愚者の鏡

猿田夕記子

愚者の鏡(完結)

 一

 

 私たちは、私は、歩き続けている。

 どんよりとくもった空の下、赤土を踏んで、私たちはずっと前から旅をしている。先頭を歩いている私は、ただ足の進むままに歩いているだけだ。

 もし私の進む道が間違っているとしたら。出発してからずっと、ただ見当違いの場所を歩いているだけだとしたら。

 立ち止まって、後ろを振り返った。少し遅れて、女と狼が歩いてくる。女は、私の妻でもなんでもない。狼は、いつの頃からかあとをついてきたのだ。私たちのうちのどちらかが倒れた時、食べようというのだろうか。

「どこへ行くの」

 女が問うたが、私は何も答えられなかった。

 私たちはどこへ向かっているのか。私たちは何を求めればいいのだ。何もわからない。

 私たちには、決定的な何かが失われている。そして何を失ったかすらも思い出せないでいる。だから私たちは、こうやっていつまでも旅を続けているのではないか。

「たどりついた時に、わかるんじゃないか」

 私たちは、私は、故郷から遠く離れて、一歩一歩と。


 二


 夜、おれのもとに黒い水が訪れた。

 おれは、その水のことをよく知っている。その水の音はとてもかすかで、聞こえにくい。

 黒い水がおれをひたしていく。静かに静かに水にのまれていく。抵抗する気持ちなんてまったくない。

 目の前に、ぼうっと銀色に光るものが見えてきた。それは淡く光って、おれの目をひきつける。音もなく、ただ静かに光を発しているそれ。なんだろう。問いかけると同時におれは知った。

 鏡だ。

 おれはそれに手をのばす――急に激しい恐怖が湧き上がってきた。それにふれたらふれたら。おれは気が狂って何もかもわからなくなって、体が粉みじんに砕け散ってしまうだろう――だが、鏡はおれをひきつけてやまない。


 三


 赤い花が風に舞う。

 この季節はいつもそうだ。赤い花が咲いて、花びらが風に乗って散る。その色はあちこちに点々としみついて、大地を腐食させてゆく。

 私は、朝から平原に大きな穴を掘っていた。とても大変な仕事だ。だけどやるしかない。汗だくになって作業を続ける。

「大変だねえ」

「そうでもないわ」

 かたわらの死体がのんびり話しかけてくる。

「すまないと思ってるんだよ。おまえに手間をかけさせて。でも赤い花の咲く季節に死ねるのはうれしいことだよ。だっておまえはこの花を見たら、いつもわたしを思い出してくれるだろうからね」

 土を掘る音が続く。それは私が立てている音だが、どこか遠くのところから聞こえてくるように思った。

「おまえ、もう行くんだね。だったら鏡に気をつけなさい。それはおまえの目を惑わすだろう、おまえは間違った教えを信じるだろう、いずれはおまえ自身も歪んだ鏡となっていくだろう」

 私は手を止め、死体を穴へ蹴落とした。

「やめてよ」

 私は早く死体に黙ってもらいたくて、土をどんどんかけていった。風がごうっと吹いて、赤い花びらが舞った。

 そう、私はここで育ったのだ。赤い花の咲く土地で。そして思い出した。自分が埋めていたものは何なのか。「母さん、なの」――返事は何もなかった。私の望み通りに。


 四


 荒れ地に真昼の太陽がぎらぎらと照りつけている。その下には塔があり、周りを兵士たちがぐるっと輪になって取り囲んでいた。彼らは直立不動のまま、人形のように動かないでいる。

「あの人たちは、何をしているの」

 ぼくの影が、たずねにきた。

「王を待ってるんだよ」

「だーれ、それ」

 もちろん、鳥の王に決まってる。彼らは千年に一度の王の誕生を待っているんだ。ぼくは「しっ、静かに」とだけいった。

 もうすぐその時がやってくる。訪れはもうすぐ。兵士たちは水を打ったように静まり返っている。だけど影はべらべらとしゃべり続けるんだ。

「ねえ、もしそれが起こらなかったらどうする。永遠に鳥たちの王が生まれないとしたら。ずっとずっと昔から語り継がれてきたお話、それがまったくのデタラメだとしたら……」

 ぼくはその子の口をふさいでやろうとしたけれど、無駄なんだ。赤い土に落ちるぼくの影があるだけ。

 その瞬間。

 一斉に羽ばたきの音がした。無数の鳥たちがあとからあとから空へと舞いあがっていく。王が誕生した。ついにその時がきたのだ。だけどぼくは黒い影で地上に縫い留められたまま。


 五

 

 私はくもり空の下、十字路の真ん中でぽつねんと佇んでいた。

 標識の文字はすべて削られている。自分がどの道からきたのかもわからない。これからどこへ行けばいいんだろう。

 標識の上にカラスが舞い降りた。

「この道を行けばいいさ」

 カラスは道の一本に降り立って、羽をふくらませた……私は、カラスが示した道とは正反対の道に踏み出した。

 だが、これさえも仕組まれたことだとしたら。こいつはわざと私の前に現れて、私がある道を選ぶように仕向けているとしたら。

「なあに、心配するな。いつか私たちはすべてを思い出せるよ」

 もう少し考え続ければ、何かを思い出せるかもしれない。だが、そうすると。

 私は今までの私とはまったく違った私になって、こうやって道に迷っている私、カラスにからかわれている私、そんなものは一切合切消滅してしまって、世界が終わるんじゃないのか――そして私は立ち往生している。

 

 六 


「ねえ、こう思ったことはない。もし、あなたがどこにも旅せず、ただ割れた鏡の前でずっと立っているだけだとしたら」

「もしあなたが、ただ鏡の一片にとらわれているだけだとしたら」

「それなのに、世界全体を見ていると思っているとしたら」

「もし……」


 七

 

 目の前には赤い土。白い光。おれは息を吐いて吸って――何をしてるんだったかな。向かってるんだ。どこへ。そんなことは忘れたよ。ただその先へ、遠くへ、どこかへ。

 おれたちは行先も知らぬまま、ただやみくもに旅をしているんだ。そこに何があるのか、そこで何をしたいのか、まったくわからない。

 おれだって、普段は何も考えずにいる。でも時々、こんなふうに意識がぽっと水の上に浮かび上がってくるんだ。

 おまえの骨は、まだあの谷にあるのかな。よく覚えてる。だっておまえを殺したのはおれだから――冗談だよ。

 だがそれが真実だとしても、どうせおれたちは、何もかもすべてを許すほかないんだ。おまえはおれを許すし、もしおまえが復讐のためにおれを切り刻んでも、おれはそれを許すだろう。

 ああ、こんなことはもうどうだっていい。だってみんなはるか昔の話なんだから。頭がぼんやりしてきた。またおれは、水のなかでただ眠る暮らしに戻るんだ。

 ああ、おれの名前――いつか必ずおまえを訪れる者だ、もう知ってるだろう。


 八 


 そしてまた幾度目かの世界の果てだ。

 砂を踏みしめ遠くの海を見やる。時の止まったような空。夜は明けるのか明けないのかわからない。どうせこれだって夢なのだ。

 私は犬として地面を嗅いでいるか、一本の草木として花を咲かせているにすぎない。どこまでいっても幻ばかり。私の地図はぼろぼろで、手に入れたものといえばカラスが落とした羽なんていうくだらないものばかり。

 私は何かを失い続けて、それを止めることはできない。

 せめてこの世にあることの意味を教えてほしいだとか、これまで私が見たたくさんの人たちのさんざんな死に目だとか、あるいはまったくの徒労に終わりそうなこの旅についてだとか――そんなことを祈ったこともあったけれど。

 はっきりとわかっているのは、私たちの無力さだけだ。


 九

 

 粉々に砕けた鏡をつなぎ合わせて、そして見えるものは……


 十 


 私たちは、私は、旅をしていた、何かを知るため、あるいは思い出すために。

 そしていま私は一人だ。

 私はある古びた塔を目指している。私は老いた体をひきずり、塔のらせん階段をのぼっていく。

 がらんとした部屋にたどりついた。部屋の奥には真っ赤な垂れ幕がかかっていて、その向こうからちょろちょろと水が流れてきている。

 私は浅い水をぴしゃりぴしゃりとけって前へ進み、垂れ幕を取り払う。

 ――まぶしい青。

 晴天の青空、風に流れる雲、青と緑に染めわけられた潮だまり。だけど私は、それらが書き割りだとすぐにわかった。

 その中央に、黒いヴェールをかぶった人物が古ぼけた玉座にすわっていた。彼は骨と皮だけにやせおとろえた身を薄汚れた帝王の衣装で包んでいる。ほこりで薄汚れたヴェール。じわりとにじみだす血。

 冠は、ない。

 彼は、朽ちかけた体をみしみしいわせて立ちあがった。今にもぽっきりと折れそうだ。はがれた皮膚がひらひらと舞い落ち、水面に波紋を描いた。

 そして彼は私自身の声でこういうのだ。

「私は幾百、幾千の海を乗りこえ、森をかきわけ、魚の魂を選り分けてきた――そして旅路の行く末は。この生に何があったというのか。何もない。私は故郷から放逐され、疫病によって疎んじられ、疥癬持ちの野犬のような扱いを受けた。愛した者はみな死に絶えてしまった。後に残るのは天使のガラクタとニセモノの悪魔――何だというのだ。これに何の意味があるというのだ。わかるなら答えてみろ」


 十一


 いつか私は裁かれるのだろうか――私は怯えながら空を飛んでいる。

 私は彼らにメッセージを告げた。

 だが、その結果はどうだ。彼らは楽園に向かうどころじゃない。迷宮に入り込んで、ばたばたと死んでしまったじゃないか。そして、自分たちがどこへ向かうかもわからないまま、この世界をうろつき回っている。

 これが正しいことだとは思えない。もしかして、私はとんでもない大罪を犯してきたのではないだろうか。私は彼らにでたらめを告げ、ありもしない場所に導こうとしているのでは。

 信じてくれ。君たちを騙そうとしたわけじゃないんだ。そんなことをいっても、言い訳にしか聞こえないだろうが。

 ああ、彼らは私を責めるかもしれないな。私は偽りを告げるメッセンジャーなのだと。私は、単に手紙を配達しただけだ。その手紙に何が書かれているかなど、知ったことではないのだ。

 誰のもとにも導き手がいる。ならば、私はどこへ向かえばいいんだ。一体全体、私は何をしているのだ。私に用意された救いはあるのか。私に告げられるはずの真実はどこだ。

 答えはない。何もない。いつも通りに。

 私は虚空を飛びながら、ふと思い至った。もしかしたら、これこそが私に下された罰なのでは。いつか遠い昔、真実とか真理とかいうものを求めてしまった私への――そんな気がした。


 十二 


 私を導いていたのは私。私を殺せと告げていたのは私。そして私が殺したのもまた私である。この堂々巡りから抜け出すことはできるのだろうか。


 十三 


 その通り、世界は終わっていくんだった。

 もしぼくが世界を救いたいと思ったら、そうできるだろうか。日蝕まであと少しだ。ぼくは急いで塔を下りた。

 当たり前だけど、ぼくに良い考えは何もなかった。時間は刻々と迫り、ぼくは森の中で立ち往生している。ほら見たことか。太陽はいつもぼくには関係なく巡っているし、その運航をやめるからといって、ぼくなんかがどうすることもできない。

 木漏れ日の光がだんだんと欠けていって、地面に白い三日月がいっぱいにばらまかれている。ああ、日が欠けているからだ。白く丸い光はもうどこにもないんだ。だけどそれはとてもきれいで。もしこの地上が三日月でいっぱいになっているのなら、それはなんて素晴らしいことだろう。

 その光景は、ぼくへの王としての最後のはなむけのように思われた。


 十四


 どこどこまでも赤い大地が広がっている。

 おれはたった一人で、水も食べ物も持たずに歩いている。だが今度は迷っているわけじゃない。そこを進むべきだと理解しているからそうするのだ。誰の声もしない場所を進んでいく。

 目の前に枯れた大樹が現れた。空を覆う枝は、梢までからからに乾いている。かつては緑の葉を広げ、小鳥たちを休ませていたのだろうが。おれは今この木の夢を見ている、夢を見なおそうとしている。

 おれは、ほんのちっぽけな刃物を取り出した。

 この木を切り倒してやろう。そんなことできるわけがない、こんな一抱え以上もある樹を――そんな思考はどうでもよかった。

 ただ、今この瞬間、それはおれによって為されるだろう、そのことを知っていた。

 刃はさくりと入り、木は紙細工のようにあっけなく倒れた。もっと早くにこうすればよかった。

 がらんどうの切り株から、清らかな水があとからあとから湧き出す。

 

 十五 

 

 きみはいつだって新しい世界のはじまりを待ち望んでいる。その新しい世界、祝福された世界、どこかにある楽園を……ちがうだろ。きみは、きみ自身の世界を生きなきゃならないんだ。それはとっても嫌だろうけれどね。


 十六

 

 私はまたもや赤い花野に迷いこんだ。どうしてこんなところへきてしまったのだろう。私はずっと赤い花から逃れたいと思っていたのに。

 その花は、私が生まれた時からあちこちにびっしりと咲いていた。庭先に、道端に、あるいは山の中に。いついつまでもとめどなく。そう、この花々はいつも私をつけ狙っていて、私の行く手行く手に先回りする。

「もうあきらめなさいよ。どこへ行っても同じよ。ああ、私たちを畑で育てるってのはどう。そしたら赤い実も青い実もつけてあげるわ。それを食べてのんびり暮らせば――」

 私は花に背を向け、野原から逃げ去った。

 ああ、なぜこんなことになるんだろう。私が求めているそれ、あと少しで手が届きそうなそれ――私には何か追い求めなければならないものがあるって、それをやっと思い出したのに。

 走って、走って――なのに、また赤い花だ。

 暗い空の下、一本の赤い花が咲いている。私はその花の色から目を離せない。

 私は世界中を彷徨している、それが身勝手な思い込みであるとしたら。私は一本の赤い花として、ずっと長い夢を見ているんだとしたら。自分が最も忌避しているもの、それが私自身であったとしたら。

 そういえば、赤い花は私の影にしか咲かない。


 十七


 ただ、ぼくは。

 もしかして何か奇跡が起こるんじゃないかって、そしてそれを見届けられたならとってもうれしいだろうって――空が黒くなる。太陽の周りにふわっと波打つものが見える。そして――星だ。

 ぼくの上には満天の星空が広がっている。こんなにもたくさんの星は見たことがない。近く遠く、たくさんの光がちかちかとまたたいていた。

 そう世界は終わる、ぼくはそれをどうすることもできない――だけど星は。

 星々はまだぼくの側に残って、ぼくを勇気づけてくれた。なに、きみたち。まだぼくに何かいいたいことがあるっての――ああ、そうだね。世界は何度でもはじまることができる……。


 十八

 

 おれは急にくらっとして、切り株のふちをつかんだ。浅い水がひざをなめる。どうしたんだ。ああ、眠いのか。そう、不眠不休でここまでやってきたんだからな。そろそろ一休みしたいよ。

 おれは水の音を聞きながらうとうとしはじめた。これでいいんだ。おれはこのためだけに生きていて、そしてそれが為されたことで満足なんだから。いつかまた水が枯れ大地が荒れ果てたとしても、おれはまた再びここへやってきて無限の泉を汲みだすだろう。

 水はあふれ細流となり、そしていつしか河となる。


 十九 


 きみは耐えられないんだね。この世界に。この生命に。感じていることのすべてが。きみは本当のことに耐えられないんだ。

 きみはあらゆる人々に憎しみを抱いている、このぼくにも。そしてみんなを憎んだこと、そのことすら忘れ去ろうとしている。

 でも、それは本当のことだ。

 きみはこの世界でかけがえがなくて、きみを作っているものみんなが大切で、きみの運命、受けた苦しみ、感じた悲しみ、きみが犯した罪、きみに向けられた憎しみ、きみが世を呪った言葉、世界を憎む心ひっくるめて――ぼくはきみが好きだよ。


 二十


 どこまでいっても鏡像ばかり。私はついに私から逃れることはできないのか――私は世界のあらゆる浜辺をめぐったつもりでいた。しかし私は大地に咲く一本の赤い花でしかなく、そこから動いていないことは明白だ。

 ぼくたちは何度も何度も夢を見て、だけどその夢の内容というのは、鏡に映った何かでしかないんだ。それは左右がひっくり返っていて、しかも鏡は歪んでいて、いやぼくたちの目がそもそもくもっているのかもしれなかったけれど、とにかくぼくたちはいつも本当のものを見ていない。

 それでも何かを探していたのだが――おそらくそれは真理とか真実とかいったもの。

 だけど私はそれにふれようとすると途端に怖気づいてしまう。それは私にすべてのものを明らかにする、何もかもが透明になって、きちんと揃えられて私の前に並ぶ、そしてそれを知ったなら私はひどく変わってしまうだろう、もう元に戻ることはできない、それは今までの世界すべてを捨てることだ。

 たとえ牢獄につながれていたとしても、おなじみのこの世界が好きだね。

 それはとっても簡単だ。この足の鎖に気づかないふりをしていればいいのだから。私は私をだます。私は旅の最初から嘘をついていた。それは必要な嘘だったんだ。私がこの世界に留まるために――だけどいつか世界は終わって、私は自分の死と握手する。

 ほら、一緒に魚釣りにでもいこうよ。

 だけど私は覚えていた。すぐ近くのどこかとても遠い場所に、それがあるだろうって。結局私はそれを求めざるをえない、いつもそれを望んでいる、恋しがっている、そのことを忘れるなんてできない。それは野原に咲く赤い花であり、玉座に座る死であり、ぼくにつきまとう影である。

 私は長い長い旅をして、ちりぢりになった私のかけらを拾い集めていた。その迷いと苦しみと痛み――すべての記憶を取り戻すとは、すべての痛みを思い出すことだ。私たちはあらゆる種類の歓喜と悲嘆を味わい、己の内に敵を見て、友を野犬と間違えて殺す。それらはけして誤りではない――カラスが鳴いた。


 二十一

 

 もうすぐだ。

 それは世界の果てからやってくる。どんなに手を伸ばしてもつかめないそれ、はるか遠くにあるそれ、時の止まった場所にあるそれ。

 私はずっと前からそれがあることを知っていた。

 暗闇の中の鏡、カラスの瞳にうつるそれ、割れた頭蓋骨――私は一見まったくばらばらなものの中から、それの影を拾い集めることができた。

 私たちは、私は、うす暗い浜辺を歩いていた。夜は明けるのか明けないのかわからない。私たちは歩き続ける。私たちがそこへ向かっているのか、それが私たちのもとへくるのかは判然としない。おそらくは両方なのだろう。

 これまで私はさまざまなことを見て、そして忘れることもあった。だが、忘れたとしてもそれがなくなったわけではない。それは海辺の砂粒のように、この世界をさらさらと形作っていく。

 私は空を見やり――急に怖くなった。

 その先に何があるのか。はるか彼方にある、永遠とやらいうもの。私がそんなものを見ていいのだろうか、それを知ったとしてどうなるというのか。どうせ私はそれには手が届かない。無情な星々を見るように、自分の卑小さを思い知らされるだけだ。やめておいた方がいい、私にはつかめない、それは私とはまったく無縁のものだ。

 その光、光を支える闇、たくさんの花、重なる月と太陽――その先にあるもの、私はそれを見ることができる――とうとう、それがやってきた。冷たく遠い空、鉛色の海、光はそれを二つに切り裂く。私はヴェールに隠されたそれを見る、それは私から最も遠い場所にあるもの、あまりにも近くにあって見失ってしまうもの――時は夜明けだ。

 私たちは、私は、その青を見た。


 〇


 私たちは今まで何度もこうやって旅をしてきたのだ。何かから逃れて、どこかへ行きたくて――鏡を見たくて。

 それは最初からそこにあった。

 私たちは砕けた鏡でありまっさらな鏡であり、それを見る者であり見ない者である。なのに私たちは、わけもわからずに旅をして。欠けたことなどなかったのに。地上の愛も、永遠の約束もいらなかった。

 遠くの、向こうの、永遠の青――私たちはそれを映し出す。

 円かな世界が、ただそこにあった。


                                 《了》

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