1章 るう

 どさり、という物音で目が覚めた。視界の先にある雪見障子には飾りっ気のない白い紙がぴんと張られている。そこからうっすらと差し込む朝日は畳の上の埃を照らして、九十度横の世界を映し出していた。枕から頭を上げると、涎が頬にこびりついていた。白と黒の混じった長い髪がカーテンのように眼前に広がり、揺れている。手櫛で髪を耳元にかける。身体と布団に残る熱が、寝起きの頭をぼうっとさせて、体の動きが緩慢になる。今ほどまで見ていた夢のせいか、お腹が空いた。

唐突に、カレーが食べたいと思った。脳裏にぽんと浮かんだのは、以前に食べた祖母の夏野菜カレーだった。楕円形で、陶器製の白い器によそわれたカレー。とろみのついた茶色いルウの中には祖母が畑で育てている採れたての新鮮な夏野菜がひと口サイズに切られて入っている。大きめの具材がルウに肩まで浸かって、器の側には鈍色のスプーンが添えられている。ぐう、と布団の中でお腹が鳴る。目の前に夢想していた祖母の夏野菜カレーは、ぽふんと煙のように跡形もなく消えた。とりあえず、この空腹をなんとかするためにも、まずは起きなければいけない。寝起きの重たい体を起こして布団から這い出ると、朝日を浴びるために薄い陽の光が差し込む障子の方へと足を向けた。

障子を開けると、屋根からどさり、と雪塊がこぼれ落ちてパウダースノーが辺りに散った。

視界の先には、一面の雪景色が広がっていた。まだ日の登りきらない、夜の色の残った空気の中、白い景色がわずかな光を反射して浮かび上がっていた。コの字型の家屋に囲まれた中庭は、一面雪で覆われている。背の低い雑草と苔むした庭石が転がる庭はすっかり雪で隠されてしまっていた。わずかに見える庭石の脳天を見る限り、昨日の夜で数十センチは積もったようだ。縁側から庭の風景をざっと眺めていると、左手に一本の桜の木が見える。木の背丈は母家の屋根の高さを越えていて、随分前から植わっているのだろう、その幹の太さから短くない樹齢が窺える。私の曽祖父が植えたのだとか、幼い頃に聞いたことがある。何のために植えたのかまでは知らないが。春には満開の桜が咲き誇る、見事な木だ。その太い幹には皺と幾つかの傷が入っている。重ねてきた年月とその歴史を感じさせる。今は真冬のため、幹から伸びた細い枝が丸裸になっている。雪は枝に降り積もり、その上に容赦無く乗っかかっている。一見すると桜の木は白い花をつけているようにも見えるが、実際は鼻水のように氷を枝の下にじっとりと垂らしており、寒々としている。限界まで積もった雪が、桜の枝から落ちた。それでも枝は折れることなくピンと雪開けの空に伸びている。縁側に立って庭の雪景色を眺めていると、ほんのり温まっていた部屋の中の空気がするすると障子の間から外へと出ていってしまう。パジャマの裾を手元に引っ張って、両手で腕を擦る。冬用の毛の長いモコモコのパジャマを着ているが、足元は素足のため、縁側の木板の冷たさがじわじわと体の芯へとのぼってきている。

 この家は雪深い山奥にある。そして、この家にはすぐに出せる車も運転手もない。現状空腹ではある中、食糧を求めて直売所まで行くとしたら、ひとまず歩くしかない。雪景色を眺め、途方に暮れる。山奥にある一軒家だから冬の日は覚悟していたが、ここまでとは。この有様では、うちの畑どころか、山を降りた先にある直売所に行けるかも怪しい。まあ、無理だろう。この家から山の麓にあるスーパーまでは車でも片道30分、雪道だとさらに何時間かかることになるか。どさり、と玄関の方向から屋根の雪が落ちる音がする、この静けさだと、家を出て少し歩いて下りたところ、舗装された道路を除雪車が走れているかも怪しい。だが、食糧に関してしばらく問題はないだろう。視線を庭の奥へと向かわせる。桜木の横側、母家から50メートルも離れていないところに蔵がある。ここに、今日のような大雪の日のために事前に買い込んでおいた米などの食料品や消耗品、備蓄品がこの一冬を越せるくらいの量が保管されている。

母家から少し離れた所、庭の奥に我が家の蔵は鎮座している。藍色の瓦屋根と白の漆喰で型取られた純和風の相貌は、高さが3階建てほどあり、横に立つ桜の木と背比べをしている。蔵の屋根の傾斜は急で、その上に雪はほとんど積もっていない。そのため濃い藍色の屋根が一面白色の景色にぽかっと浮いていて、その背の高さも相まって雪の中でも存在感を示している。そして、蔵の入り口の木戸はその三分の一が雪に埋もれていた。無論、蔵までの道が雪で覆われることは想定済みなので、雪が降る前に家の中にそれなりに備蓄品を保管してある。だから、今は用事はない。今すぐ雪に埋もれたあの蔵に行く必要はない。米や野菜、買い置きの保存食を取りに行くのは、また後にすればかまわない。膝の高さほどまで降り積もった雪かきの現実を忘れようと、私は雪見障子を閉めた。

雪に覆われた静寂の中。庭と外の様子見を終えて、冷えてきた自室の中でモコモコの寝巻きから着替え始めようとした時、ガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。

「おはよう、るう。ひどい顔やね。今起きたん?」

 縁側に面する雪見障子とは反対側の、廊下に面した襖を開け、スリッパを履いて玄関へと向かうと、学校の友人が大きなスコップ片手に土間に立っていた。その背中には両手を空けれるように、スクールバッグではなく冬用のリュックサックを担いでいる。道中雪かきをしながらここまできたようだ。厚めの黒のコートと長靴には雪がちらついていた。

「外見た? まだ少し暗いからよう見えんかもしれんけどだいぶ積もったで、雪。ここに来るまでにかなり雪かきしたわ」友人の茶色がかった短髪が汗で若干顔に張り付いている。外の冷気の中で吐く白い息よりも、友人の体から上る熱気で白い湯気が見えそうだ。

「夢見が悪くって。いつもより起きるの遅くなったの。庭から見たよ。外の様子は」

「あんま長いことパジャマ姿で外見てたらあかんで、風邪ひいてまうよ。にしても珍しいね、るうが寝坊なんて。どんな夢見てたん?」

「えっとね……」

話し始めようとして、夢の内容を忘れてしまった。咄嗟に思い出そうにも、記憶の中に手を伸ばそうとすればするほど、自分が何を見ていたのか分からなくなった。駄目だ、どうしても思い出せない。頭の中はかすみがかったように真っ白になった。友人は腕時計を確認して、慌てることなく笑顔を向けた。

「とりあえず、夢の話はまた後にしよか。いつもと違って今日は雪道やからな。時間かかるで。さ、るう。早く着替えて学校行こう」

友人は手に持っていたスコップを玄関の脇に置くと、慣れた足取りで家の中に上がる。リュックサックを担いだまま、洗面台の鏡の前の椅子に私を座らせて、水道の蛇口を捻る。蛇口から勢いよく出てくる冷たい水を、そっと指先で受け、そのまま顔で受け止める。一気に目が覚めた。

「よかった、ここも水道管は凍ってないみたいやね」そう言いながら友人はタオルを手渡してくる。いつものように友人は私の身だしなみを手伝ってくれる。使いたてのポワポワしたタオルで顔を拭くと、振り切ったはずの眠気が少し戻ってくる。濡れた白い髪が頬に張り付いた。

「さて、次は髪やね。いつも通り一つ結びでいいですか?」

友人は朱色の櫛を手に持ち、私の髪に指と櫛を交互にとおしていく。友人の手の中で、腰ほどまでの長さがある私の髪は、ゆらゆらと心地良さそうに揺れている。硬い櫛先と友人のやわらかな手で、少し寝癖のついた髪が引っ張られて真っ直ぐに整えられる感触に、私は目を細めた。

「るうの髪、ぱっと見は白一色やけど、内側半分は綺麗な黒髪やね。地毛でハーフカラーなんて、珍しいなあ」

「お腹の中でね、お姉ちゃんの髪の色をもらったの」私は目を閉じたまま答えた。

「私は白髪で、お姉ちゃんが黒髪だったの……だけど、お姉ちゃんは生まれる前にお腹の中で死んじゃった」目を開ける。

「だから私は髪の色だけ、お腹の中から出る前にお姉ちゃんのをもらったの。お姉ちゃんがいた証として、ね」

「なるほど、そやから内側だけこんなふうに黒髪なんやね」友人は私の髪を内側から撫でる。首元が少しくすぐったい。

「るうの髪、うち好きやわ」友人は洗面台横に置かれた髪ゴムを1つ手に取り、自分の指にかける。反対の手で私の髪をひとまとめにして手に持ち、ゴムで髪をひとくくりにする。

「……るうは、お腹の中のこと覚えてるん?」

「お母さんから小さい時に聞いただけだよ。『貴女は双子だったのよ、お胎のなかまではね』って。お腹の中のことを覚えてるわけないでしょ」

「そうなんか」

友人はひとまとめになった私の髪の毛先をひと撫でし、名残惜しそうに手を離した。髪を結ぶのは自分でもできるけれど、他人にやってもらうと頭がすうっとして気持ちがいい。友人以外にやってもらったことはないけれど。

「いつもありがとうね」

「不便な山の上に一人暮らしする友達手伝うくらいわけないわ。るうの家はうちの通学路の横にあるんやし、うちが好きでやってるんやから、なんも気にせんでええんやで」

「ありがとう……ところで、標準語はもういいの?」

「もう、言わんといてや! せっかくお店の人っぽく喋ってたのに。あかんなあ、慣れんからすぐ戻ってまうわ」

友人はそう言うと口元に手を当てて笑う。友人は再び腕時計に目をやった。

「あかん、こんないつもみたいにのんびり喋ってたらほんとに時間なくなるで。家の前の雪かきももう少しせなあかんし」手元の櫛とタオルを片付けて、友人は慌ただしく玄関の方へと走る。

「うちは玄関先の雪かいとくから、るうは早く家の中で着替えてな!」

友人に急かされ、私は慌てて洗面台前の椅子を片付け、制服へ着替えるために部屋へと戻った。

自室の襖は友人が来た時から開けっぱなしだったので、起きた時寝室に残っていた温度も、とっくにいなくなってしまっていた。まだわずかに温もりの残る布団の中に戻りたい誘惑を振り切って、クローゼット横の壁側にかけられた自分の制服を手に取った。黒のハンガーにかけられた、紺のセーラー服。胸元には高校の校章が刺繍されている。モコモコのパジャマの上を脱いで、下着のシャツの上からセーラー服の上着を羽織る。ひんやりとした感触がシャツの隙間から突き刺さってくる。次にモコモコのパジャマのズボンを脱いで、厚めの黒のタイツを履き、スパッツを履く。プリーツスカートに足を通す。ここまでで数分。もたもたすると本当に身体が冷え切ってしまうし、何より友人を玄関で待たせている。胸元にスカーフリボンを巻いて、姿見の鏡の前で一度身だしなみを確認する。うん、大丈夫。クローゼットから一番厚めのコートを引っ張り出して、最後に羽織る。机に置かれたスクールバッグを掴んで、廊下へと出る。小走りで玄関へと向かうと、体はすぐ汗ばむほどにあたたかくなった。黒の長靴に足を突っ込んで、玄関扉を引き開ける。玄関を出て雪の積もっていない濡れた石畳に一歩出ると、足元から急に冷えが襲いかかってきた。冷気が足の裏側やスカートの中から身体の中へと侵入してくる。

玄関を出ると、先ほど縁側で見たよりも外の景色は少し明るくなっていた。辺り一面を白で覆い尽くす雪は私の膝の上あたりまで積もっていた。しかし、今自分がいる玄関前から下の道に降りるまでには、人1人が通れるほどの一本道が出来ていた。玄関前の景色に息を止めていると、友人が道の向こうから顔を覗かせた。

「お待たせ、タイミングばっちりやね。こっちもちょうど向こうの道までなんとか終わったとこ。着替え、早かったね。うちが手伝わんでも大丈夫やった?」片方だけの眉と口角を器用に上げて、友人は少し悪戯っぽく笑う。

「うん。大丈夫だよ。着替えはなんとか1人で出来た」私は玄関の鍵を忘れずに閉め、友人へと向き直る。

「鞄、傘、制服もおっけー。よし、忘れ物も無さそうやね」親が子供に向けるような無邪気な、親愛と慈愛を込めたやわらかな眼差しと笑顔で、友人は私の手を取る。

「さ、行こっか、るう」

私は片手にスクールバッグと傘、もう片方に友人の手を握り、雪道を歩き始めた。空には濃い灰色の雲が風に乗って動き始めていた。家の前には石畳があり、もう少し進むと木の根っこや短い雑草が足元に見える、舗装されていない土の道になっている。土に茶色く染められた雪が道の左右に積み上がっている。短い時間ではあるものの、友人は綺麗に除雪してくれていた。友人の作ってくれた道を2人で進む。

数十メートル歩くと、舗装された道に降りるための階段がある。我が家は道路から歩いて少し高台に造られているため、学校に行くため、下の道路に出るためにはこの石造りの階段を降りる以外は草木の生えた坂を下っていくしか方法はない。

「滑らんように気いつけてな」

濡れた階段を、友人の手を取って降りていく。長靴のゴム底がきゅいきゅいと鳴る音が2人分。傘が足元や鞄に揺れてぶつかる音も2人分だけ。階段を一段一段降りるたびに、友人の結んでくれた髪が頭の後ろで揺れる。私の視界で、数歩前を先導して歩く友人の短髪もわずかに、上下するようにぴょこぴょこと揺れる。ほのかに汗の匂いがする。雪の冷たい、すっとした匂いに混じって友人の香りがした。

「るう、ちゃんと足元見てな。凍ってるところもあるから危ないで」

私は慌てて感覚を足下に集中させる。しかし腕の方にも気をつけないと、バランスを崩すと友人もろとも雪の中に倒れ込んでしまう。……それもいいかもしれない、と一瞬思ったが、すぐに歩くことに集中しなおした。ペンギンのように歩幅を小さく、足をしっかり地面につけて歩き続ける。

階段を降りきるまで数分ほどだが、私は転ばないように、鞄や傘を腕から落とさないようにと神経を尖らせていた。舗装された車道に着くと、2人で大きく白い息を吐いた。

一車線分だけ除雪されてなんとか道ができていた車道の周りには雪で白んだ木々が鬱蒼と茂っており、崖側、山の斜面側に設置されているガートレールは完全に雪に埋もれていて、道と崖の区別がつかなくなっていた。除雪車は何とか1回通っているようで、小さな車なら何とかすれ違える程度の幅が開けられている。

車道の端の方を、すれすれのところを2人で歩く。1日を通してこの辺りに車は滅多に通らないので大丈夫だろうとは思うが、前もしくは後ろから車が来たらどうしようかと思う。木々の間を通り抜ける風の音がエンジン音に聞こえて、身を固くする。前を歩く友人が急に振り向いた。白い息を吐きながら真っ赤な顔で、はち切れんばかりの笑顔で話し始める。

「ひえー。寒いなあ」友人と2人で繋いでいる手、その反対の空いている手を友人は自分の口元に近づける。はあと白い息が友人の口から溢れる。

「バス停まであともう少しやけど、ほんま昨日の夜だけでだいぶ積もったなあ」

「そうだね、30センチくらいはあるかな」

「昨日の夜中、雷うるさかったもんなあ」友人の黒く丸い瞳は周りの景色を確かめるために、いつもきょろきょろと忙しそうに動いている。

「ほんで明け方静かになったと思ったらこれやもんね。まあ、こんな地域に住む者の定めやけど、動くにはちょっと厄介やね。綺麗やとも思うんやけどね。雪合戦とか、昔したなあ」

友人と他愛ない話をしているうちに、バス停が見えてきた。錆びついた支柱は半分ほどが雪に埋まっていて、支柱に貼り付けられた時刻表もほとんど埋まってしまっている。友人が腕時計で時間を確認する。ちょうどバスが私たちの後方からやってきた。

「ナイスタイミング」

バスは、冬用タイヤでガリガリと除雪後の凍った道を削り、車体を揺らしながらやってきて、危なげなくバス停前で止まった。ぷしゅーと息を吐いて、扉が開く。車内からあったかい空気が溢れてくる。急いで、けれど足元に気をつけて私たちは後方のドアからバスへと乗りこんだ。

「間に合って良かった」

いつもの席、右後方の2席に腰を下ろす。足元には強めの暖房が効いていて、長靴の皮越しに熱気が伝わってくる。足元が溶けた雪で濡れていた。座席に座るや否や、友人は胸に抱え直したリュックサックの中を漁り、カツサンドを私の眼前に差し出した。

「はい、今日の朝ごはんやで」

友人からカツサンドの入った紙袋を受け取る。袋の表面にはほんのり温もりが残っている。

「なんていってもカツサンドは一番人気やからね。流石に今日は入荷してないかと思ったんやけど、昨日の便で間に合ってたみたいやわ」

「移動販売車のおじさん、今日も来てたの?」

「うん。なんとか朝イチで買えたわ。さ、冷めんうちに食べよう」

「いただきます」

私たち以外乗客のいない空っぽの車内で、誰の視線も気にすることなく、2人並んでくっついて座って、肉厚のカツサンドを頬張る。ソースの効いた肉の味が美味しい。ようやく目が覚めた。

肉汁のへばりついた食パンがまた美味しい。私の手より一回り大きいカツサンドは、あっという間になくなった。短い朝ごはんを終えると、隣に座る友人とまたとりとめのない話をする。朝、学校に行く前のこの時間はとても居心地がいい。友人は窓の外の景色を見つめながら話し始める。

「熊さんも、さすがに今日は寝てるやろうなあ。また寝ぼけて出てこんといいんやけど」

「最近、熊多いんだっけ?」

「そう。熊自体の数は減ってるんやけど、下に、人の住む場所に降りてくる熊さんが増えてきてるんよ」友人が車窓に息を吹きかけると、バスの車窓の一部が白く曇る。友人は窓に、指で熊のイラストを描く。丸い顔につぶらな目がちょんちょんとふたつ描かれる。

「この前も鉄砲で撃たれて、肉になったって言ってたなあ」

友人は熊の絵をさっと手で消す。水滴が垂れて、熊がいた場所から外の景色がはっきりと映る。

「うちは熊に会ったことないけれど。撃ってまうなんて少し、可哀想やな」

「……そうだね」

「まあ、こっちが殺されんためなんやけどな。ってのもうちのクラスの男子が見かけたらしいで、その熊。そん時はお弁当の残りを持ってたから、すごい焦ったらしいで」

「そうなんだ」

「うちの高校にも購買できたらええのにな。移動販売車のおじさん、うちの高校にも来てくれんかなあ。おじさんな、前に聞いたんやけど、脱サラしてパン売り始めたらしいで。思い切ったことするよな。どこからパン持ってくるんやろか。もしかして手作りなんかなあ」

友人はとめどなく話を続ける。それでも時折、私たちの間には無言になる時間がある。私はその隙に友人の横顔を、こっそり見つめる。バスの振動に合わせて友人の短い髪が揺れる。友人は窓の外を見つめている。バスの窓の外には雪がチラついている。風も強そうだ。道路沿いの木々が揺れている。雪に埋もれたいくつかの停留所をバスは通り過ぎていく。学校までの1時間近くを、バスの中で揺られながら友人と過ごす。バスはゆっくりと雪道を進みながら、山を下っていく。

山の麓、学校近くになると、待合所付きの停留所にバスは時々停車するようになる。コートを着た人、傘を慌ただしく閉じる人がバスに乗り込んでくる。友人との2人きりの時間は終わった。それでも、学校までの1時間近くを友人と過ごすことができた。今日もあっという間だったな。腕時計を持たない私には時間の経過がわからない。あ、バスの前方に時計があった。

8時少し過ぎ。バスは高校の前に止まった。ぷしゅーと息を吐いて、バスの前方の扉が開く。バスの中に乗っていた何人かが続々と降りていく。1番最後に、私と友人の2人はバスから降りて、手を繋いだ。学校の校門前では何人かの生徒と教師が慌ただしく雪かきをしている。

「あれ、運動部の人らやね」

「朝練代わりかなあ」

昇降口に着いた。着いてしまった。

「それじゃあ、また後でな」

友人とは別のクラスだ。だから、友人と一緒にいられるのはここまでだ。友人の手が、名残惜しく離れていく。帰りの時間まであと、何時間だろうか。『白崎』と書かれた靴箱に雪を払って濡れた長靴を畳み込む。友人のいない学校の間の記憶は、特にない。


 「るう!お待たせ」

チャイムが鳴る。下駄箱で、友人が声をかけてくる。不意に周りの騒がしい声が耳に届いた。

「帰りは氷が溶けて滑りやすくなってるから、また気いつけてな」友人は私の手を取る。朝の情景を巻き戻していくような動作のようで、けれど友人の動きや話の内容はまた違っていて、時間は確かに経過しているのだと実感する。校門前のバス停に着いた。何人かが並んでいる。友人はちらりと腕時計を見る。見てみると周りの学生も似た方なポーズをしている。

時間になっても、定時を数分過ぎても、バスはやってこないようだ。

「まあ普段でも何人かしか乗らんのに、こんな雪の中で走ってるだけでも凄いよね」

その時、ぷあーとバスの鳴き声が冬の静けさの中に響いた。

「あ、きたきた」

友人と2人でバスに乗る。学校を出て十数分ほど走ると、バスの中の乗客はすっかりいなくなっていた。長い上り坂の曲がりくねった道のりを、不規則に揺れるバスの中、友人と2人の時間を過ごす。友人は今日学校であったこと、授業で聞いた先生の面白かった話、体育の授業の時はバスケでシュートを決めて相手チームに勝ったことなどをとても楽しそうに話していた。私も友人の楽しそうな顔や声を見て聞くことのできるこの時間が好きだ。楽しくて、心地いい。

友人の楽しい話を聞いていると、あっという間に私の家の最寄りの停留所に着いていた。

「今日は日中雪が降らんかったから、帰りは家の前を雪かきせんでも大丈夫みたいやね」

石造りの階段を上がる。友人が数歩先を進んで、私の手を握って歩いてくれる。

「さて、今日も無事に到着〜」友人は玄関前の石畳を長靴で楽しそうに歩く。長靴の先が滑って、危うく固い地面に転びそうになっていた。

「うわっ。るうに何回も気をつけてって言っておいて、これはあかんね」白い息を吐きながら、そう言って友人は楽しそうに赤い頬を緩めていた。

玄関横、軒先の郵便受けから手紙を取り出す。今朝取り出すのを忘れていたからか、中身が溜まっている。私宛、幾つかは母や祖母宛の手紙もあるようだ。玄関の鍵と扉を開け、下駄箱上の桐箱に手紙をそっと入れておく。この箱はもうすぐ満杯になるかもしれない。でも捨ててもいいものか分からなかった。

「それじゃ、また学校でな」友人は私を家の前まで送り届けると、すぐに背を向けて帰ろうとする。友人の背中で黒のリュックサックとその手に持った傘が揺れて、私の目には雪景色の中で眩しく映った。

「少し、上がっていきなよ」郵便受けに溜まっていた私以外の手紙を見たからか、玄関扉を開けた家の中が思ったより寒々としていたからか、私は友人を引き留めていた。

「珍しいな、るうの方から誘ってくれるなんて」

「……ごめんね」

「いいんやで。せっかくのるうのお誘いやもんな。それじゃあ。お言葉に甘えて」

友人は少し遠慮がちに、家へと上がった。2人分の濡れた長靴と傘が玄関に並ぶ。木の衝立が立つ玄関を抜けて、熊の置物や名前も知らない植物が棚の上に並んだ廊下を進んでいく。玄関から入って右手の廊下は、私の部屋と台所につながっている。こっちだよと言うように目印の観葉植物が廊下の真ん中に飾られている。

「向こうが、おばあちゃんたちの部屋やったっけ」友人は玄関から入って左の廊下を指差す。

私の部屋と台所の反対を向いて左の廊下を進むと、廊下の先は祖母のかつての住まいに繋がっている。私の母が結婚を機にこの家、実家である白崎家に戻ってきた時、祖母は母たち娘家族と同居するために屋敷を増築した。その増築した部分、左手の廊下の先の部屋に祖母は住んでいた。当時私はお腹の中にいたので、実際に見ていたわけではないが、母は『何で私たちが古い方なん、住み慣れた方がお母さんたちもええやろうに』と言ったが、祖母は『古い家の方は段差も多いし、新しく建てた方のが住みやすいやんか』と言っていたとか。

「そっかあ。今はこの家にるう1人やから、部屋が多いと掃除とかも大変やね」

「あんまりこっちの部屋に出入りはしないけどね」

友人の口調のせいもあってか、私は最近祖母や母のことをよく思い出すようになった。もうここにはいないのに。左手の廊下に背を向けて、台所と自室の方へと向かう。

廊下のガラス戸に雪がついている。2人ともスリッパを履いているが、それでも足元に漂う寒さに身震いする。ペタペタと2人分の足音だけが廊下に響く中、友人の声が静寂を破った。

「まだ思い出せへんの?お母さんやおばあちゃんのこと」

「……うん」

 私には、生まれてから一定期間の記憶が一部なかった。頭の中からすっぽりと欠如して、抜け落ちていた。幼児期健忘と言われ、生まれた時から幼少期の記憶を大半の人は思い出せない、忘れてしまっている。多くの人は3歳以前の記憶を思い出せない。一般的にほとんど覚えていないと言われている。そこは私も普通の人と同じだ。私が普通と違ったのは、中学校3年間と高校に入学してからの半年間の記憶がないことだ。今は高校1年生の冬。つまり合計して約3年半ほどの記憶がないことになる。どうしてなのか、と問い合わせてみても、空っぽの脳内に思い当たることがあるはずもなく。事故か、自分で消したのか、誰かに消されたのか、盗まれたのか。この広い家の中に私以外の家族はいない。確かめる術も手がかりも限りなく少ない。

中学に入学するまでは母も祖母も、父も確かにこの家で一緒に住んでいた。40代の母は専業主婦で家にいた。70歳になる祖母も畑仕事に従事していて、家にいた。祖父は私が生まれる前に事故で亡くなっている。だけどもう1人、父の他にこの家にはもう1人、誰か男性がいた気もする。記憶を無くす前、小学校卒業から中学校入学にかけての記憶は特に朧げだ。思い出そうとしても頭の中は真っ白になってしまう。そのほかの記憶も陽炎のようにゆらゆらしていて、うまく映像にはならない。音も声も匂いも感覚も思い出せない。

次の記憶は、高校1年生。9月の終わり、学校祭の終わりに私は立ち尽くしていた。家に帰ると、この家中に家族は1人もいなくなっていた。代わりに私の隣には、今と同じように友人がいた。

近くに住んでいる友人は私と高校から知り合ったと言うから、私が記憶を無くした高校入学からの半年間は知っている。別のクラスであるから詳しく知っているわけではないが、普段話したり廊下で会ったり、情報はある。でも、どうして私の記憶が無くなっているのかは知らないと言う。

私が現段階で覚えているのは、物心ついた時の幼い記憶がうっすらと、小学校の頃の記憶が途切れ途切れ。そして、今年の学校祭以降の高校の記憶の数ヶ月間。

なにより、私が記憶を取り戻すために致命的なのが、私に『過去を知りたい、記憶を取り戻したい』という気持ちがほとんどない、ということだ。私の意志が薄弱なこと、それも含めて私の記憶を消した相手の思惑通りなのだろうか。しかし、3年半の記憶が無くても、日常生活に特に不便は無かった。記憶がなくても毎日の学生生活を送るのに支障はない。

ただ、時々、どうしてだろうと思うだけ。頭の中にある霞がかった風景は、見ようと思っても見えないのでどうしても見たいとは思わないが、頭の中の空白は時折思考の邪魔になるし、どうにかしたいな、と思わないこともない。風が通り過ぎていった後を自然と目で追ってしまうような、空洞を見つめる感覚。日に日に渇いていくような感覚だった。だけど、問題はなかった。はずだった。

記憶はなくても、家族がいなくて寂しいという感情もなかった。一人分の食器や家具や靴が並ぶ広い家。もともと私は感情、心の動きがどうにも鈍いようだ。他の記憶も、特に学校内での記憶はすぐに薄れていく。それでいいと思っていた。けれど、近所に住む友人は、私の特殊な記憶喪失を気にしてか、時折私の記憶のことを確認してくる。「何か思い出せそう?」と聞いてくる。それは別に嫌ではない。ただ、探ろうとすればするほど頭の中のもやは晴れるどころか深く濃くなっていくばかりだ。

私が少しでも思い出せるように「こんな口調やったよね」と、友人は両親たちの口調を真似るようになった。私は記憶のせいか、友人や両親と違い、口調が標準語に近い。記憶と一緒に両親たちのような口調を忘れてしまっているようだ。

友人が気に病む表情を見るのは辛い。私は、友人の名前をちゃんと呼ぶこともできない。私は、友人の名前でさえも忘れてしまっているのだ。入学して出会ったとき、私たちは確かにお互い自己紹介をしたという。だけど私はその時もことも全く思い出せない。友人がどんな顔をしていたのか、今よりも髪は長かったのかそれとも短かったのか。でも詳細はもういいから、もう一度、名前だけでも教えて欲しいと何度か友人に頼み込んだのだけれど、友人は

「るうが思い出してくれるまで待つよ。るうにはちゃんと、私の名前呼んで欲しいもん。だからそれまでは、『友人』のままでいいよ」と笑って言っていた。

だから、最近は少しずつ思い出そうとしてみた。けれどやはり、うまくいかない。家の外や中で試してみても同様だ。ようやく、ここ最近になって、気温がグッと下がって空で雷鳴が鳴り始めた頃、冬の始まりの頃、水が凍るように記憶が薄ぼんやりと影のように浮かぶような姿にまで形づいてきた。記憶の靄が、映像としてピントが合うまで、もうあと少しかもしれない。友人のために記憶を取り戻そうとしている。その影響からか、最近、よく夢を見るようになった。

「……るう?台所の前で立ち止まってどうしたん?お腹の具合でも悪いん?」

「ううん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」

私は引き戸に手をかけ、玉のれんをぬけて台所に足を踏み入れた。板張りの床は踏むと少し沈んでぎしりと音が鳴る。台所の中央にはテーブルが置かれていて、周りをシンクや食器棚で囲われている。机の上には何も乗っておらず、寒々としている。窓側のシンクには給湯器が取り付けられていて、ステンレス製の流し台を水滴がゆっくりとしたリズムで叩いている。壁側に置かれた食器棚には普段使うことのない食器が綺麗に並んでいる。

台所に入って左奥、机の奥の襖を開けると、そこは15畳ほどの座敷になっている。天井からぶら下がった、灯されていない明かり、部屋の中心には大きな焦茶色の机が置かれている。私は部屋の端に積まれている座布団を慌てて引っ張り出した。

「こちらにどうぞ」

「ありがとう、るう。ついでに、ここの火鉢つけとくね」

友人は座布団の上に腰を下ろすと、机横に置かれた火鉢に火をともす。友人が丁寧に火鉢を扱う様子、火に照らされた手元の美しさに目を奪われながら、私は座敷入り口の向かいに置かれた本棚へと向かった。私の身長より高い、手を伸ばせば1番上の棚まで届くけれど、見上げるほどの高さがある薄茶色の木製の本棚はこの座敷と私の部屋との境に置いてある。本棚の横の襖を開ければ私の部屋もとい寝室がある。本棚の中の並びは、小さい頃に読んだのだろう何冊かの絵本が1番下の幅のある棚に横にして積み重なっている。父のものか祖父のものか、他の誰のものかは分からないけれど、他のそれぞれの棚には沢山の本や雑誌などが雑多に入れられている。綺麗に揃えられている巻数もあれば、無造作に横にして突っ込まれている本もある。一部は埃をかぶっていたり年代ものなのだろうか、背や裏表紙が色褪せている。本棚が置かれているこの部屋に窓はないから、この本棚に本が色褪せるための日の光は当たらないのだけれど。

私は本棚から一冊の本を取り出し、座敷の机に、友人と対面になって座った。


「夏野菜カレーが食べたいな」

「なに、急にどうしたん」友人は火鉢にあたりながら、驚きの顔を浮かべる。私は手に取った本の表紙をなぞる。それは、家庭菜園の本だ。カラフルな写真と並んで何種類もの野菜を育てる時期・育て方などが載っている、図鑑のような大きさのある本だ。角や表紙は痛んで日焼けしてきている。端の方はぼろぼろになって、ページ同士を貼り合わせる糊が剥がれてきている。これは、かつて母の愛読書だったものだ。これは、覚えている。と言っても小学生の頃の、いつの記憶なのかも分からないが。母がこの本を開いて『この野菜、今度作ってみよっか』と言っていた気がする。畑だったか、蔵の中だったか、台所だったかで、そんな話をしていた気がする……思い出そうとすればするほど、記憶の中は曖昧になっていき、本当だったかどうか怪しくなってしまう。

『畑とか蔵に置いといても読みにくいし、本が汚れてまうやろ』

ふと、記憶の外に飛び出して、今、耳元で母の声だけが、聞こえたような気がした。声は1番最初に忘れてしまうはずなのに。

「どうしたん、るう。急に家庭菜園の本なんて」

「夏野菜カレーが食べたいな、と思って」

「……今?」

「うん」

母の声はもう聞こえない。今ここに、座敷の中にいるのは、私と友人の2人だけだ。話を続けよう。

今日起きた時のことだ。祖母の夏野菜カレーが食べたいと唐突に思った。そして、どうせならそこに入れる野菜を手作りしたいと思った。最近は肉ばかりで、野菜を食べていなかった。肉はもちろん大好きだが、野菜も食べたいな、と思った。人間が特定の食べ物を欲するのには、身体に足りない栄養素があるからだと、いつぞやの友人との会話で聞いたことがある。

野菜を食べなきゃ、と思った。それも、夏野菜がいい。色鮮やかな実をつけた野菜が脳裏に閃く。

しかしこれを思いついたのは、夏の暑さも実り豊かな秋もとっくに通り過ぎ、雪がしんしんと地上に降り積もった真冬のことだった。でも、考えるだけならいつでもできる。

友人が私の手元を覗き込む。

「夏野菜カレー、野菜から作るん?随分本格的やね」

「家の裏手に畑があるからさ。昔のおばあちゃんのカレーを思い出して。食べたいなぁって思ってさ。朝からずっと」

「そんな長いこと考えてたん」

友人は頬杖をつく。

「でも、わかる。急になんか食べたくなる時あるよね」

「蔵はるうの部屋から何回か見てるから知ってるけど、畑まであるのは知らんかったな」

「ここから道と反対側に少し降りたところに田んぼもあるよ」

と言っても祖母たちが田んぼ仕事をしているのをしているのを実際に見たのは小学生の時が最後だが。

「ふーん。じゃあ、お米の準備はバッチリやね」

「蔵に古米もまだたくさんあるから、いつでも炊けるよ」

これは最近確認済みだ。蔵の中には米袋に入れられたお米が沢山保管されている。

「さて、そんならカレーを作るとなると、野菜ならやっぱりジャガイモ、タマネギ、ニンジンは欠かせんね」

「カレーはカレーでも、夏野菜カレーを食べたいの」

「分かってるって。それにしても、また随分と季節外れやな……るうのおばあちゃんのカレーには何が入ってたん?」

家庭菜園の技法書を眺めながら、祖母は何を入れていたっけ、と今朝思い付いた、脳裏に浮かんだ記憶を思い起こす。白い皿によそわれた、カレーライス。じっくり煮込まれたカレールウに大きくカットされた具材がたくさん入っている。入っていた野菜の色は思い出せない。食感……これもほとんど覚えていない。口を動かしてみる。やわらかな食感、よく煮込まれた具材。だからカボチャ……は違う。そんなに甘い味はしなかった。とうもろこし……も違う。あんな粒は入っていなかった。とうもろこしは横に置かれた付け合わせのサラダに入っていた気がする。つるんとした食感、タマネギの甘味とも違う。『畑でたくさん取れるから』と言って祖母の食卓によく出ていた野菜。そしてお母さんの好きな食材。

……これらの情報を合わせると、多分、祖母の夏野菜カレーに入っていた食材は

「トマト、ナス、オクラかな」

「それに定番のジャガイモ、ニンジン、タマネギが入ってる、と。うーん、具沢山で美味しそうやね」

家庭菜園の本のページをめくり、該当する野菜のページを開く。大体育て始めるのが三月から四月。育て方を一通り見てみるも畑作自体をこれまでやったことがないから、よく分からない。イメージがつかない。

小学生の時にプチトマトの苗か何かを育ててはいるが、全然規模もやり方も違う。そもそも小学生の時はやり方も物も何もかも準備されていた。自分は何もしていない。記録しただけ。やってもいない育て方など、覚えていなくて当然だ。調べてみると意外と手間がかかるようだが、まあ蔵の中にでも道具は一通りあるだろう。

「育てるとして、準備し始めるなら今からの方がいいかな」

「とは言っても、今のこの雪じゃあ、畑で野菜を育てるのは無理やね。とりあえずは雪が溶けんと……それにしても、なんで急にそんなこと思いついたん?」

「最近おばあちゃんたちのことを思い出そうとしてて……そうしたら、おばあちゃんの夏野菜カレーを思い出したみたいで」

「そっか。そうやったんやね」友人は机に頬杖をついて、笑っている。

「みんな、どこに行ってしもたんやろうなあ。こんなにかわいいるうのことを1人残して」

友人は目を細めて、広い座敷へと視線を向ける。私はその友人の横顔から目が離せなかった。

長いまつ毛、短髪の茶色がかった猫っ毛はくるんと耳元で揺れる。耳にかかった髪の毛。黒々とした奥の見えない耳の穴。それを縁取る耳の線。胸が苦しい。なんだろうこの感情は。火鉢が不完全燃焼しているのだろうか。友人から一度目を離して、足元の火鉢を見てみる。火鉢はいつも通り燃えている。襖は少し開けてある。換気もしている。問題はないはずなのに。友人に視線を戻す。

「……確かに土は難しいけど、道具とか必要なものは今のうちに準備できるかな。蔵の中に色々置いてあると思うんだ」

「そやけど、蔵に行くのも一苦労やん。るうが今すごく夏野菜カレーを食べたいのは分かるけど、畑のこと、夏野菜のことはひとまず雪が溶けてからでええと思うよ」

友人は座敷の方に向けていた視線を私の方に振り返り、突拍子もない発言にしょうがないなあと言うように目を細め頬を緩めて笑う。その笑顔は眩しくて、薄暗い部屋の中で輝いている。台所の窓を風が叩く。友人は立ち上がり台所の窓を開ける。強い風に混じって雪の粒が家の中に吹き込んできた。

「あかん、また降ってきたみたいやわ」友人は慌てて帰り支度をする。リュックサックを担ぎ、スリッパに足を突っ込んで、玄関に続く廊下へと急いで歩いていく。私も慌ててその後を追う。

「うち、もう帰るね。また帰り道に積もられたら大変やもん」

友人を玄関まで見送る。友人は駆け足で傘と鞄、スコップを片手に持って去っていく。背中で友人の黒いリュックサックが揺れている。

「それじゃ、また明日迎えにくるからな」別れと再開の言葉を一緒に詰めた友人の声を、その後ろ姿を見つめる。友人の姿が見えなくなると、急に身体中に冷たい風が吹き込んできた。玄関の扉を閉める。さっきまでぽかぽかと暖かったのに、玄関まで戻ってくると一気に寒くなってしまった。

左手の廊下を一瞥して、奥の座敷へと戻る。座敷の襖を開けたままだった。襖の間からはぬるい空気が漏れ出ていた。机の上に置かれた本に、自分の影がかかって重苦しく見える。壁の時計が鳴る。焦茶色の長方形の中で、振り子が左右に揺れている。

時を告げる鐘の音が頭と脳内とお腹に、ぼうんぼうんと響いた。

お腹が空いたな、と思った。時計が指し示す時刻は、17時。まだ夕食には早い時間だ。さっきまで友人と夏野菜カレーの話をしていたから、早めにお腹が空いてきたのかもしれない。お腹に手を当てる。胃や腸の辺りがぐるぐると活発に動いていて、食べ物が入ってくるのを今か今かと待ちわびている。少し動くと、軽い吐き気までしてきた。究極にお腹が空いた時はこうなるのかもしれない。

台所の方で窓がガタガタと揺れている。外はだいぶ吹雪いてきたようだ。風が窓を叩く音が耳ざわりだ。腹部と合わせて、体が抱える不快感が大きくなる。

この雪では今から外に出ることは難しい。米は腐るほどあるから、とりあえず台所に置いてある買い置きを食べよう。足元が揺れる。どうやらふらついているようだ。早く食事の準備をしよう。

スリッパを履いて、ややおぼつかない足取りで座敷から台所へと向かう。

水道管は無事なのを今朝確認済みだ。一応捻ってみる。水が出た。ステンレスシンクに冷たい水がざあざあと音を立てて流れていく。シンク横の米櫃から米を取り出す。秤で測って、炊飯器に入れる。冷たい水で米を研ぐと、雪の中で息を吐くように、米から空気が吐き出されるように白濁色で水が染まっていく。濁った研ぎ汁を捨てて、水を目分量で入れて、米を早炊きモードで炊飯器にセットする。30分位で炊けるだろうか。いつも時間を気にしたことがないから、分からない。

炊飯器を眺める。あと25分。1分ごとにメモリが動いていくのをじっと見つめる。

炊飯器を眺める。上の穴から白い湯気が出てきた。もうすぐだ。

シンクの棚から小ぶりのステンレス鍋を取り出す。そこに水を7分目くらいに入れて、コンロにセットする。お湯を沸かしているうちに冷蔵庫横の段ボール箱から、買い置きのレトルトカレーを取り出した。

今日の夜ご飯は、レトルトカレーだ。鍋の中で沸騰したお湯に、レトルトカレーのパウチを入れる。ものの数分でレトルトカレーができた。ピィー、と同時に炊飯器のアラームが鳴った。

大きな皿に炊きたちのご飯をよそって、その上にパウチからカレールウをかける。

理想の夏野菜カレーには程遠いが、今はこれで我慢しよう。座敷にカレーの乗った大皿を運び、銀色のスプーンを側に用意して、両手を合わせる。

「いただきます」

スプーンでカレーを一口、口に運ぶ。美味しい。食べやすい大きさにカットされた野菜と小さめのお肉。レトルトとはいえルウもそれぞれの具材もよく煮込まれている。

銀色のスプーンでかきわけ、口に運んでいく。大皿によそわれたカレーライスは、ものの数分で綺麗になくなってしまった。美味しかった。

綺麗に空になった皿を見つめる。すると脳裏が、頭が、舌が、「もっと食べたい」と言う。

おかしいな、これを食べれば満足するはずだったのに。食べても食べても、満足しない。パウチを開けて、お湯が沸いて、湯気が立つ。食べれば食べるほど、お腹の中は確かに満たされているはずなのに、食べた感触も味も満足感も、その記憶ばかりが薄れていく。

気づくと、買い置きの段ボールの中は空っぽになっていた。米はまだ米櫃の中に残っている。段ボールの中には、レトルトが何袋入っていたんだっけ。

「……そうだ。肉だ、肉が足りない」

どうして忘れていたんだろう。祖母のカレーには夏野菜の他に、大きな肉がゴロゴロ入っていた。

私が1番好きな食感は野菜でも米でもない。肉の食感だったんだ。レトルトカレーにも肉は入っていたが、安物だったからだろうか、そんなに量は入ってはいなかった。でも、今すぐに肉を調達することはできない。肉はそんなに日持ちしないから、買い置きも冷凍保管しているものもない。タンパク質は、蔵にある豆くらいかなあ。そう思うと諦めがついたのか、急に眠気が身体全体に

やってきた。座敷の畳の上に横になる。するとみるみる瞼が重くなっていく。火鉢がパチパチとやわらかい音を立てている。眠気に誘われるには、ちょうどいい心地だ。

そういえば、祖母のカレーにはなんの肉が入っていたんだっけ。




 台所のガラスの引き戸を開く。かつてその場所にあった、2つの姿を思い出す。小さく丸くなってきた背と、その横に並んで立つボブヘアの女性。祖母と、母だ。そう気づくと二つの影は突然鮮明に私の視界に映し出された。祖母と母は並んで食事の準備をしている。トントンとまな板を打つ音と鍋とヤカンがしゅんしゅんと音を立てている。

私は隣の座敷で、開け放たれた襖の向こうにいる2人の音と気配を聞いていた。私が何歳の頃だろう。幼い私は、テレビでアニメを観ていた。画面ではキャラクターの臓器が飛び出して、血が噴き出している。2人はテレビの音が聞こえているのかいないのか、私が見ているアニメの内容に何かを口出ししてくることはなかった。

食卓には、ハンバーグが出てきた。白の大皿に、赤色混じりの濃いソースがかかったハンバーグが何個も乗っている。そのうちの1つを自分の手元の小皿に取り、大きめに切って口に頬張った。

私はハンバーグを口に運んでいる。口に入った味のついた肉の塊を咀嚼する。私の小さな歯で、祖母たちの手で丸められた肉塊がすりおろされていく。繊維を噛み切る。じゅわっと油が飛び出して、慌てて口元を手拭いで拭う。唇が揺れる。油混じりのその感触が堪らなく好きだった。小さな手で、同じくらい小さなフォークを使って、目の前の肉塊を平らげていく。肉の感触を思い出すと涎が口の中に溜まって、口の端から気付かぬうちに一筋、垂れていた。

夢の中なのに匂いがする。肉の匂いと、トマトの混じった血の匂い。そこに微妙に張り付いた脂肪の匂い。血管か神経からプチプチと音を立てて肉を引っ張り出す瞬間が、堪らない。口に入れるまでの時間が長くなればなるほど、口の中が涎でいっぱいになる。剥き出しの肉を口に頬張る。

でも、味はしない。夢の中だからだろうか。けれど、私は無心に目の前の肉に食らいついている。肉を食べる手が止められない。味はやはり分からない。美味しいのか分からぬまま、空腹を満たすためだけに、そしてただ本能のままに目の前の肉に食らいついている。

私が口にしていたのは、いつのまにかハンバーグから肉塊へと変化していた。肉をただひたすらに口へと運ぶその姿は、手を使ってはいるものの、姿形は人間だけれどまるで、野生の獣のようだ。

獣の顔は私を飲み込み、私になった。あれは私だ。……違う。『お前』だ。

いつのまにか私はいなくなり、私は『お前』が肉を食べる様子を後ろから見ていた。細い腕で震えながら肉を手に取って、自らの口の中に無我夢中でねじ込んでいく。獣のように肉を貪り食べる『お前』は人とは違う、化け物だ。

……いつから夢の中だと、気づくことができたんだろうか。




 眼前には、見慣れた天井が広がっていた。身体が固まっていて、動かそうとするととても重たかった。何か夢を見ていた気がする。寝起きの頭にぼんやりと、現実とは違う情景が浮かんでは煙のように消えていく。ゆっくりと身体を起こして、上半身を動かす。雪見障子から青白い光が差し込んできている。どうやら朝になったようだ。布団の外は寒い。ひんやりとした冷気がモコモコパジャマの裾の間から入り込んでくる。のっそりと布団から這い出て、起き上がり、洗面所へと向かう。

冷たい水で顔を洗う。濡れた自分の手のひらを見つめる。白い手が寒さで赤く染まっている。でも夢で見ていたように、手のひらにソースや肉汁や血なんてついていない。べとべともしていない。水で濡れただけの冷たい小さな手のひらだ。

どうやら肉を食べたすぎて、夢の中で謎の肉に齧り付いていたようだ。

夢の中で、母を見た。祖母を見た。頭の中にわずかに残るぼんやりとした記憶なのか思い出なのかをなぞっていく。昔の記憶を思い出そうとしていたのに、いつのまにか夢の中は肉を食べる化け物が出てきて思考を丸ごと占拠されてしまった。化け物は私の過去の思い出の映像や匂いを、肉汁と血の赤色で上書きする。昨日もだ。昨日見た夢にもそういえば同じように、肉を食べる化け物が出てきていた。今思い出した。

細い骨張った手、重たい足。そして目の前にあるのは頬っぺたが落ちそうなほど美味しいお肉。あれは、『お前』は一体何なのだろう。しかし夢の内容を思い出そうとすればするほど、また忘れていってしまう。映像や記憶を追いかけようとしても、霧がかかったようになってしまう。だから私はすぐに諦めた。タオルで手を拭いて、鏡の前の自分を見つめる。内側は黒、外側は白色の腰までの長い髪を簡単に一つにまとめた。私は上下モコモコのパジャマに身を包んでいる。服の襟をつまむ。下に着ているシャツが若干汗ばんでいる。……私は昨日の夕方、いつパジャマに着替えて布団に入ったのだろう。そこの記憶も失ってしまったのだろうか。

背後、廊下を挟んでやや遠くからではあるがかすかに、玄関の開く音がした。


「おはよう、るう。今日もめっちゃ積もってるで」

「……おはよう」友人が玄関で出迎えてくれた。

「明日はもっと降るらしいで。さすがに道の除雪も追いつかんくなるかもなあ」

「そっか」

「さ、早く支度して学校行こう。バスは走ってるみたいやけど、だいぶ来るの遅れるかもしれんからな」友人はいつもと変わらぬ調子で、何気ない話をする。身だしなみを整えて、2人で学校へと向かう。行く途中の道やバスの中で、友人と他愛のない話をする。でも。夢に出てきた化け物のことは友人に話すことはできなかった。

───いつかも分からないんだけれど、私が小さい時の話でね。座敷でハンバーグを食べていたら肉を食べる化け物が出てきたの。そして化け物は私の身体を飲み込んで、私になってしまった。私は私の後ろから、私が動物みたいに肉を食べる様子を見ているの───。

……夢の話は支離滅裂な展開だ。友人にどう説明しても全く伝わらないだろう。そもそも私はこの夢のことを友人に話して、何を伝えたいのかも分からない。言葉で説明しようと思っても、夢の内容を言葉にしようとすればするほど、どうすれば伝わるのか、これでいいのか、自分でもこれが本当に見た夢の内容だったのかさえ分からなってくる。

どうにか言語化してみようか。夢の中の景色、情景をもう一度頭の中に思い浮かべてみる。昨日見たのは確か、土。土の上を汚れた足で歩いていた。何か特徴的な建物や景色はなかったかだろうか? 細い腕……見たこともない腕、これは頼りにならない。『お前』は一体何者なのか。知りたいと思った。どうしてこうも私は夢の中の怪物の正体を知ろうと躍起になっているのだろう。夢の中のお肉が美味しかったからだろうか?

でも、よく思い出そうと記憶の中を無理に追いかけると、頭の中がかすみがかったようにすぐにぼやけてしまう。記憶の中の映像を追いかけることもできない。足が重くて進まない。周りの景色はおぼろげになっていく。それでも脳裏に鮮明に写っているのは、肉だ。私は夢の中に出てきていた肉の繊維や脂肪の筋に至るまで、その映像を鮮やかに覚えている。思い出すことができる。でも、これまで見たことがある牛や豚、鶏の肉とは違う気がする。『お前』の手がかりはこれだろうか。

「……るう、どうしたん? カツサンド食べてから黙ったまんまやね。お腹の調子でも悪いん?」

友人の顔が目の前でいっぱいになり、夢の景色から、思考が現実へと急速に戻ってきた。

「ううん、大丈夫」

「……ほんとに? ならええんやけど。なんかるう、最近ぼうっとしてること多いからさ。お母さんたちの記憶を取り戻そうとしてるんかもしれんけど、無理したらあかんで」

「うん、ありがとう」

私は、気づけば学校の校門を抜けて、校舎の目の前まで来ていた。バスから降りたことにも気づいていなかった。友人の声で、現実へと戻ることができたのだ。

友人とは昇降口で別れた。先ほどまで繋いでいた友人の温もりが手のひらに残っている。友人の去っていった廊下を見つめる。友人の姿はもう私の視界にはない。背を向ける。私は、初めて自分の意思で教室へと向かった。

 私には中学校から高校1年生の約3年半の記憶がない。最近になって、夢の中で夢の映像として無くした記憶を思い出すことができるようになってきた。けれど夢の中の映像をもっとよく思い出そうと、記憶として定着させようとしても、映像はすぐに消えてしまう。唯一覚えていられるのは、肉を獣のように食べる化け物、『お前』と、『お前』が食べている肉の映像だけ。

私の記憶がないことを心配している友人の悲しそうな顔を、私はこれ以上見たくない。そして私は友人の名前を思い出したい。友人の名前をちゃんと自分の声で呼びたい。そうすれば、今よりももっと、友人と近づけそうな気がしたからだ。

だから、私は記憶を取り戻すきっかけになりそうな、夢の中に出てきて唯一その姿を覚えることができている『お前』の正体を、探してみることにした。

 初めに主観的な記憶の中の肉の映像を、目の前に絵として、客観的に書き出してみることにした。おあつらえむきに、私の目の前にはノートが広がっている。誰かに見られても、まあ別に構わないのだけれど、ノートを取り上げられるなどすると面倒なので、ノートの端に気持ち小さめに、夢の中で見た肉の絵を書いていく。端に置かれたペンを取り、その筆先をノートにゆっくりと滑らせる。肉の輪郭をとる。耳元で数学の授業を流しながら、夢の中の肉の絵を書いていく。絵を描くのはおそらく久しぶりのはずなのに、自分でも不思議なくらい、スラスラとノートの端に描くことができた。ノートの端に肉の絵を描いていく。1つ書けたらもうひとつ、もう一つと肉の絵を書いていく。夢の中の肉の絵を書いていくにつれて、いろんなことが分かってきた。

記憶の中の映像は途切れ途切れで、覚えている肉の映像やその形・感触などは場面場面によって特徴が少しずつ異なることに気づいた。色々な肉の形を覚えている。私は『お前』を通して、色々な肉の形と色を夢の中で見ているようだ。肉を切って貼り合わせる。夢の中で見た全ての肉を書き出すことはできなかったが、1限目の数学の授業が終わるころには肉が2つと、未完成の肉片が1つ出来ていた。そうして肉の絵を授業中にこっそりと描き続けて、4限目の終盤になる頃にはノートの横半分が埋まっていた。ノートの端に、縦方向に長く小さく書かれた肉の絵。細長い肉、筋張った肉、骨のついた肉、細切れの肉、やわらかい脂肪付きの肉。描かれた肉が乗ったノートの横に置いてある教科書にも、肉がついている。4限目は生物の授業だった。横に広げられた教科書に載っている図と、自分がノートに書いた肉の絵は奇しくも、そっくりだった。生物の中の脊索動物、哺乳類、サル目、ヒト科、ヒト、ヒト、人。哺乳類、人間の剥き出しの全身の骨格と筋肉が教科書と自分の上に載っている。今日の授業は、人体の構造についてだった。腕、脚、胸部、頭部の筋肉が綺麗に揃えられて、生物の教科書の上に載っている。対して私のノートの上に載っているのは、細切れのばらばらの肉片だった。

ノートの端に並んだ肉の形や筋を見る。教科書の図と見比べる。イラストであるから、解剖学の本には劣るが、筋肉の筋や大きさ、骨の形と特徴的な関節の繋ぎ目。ノートの端に書かれた肉塊が、やがていくつかのパーツが重なり合い、繋がった。

「……人間だ、これ」

ノートの端に描かれたのは、私が夢の中で見た肉の絵。『お前』が美味しそうに貪っていた肉の絵は、人間の肉の絵だった。『お前』は、人喰いの化け物なんだ。

 授業終了と同時に、昼休みを告げる鐘が学校中に響き渡る。周りの学生たちは昼食を食べに集ってどこかへ行ったり、他のクラスに向かったり、トイレに行ったりと慌ただしく騒がしく動き始めた。私は、教室の中で、自分の席から動けずにいた。自分で書いた、ノートの絵を撫でる。手汗でインクがわずかに滲む。肉塊が、人の肉の絵が黒い血で滲む。匂いがする。濃い血の匂い、油の匂い。一面の赤色、途切れ途切れの黄色、黒々とした自分の手と、肉の感触。中身はぬるぬるしていて、思っていたよりうまく掴めない。教室前方の時計を見上げる。2つの針は、ちょうど真上を指していた。なるほど。両親たちは人喰いの化け物、『お前』に殺されたんだ。だから今はいない。どこにもいない。殺されたことも、いつからいなくなったのかも分からない。覚えてはいないけれど、自分の家族が人喰いの化け物『お前』にみんな食べられてしまったという事実について、私はすんなりと納得することができた。……私はどうして、1人だけ無事だったのだろうか。

まあいいか。

でも、今もその化け物はどこかにいる。確証はなかったがそう思った。人を食う化け物がこの山沿いの町のどこかにいる。それは、夢としてではあるが、私の覚えている過去の情景に化け物である『お前』があまりにもすんなり入ってきたからだ。夢の中の姿形は違えども、何か恐ろしい存在が近くにいることは間違いないと思う。そう思うと、これまで全く記憶も感情もなかった学校内で、少し意識がはっきりしてきた。人を食べる化け物がこの中にいるかもしれない。昼休みの教室。喧騒が遠くで聞こえる。教室の中に残っている人はほとんどいない。沈黙の中、空席の机と椅子が整然と並んでいる。

教室の中には30人弱。この中に化け物は潜んでいるかもしれない。正面の教卓に視線を向ける。先生はどうだろうか? 『お前』は先生に化けているかもしれない。教員の多くは車を持っている。遠くまで動くことができる。この学校から遠く離れた距離にある私の家に訪れて、車を使ってすぐに逃げることも出来るだろう。

しかし、現状人喰いの化け物『お前』の手がかりは、私の夢の中だけだ。手がかりが少なすぎる。今ある情報だけでは、『お前』の正体を絞り込むことはできない。昼休みは、残り45分。私は、校内を歩いて化け物の手がかりを、そして化け物自身を探すことにした。学校の中でこんなに意識がはっきりしていることは久しぶりだ。学校の中のことはほとんど覚えていないので、自分のクラスや移動教室で頻繁に使う場所以外、校内はよく分からない。内履きの音がする。後ろで1つに束ねられた髪が規則的に揺れる。学校の中、廊下を歩く。物音のしない教室の後方の扉を開ける。誰もいない。何もない。電気のついていない教室やトイレから、時折物音がする。血の匂いはしない。とりあえず避ける。入らないことにした。

階段を登って、降りる。時折、友人の姿を探す。友人も、化け物の手がかりも見つからない。

1年生か、2年生か、3年生か。それとも先生か。……それとも、そもそも校内には居ないのか。

手がかりが少なすぎる。車も持たない自分の行ける範囲は少ない。よって集められる情報は限られている。とても少ない。情報といえば、あそこに行ってみようか。

 図書室のドアを開ける。ガラガラと油が足りない音がする。図書室の中には生徒が何人かと、司書の先生がカウンターにいた。私は、並ぶ本棚の奥に隠されたように設置されている、自習スペースへと向かった。私の覚えている範囲で、記憶があるうちは両親も祖母も健在だった。両親たちが人喰いの化け物に食べられたのは、私の記憶がない期間のどこか。つまり、私の記憶がない3年半のどこかに、人喰いの化け物の手がかりがあると思われる。すぐに記憶をとり戻すことはできないので、まずは記憶のない3年半にこの街での起こった変わったこと、目立ったこと、事件などを調べてみることにした。図書室に保管されている新聞に手をつけてみる。3年半分ともなるととても量が多い。新聞はやめて、ひとまずネットで調べてみることにした。

図書室に置かれているパソコンの前に座る。とりあえず座ってみたはいいものの、操作方法がよく分からない。家にパソコンはないし、パソコンに触ったことがほとんどない。四角いところに矢印を合わせて、「殺人事件」と打ち込んでみる。……どうやって打ち込めばいいんだろうか。キーボードに書かれた文字を押してみるも、画面上にはうまく入力されていない。試行錯誤のうえ、なんとかローマ字入力で入力して検索してみるも、画面上には信憑性の低そうな、よくわからないサイトばっかりが並んでいた。こんな田舎町のことは、なかなかニュースにもならないようだ。地元の村の名前などで検索してみても、全然出てこない。新聞をこれから1つずつ見ていくのには時間がかかる。もっと、近道はないだろうか。肉の映像以外での、夢の中の『お前』の手がかりを書き出してみようか。

土の上、細い腕、夕焼け、重い足。

こうしてなんとか思い返してみると人喰いの化け物の姿の一部分は分かるが、肝心の顔は分からない。夢の中で『お前』の顔を見ようとすると、視界が回って、目が覚めてしまう。肉塊、それも人の肉を食べる化け物。『お前』は一体何者なのだろうか。『お前』は私の夢の中で、人を食べていた。人の肉。周りの景色や色は朧げだが。夢の中の肉の映像はいつでもまざまざと色鮮やかに鮮明に思い出すことができる。『お前』が口にしていた肉塊、あれが両親と祖母なのだろうか?

やはり、私の夢の中にしか手がかりは今のところなさそうだ。息を吐き、私は図書室の机に突っ伏した。本棚の影に隠れて、時計も他の生徒も司書の姿も薄暗い視界から消える。手がかりを得るためだ……。暗く静かな感覚へ落ちていく。

しかしどうして、『他の人間に化けている』と私はすぐに思ったのだろうか。




 見慣れた和室、畳の映像。そこが家の中だと気づくと目の前に映し出される風景は一気に匂いや感触などの記憶を伴った。家の風景の中に、父と母が2人並んでいる。珍しい。父は遠くに働きに出ているから、家に帰ってくるのは決まって夜遅く。だから母や自分が起きている時間に、父の姿を家の中で見ることは滅多にないことだ。父と母は座敷の真ん中にある低い脚の机に向かい合って座っている。重苦しい空気が襖の隙間から溢れている。冷気とも違う。熱気のような生暖かい空気でもない。温度のない、ただただ重たい空気が自分の頬の横を流れていた。和室の外から私は2人の様子を伺っていた。父は外で夕食を食べてきたらしい。私が夜ご飯で食べた揚げ物のおかずの匂いとは違う、いい匂いが父の周りからする。母はそれに対して思うことがあるらしい。父は外で、一体何を食べてきたのだろう。父の身体から漂ってくる空気と一緒に、その匂いから父が食べてきたものを想像する。

味といえば、1つ、思い出した。口の中で肉を荒く、最低限咀嚼しながら思考が緩く動く。薬漬けにされていない、果実にも似た若い女の匂い。あれは最上に美味しかった。心臓の薬を飲んでいた女とも違う。血圧を気にして魚だか何かのサプリメントを飲んでいた女のものとも違う。あの至上の肉の味は、再び巡り会うことはおろか、再現することもできない。ただひたすらに、あの味をもう一度この舌で味わいたいと思った。

短い思考が終わり、目の前にある肉に再度かぶりつく。やわらかい肉汁が口の端から垂れていく。

美味しい美味しい、人の肉。化け物の『お前』が美味しそうに人の肉を食べている。





 目を開けて、頭を起こす。夢の中の情景はわずかな感触を脳裏に残して、目の前から霧散する。眼前の見慣れない風景に頭がひやりとして、眠前の記憶を薄い紐で引っ張るようにゆっくりとまた現実に戻ってくる。枕がわりにしていた腕がうまく動かせない。指先の感覚がない。頭の圧迫から解放された手はビリビリと痺れ始めた。寝起きの頭で手先の感覚を静かに感じる。図書室の中は眠る前と同じく静寂に包まれている。窓に目を向ける。外はもう暗くなりそうだ。冬の黒い空。学生の声がしない。今は、何時だろうか。私は椅子から慌てて立ち上がった。図書室のカウンターの壁の時計を見る。針はちょうど終業時間の5分後を指している。出来るだけ早足で教室へと戻り、カバンを掴んで廊下を進むと、すぐに息が切れる。昇降口で、友人が待っていた。友人はコートに身を包み、下駄箱横の柱に身を預けていた。足元は内履きのままだ。私は息を切らして友人の元へと駆け寄った。

「ごっ、ごめん。……待った?」

「ううん、大丈夫。うちも今来たとこやよ」

友人は笑いながら私の髪を撫でる。熱を持つ私の身体に対して、友人の手は冷たい。

「どうしたん、るう。そんなに慌てて」

私は友人の手を握る。私の熱が友人へと伝わる。間に合ってよかった。危うく図書館で寝過ごしてしまうところだった。それというのも、人の肉を食べる『お前』の手がかりを得るためではあったのだが、結局のところ徒労に終わってしまった。

『お前』は、今どこにいるのだろうか。

背筋が凍る。ゾッとする。気持ち悪い。吐き気が腹部から胸の上を押し潰して、息ができない。

急に暗闇に落とされたような。どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。夢の中の話なのに。夢の中の映像が、感触がリアルすぎるせいだ。想像が現実を侵食するように、考えたくもない映像が脳裏に張り付く。目の前の友人はこんなに笑顔なのに。どうして。整えたはずの息が、再び細く切れそうになる。友人も、『お前』に、人喰いの化け物に食べられてしまうかもしれない。そう思うと、先ほどまでの事実が、頭の中で考えていたことが、夢に、夢だけで見ていたことが急に恐ろしく感じられた。

「るう? どうしたの?」

頬を汗が伝う。急いで走ってきたせい、だけではない。友人に言えるわけがない。人喰いの化け物がこの町のどこかにいるかもしれない、なんて。私の夢の話なんだ、あるわけもない。そう笑って誤魔化すには、私の頬筋は足りなかった。何より、夢の中とはいえこの鮮明な記憶が、色も匂いも音も、肉だけを鮮明に覚えている。このことが『お前』という化け物が私の夢の中だけではなく、私が見聞きした現実として確かに存在している証明と言えるのではないか。

私は、私だけが『お前』の正体を知っているんだ。『お前』の顔を知っている。見ることができる。私だけが『お前』の正体を知っている。だから、だからこそ。友人を『お前』から守れるのは、私だけだ。友人を守るために、友人の名を呼んで守るために私は記憶を取り戻し、『お前』の正体を暴いて、殺してやる。その息の根をとめてやる。

『お前』を見つけて、殺さなくてはならない。

行方不明の家族。それは人喰いの化け物、『お前』に食べられてしまった。でも、『お前』を見つけ出そうにも、手がかりはほとんどない。私の夢の中以外には。『お前』は、うちの近くによく出てくる。もしかして、うちの近くに潜んでいるのではないか。隠れられる場所はいくらでもある。木の影、森の中、蔵の中、家の中、庭、畑。

友人が毎日のように訪れるこの場所に、近くに『お前』が潜んでいるかもしれない。

「るう?どうしたの、怖い顔して」

「えっ……私、怖い顔、してた?」

「うん。ていうかいつもより険しい感じ。まあ空も黒くなってきたから、すごい気圧下がってるんやろうな。うちも少し頭痛くなってきたわ」友人は寒空の下、頭を押さえる。気づけば家の近くまで来ていた。石造りの階段を上がりきってしまえば、私の家はもうすぐだ。玄関前にあっという間に着いて、友人の手が離れてしまう。

「るうも今日は早く寝るんやで!」友人はそのままいつものようにすぐ帰る。帰ってしまった。今日は引き止めることさえできなかった。私は友人の後ろ姿が完全に消えるまで見送ると、空を見上げた。空は厚い雲に覆われている。

窓のない薄暗い自室の中、畳にひかれた布団の前に立つ。枕を見る。布団を見る。ここが『お前』の手がかりを得るための忌々しくも唯一の希望である入り口だ。

友人が人喰いの化け物、『お前』に食べられることを考えると、とても恐ろしい。両腕で身体を包む。どうやっても、私は1人だ。夢を見ないわけにはいかない。『お前』の手がかりを得るためにも夢を見なくてはならない。怖がってはいられない。友人の姿を、笑顔を思い出す。この映像は、まだ私の頭の中からは消えない。消させはしない。

夢に見るのは過去の映像であり、未来ではない。友人が夢に出たことはない。大丈夫。友人が『お前』に食べられることはない。少なくとも、夢の中では。




 ここは、夢の中だ。今日はすぐにそのことに気づくことができた。夢をたくさん見るようになってから、明晰夢のように少しではあるが夢の中を自由に動けるようになってきた。夢の中で『お前』を捕まえて、殺すことができればどれだけ楽だろう。でも駄目だ。夢の中では何をしても自由だ。現実とは違う。現実の『お前』を殺さなくてはならない。でも、『お前』の殺し方を考えることぐらいは出来るだろう。何か武器はないだろうか。蔵の扉が軽々と開く。あるのは農具くらい。刃物や斧もある。これでいいか。

そもそも、『お前』に武器や鈍器の類、物理的な攻撃は効くのだろうか。肉を食べるとはいえ、肉食動物のような体の構造をしているのだろうか。細い体は一見弱々しそうだが、もしかしたら物理的攻撃が効かないかもしれない。

だとしたら、毒だろうか。『お前』が食べる肉に毒を含ませれば、殺すことができるかもしれない。『お前』にとっての毒とは何だろうか。人間に対しての毒が効くのだろうか。何も分からない。ならば、夢の中で試してみればいい。

薄黒い、茶色の姿が視界の端に見える。いた、『お前』だ。私は必死にその背中を追いかける。足はうまく動かない。目の前の視界や手は超能力のように自在に、様々な法則や決まりに関係なく動かすことができるのに、足だけは錘がついたように動かせない。現実の私が棒立ちで眠っているからだろうか。『お前』は無心にいつものように肉にかぶりついている。『お前』が食べているのは、人の肉だ。獣の肉とは違う。匂いも、血の溢れ方も、着ているものも。ピンと肉塊の筋肉が張って反射的に伸ばされたその足に、布が引っ掛かっている。肉塊が靴を履いている。

誰かが、願っている。「そいつを殺して欲しい」と。私はいつの間にか手に持っていた鍬を、杵を、ゆっくりと思いっきり振り下ろした。




 「おーい、生きてる? 大丈夫?」

呑気な声が頭上から降ってくる。目を開けると、友人が見慣れた紙袋を手に持って逆さまの世界に映っていた。友人は眠っている私を上から覗き込んでいた。

「カツサンド。いつものお届けに参りました」

友人はふざける時、いつもの口調を変えて標準語で話す。けれど、すぐに元の口調に戻ってしまう。いつもの通り。日常に、夢から帰ってこれたようだ。私は布団からゆっくりと起き上がる。背中側に留まっていた血液が体に巡り始めたようで、頭がクラクラする。舌先が痺れる。腕が何か重いものを持っていたように重たい。すぐに、夢の内容を思い出す。詳細はすぐにぼやけてしまうが、お前の背中と、そばにいた肉塊と、誰かの願い。……誰かの悲しそうな声がしたのを覚えている。

いけない。夢のことをのんびり思い出している場合ではない。学校に行かなければ。また友人を待たせてしまう。

「起こしてくれてありがとうね。……今、何時だろう」

「えっと、朝の8時半やね」

「えっ」

友人は自分の腕時計を見て呑気に現在時刻を口にする。学校に行くためには、いつものバスに7時前には乗っていないといけない。8時になってここにいるということは、遅刻確定だ。もう過ぎた時間を焦ることはない。だがしかし、友人はどうしてここにいるのか。

「慌てんでも大丈夫やで、るう。さっきうちの家に電話があってな、大雪で臨時休校になったって。そんなんやったら、昨日の雪でさっさと休校にすれば良かったのにな」友人は笑って私の横に座る。

「……そうなんだ」

「一応、るうにも伝えておこうと思ってな。電話は来ると思うけど、気づかんといけんから」

確かに。電話が鳴ったのなんて全く気づかなかった。友人が来てくれて本当に良かった。

「せやけど、ここに来るまでに遭難するかと思ったわ。雪の量、凄いで。昨日は膝くらいまでやったけど、今はうちらの背丈くらいあるんちゃうかな」

そんな雪道の中、友人はどうやってここまできたのだろうか。聞こうとしたが口がうまく動かせない。寝起きで口が渇いていて言葉を声を出すことができない。

「ていうかるう、隣の部屋の火鉢つけっぱなしやったで。危ないなあ。寝るときはちゃんと火の始末せな。換気もちゃんとせなあかんで。嫌やよ、うち。るうの家に来たら火事になってるなんて」

「……ごめんなさい」

「いいんやで。それよりるう、声かさかさやね。乾燥した部屋で寝てるからよ。加湿も大事やで。水、持ってこようか。でもその前に向こうで口の中ゆすいでき。寝起きのお口の中は、ばい菌でいっぱいやからね」

友人に言われた通り、私は洗面台で顔と口を濯ぐ。口いっぱいに水を入れて、うがいをする。渇いた喉に冷たい水が染みる。鏡の前の自分と目を合わせる。白と黒が半分づつ混ざった髪が、揺れている。

部屋に戻ると、友人は隣の座敷でお茶を入れていた。部屋の中にはのんびりした時間が流れている。そういえば、休校になったんだった。慌ただしく顔を洗う、といういつものルーティン内から抜け出すと、ようやくのんびりとした非日常を思い出した。少し肌寒い。台所の窓が空いている。友人が換気してくれたようだ。

「はい、どうぞ」

台所から座敷へと、友人が湯呑みに入った温かいお茶を持ってきてくれた。湯呑みはふわふわと白い湯気をたてている。換気のために開けてくれた台所の窓の外は友人が話していた通り、こんもりと雪が積もっているのが見える。今は吹雪いてはいないようだ。座敷の机の前に、友人と並んで座る。座布団はまだ冷たい。隣に座る友人の温もりが伝わってくる。

「昨日どうやって寝てたん。せっかくの綺麗な髪がまたボサボサやで」友人は私の髪に手櫛を通す。その心地いい感触に目を細める。

「友人もそんなに変わらないでしょ」私は友人に髪をいじられながら、その姿を眺める。いつも着ている、黒い厚手の上着に、地毛で薄茶色のショートヘアがぴょこんと耳元で跳ねている。いつもは綺麗に櫛が入っているのに、今日はぽやぽやとアホ毛が目立つ。

「しょうがないやん、来る途中に風と雪降ってくるんやもん。なのに、うちがここに着いた途端に止むしな。ほんま変な天気やわ。これでも手櫛でなんとか整えたんやで。けど1回濡れてまうと、きれいになおすの難しいわ」友人は自身の髪を撫で付け、外の天気を憎らしそうに見つめて話す。

「でも、パンは無事やで」友人の表情はころっと変わり、先程私を起こした時から手に持っていた、パンの包みを嬉しそうに机の上に置いた。

「昨日のうちにな、帰り道で買っといたの。ほんまよかったわ。流石にパン屋のおじさんも今日ばっかりは来れんやろうからな」友人が袋を開ける。中にはいつものカツサンドが2つ、並んでいた。

「さ、冷めんうちに食べよ」友人がカツサンドを取り出し、1つを私に差し出す。手渡す時、「あ、カレーパンの方が良かった?」と友人は何かを思い出したように言った。

「いつもの流れでお肉やけど、そういえばこの前、るうがおばあちゃんのカレー食べたいって言ってたの、今思い出したわ。まあ、るうのおばあちゃんのカレーじゃなくて、パン屋のおじさんのカレーパンになるんやけどね」

「ううん、これでいい。ありがとう」

「そう? ふふっ。どういたしまして」

友人と2人並んで、朝食のカツサンドにかぶりつく。いつもと違う場所で食べているのに、口の中にはいつもの味がいっぱいに広がっている。とっても美味しい。

そういえば、以前、買い置きの段ボールいっぱいに入っていたレトルトカレーを一晩で食べきったことを、友人に言われて思い出した。中々衝撃的な出来事であったはずなのだが、その後に見た夢の中の肉の映像で、いつのまにか上書きされてしまっていたようだ。カツサンドを口にしながら、のんびりと今日見ていた夢の中ことを思い出す。『お前』は、いつものように肉を食べていた。あの肉は、靴を履いていた。裾は破れていたが服のような布切れも肉片に引っかかっていた。間違いなく人間だろう。

「さて、休校になったはいいけど、他に行く場所も行ける場所もないし、今日はどうしようかな」友人の声で、私は現実へと戻ってこれた。

「私、蔵に行かないと」

「そうなん? でもなんでまたこんな時に?」友人は机に頬杖をついて、苦笑いを浮かべている。

「この前少し、台所に置いておいた買い置きの食材を食べ過ぎちゃったから、蔵に置いてある備蓄の食べ物を取ってこなきゃいけなくなったの」

流石に、台所の備蓄を一晩で食べ切ってしまった、とは言えなかった。

「ふーん……ほんなら、うちも手伝うわ」

「えっ。だって、寒いよ」

「動けばあったかいやん。大丈夫やよ。今日は退屈やもん。るうのお手伝いさせてや」

友人は楽しそうに笑っている。

「……ありがとう」

「うちの方こそ。ありがとう。るうのお手伝いさせてくれて」

私は座敷の奥、本棚の横の襖を開けて、自室の中を横切り、縁側に面する雪見障子を開けた。

「るう、そっちから行くん? 玄関じゃなくて?」

「蔵に行くなら、ここからが1番近いから」

「まあ玄関から雪かきして蔵に向かうよりは、縁側から蔵の方に真っ直ぐ進んで行った方が近いけど……。お庭って何も植えてなかったっけ? ふんづけてまうといかんやろ」

「大丈夫。雑草と石だけだから。あるのは奥の桜の木くらいだよ。大きめの石が少しあるかもしれないけど、踏んでも何にもない。大丈夫だよ。」

「そっか。なら、この縁側から蔵に行くとしますか!」友人は机に両手をついて勢いよく立ち上がった。

「うち、玄関から長靴とスコップ持ってくるわ! るうはそこで待っててな! あ、あと戻ってきた用にタオルも用意せな! 洗面所にあるおぞいタオル何枚か借りるねー」

友人はてきぱきと動き始める。おぞいタオルの置き場所なんて、この家に住んでいる私でさえ忘れていたのに。友人が戻ってくる間に、私はコートを羽織る。友人が長靴とスコップを2人分持ってくる。靴を履いて、縁側へと降りる。縁側は屋根があるので足元は空いていて、雪は積もっていない。屋根から先は、胸の辺りまで雪が積もっている。蔵の藍色の屋根が雪の壁の向こう側に見える。

「流石に雪を全部かくのは無理やから、少し掘って、足で固めていく感じにしよか」

友人は蔵までの道と積もった雪の高さを交互に見比べる。

「とりあえず、蔵までの道を作ろっか。るう、寒くない? 大丈夫?」

「うん」

「ちゃんと防水の手袋してきた?」

「大丈夫だよ」私は友人に、手にはめた防寒具を見せる。友人は嬉しそうに笑った。雪かき開始だ。ざくざくと真っ白な雪をスコップで掘り進めていく。少しの間、無言の時間が雪の中で過ぎていく。

「るうの髪、雪に溶けそうなくらい綺麗やね」友人は突然見境なく言った。そう言う友人の姿は汗に濡れて、綺麗だ。でも、私は言えなかった。

何十分ほど作業していたのだろう。ようやく、なんとか縁側から蔵までの道が繋がった。足元は踏み固められて、白から不透明な銀色に染まっている。蔵の前に立つ。蔵の扉は木製で鍵がかかっている。汗と雪で濡れた防水の手袋を外して、蔵の鍵を手に持つ。金属製の鍵はとっても冷たくて、危うく手から落としそうになる。カチリ、と鍵のとける音がする。蔵の扉を押して開いた。

「せやけど、蔵の扉が内開きでよかったわ。外開きやと、もう少し蔵の前の雪をかかんといけんからね」

電気のない真っ暗な蔵の中に友人の声が響く。蔵の手前だけが外の雪明かりに照らされている。踏み固められた雪から降りて、蔵の土床へと足をつける。雪明かりに照らされて、自分の影が蔵の中に伸びている。蔵の入り口横には、段ボールが積まれている。その少し奥に袋に入った米が置かれている。

「米はまだあるから、この段ボールだけ持っていこうかな」

「りょうかい。そんならうちはこの段ボールを持っていくね。るうは蔵の鍵閉めて、悪いけど2つ、スコップ持ってきてな」

友人はスコップを蔵の入り口脇に置くと、買い置きの食材が入った段ボールを両手で抱えた。私は友人の後についていく。一度振り返って蔵の奥を見てみると、古い家具や農機が埃をかぶって並んでいるのがぼんやりと見えた。明かりは蔵の入り口から差し込むわずかな日の光だけなので、蔵の中の奥深くまではよく見えない。夢の風景に似て、うっすらと何かが浮かび上がってきた。どうやら奥には上に登るための階段があるようだ。白い布を被った何かが、階段の周りに置かれている。用はないだろうな、と思った。今は友人のあとを追うことにした。2人で作った細い雪道を、蔵に背を向けて家へと戻る。友人は縁側から家の中に入ると両手に抱えた段ボールを自室と座敷を抜けて台所の端へと置く。

「ふー。これでええかな。雪かきと段ボール運ぶのは結構重労働やね」友人はおでこから垂れた汗を手で拭う。

「けど、楽しかった。動くとあったかくなるしね。けど流石に汗だくやわ」

友人は上着のポケットから小さなハンカチを取り出すと、顔に残った汗を拭う。次に体の汗を拭う。私はその姿から目が離せなかった。わずかに見える友人の肌の色が、綺麗だな、やわらかそうだな、と思った。

「……良かったら、このままお風呂入ってく?」

「うーん、そうやね。嬉しいお誘いやけど、今から沸かすのも大変やし、大丈夫やよ。汗くらいすぐ乾くから」

一緒に入ろっか、と言おうと思ったけれど、うまくいかなかった。

「さて、まだ時間はあるし」友人は腕時計を見る。

「しょうがない、課題もしますか」友人は座布団に腰を下ろすとリュックサックからノートと参考書を取り出し、その上に公式を並べていく。

私もスクールバッグに入ったノートを手に取ろうとする。けれど、広げるのをやめた。

このノートには、『お前』が食べていた肉の絵が広がっている。散らばっている。

友人に、『お前』のことを話すことは出来なかった。ただの夢の話としてすませることはできない。でも、本当の話として深刻に友人に話をするには、記憶も情報も足りない。私の中に夢の感覚の延長戦で残るものだけが、『お前』を存在させている。そんな不確定な情報だけでは友人を心配させてしまう。怖がらせてしまうかもしれない。だから、『お前』は私が1人で見つけて、1人で殺す。『お前』は白崎家以外の人間は食べていないはずだ。まだ、どうにかなるはずだ。

課題を進める。静かな時間が過ぎていく。向かいに座る友人の顔を見つめる。唇が突き出していて、その先にペンが当たっている。外では風が吹いて、台所のガラス戸が騒がしく揺れる。時計を見上げる。昼前になっていた。友人と過ごす数時間は短い。あっという間だ。

「うわあ、また降るかもしれへんな」友人は窓を開けて外の様子を確認していた。黒い雲が出てきている。冷たい風が、湿っぽい匂いを含んで吹き込んでくる。

「うち、そろそろ帰るね」机の上の自分の分だけノートとペンケースを片付けて、友人は腰を上げる。

「ありがとう、るう。今日は楽しかったわ。また明日な!」友人は何も変わらない笑顔で玄関から出ていった。

私は1人座敷に戻り、机に突っ伏した。外が静かになった。蔵の中を思い出して、外に出てみる。友人を早めに帰してしまった原因である、空を睨む。先ほどまで空に満ちていた黒い雲は風に流されて、消えてしまっていた。1人、友人と作った雪道を歩く。あっという間に蔵へと着いた。蔵の扉を大きく開くと先ほどよりもう少し奥まで光が入る。蔵の奥へと歩を進める。入り口と同じく木製の階段が蔵の上へと伸びている。随分と急な傾斜だ。階段の上までは流石に光が入らない。手前の古い道具や家具類に遮られて蔵の奥は暗い。階段自体が隠されているようだ。寒気がする。上着を着るのを忘れていた。蔵にもう用事はない。友人ももういないのだから。私は家へと戻った。

明日も、友人は来てくれるだろうか。友人への感情だけが胸を埋め尽くしている。友人を失いたくない。家族みんなのことを人喰いの化け物、『お前』に食べられたことを思い出した時は何も思わなかったのに。同然の事実として、通り過ぎた過去として受け入れられたのに。

友人は、学校がある日は毎日家に迎えにきてくれる。バスの中で朝食を持ってきてくれて、身支度を手伝ってくれる。他愛もない話をしてくれる。家族同然の存在なのに、家族には抱かない感情がそこにはあった。

胸が苦しい。友人の全てを自分に向けていたい。自分だけを見ていて欲しい。自分のものにしたい。きたないかんじょう、独占欲が抑えられず、胸中から溢れている。どうしたらいいのだろうか。どうしてこんなことになったのだろうか。とにかく今は人喰いの化け物、『お前』の正体を突き止めて、『お前』を殺して、友人を守らなくてはならない。とにかく化け物の、『お前』の手がかりを探そう。髪の毛とか皮膚とか足跡とか、なんでもいい。蔵から戻り、縁側から『お前』が隠れていると思われる外の景色を眺める。寒気に負けないよう、モコモコのパジャマを上着を肩から羽織る。けれど、全ては雪の下に埋もれて隠されてしまっている。この雪が、この季節が恨めしい。

空を見上げて、睨む。けれど、太陽は出ていない。雪が溶けるのはもう少し時間がかかりそうだ。

ようやく諦めがついたのか、雪かきの疲れがようやく来たのか、身体全体の、特に頭部の重みが増してきた。私は雪見障子を閉めるとそのままひきっぱなしの布団に倒れ込んだ。今日はちゃんと友人が帰った後に火鉢を消した。大丈夫だ。枕に頭をゆっくりと埋める。

夢に落ちていく感覚が頭から指先、足先へと広がっていく。ぬるま湯に身体を沈めていくように、意識を心地よい暗闇へと落としていく。



 強烈な匂いがする。鼻腔内の感覚が一番最初に脳にやってきて、次に視界に鮮やかな色がつく。真っ赤な色が一面に広がっている。私の目は自然と補色の緑を探していた。地面にわずかにあった、短い草が生えている。一面血が広がっている。わずかに残った雑草の薄い緑色。『お前』は、土の上で肉にかぶりついている。肉は、祖母の顔をしている。祖母の顔はよく見えない。どんな表情をしているのかは分からないが私にはその肉塊が祖母だと分かった。そうだ、『お前』が私の家族を食べたのだ。けれど、実際肉に顔がついているのを見るのは初めてだ。事実としては受け入れられていても、映像を直視できるほどの想像力と肉の元に対する関心は無かったようだ。


 短い夢だった。目覚めると身体にぴりぴりとした怠さと鋭い感覚が同時にやってくる。まだ少し眠り足りないようだが、障子の外は明るくなってきている。布団から起き上がると、寝室の中にいた。頭を振り、視界を動かす。『お前』は一体、どこにいるんだろうか? 台所につながる襖が開いている。台所には、友人が立っていた。

あれ、帰ったんじゃなかったっけ。それとももう、明日になったのだろうか。学校は? まだ休校なのだろうか。友人はこちらに背を向けて、料理をしているようだ。トントンとまな板の音が聞こえる。友人の横で大きな鍋がぐつぐつと煮立っている。この匂いは、カレー、だろうか。

そんなことよりも、早く化け物、『お前』を見つけなくては。人の肉を喰らう化け物が、この町のどこかにいる。『お前』は、人の肉を食べる。『お前』は私の家族、祖母や母を食べた。今も人の肉を求めて、何処かを彷徨っている。台所に立って、のんびりと料理をする友人にそんな突拍子も証拠もないことは言えなかった。私の夢の話だ。けれど、夢の記憶は日々鮮明になっている。化け物は、私の祖母と、母を食べていた。肉の断片は人の形になり、肉の顔は表情までは見えないが鮮明に映し出される。『お前』は人喰いの化け物だ。しかしどんなに探しても手がかりすら見つからない。友人に手をかける可能性のある『お前』を、私は早く見つけ出して、殺したいのに。夢の中ですら『お前』の背中しか見ることができない。『お前』が夢ではない、現実の世界で見つからないのであれば、友人と2人で逃げるしかないのだろうか。どこから? どこへ?『お前』がどこにいるのかも分からないのに、逃げるあてもない。『お前』は、今何を食べているのか。私の母と祖母以外の人間も食べたのだろうか。私の父も食べたのだろうか。父は夢にあまり出てこない。あまり家に帰ってこなかった。会うことが少なかった。記憶と映像にほとんど残っていない。でも、たまに家に帰ってきて、いい匂いをさせていた気がする。その匂いにつられて、『お前』は父を食べたのだろうか。その味は覚えていない。夢の中では肉の味はほとんどしない。それに、硬い肉はあまり好きではないのだ。『お前』は硬い肉が嫌いなのだろうか? 軟骨は歯で噛むとこりこりしていて美味しいと思うけれど。それとも肉厚な肉があるからなのだろうか。覚えていない。だから、『お前』が父や他の人間を食べたのかは分からない。けれどやわらかい肉の感触、祖母と母。この2人だけは『お前』が食べたのだと、確実に鮮明に覚えている。『お前』が好きなのは、女の肉だけなのだろか。ならば、ますます友人の身が危ない。私に背を向けたままの友人の顔が浮かんで消えて。胸の奥が焼けるようだ。布団から身を起こしたまま、体を動かせない。身体中が重くて、重い体では固まったように腕を数十センチ先に伸ばすことすら叶わない。夢の中でも現実でも私は、自由に動けるはずなのに。どうしても、錘がついたように重たくて、うまく動かせない。思うように動かせない。

『お前』は、外にいるはずだ。地面に、土の上に肉塊の血を撒き散らして、肉にかぶりついている。危ない。友人を『お前』から遠ざけなければ。座敷の机の上に、皿が置かれている。女が、机の前に座って笑っている。母だ。母が、大きな白い皿の前で嬉しそうに笑っている。私はいつのまにか、座敷の机の前にちょんと座っていた。友人がいるはずの台所に背を向けて。

『美味しいやろ?』

強烈な匂いをかもし立つ皿を、指輪の光る指で差し示す。母は、笑っている。私は皿の上の味を覚えている。銀色の匙が光って、大きな肉塊がルウの上にこぼれ落ちる。思い出の味。大ぶりの夏野菜がたっぷり入った、祖母のカレー。美味しい。具材が、野菜の他に、肉もたくさん入っている。台所には、祖母と母が二人で立って、準備をしていた。今、食卓を囲むのは私と母の二人だけ。私はスプーンで一生懸命祖母のカレーを口に運ぶ。母と祖母が並んで立っていた台所に背を向けて。

台所からも強烈な匂いがする。皿に載っているのより、もう少し濃い匂い。そうだ。あれを作ったのは祖母ではない。あれは祖母のカレー。祖母が入った、私の母が作ったカレーだ。

私が、祖母を食べた。

『お前』は、私だった。美味しそうに思い出のカレーを食べる。匙を口出し入れするたびに、私の白髪が揺れる。黒髪が頬にへばりついている。私は黒髪。姉の色をもらって白と黒の半分ずつ。でも、姉は黒髪だった。だって、両親2人とも黒髪じゃないか。白い髪は、祖母と曽祖父の2人ではないのか? 私の髪色が半分白いのは、祖母と曽祖父の2人を私が食べたからだ。食べたのは、『お前』だ。『お前』は、私だったのだ。

ようやく私は後ろを振り返ることができた。台所にあったはずの友人の姿は、いつのまにか消えていた。




 「るう、起きてる?」

どこからが夢で、どこからが現実なのだろうか。起き抜けの頭では到底気付けるはずもない。夢ならいずれ忘れるはずなのに、思考に、舌先に記憶と感覚がこびりついている。これは、肉の感触だ。頬に涎はついていないが、夢の中で、先ほどまで口にしていたその味と感触を覚えている。映像はじわじわと溶けるように消えていくのに、五感だけが乾いた血のように私の身体のあちこちにこびりついている。友人は逆さまの世界で、私を覗き込んでいた。茶色の短髪が揺れて、友人の顔に薄い影を作っている。

「……あ、まだ寝てても大丈夫やよ。今日も雪で休校やから」

友人の声に答える気力が湧かなかった。友人は構わず話を続ける。

「それもとりあえず今日までやけどなあ。明日から学校再開やて。雪はまだまだ残ってるけど、なんとか除雪車も動いてるし、学校来れる人も多いからって。あーあ、短い臨時休校やったなあ」

友人は頬に手のひらをくっつける。ぷにっと友人の柔らかそうな頬っぺたの肉が持ち上がる。

「まあ休んだら休んだでその分授業とかテストに皺寄せが来るから大変なんやけどな、休めるならたまには休みたいよなあ」

私と友人以外、誰もいない広い部屋。和室。雪見障子からはやわらかな光が差し込んでいる。

夢の中の情景が目の前に重なるように残っている。あぁ、母や祖母たちは『お前』という化け物に食べられてしまったんだ。そう思うとスッキリした。悲しくはない。そんな感情は、家族に抱くべき感情は無くした記憶と一緒に消えてしまっている。記憶を戻せば戻ってくるのだろうか。それにしても、初めて友人を夢に見れたのに、友人はとても遠かった。触れることは叶わず、すぐに消えてしまった。目にできたのは後ろ姿だけだった。そうだ。私は夢の中でカレーを食べていた。この前段ボールいっぱい食べたはずなのに。いや、だからだろうか。とても美味しかった。無くした記憶の一部だろう。幼い頃の、夢の中の祖母のカレー。『お前』が、いや、私が、祖母の、祖母の肉の入ったカレーを食べていた。『お前』は、私だった。

私は布団から起き上がった。勢いよく起きたせいで布団が跳ね上がり、障子から差し込む光が埃をきらきらと反射させている。

「うわっ、ビックリした。急に起き上がってどうしたん、るう」

そばに座る友人と目が合う。光に照らされた綺麗な瞳、今日の友人は薄ベージュ色のコートに身を包んでいる。私服だ。やわらかくて、あたたかそうだ。

『お前』は、美味しそうだと思うのだろう。

私は、『お前』が友人を食べる、友人を失うことをまた想像してしまった。嫌だ、いやだ。『お前』という存在が急に恐ろしくなった。ようやく『お前』を見つけ出すことができたのだから、『お前』の正体が分かったのだから、あとは殺すだけなのに。

どうにかして『お前』を、私を殺さなくては。

警察に出頭させてもダメだ。『お前』は人間の肉が大好きだから、警官たちも食べられてしまう。

警察は、この事件を知らないのだろうか。誰も、捜索願いを出していないのだろうか。そんなにも白崎家は他の家との関係が希薄なのだろうか。何も分からない。高校1年生の、記憶のない私には。ただ、目の前の友人を失いたくないとだけ、強く思う。

肉を食べるのなら、野菜を食べさせれば、『お前』は死ぬんじゃあないだろうか。バカみたいだ。だから私は、季節外れの夏野菜カレーを求めたのだろうか。数ヶ月しか記憶のない友人に、私はどうしてここまで執着するのだろうか。私は、友人の名前さえ覚えていない。友人の名前を呼ぶことすら出来ないのに。失った記憶に手がかり、理由があるのか。あぁ、記憶を取り戻したい。夢、中学生、高校生に入学した頃の記憶。友人と出会った時の記憶。

それが見つかれば、きっと。友人のことも名前で呼ぶことができる。

私の中に巣食う化け物を、『お前』を殺したい。そのためにももっと、私は過去の記憶を取り戻さなくてはならない。もっと、もっと肉の映像が必要だ。肉の映像だけが鮮明に記憶に残っていて、肉の記憶を頼りに過去の映像を思い出すことができるのだから。私は感触の残る舌に神経を尖らせた。

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