、耳元で、脳の近くで話しかけている、独り言だろうか、わたし宛だろうか。

「食べなければ」

「食べなくちゃ」

「野菜も、お肉もバランスよく」

「魚も忘れずにね」

「水分もちゃんと飲むんだよ」

わたしの声だろうか、口うるさい母だろうか。

「食べなければ」

枕元から聞こえてくるその声は、脅迫、強迫観念のように感じられた。わたしのためを思って忠告しているのかもしれない。だけど、そうは思えなかった。押し付けるようにどんどん強くなる声に負けて、呼吸までどんどん苦しくなってきた。お腹が押さえつけられているみたいだ。

胸が苦しい。お腹が痛い。喉が渇いた。

残暑の残る日差しに照らされた、黒い木々に囲われた畑。あの種が、苗になっていっとう立派に育っている。黒い種から生えた植物は、焦茶色の実をつけた。よかった。遅咲きだったんだな

葉の下に成った実を手にとって見てみる。実と目が合った。白い眼球と、その上に乗っかった黒の虹彩と瞳孔が透明の角膜に覆われている。実に、丸い目がある。目があった。

他の枝葉を見る。こっちには手が、指が不揃いで成っている。こっちには、足の爪が実の割れ目から顔を出している。

人の体の一部だ。そう気づくと、実になった人体の一部はうにうにと動き始めた。

わたし、わたしが生まれた。そう、これはわたしだ。

なんでわたしはこんなものを、訳の分からないものを、正体の分からないものを植えてしまったのだろう。

蔵の中に、閉ざされた空間の、階段の下に黒い種が落ちていたからだ。階段下の黒い塊、空豆大のアーモンド型の黒い種。そこから、この地の栄養を吸って、黒い種は人間の一部になった。人体の一部を実らせた。あの種には、いったい何が入っていたのだろうか。

そんなことを言っている場合じゃない、こんなもの、他の人には見せられない。食べてしまわなければいけない。食べてしまえば、そうすれば全ておさまる。誰にも知られずに片付けるには、実ごと食べてしまうのが1番だ。そう決めて茎の1番上に成った実に手を伸ばす。人間の頭部くらいの大きさの、焦茶色の実。手が届く直前、実全体が大きく動いた。茎につながる根本からぶるぶると震えて、実の方からこちらにかぶりついてきた。実に生えた大きな口と歯に、胸とお腹からかぶりつかれた。

「うわっ」

 目覚めると、薄い布団がお腹にだけかかっていた。飛び起きた体は汗だくで、じっとりと肌着のシャツが全身に張り付いていた。おでこを拭う。なんて夢だ。妊娠とここ連日の暑さのストレスで、あんな夢を見たんだな。布団のかかったお腹がやや重い。横を見る。障子の外はもうすっかり夜が明けたようで、空になった夫の布団を照らしていた。夫はもう出かけたようだ。壁の振り子時計を見る。悪夢のせいか、疲れのせいか、いつもより起きるのが遅くなってしまった。障子を開けると、窓を雫が伝っている。外はまた雨が降っていた。今日は家でゆっくりしよう。

座敷の方へ行き、簡単な朝食を済ませた後、本棚の前に座り、本を読む。家庭菜園の本と並行して、座敷の隅にある本棚には妊娠中の過ごし方や育児関係の本が増えてきた。読み終えた本を本棚に戻しながら、お腹の子のことを思う。今でも想像できない。わたしが母親になるなんて。でも、彼の、夫の笑顔を思いだすと、それも良いかと思える日が増えてきた。でも、同時に胸が苦しくなる。どこに気持ちを向けても、完全に楽にはならない。言葉にできない不快感と不安感が胸中から綺麗に引き剥がすことはできない。それこそ全て忘れてしまわない限りは。

台所の窓を雨風が叩く。静かな時間が余計なことを考えさせる。早く畑に行きたいものだ。

 翌日は、なんとか晴れた。うっすら灰色の薄い雲が残っているが、空には太陽が顔を出している。雨樋から雨粒が垂れている。畑に出ると、案の定少し地面が湿っていた。そのためいつもより心持ち涼しい。いくつか野菜を収穫して、畑の端に向かう。

わたしは、トマトのほかに、野菜サラダも苦手だった。トマトよりは子供の頃より食べられるようにはなってきたが、野菜の味というよりも、虫と同じものを食べている感覚が苦手だった。にんじんとコーンは甘くて好きで、好物のオクラもそれなりに味がする。しかし、他の葉物は味がほとんどしない。蝉が耳元で羽を震わせる。蝉の声が耳にへばりつく。それでも、自分で育てた野菜はどれも美味しくて、野菜を食べる頻度も量も前よりぐっと増えた。実家に帰ってきてから、野菜も美味しいものだと気づくことができた。生まれてくる子供たちにも、わたしが作ったこの野菜たちをいっぱい食べてほしいものだ。

黒い種の実も、大きく育ってきている。もう他の苗や木々では隠せないほどに。枝葉の下に大きな実がなっている。手にとって実の様子を観察する。この前まで指先ほどの小さな実だったのに、今は両手で包み込めるほどの大きさがある。実はだいぶ大きくなった。少しざらついた実の表面を撫でる。もちろん、もう目は合わない。

これまで見たことのない、歪な形をした焦茶色の実の正体は結局分からずじまいだった。もうすぐ食べごろだろうとは思うのだが、美味しいのだろうか。そもそも、これは食べられるのだろうか。夢の内容を思い出す。目の前にあるこの実は、夢の果実とは別物のはずだ。動くわけがない。少し成長が他の野菜より遅咲きなだけだ。

けれど、脳裏から夢の内容がどうしても消えない。消そうと思うと逆に頭にこびりついて離れない。実を採ったら、と。いっそのこと、苗から……抜いてしまおうか。実には手を伸ばさず、ただそんなことを頭の中で考えた。ぼうっと畑の中で考え事をしていると、ぶーん、と目の前に虫が現れた。縞々の躯体と長い足が耳元で震える大きな羽音と同時に見えた。あれは、スズメバチだ。

「うわっ」驚きの衝撃とは反対に、ゆっくりと慎重に身を後退させる。スズメバチは黒い種の茎の上に静かに止まった。チラチラと前足を動かしている。しばらくはそこから動いてくれそうにない。焦茶色の実は、抜くに抜けなくなってしまった。

急に動いたからか、お胎の中が大きく揺れる。息が苦しい。

 数ヶ月前の主治医の声がする。

『ご懐妊おめでとうございます。双子の赤ちゃんですよ』

ブーン、と虫の羽音が突如耳元で鳴った。うわっと身を素早く動かすこともできず、身を固くする。

音がしない。むずかゆい。服の上に虫がいる。お腹の方に張り付いた虫の脚がモゾモゾと動いている。残暑の日差しを反射して、その躯体は黒々と光っている。もう1匹、首の後ろにもいるらしい。耳元で時折、羽ばたく音がする。正面の虫はわたしの膨らんできたお腹を乗り越えてきて、わたしの視線の先までやってきた。躯体の模様がはっきりと見える。よく見れば美しくも思えるかもしれない。虫はじっとしている。わたしもじっと見つめ返す。虫の目が黒く、きらりと光った。

あ、目が合ったな。と思ったのも束の間、虫はわたしの顔面に向かって一直線に飛んできた。

「うわっ」今度こそ体を大きく捻ってしまった。それでもお腹を守るように、とっさに首だけを大きく動かした。少し痛めたかもしれない。虫はどこかに飛び消えてしまった。羽音もしない。風が大きく吹いて、畑の周りの木々が揺れる。今日はもういいか。野菜の収穫と焦茶色の実の確認を終えて、予定外の負傷を負いつつ、わたしは家へと戻った。

 瞼が重い。出産を間際に控えると、どうもメンタルが落ちていていけない。それに首の痛みが重なると、どうしようもなく気持ちは下へ下へと落ちてしまう。

仕事のために早く家を出る夫とは、以前よりも離す時間が減ってしまった。それに比例して、お腹の重さに引っ張られるように胸の奥の心がどんどん重さを増していく。最近は夫の帰りの遅くなる日が増えた。寂しさが募る。夫は「職場から離れてるから仕方ないだろ。新しい取引先も増えてさ、また忙しくなったんだよ」と言って、笑っている。どうして、彼は笑っていられるのだろう。私はこんなに不安なのに。どうして、わたしは夫の笑顔を見て、嬉しく感じられなくなったのだろうか。どうして、この心はどんどん重くなっていくのだろうか。

 仕事を休職しているにもかかわらず、いまだに職場の風景が夢にへばりついている。夏の寝苦しさが嫌悪感を増幅させる。同僚や先輩の顔が浮かんでは消えを繰り返していた。

出産の予定日が近づくほどに、悪夢のような、寝苦しい夜を過ごすことが増えた。

同期の1人が、入社して数ヶ月で辞めて、早々に会社を去った。挨拶も何もなく、ある月の初め、菓子箱が共通スペースにぽん、とメッセージカードと一緒に置かれていた。

『短い間でしたが今までお世話になりました』

「……サトウさんが、サツマイモクッキーになっちゃった」

ぽつり、と1人休憩室でつぶやいた。キャラクターがプリントされた袋に入った、こじんまりとしたお菓子を、1つ手に取る。とても小さい。甘いものは好きじゃないのに。食べたいわけじゃないのに、どうして小さいなんて、もう少しもらってもいいかな、1つじゃ足りないなんて思うのだろう。

お菓子の袋を1つだけ、鞄の中に入れる。帰り道、電車の中でお腹が空いた。ふと、鞄の中のお菓子と目が合う。でも食べられなかった。もう顔も思い出せなくなってきたのに、どうしても食べられないのだ。だってこのお菓子は、サトウさんなんだもん。

だというのに、しばらくして上司から「サトウさんは退職しました」と聞くと、あんなに固執していたのが嘘みたいに、鞄の中に残っていたお菓子を食べることができた。胡麻の風味が最高で、すごく美味しかった。あっという間に袋の中のお菓子はなくなってしまった。もう何も思うことはない。サトウさんは、もういないのだから。お菓子のゴミを、ティッシュと一緒に捨てる。しばらくして、仕事の忙しさの中でサトウさんのことはすっかり忘れてしまった。たまに、何かのきっかけで「そういえばそんな人もいたなあ」と、クッキーの甘い味を思い出す。

職場から1人2人いなくなっても何も変わらない。問題はない。サトウさんの時もそうだ。最初は人手が減ったなあと思ったけれど、結局はそれだけだ。仕事は回る。回るようになった。慣れてしまうのだ。わたしも、周りの皆も、あの人がいなくなって、当然だと言うように、仕事が増えて、やることが増えて、大変だなと思うだけ。

 布団の中で、目を開ける。また眠れなくなってしまった。思い出と共に心地よい眠気に落ちかけていたはずなのに、一度覚醒してしまうと、べっとりとした不快感だけが身体を覆っていた。

エアコンをつけよう。夫はエアコンの風が嫌いだけれど、今夜は出張で隣にはいない。だから、いっか。

エアコンをつけると、すうっと涼しい風が部屋の中に吹く。熱帯夜で噴き出ていた汗も次第に引いていく。ようやく眠れそうだ。それにしても今度はなんだか少し息苦しい。だいぶ膨らんできたお腹のせいだ。でも、仰向けで寝ざるを得ない。少し喉も乾いてきた。見上げた薄暗闇の視界の中で、家具の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。

 翌日、目が覚めるといつもよりも一際体が重かった。頭上でぶーんと風の音がする。しまった、エアコンをつけたままで寝てしまった。対して身体の遠くにタオルケットが丸まっている。昨日寝る前に布団もタオルケットも暑さで蹴飛ばしたままだった。喉が痛い。水を飲みに起き上がるも、体は怠さでいつもより数倍時間がかかってしまった。

「あんた、そんなもん夏バテと脱水や。あかんで、お腹の赤ちゃんのこと1番なんやから。この暑いのに頻繁に外出て、どうせまた水分取らんかったんやろ。あかんで、ちゃんと水分取らんとって言ったやろ。今からご飯作るから、大人しく寝とき。あと、これ置いとくから、全部飲むんやで」

母は麦茶の入った薄ピンク色の冷水筒をコップと一緒に枕元に置いていった。襖の向こうからいい匂いがしてくる。母は何を作っているのだろうか。

そういえば、うちの畑の端には、韮が植わっていた。収穫のついでにこれも採ろうかなと思ったけが、使い道が特に思いつかなかったのでやめておいた。炒り卵とか、小麦粉と混ぜて焼き物にしてもいいのかな、と後で気づいたのだけれど、結局のところ、食べなくてよかった。

あれは韮ではなく、水仙の花だったのだから。今は畑の隅でその白い花を咲かせている。

水仙の花言葉は純粋無垢。なるほど、よく似合う。


母が作ってくれた食事を口に運ぶ。冷水筒の中身は3分の1ほど減っていた。

母の作る料理はどれも美味しい。一人暮らしを経験して、実家に戻ってきて強く実感した。美味しさで、目尻が少し緩む。白い皿に乗って、食後のデザートまで出てきた。爪楊枝で肌色の実を刺して、口元に入れた。桃のような、ぷにっと柔らかい食感が口元に広がる。でも、桃の甘さとも違う、少し苦味を含んだほのかな甘味が舌の上に乗っかっていた。

「お母さん、これなんていう果物? 初めて食べる味やわ」

「畑に大きな実がなっとったんよ。ぎっしり重かったから、水分補給にもなるし」

母はそう言いながら麦茶を呷る。人にはそう言っておいて、自分はお茶で水分補給をするのか。

「にしてもあれ、なんて実なん? 畑になってるの初めて見たわ。一株だけやったみたいやし」

口の中に入ったものは、飲み込む。反射的な嚥下によって、ゴクリ、と母が収穫してきた謎の果実はわたしの体の中へと入っていった。

「まあ、虫もようくっついてたし、食べ頃で美味しいやろ。にしても焦茶色の皮は剥きにくかったなあ」

わたしは、母親になれる気がしない。ただ膨らんでいくお腹に恐怖すら覚えた。わたし以外の人間がここにいて、もうすぐ膜を破って出てくるのだと思うと。

わたしは、もうすぐ母親になってしまう。ポコン、と内側の人間が私のお胎を蹴る。お胎の張りが、以前より幾分減ったように思える。まさか、1人減ったわけでもないだろうに。

土から根強く生えた茎と実を見て、植えなければよかった、育てなければよかったと思った。雑草取りの時に一緒に抜いてしまえればよかったのにと思った。

あの時、ああしていれば。あの時、あんなことをしなければ。

でも、もう手遅れだ。


先生も『こんなことは初めてです』と驚いた顔で、画面に映る検査結果を見つめていた。

エコーを撮っても心電図を見ても、双子の胎児のうち、もう1人がどこにもいない。

原因不明だった。胎児のうち1人だけ、それもわたしが気づかないうちに消えてしまう、もしくは流産してしまうことなんて、あるのだろうか。結果として、生まれたのは双子の片割れだけだった。

「2人が1人になっちゃったね」

お腹が強く張って、周期的な痛みがやってくる。張り詰めたぬるい水が溢れて、あぁ、やっぱり水分はしっかりとっておけばよかったなとふらつく頭で思った。けれど、思ったより呆気なく、あなたは生まれた。叫ぶような大きな産声を上げて、その姿を見て、涙が出てきた。

頬に流れるこの滴は、感激でもない。悲しさからでもない。ただただ、生理的なものだ。

あなた、るうはよく食べる子だった。私の乳にこれでもかとしゃぶりつくし、歯が生えてくるのも他の子より早かった。離乳食も好き嫌いせず、本当になんでも食べた。

同時期に、夫は、遠方での仕事が増えた。るうが生まれた時も付き添いに来ることはできなかった。るうが生まれてから、白崎家はわたしと母と祖父の3人暮らしになった。

息が詰まる。もう肺を圧迫するものはお腹にも他のどこにもないはずなのに。

目を閉じる。少しでも楽になればいいのに、ただ呼吸をするだけでもつらく、口の中が苦く感じる。自分以外の呼吸に意識が向く。るう、お前だ。


夫が浮気をしていたと知ったのは、もう少し後のことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る