第15話 延長戦


 ぐぅっと腕を上に伸ばしてストレッチをする。

 いつしかソファから滑り落ちた陽菜は、カーペットに座り、ソファを背もたれ代わりに使っていた。

 アルバムに目を通し、差し入れとして用意されたアイスはすべて平らげられた。6つのカップはテーブルの上に空っぽの状態で並んでいる。スプーンで触り切れず隅に残っていたアイスが溶け、溝に沿うようにして広がっていた。

 本日のミッションはコンプリート。終わりを切り出す、そのタイミングを陽菜に任せて待っている。


 早く帰ってもらいたいとまでは思っていないが、これ以上何もすることはないだろうと予見しているだけに、「お開き」の言葉を期待してしまう。そのせいか、時折、陽菜の顔を窺っていた。


「あっ……」


 何か思いついた、ないし思い出したとでも言いたげな声を上げ、周囲をちらちらと見回し出す。視線はテレビ台の周辺など、物が整頓されている箇所を巡っている。目当てのものが見つからなかったのか、陽菜はやがて俺に焦点を合わせた。


「ねぇ高瀬くんって写真撮ってるんだよね。アルバムに残してないの?」

「昔のアルバムなら引き出しを開ければ出てくる。人の妹が写ってるアルバムなんて見ても面白くないと思うけど」


 アルバムを探していたのだとすれば、陽菜は結構惜しいところまで来ていた。正解はテレビ台についている引き出しの中でした。


「それはちょっと見てみたいかも。でも、私が見たいのは高瀬くんが撮った写真だよ」

「俺が撮った写真? それこそ面白くないんだが」

「いいからいいから」

「わかったよ。取ってくるから待っててくれ」


 写真を見せると了承し、自室へ向かう。俺の撮ってきたものが誰かに見られて恥ずかしいという感覚はない。見世物として面白くない自覚があるだけだ。そこを重視しないと言うのなら、特別断る理由はなかった。

 意図せずして体が覚えてしまった自室までの最端の道のり、階段を上る歩幅。流れるような動きで写真を収めているアルバムを拾い、リビングへ戻った。

 戻ってきたとき、俺の息は少しばかり切れていた。顔もちょっと険しかったかもしれない。

 アルバムを手にしている俺に気づいた陽菜は、期待の眼差しを向ける。期待されると困るんだけどな。


「早かったね!」

「そうかもな。ほい」

「ありがと」


 俺が手渡したアルバムは片面に1枚ずつしか入らないコンパクトサイズのものだった。大きいというより、分厚いと感じさせる一品だ。

 陽菜が想像していたよりも物が重たかったようで、受け取った手がわずかに下がる。


 アルバムを渡した俺は、ついでにテーブルからグラスを回収し、キッチンに向かった。これで何杯目か憶えていないが、麦茶が入っていた容器は空になる。

 ソファまで戻ると、陽菜は写真を1枚1枚じっくりと見ていた。俺が麦茶のおかわりを用意してきたことにも気づかないほど集中している。

 俺は対面のソファに座り、グラスを口に運び、くいっと傾ける。麦茶を啜りながら、アルバムを凝視している陽菜を眺める。手持無沙汰というほどではないが、現状やるべきことがないのは事実だ。

 1ページずつ丁寧に捲られていく。遠くからでも一目見れば、それが何の写真であるかすぐにわかってしまう。それも当然だ。俺がその瞬間を残しておきたいと思って撮った1枚なのだから。

 そのアルバムに残る写真のすべては俺にとって価値観の痕跡であり、軌跡だ。

 今になってみれば、しょうもない写真もあるけれど、それはそれで悪くない。


 陽菜が写真に飽きるまでの時間で、麦茶をちょびちょびと飲み進める。

 どれだけの時間が経ったか、細かいことはわからない。ともあれ、先に麦茶がグラスの底をついていた。


「ふぅ~……」


 ぱたんとアルバムを閉じた陽菜は、見終えたと言わんばかりに溜め込んでいた息を吐いた。一休みも束の間、すぐに俺の顔を見る。


「これが高瀬くんのカメラで撮ってきた光景なんだね」


 その言葉に、沈んでいた記憶が浮かび上がる。

 初めて石川陽菜と出かけたあの日、俺はフィルムカメラ、Yashica MF‐2 superで撮ってほしいという申し出を断った。今思えば、自分の残したいと思ったものだけを撮る、という理由は我ながら痛々しい。そんな信念、簡単に曲げてしまうこともできたはずだ。


「がっかりしたか?」

「ううん。そんなことないよ。高瀬くんが普段何をどんな風に見ているのか、なんとなくわかった気がする。例えば……」


 陽菜はアルバムを開き、該当するページを探す。写真を見つけると、俺から見やすい向きに正した。

 その写真はなんてことのない道を写していた。これは学校からの帰り道に撮ったものだ。


「これ! 今日来る途中で見た記憶があるんだ。帰り道でしょ」


 道路標識やカーブミラーなど、陽菜の中で重なったのだろう。そう遠くない記憶だとしても、気づくことができるとは、中々の記憶力だ。


「よくわかったな」

「たまたま覚えてただけだって。この写真さ、高瀬くんがどういうつもりで撮ったかまで私にはわからないけど、なんかいいなって。これ見て、自分がいつも使ってる道を思い出したんだ。なんだかじんわりしてきてさ。何気ない風景なのにね」

「そうだな」


 深く言及するつもりにはなれなかった。きっと掘り下げていけば、どこかで齟齬が生まれてしまう気がしたからだ。今は、彼女が感じたニュアンスに共感できている。それでいいと思った。


 なんてことを思っていると、陽菜は不満げな顔を見せる。


「でもさ、高瀬くんが写ってる写真一つもなくない?」

「自分を撮ろうという発想に至らない」

「そっか……。でもなんか、それも高瀬くんらしいね」

「なんだよそれ」


 本人が言っていることに対して、らしいねと返すのは反則だ。だって本人が言っているんだから、らしさがあって当然だと思う。禁止カードにした方がいい。


「高瀬くんのこと、わかってきたって意味だよ」

「ああ、そういうことか」


 俺の発言に対して俺らしい、と言ったのではなく、俺の言葉が俺から出てくることに違和感を覚えないということのようだ。大して変わらないように思える違いなので、俺もすぐに気づけなかった。なぜなら『大して』変わらないだけなのだから。微細な違いだ。『1』という答えを求めるのに、『1+1』ではなく『2-1』という計算式を使ったみたいなものだ。それ微細か?

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