プロローグ

 明るい光が顔を差している。血管を透かして、赤血球の色が視界に映る。目の前には閉じたまぶたのその裏側が見えている。瞳を通して神経を伝って、脳に赤色の刺激が届く。光、色、そして太陽の熱。まず初めに感じた知覚だ。外界の眩しさを想像しながら、ゆっくりと瞼を開く。どれほど長い間、目を閉じていたのだろう。まつ毛がうっすらと粘ついた下瞼にくっついている。目から光が入り、周りの景色が見える。光景がぼんやりと浮かぶ。想像以上の眩しさと色鮮やかさに一旦瞼を閉じる。身体全体の感覚に集中する。身体全体に臓器と組織、あまつさえ空気の感触が重くのしかかってくる。左の頬に広く硬い感触があり、歯が歪みそうなほど圧力がかかっている。どうやら硬い地面に横になっているようだ。とにかく起き上がろう、と暗い視界で手足の方へ意識を向けていく。

手はなにかで長時間圧迫していたのか、指先から強く痺れていて思うように動かせない。対して足は妙に軽い。浮力の強い風船を2つ足首に細い紐で適当に括られているみたいだ。

手が痺れているせいで、うまく力が入らない。地面をうまく支えて立つことができず、足は浮きそうなほど軽いのでバランスが非常に取りにくく、その場から起き上がるのに随分時間がかかってしまった。起き上がることを試み始めた頃には頭上を焼いていた太陽が、今は目の前まで傾いてきた。ようやく地に足をつけて立ち上がった頃には、腰の辺りが熱を帯びていた。なんだか湿っぽい気さえする。一瞬焦り、下半身を触る。何もない。安堵して、大きく息を肺から吐いた。体に溜まっていた澱んだ空気が一気に抜けると、代わりに頭部のずっしりとした重さが首にのしかかってきた。その重みに負けて、自然と瞼が再び閉じてしまう。真っ暗になった視界と、気を抜くと今にもひっくり返りそうな足元のせいで、感覚が落ち着かない。吐き気がしてくる。なんとか眼球を動かして、瞼をこじ開けた。ぼんやりとした視界が大きく揺れる。吐き気が喉の上まで到達しそうになり、ぐっと唾を飲み込んだ。次第に視界のピントが合ってくる。

 私は、短い雑草の生えた畦道に裸足で立っていた。手先の痺れが足元にまで滴り落ち、やがて到達する。足裏からの土の感触が脳に届くと、ようやく元の感覚がわずかばかりに戻ってきた。息が苦しい。この身体を動かすための酸素が全く足りていない。と同時に空腹を覚えた。喉が開いて、頭がぼうっとしてくる。何日食べ物を口にしていないのだろうか。粘ついた口腔内とふらつく全身が、この身体を動かすための何もかもが足りないぞ、と訴えている。食べるものを探して長いこと彷徨っていたのか、足は爪の奥まで汚れている。さっきまで宙に浮きそうだった足は水風船をつけたように重くなっている。下半身の、特に膝から下は足首までパンと浮腫んでてらてらと光沢を放っている。何歩、何日、何時間歩き続けているのだろうか。食べ物は、どこだろう。何を食べたいか、じゃない。何でもいい。何でもいいから口に入れたい。いっそのこと、目の前にあるこの黒い土を口に入れようか。とても美味そうには見えないが、腹に入れば一時凌ぎにはなるかもしれない。どこからか漏れ出した水を注がれているように、浮腫んだ足はどんどん重くなっていく。頭をふらつかせながら、身体全体を揺らして全身のバランスをとりながら、夕焼けに背を向けて引きずるように歩いていった。重たい頭を抱える余力もなく、項垂れた視界に、地面に落ちた影が見える。後方からの太陽に焼かれて細く長い影が地面へと映っている。

 いい匂いがした。鼻腔をすんっと優しく撫でる、それでいて脳を激しく擦るような感触はすぐに脳から全身へと1番強い信号を送る。動け、動けと。体の重みも忘れて、一心不乱に、本能的に動いていた。からからに渇いていた口の中が、あっという間に涎で溢れんばかりにいっぱいになった。

肉だ。食べ物だ。目線の先、ぼやけた地面の上にピントの合った肉塊が見える。

足を引き摺る。身体全体にかかる重力がとても邪魔くさい。身体全体で転がらんばかりに肉塊へと向かう。肉塊まであともう数センチのところまできた。足はもう動かない。突然強力な磁石で地面とくっついたように、象のような太い足は足の裏を離して、膝から地面にへばりついた。肘をついて、ゆっくりと肉塊手前の地面に手をつける。湿った土は冷たい。汗か涎だかがひとすじ頬から垂れる。

薄い皮膚と骨の張った手を伸ばして、指と手のひら全体で掬い上げるようにして、道に落ちている肉塊をそうっと拾い上げた。手首を曲げて顔に近づけた瞬間、とてつもなく芳しい香りが鼻腔から喉へと通り抜けた。口を開ける。涎が口の端からだらだらと垂れる。肉塊の匂いを含んだ空気が喉から胃へと向かう。さらに涎が口元を濡らす。ようやく見つけた、手の上の食べ物にかぶりつく。歯で思い切り肉塊へとかぶりつく。口から手から、粘液混じりの液体がボタボタとこぼれ落ちる。肉。これは肉だ。繊維を噛み切る。ぶちぶちとした感触が舌の上で踊っている。


でもこれは、人間の食べる物ではない。

そう直感した私は、咄嗟に『お前』から離れた。

宙に浮かんだ視界から、私は『お前』の背骨が浮き出た背中を見つめている。

人ではない『お前』は、がむしゃらに手元の肉に食らい付いている。

口から自分のとも肉塊のともみてとれる血が、『お前』の口の中から溢れ垂れている。

『お前』の背中が黒く染まる。燃え尽きそうな夕焼けが、地平線に闇を引き連れて落ちていく。

夕焼けと血で赤く染まった『お前』の顔が見える。

私の目には、はっきりと『お前』が見えている。

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