第8話 俺と静香
「もう来ないのかな~」
下田は部長が書類の採点をしてる間、部長席後方の窓に張りついていた。
「下田、この見込み値は一桁多くないか?」
「もう1週間は来てないのに~」
壁のホワイトボードを見る。
「計算間違っとるだろ
こんな収益マイナスで通るか、やり直し」
「あーーーあ、朝霧さんが邪険にするから~」
「それは正解」
大きなホワイトボードの日付の数字に、×やら○やら付けられるようになったのはいつだったか。
ストーカー女の出席簿になっていた。
「朝霧」
「はい」
下田のやり直しの尻拭いだと思った。
「マリアちゃん来ないな、どうしたんだ?
風邪引いたんじゃないか?この前の雨で」
「知りません」
あの日俺が話しかけてしまったのを、こいつらはちゃんと8階から見ていた。
いくら地獄耳でも会話まで聞こえていないだろうけど、どんな顔して見てたのか想像するのは容易すぎる。
「ちょっと出てきます」
「マリア女子っすか!」
「瑞葉コーポレーション」
パソコンにロックをかけ、鞄を取り立ち上がる。
「なーんだ、行ってらっさーい」
「マリア女子なんか行くわけないだろ」
「朝霧、これ渡しといてな」
部長がパソコン越しに封筒を差し出し、それを受け取った。
「青井本部長ですね」
エアコンの効いた会社から一歩出ると、いくら夕方でも地面が昼間に蓄えた熱気で一気に汗ばむ。
上昇気流ってこんなだろうなって思う。
熱は上に行く。
真冬、エアコンで顔ばかりが熱くなり
足元は寒いのがよくわかる。
車が乗り入れられるようになっている会社正面には、警備員が常駐していて微動だにせず立っている。
侵入者が来たら本当に警備するのだろうか。
この前までそこに侵入者がいたのに、この警備員は別に追い出したりしていなかった。
表の歩道に面した植え込みの御影石に、ストーカーは我がもの顔で居座り、飽きもせず、放課後の部活かなんかのように夕方の時間を過ごしていた。
早いことハッキリ言ってやればよかった。
うちの部署が変なマリア祭りになる前に、短い青春の貴重な時間を無駄に座り込みに費やす前に。
会社の裏にある駐車場に社用車は停めてあった。
プラスチックの札に車のナンバーの書かれたキーホルダーのついた鍵のボタンを押す。
ピッと音がしてドアを開けようとした時
「あら、朝霧くんお出かけ?」
向かい合った車から降りてきたのは静香だった。
「マリア女子?」
まじでしつこい。
「もううんざりだ…」
「こないだ何話したの?」ニヤニヤ
「目尻にシワ寄ってるぞ」
「アンタ殺してほしいの?」
重い鞄を助手席に勢いつけて放り込み、エンジンをかける。
「可愛いじゃない、マリアちゃん」
「だからなんだよ
女子高生と寝ろってか」
「犯罪」
「そんな気になるかよ、あんなクソガキに」
「痴漢したのに?」
「してねえし!
大体それどっから情報仕入れたんだよ!」
「秘密~
OLの情報網なめちゃいかんよ」
OL?
「庶務課のアホ女か!」
「正解!あの子、満嶋駅から乗るのよ」
逮捕された駅か。
あんな歩くスピーカーに知れるとか、全社員知ってるじゃないか。
「マジか…」
「安心しな、医者との合コンで黙らせたから」
神様かお前は。
静香は微笑んで手の平を向ける。
「なんだよ」
「お礼は?」
「またコーラ?骨溶けるぞ」
駐車場の隅の自販機で静香はコーラを押し、俺はスマホを当てる。
「こんなんで済むと思うなよ」ニコニコ
「シワ」
「接待してもらおうか
今宵は朝霧くんのおごりで」
コーラのボトルをシュッと開けながら、静香は会社に戻っていった。
黙ってれば恐らく美人に分類される。
だから取引先のおっさんたちにも人気はある。
ただ俺は、初めて静香にあった約5年前
こいつは中身は男だ
そう確信した。
面接を待つ廊下の椅子で隣同士に座り、静香は誰もいないのをいいことにいきなり『ごめん、おならしたい』と言った。
俺は混乱した。
日本語を頭の中でこんなに整理したことはなかった。
人間、いきなり予想しないことを言われると、その言葉が日本語なのか外国語なのかもわからなくなる。
そうして覚悟も出来てないうちに
『ぶっ!』音までつけやがった。
男でもこれはしない。
静香曰く、緊張してガスが溜まってお腹が痛かったらしい。
静香が男なのか
俺が男じゃないのか
オナラを人前でしていい常識に世論がなったのか
混乱の最中
「次の方どうぞ」
俺は面接官に呼ばれてしまった。
面接の内容など覚えていない。
あまりにも静香が衝撃だった。
受かって今に至るからいいけど、これで落ちてたら、俺は静香の末代まで呪ったと思う。
だけど大学を卒業し、入社前のオリエンテーションで静香と再会したとき、やつが受かっててガッカリしたのと同時に、恋愛のそれとは違う運命のようなものを感じたのも確か。
そして静香は人の顔を見るなり言った。
「あ、オナラの人だ!」
オナラの人はお前だ!
ハニーミルク yuki @yukisb
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