第8話 海水バトル
目的であったひまわりとの撮影を終えた俺たち一行は、その後も葛西臨海公園をぐるりと回ることにした。
ひまわりを見た足ですぐ近くの観覧車へ向かい、巨大な姿を下から見上げる。観覧車なんて久しく乗っていなかったので、興味はあったが、生憎と俺たち二人は観覧車に乗るような間柄ではない。互いに言葉を避けているわけでもなかったと思うが、「乗ろう」「乗りたい」のワードが会話に紛れることはなかった。
並木道を歩く最中、時折風景に合わせてカメラを回す。
紅葉にはまだまだ早く、落ち葉は少ない。ふと上を見上げると立派な緑の葉が木々を着飾っていた。遠くから見た時とは何かが違う。葉の隙間から覗く空の光。風で揺れるたびに表情を変える。
きっとこうして見上げることがあまりないのだ。この葉を単体として認識するのは、落ち葉となって枯れていく姿になってからだ。何が言いたいかと言うと、今ある姿に対して思うことはなく、朽ちていくその時になって気づくことがある。うーん、詩人っぽい心情を見せようとして失敗した。
今、こうして俺の前にいる彼女もただの石川陽菜としてしか認識していない。ただぼぉっと眺めているだけでは、それ以上に思うことがない。きっと落ち葉のように朽ちていく陽菜を見たら、目の前で輝いている彼女のことを思い出し、感じるものがあるのだろうと思う。他人事だからそんな風に考えてしまうのかもしれない。
芦ヶ池を越えると並木道は終わり、芝生が広がる。それをさらに先へ行くと海が現れる。
「海、見に行こうよ!」
陽菜に言われるがまま、葛西海浜公園に繋がる橋を渡っていると潮風が鼻孔をくすぐった。強く吹き付ける風のせいで潮騒が聞こえない。
「そういえば先週も海、見たな」
「遠くから見ただけじゃん! 今日は軽く遊んじゃう?」
海を前にしてノリノリな様子。江ノ島に行ったときは海岸まで足を運ぶことをしなかった。規模的には明らかに江ノ島の方が広く、賑わっていた。葛西海浜公園はと言うと、渚の部分が少なく、不満はないけれど、他の海水浴場と比べてしまうところはあるかもしれない。しかし、海水浴を楽しんでいる人たちは笑顔に満ちていて、この瞬間を楽しんでいるように見える。規模など二の次というわけだ。
砂浜を歩くも、スニーカーではなんだか土足で他人の家に上がってしまったみたいだ。裸足かサンダルがいい。その点、サンダルを履いている陽菜はこの場に溶け込んでいる。俺もサンダルで来るか、持ってくればよかった。
「うおおおお、足だけ入れてきます」
「ちょ、まっ……」
抑えきれない海欲に従う陽菜は、俺を置いて海辺まで駆けていく。すぐに追いかけようと思ったが、これはこれでシャッターチャンスかとスマホを取り出して走っていく彼女の後ろ姿を何枚か捉えておいた。
海に足を入れ、「つめたっ」と楽しそうにする陽菜を遠目から眺めつつ、のんびりと歩いていく。感情を体で表現しがちな彼女が、何を言っているのか聞こえなくてもおおよその見当はついた。
こっちこっちと俺を呼ぶように手を振る。
「ちょっと遅いよ。こーしてや……」
ペースを変えることなく少し遅れて到着すると、文句ありげに両手を水につける。しかし、それ以上の行動はなく動きを止めた。クラゲにでも刺されたか?
「カメラ濡らしちゃダメだよね」
「ああ、そういうこと」
言われて首からさげているフィルムカメラのことを思い出す。いつも持ち歩いている割にほとんど使わないから存在を忘れてしまう。もはや体の一部みたいなものだ。ロクに使わないち〇こと同じだ。いや、違うか。なんなら毎日使ってるまである。
確かにフィルムカメラを濡らされると困る。かと言って、陽菜に遠慮させるのは違う。
俺は靴と靴下を脱ぎ、カメラとまとめて水の届かないところに避けて置いた。
「バッグ、預かるぞ」
「ありがと」
陽菜が持っていたトートバッグも同じ場所へ運び、海に足を浸ける。冷たくて気持ちがいい。
こんなことを言うのもなんですが、水の色が茶色い。思い描くビーチの透き通るような色ではない。これには色々とわけがあり、河口から地上の砂が流れ込んでくる、とか栄養分が豊富でプランクトンが多くいる、とかとりあえず汚いわけではなかったはず。
「つめたっ……!?」
不意に冷たい水がかかる。突然だったのでオーバーなリアクションを取ってしまったが、慌てるほどの冷たさではない。
「どーだ!」
「このやろう」
ふふんと勝ち誇る陽菜に対して思うことがあり、仕返ししてやろうと水に手をつけた。そこでふと気づく。
もし水をかけて陽菜の服が汚れたらまずいのでは?
この暑さだ。濡れても放っておけばすぐに乾くだろう。だが、染みでも作ったらとんでもない。
あとのことを考えると気が引けた。
「おりゃっ」
「ぶふっ!」
刹那、顔面に打ち付けるような水飛沫がぶつけられた。前髪が濡れ、水滴がぽつぽつと眼前で落ちていく。
手を水につけ、構えを取っていたことで顔が水面に近づき、狙いやすい位置にきていたのだ。犯人は石川陽菜。人が遠慮してやったと言うのにこの女……。その綺麗な服、汚してやるよ。
「食らいやがれ」
そうは言ったものの、手加減はした。軽く水を掬い、少量で放る。
「ほっ……」
「躱すのアリかよ」
俺の攻撃を予知していたかの如く、ぬらりくらりと躱す。ご丁寧にワンピースを摘まみ、自分のステップから生まれる水飛沫で裾が濡れることまでケアしていた。
「ふはははっ、甘い甘いよ!」
陽菜の口調が悪者チックになっている。そうか、私の攻撃を躱したことが嬉しいか。私の攻撃を予期したことが嬉しいか。私の身体に水をかけたことが嬉しいか。思い上がるなよ。人間がぁ!!
感情に理性を壊された俺は加減を忘れ、確実に当てることだけを考えていた。
「やばっ!?」
走る水流は避ける暇を与えず、勝ち誇る陽菜をびしょ濡れにした。
「しまった……」
全身とは行かずとも、大きく濡らしてしまった。水分を含んだワンピースが彼女の身体のラインをなぞっていることに気づき、我に返る。ワンピースがパステルカラーだったおかげで下着が透けることはなかったが、水害は結構なものだった。
「やってくれたねえ」
ぽたぽたと前髪の先から滴を垂らす。
お返しをもらったことで語気が震えていたが、怒っている様子はなく、むしろ水をかけられたことを喜んでいるようにも見えた。
「気にしないでね。これでお互い様ってことで」
俺が不安げに陽菜を見ているといつも通り朗らかに杞憂だと笑った。
「そういうものなのか」
「これで怒るくらいなら最初からやんないって」
「それもそうか」
その通り過ぎて異論反論は出なかった。世の中には人のことを当然のようにいじり、自分がいじられるのは許せない奴がごまんといるけどな。
「満足したし、次のところ行こうよ。ここは広いからね、急がないと日が暮れちゃう」
「わかった」
俺たちは海から上がり、自分たちの荷物を回収する。ついでにスマホのカメラで濡れた姿の陽菜を1枚撮った。
するとそれに気づいた陽菜が意地悪そうな顔をして顔を近づけ、耳元で囁いた。
「ちなみに今、少しだけど下着濡れてるんだ」
それだけ言い残し、俺から距離を取る。
「は?」
「早く早くっ、次いこ~」
彼女は少し先を走り、ついて来いと先導する。
そこでようやく自分の身体が硬直していたことに気づいた。耳にはまだ陽菜の吐息の感覚が残っている。
先を歩く彼女のワンピースはまだ乾き切ってなく、場所によっては身体のラインが浮かび上がっていた。自分の意思とは関係なく、勝手な想像が働いてしまうのだった。今それ言う必要ありました!?
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