エピローグ
優しい朝日がステンド硝子に差し込み、キラキラと色とりどりに輝いて、それが教会の床に反射しユラユラと揺れている。
教会の掃除を終わらせてから、クリスマスツリーの手入れをするのが、日課となっていた。クリスマスツリーの手入れは特に好きで、つい鼻歌を口ずさんでしまう。色んな形のオーナメントが飾り付けられたクリスマスツリーは、彼の背丈以上に大きく立派なものだ。
その手入れをしているうちに、キッチンのほうから、ベーコンの焦げる匂いがしてきた。
「羽音、朝食の準備ができたよ」
「あ、
羽音と呼ばれた青年は、ニッコリと微笑む。
「相変わらず、綺麗に手入れされたクリスマスツリーだね」
「はい。僕、何だかクリスマスツリーが大好きなんです」
「ふふっ。蝉の鳴く季節にクリスマスツリーなんて……羽音は、余程クリスマスツリーが好きなんだね」
「すみません。教会の季節感を壊してしまって」
クスクス笑う凛斗を見た羽音は、顔を真っ赤にしながら慌てて頭を下げる。確かに、朝から蝉の大合唱が聞こえてきている、今は初夏だ。朝日がキラキラ輝き、風からは夏の香りがする。
そんな時期にクリスマスツリーなんて……考えなくてもミスマッチな風景だった。
「きっと、羽音にはクリスマスツリーに、大切な思い出があるのかもしれないね?」
「自分の名前以外、記憶がないくせに……変ですよね」
少しだけ寂しそうに俯けば、そんな羽音の頭を凛斗が優しく撫でてくれる。
羽音はいつもニコニコしているのに、突然寂しさに襲われることがある。今、羽音はとても幸せなのに……なぜだろうか。心にポッカリ穴が開いてしまったかのようだ。
「羽音がここに来て、もう三年も経つんだなぁ」
「はい。早いものです」
「でも、もうそろそろ、君の王子様が君を迎えに来るかもしれないよ?」
「え? 王子様が?」
「そう。ある人が君を僕に託したんだ。その人は、君に深い愛情を注いでいて、幸せになって欲しいと強く願っていた。それは、彼女が死んでからも変わらなかった。彼女は、君を僕に託したんだ。でも、その役目も、そろそろ終わりかもしれない」
凛斗がクリスマスツリーを眺めながら、感慨深そうに目を細める。羽音は、凛斗が何を言いたいのかがわからず首を傾げた。
「あの日、この教会の扉の前で倒れている君を見つけた時は、本当にびっくりしたよ。本当に、彼女が言ってた通りになったんだもん」
「彼女? ねぇ、凛斗さん。一体さっきから、何の話をしてるんですか?」
「ふふっ。秘密だよ。でも、それももうすぐわかる」
凛斗が場を和ませようとしてか、悪戯っぽく笑う。
凛斗の歳は五十から六十位だ。黒縁の眼鏡が、彼を酷く知的に見せる。その慈愛に満ちた笑顔は誰かに似ているのに……羽音には、それが誰なのかが思い出せなかった。
ただ、羽音にとって、とても大切だった人のはずなのに……。
自分の名前以外の全ての記憶を失ってしまったことが、羽音は苦しくて仕方ない。 きっと、こんなにもクリスマスツリーに惹かれるのも、きっと何か理由がるように思えてならないのだ。
──羽音。
それに、羽音は絶対に忘れてはならない、本当に大切な物を忘れてしまったような気がしてならない。
その大切な物が何かはわからないけど、時々、とても優しい声で自分の名前を呼ばれる気がするのだ。その声はとても心地良くて、懐かしくて……。愛おしくて、涙が出そうになる。それでも、羽音にはそれが誰なのかを、思い出すことができなかった。
「あの時、凍え切った僕を見つけてくれなかったら、あのまま僕は死んでいたかもしれません」
「そうだね。でも、僕は何より、君の容姿がとても綺麗でびっくりしたよ」
「え?」
「若い頃のあの人にそっくりで、放っておけなかったんだ」
「あの人……?」
「ふふっ。そう。あの人」
それは誰ですか? と、羽音が問い掛けようとした瞬間、教会の外が一気に賑やかになる。
「ほら、来た来た」
「え?」
凛斗は可笑しそうに、でも、とても愛しそうに音がする方を眺めた。
「凛斗、羽音、ご飯が冷めちゃうよ!」
「はいはい、
「もう、早くしてよ?」
「わかったわかった」
羽音はいつも不思議だった。凛斗は、珀のことをとても優しい眼差しで見つめるのだ。
二人は恋人同士なのかな……とも思う。
「珀の頭から、角が生てくる前に行こう?」
「はい」
「それに、今日はとても大切な来客があるんだ」
凛斗が羽音を見つめて、嬉しそうに微笑んだ。
「あ、羽音。今日の朝早く、花屋の
「本当ですか?」
珀の言葉を聞いた羽音が目をキラキラと輝かせる。ずっとずっと待ち焦がれていた薔薇が届いたのだ。
「綺麗な白薔薇だったけど、なんていう薔薇なの?」
そんな羽音を見た珀も、ついつられて笑顔になってしまう。
「あの白薔薇は『ウェディングドレス』っていう名前なんです」
「へぇ……ウェディングドレスかぁ……幸せそうな名前だね」
「はい!」
羽音と珀が目を合わせて笑っている。
「なんだか、羽音は、あのドレスを着て誰かの所にお嫁に行くみたいだね」
凛斗が朝食の目玉焼きを頬張りながら呟く。
「え、え、そんな!?」
「そうなの? 羽音?」
珀が満面の笑みを浮かべながら、羽音の顔を覗き込んだ。その表情を見て、羽音はドキドキしてしまった。
珀は、凛斗より大分年下に見えるけど、本当に整った顔立ちをしているのだ。何より、海のような透き通った青い瞳で見つめられれば、そのまま吸い込まれそうになってしまう。
「男の僕がお嫁になんて……ありえないです……」
「そうかな? きっとあの純白のドレスは、羽音にピッタリだよ」
凛斗がニッコリと微笑えば、羽音の頬は真っ赤になってしまう。顔から火が出そうだった。
「ご、ご馳走様でした!」
慌てて残ったパンを口に詰め込んで食器を持ったまま、キッチンへと向かう。
「はいはい、食器は洗うから流しに置いておいていいよ」
呑気な珀の声が聞こえてくる。羽音の胸は、意味も分からずドキドキと高鳴った。
「ねぇ、凛斗……」
「ん? なんだ?」
珀がベーコンをフォークで突きながら、凛斗を見上げた。
「花屋の麗羅は、多分、羽音のことが好きなんだと思うよ」
「あぁ、多分そうなんだろうな」
「やっぱりそうだよね。あの子、羽音に会いたくてここに来てる感じだもん」
「うん」
凛斗が少し上目遣いで何かを考えた後、珀を見つめてにっこりと微笑んだ。
「でも、羽音にはきっと、もう命をかけてまで愛し合った人がいるんだよ」
「そっか……」
「そう、俺達みたいにね」
凛斗が珀の手を掴み、そっと頬に唇を寄せる。
「バァカ」
「でも、サラの遺言通り……今日、羽音には王子様が来るから」
「もう三年か……あっという間だったね。あの子達にも幸せになってもらいたい。あの時の、僕達みたいに」
「あぁ。そうだな」
珀が顔を赤らめながら、照れくさそうに、でも幸せそうに笑っていたことなんて……鈍感な羽音は、気付きもしなかった。
珀が言った通り、白薔薇は廊下にそっと置かれていた。
「ようやく届いた……」
羽音は嬉しくなり、そっと花束を抱き締めた。
ウェディングドレスという品種は、真冬の寒い時期にしか咲かない。だから、滅多に手に入れることはできないのだ。
「んー、いい香り」
羽音は、白薔薇の香りを思い切り吸い込む。そのまま軽やかな足取りで、再び教会へと向かった。 綺麗に手入れされたクリスマスツリーの近くの、大きな
「綺麗だなぁ」
羽音はこのウエディングドレスが大好きだった。
記憶のない羽音が、なぜこんなにも、この薔薇に心を奪われているかなんてわからなかったけど……まるで、宝物のように大切な物に思えてならない。
『俺はこの薔薇を貴方に見せてあげたかった。貴方みたいに、可憐で綺麗だったから』
目の前で、誰かが照れくさそうにはにかむのだけど、羽音はそれが誰だかわからなかった。ただ、このウェディングドレスも、クリスマスツリーも、羽音にはとても大切な存在なのだ。
「羽音」
遠くから凛斗の声がした。
「今日、夜のお祈りの後、貴方に会いにお客様が来るからね」
「僕に……それも夜?」
「ふふっ。とびっきり素敵なウェディングドレスを着て待っててあげて」
凛斗がウィンクをしてから悪戯っぽく微笑んだ。
「羽音、素敵に夜になるといいね……」
夕方、祈りを捧げた人々が羽音に手を振りながら家路に着く頃、ようやく金星が輝き出した。
「羽音、またね」
「はい。朝方はまだ冷えるから、風邪をひかないように」
「羽音。また会いに来るからね」
「ありがとう。お待ちしてますよ」
羽音がニッコリ微笑めば、教会を訪れた人々みんなが幸せな顔をしてくれる。それが、とても嬉しかった。
「さてと……」
人々がみんな帰ったのを見届けた羽音は、大きく息を吐いてから、クリスマスツリーを見上げる。
きっと今頃、キッチンでは珀が一生懸命に夕食を作ってくれていることだろう。それまでに、教会を掃除してしまわないと……。
そっとマッチを擦って、教会に置いてあるランタンに火を灯す。ランタンの淡い光が、クリスマスツリーの飾りを、暗闇の中にボンヤリと浮かび上がらせた。
そのすぐ脇には、真っ白なウエディングドレスが、まるで「私を見て」と言わんばかりに、大輪の花を咲かせている。
羽音は、クリスマスツリーの近くに、膝を抱えて蹲った。
クリスマスツリーに、真っ白な薔薇。それに、優しく自分を抱き締めてくれる温かな腕。
とても大切な記憶なのに、どうしても思い出せない。
教会の鐘が、今日一日の終わりを知らせるかのように、街中に響き渡る。
その心地よい音色に、羽音が目を閉じかけた時……ギィッと静かに扉を開ける音が聞こえたきたから、慌ててそちらを振り返る。
「……どなたですか……?」
そこには、背の高いスラッとした人物が立っていた。
目を凝らしてその人物のことを窺えば、キャソックを着ている。どこかの神父さんだろうか……と、羽音は頭の片隅で思った。
「え……? 百合の香り……」
その人物が、教会に入ってきた瞬間に、広い教会の中が百合の甘い香りで満たされた。
「いい香り……」
羽音はそっと息を吸い込む。凄く懐かしい香りに、胸が締め付けられた。
淡い月明かりの中、優しい眼差しで羽音を見つめていた人物が、まるで天使のように微笑む。その優しい笑顔に、羽音の視線が釘付けになった。
懐かしくて、愛しくて……泣きたくなる。
「羽音。ようやく見つけ出しました。俺は貴方に、会いたかった……」
「貴方は、誰……?」
羽音が恐る恐る声を掛ける。
記憶を失った羽音からすれば初めて見る人物なのに、ひどく懐かしい。懐かしくて、意味もなく涙が溢れ出しそうだった。
「俺は、九条瑞稀。去年セイント・アクシオス学園を卒業した神父です」
「セイント・アクシオス学園を卒業……?」
「はい」
「そんな立派な神父様が、なぜここに?」
「それは……」
瑞稀と名乗った青年が、ゆっくりと近付いてくる。初めて見る人物なのに、羽音には全く警戒心など湧いては来なかった。
少しずつ強くなる百合の香りに捕らえられてしまったかのように、身動きが取れなくなってしまう。
「俺は、貴方を探してました貴方と約束したんです。絶対に貴方を探し出すって」
「え? 僕を?」
「ええ。ミセス・サラが僕に最後に残してくれた遺言」
目の前の瑞稀がニッコリと微笑む。羽音には、その笑顔に見覚えがあった。
『羽音が星屑になってしまったら、海の見える硝子でできた教会に行って欲しいの。そこには、私の兄の凛斗と人間になったハクがいるわ。きっと、神が羽音を凛斗の元へと導いてくれるはず。だから、ちゃんと探し当ててちょうだいね』
「貴方は、俺に愛されるために生まれてきたんです。そして、俺を愛する為に、今こうして生きている……」
「貴方に、愛される為?」
「そうです。俺は例え、貴方が天使だろうが悪魔だろうが、そんなの関係ない」
背の高い瑞稀が、真剣な表情で羽音の顔を覗き込む。
「記憶なんて、また俺が取り戻させてみせます」
「…………」
「俺は神に誓います」
そのまま、瑞稀は羽音に元に跪いた。
「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、貴方を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、この命ある限り真心を尽くすことを誓います」
そのままスッと立ち上がり、フワリと微笑んだ。
「貴方が、例え記憶を失っていたとしても、天使の姿だろうが、悪魔の姿だろうが……そんなの俺には関係ない」
「みず……き……?」
「俺は、心の底から、来栖羽音を愛してます」
羽音を見つめる瑞稀の瞳に、キラキラと宝石のような涙が浮かんでいる。
「羽音……メリークリスマス」
今にも涙が溢れ出しそうなのに、瑞稀は笑っている。その笑顔に、羽音の胸が締め付けれた。
その瞬間、羽音の中で止まっていた時計の秒針が動き出し、記憶の砂時計がサラサラと音をたてて落ち始める。バラバラだったはずのパズルのピースが、再びパチンパチンと綺麗にはまっていくのを感じた。
「瑞稀……」
「はい。俺は瑞稀ですよ」
「瑞稀!!」
羽音は夢中で、その温かくて優しい香りがする腕の中へと、飛び込んだ。
悪魔と神父が恋に堕ちて……二人はキラキラと光る季節外れのクリスマスツリーの下で、永遠の愛を誓った。
【END】
天使と悪魔が恋に堕ちて 舞々 @maimai0523
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