その爾

後ろから呼び止められて女性は振り返ると、そこには一人の男がいた。

年の頃は三十後半だろうか。

よれよれのカッターシャツに無造作に緩められたネクタイ、資料が入っているのか少し厚めの革製の鞄といった格好からサラリーマンといった感じだ。

なんとなくドラマに出てくる生きることに疲れ切ってうだつの上がらないサラリーマンといった感じだ。

もっとも、それは自分も似たようなものかなと女性は心の中で苦笑する。

その為か、なんとなく親近感が湧いた。

この人も同類だと思って。

だから、普段だったらこんなに疲れているときは大抵ぶっきらぼうか面倒そうに言うはずが、少し優し気な口調になった。

「えっと、何か?」

その口調に、男は少しほっとしたような表情になった。

まぁ、わからなくはない。

最近は、ストレス解消の為か知らないが、知らない相手にいちゃもんをつけられたり、面白がられて痴漢呼ばわりされたりすることもあるからだ。

特に、この男の姿や様子からそうされやすいんじゃないかという気さえしてくる。

そんな事を思っていると、男はすーっと手に持っていたものを差し出した。

それはキーホルダーだ。

もうかなり摩耗し、ボロボロになってはいたが、私のものだ。

そう、別れさせられた彼が買ってくれた記念のものだ。

捨ててもよかった。

だけど、捨てられなかった。

そして、未だに使っている。

もっとも、普通の人から見たら、ただの小汚いキーホルダーであり、落としたとしても見た瞬間、わざわざ拾ったりしないだろう。

その程度のモノだ。

しかし、男はそれを拾い、わざわざ女性を呼び止めた。

「えっと……大事なものかと思って」

そう言って、男は微笑む。

それでわかってしまった。

私がそれに拘りを持っているという事をこの人はわかっていると。

「ありがとうございます」

女性はそう言ってそれを大事にそうに受け取るとじっと見る。

どうやら、キーチェーンを繋げている部分が劣化で割れたみたいだった。

どうやら、潮時だって教えてくれているのかもしれないわね。

ふと、そんな事を思ってしまう。

そんな女性を見て、男が声をかける。

「大丈夫ですか?」

どうやら、顔に出ていたと気が付いた女性は苦笑した。

「いえ、大したことではないんです」

そう言ってしまって、私は何を言っているんだと思う。

大したことでないのなら、なんでここまで悩むのかと。

そして、ため息を吐き出すと男の方を見る。

女性は、自分を見て心配そうな顔をする男を見て、思わず笑いそうになった。

どちらかというと、私があなたに言いたい。

「あなたの方が大丈夫ですか?」と。

だが、そんな男に心配されるほど私は顔に出ていたと気が付いた。

漏れる苦笑。

そんな女性を見て、男は益々心配そうに言う。

「何か悩みがあるんでしたら、私が聞きますよ」

心底心配している声。

普段なら、余計なお世話とか思っただろうし、下心でもあるんじゃないかと疑っていただろう。

だが、わざわざ落とし物を拾ってくれた恩と心底心配している男の声に私は揺れた。

その言葉のやさしさ。

男の言葉や態度からは、それ以外感じなかった。

多分、この男はきっと優しい性格なのだ。

だからこそ、周りに気を使ってこんなにも疲れているのではないか。

そんな事を思ってしまっていた。

そして、ふと思う。

これも何かの縁だ。

それに見知らぬ人という事もある。

それ故に思う。

相談してみたらどうだろうかと。

だから、私は言う。

「えっと少し時間いいですか?」と。

最初、男は少し驚いたようだった。

だから、びっくりしたような顔で聞き返す。

「言い出しておいてなんですか、私でいいんですか?」

その言葉に、私は笑った。

「貴方が言い出したんじゃないですか」

「ですが……。今のはつい言ってしまったというか……」

そういって男は、私を見る。

いや、私の後ろを見る。

えっと、何かあるのかな。

そう思って女性は後ろを見たが誰もいない。

どうやら気のせいらしい。

だから、私は言う。

「貴方がいいんです。見知らぬあなたなら、なんか吹っ切れて相談できそうなので」

その言葉に、男は苦笑した。

そして、言う。

「私でよければ……」

こうして、女性と男は、近くの公園の方に歩き出した。



公園で、女性と男性はベンチに座る。

夕暮れで薄暗くなる中、女性は自分の悩みを男に話していた。

元彼の出会いと別れ、それに元彼のことを忘れられない事。

そして、今度、両親の紹介した男性と結婚する事を。

その話を男は黙って聞いていた。

聞き上手といったらいいのだろうか。

時々言葉に詰まる女性に、男は相槌を打ち、話をうまく促していく。

その結果、女性は、自分の悩みをすべて話していた。

その間、男は真剣な表情で話を聞いていた。

時折、男の視線が、女性を見ているのか或いはその後ろを見ているのかわからない時があったが、女性は自分の勘違いだと思うようにしていた。

そう思うほど、男の態度は紳士的であり、真剣なものであったからだ。

そして、全てを話し終えた後、女性は男に聞く。

「自分はどうすべきか」と。

その問いに、男は少し考えこむ。

だが、それは適当なことを言って誤魔化すという感じではなく、真剣に考えている様子であった。

そして、考えたがまとまったのか、男はゆっくりと口を開く。

「本当に、人の思いってのはやっかいですね」

その言葉には重みがあった。

まるで自分も似たような経験があるかのように。

いや、実は似たようなことがあったのかもしれない。

そんな事を女性は考える。

だが、そう思考している間に、男は言葉を続けた。

「だけど、それに捕らわれすぎても駄目だと思うんですよ。確かに、思いを満たせば満足できるかもしれない。でも、その時は良くても、先を見たら駄目かもしれない。なにより……」

そう言った後、男は言葉を一旦切る。

そして、ふうと息を吐き出して言葉を続けた。

「過去はやり直せない。それを無理やりするとしっぺ返しが来る。それを受け止める覚悟がありますか?」

男の言葉に、女性は口の中にたまった唾を飲み込んだ。

男の言葉に真実味があったからだ。

まるで、そうなったことがあるかのように……。

男の視線が、女性の後ろを見ている。

その言葉と様子に、女性は固まってしまっていた。

そんな女性を見て、男は慌てて苦笑する。

「いや、別に駄目だという訳ではないんです。ただ、それぐらいの覚悟が必要な時もあるという事なんですよ。自分の場合は、その覚悟を決心する前に、その選択肢が来た。そして、軽い気持ちで、いや違うな。その時の思いだけで決定してしまった。その結果がこれです。だけどね。それでも逃げたくなかった。自分の軽い気持ち、その時の思いだけで決めた事の責任からね。だって、それは自分の決断だから」

そして、じっと女性を見て、はっきりと言う。

「他人に決めてもらうのは逃げです。自分で決めた方がいい。自分で決めたことなら自分で背負って生きていけるから」

「自分で決める……」

「そう。他人に決められたのが嫌じゃないんですか?」

そう言われ、女性は頷く。

「でも、今回の場合、他人が選択肢を用意しただけなんですよ。どうするかは自分で決める余地がある。それなのに、あなたは決断せず流され逃げている。だから、迷っているんじゃないのかな」

そこまで言われ、女性は考える。

男の言う通りだと。

だから、頭を下げる。

「ありがとう。確かにその通りです。きちんと自分で考えてみます」

さっきまでと違い、言葉に生気があった。

「それがいいです。あと、もう一つ」

「えっとなんでしょう?」

その問いに、男は淡々と言った。

「自分の選択から逃げないでください。どんな結果になっても……」

その言葉は、淡々としていたがとても重かった。

だけど、女性はそれを受け止めた。

「本当に話を聞いてもらってよかった。助かったわ」

そして微笑んで女性は言葉を続けた。

「また会う機会があったら、どんな決断をしたのか、報告するわね」

「ええ。聞かせてください。また会う機会があったら」

それは、約束のようであって約束とはならない言葉であった。

恐らく、ふたりはもう会う事はないだろうと互いに思っていたから。

そしてふたりは別れる。

そして互いに別々の道に歩き出すのであった。



「なんか、すっきりしちゃったな」

女性はそう呟くと自宅へと戻る道を急ぐ。

すっかり遅くなっちっゃたな。

確かに辺りは暗くなったが、女性の足取りは軽かった。

婚約者と話をきちんとしょう。

そして、きちんとしょう。

そうしないと婚約者にも失礼だ。

そうすることで、婚約者を受け入れて幸せになれる。

そんな気持ちだった。

だが、そんな時だった。

『一人だけ幸せになる気かい?』

そんな言葉が聞こえたような気がした。

一瞬、誰か近くの人が言ったのかと思って女性は辺りを見回す。

しかし、人影はない。

気のせいかな。

そう思った時だった。

女性の耳に入って来たものがある。

それは音楽だ。

それもただの音楽ではない。

元彼の作曲した曲だ。

そして曲に合わせて元彼の声が流れる。

間違いない。

それは間違いなく、元彼の歌だった。

持っていた元彼の曲のCDはすべて捨てられてしまった。

元々、自作でCDを製作して売っていたため、普通の方法ではもう手に入らない。

なのに、なんで流れているのだろうか。

気になった。

それに、久方ぶりに聞く元彼の曲。

懐かしく、それは実に魅力的で忘れかけていた昔を思い出させてくれる。

まるで引き寄せられるかのように、いつの間にか女性は歌の流れる方に足を向けて歩き出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある真夏の夜に聴いた歌声 アシッド・レイン(酸性雨) @asidrain

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ